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さりげなく癒して【11】
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【11】
「落ち着いた……?」
そう訊かれ、瞳子は小さく頷いた。
リビングのソファへと運ばれた瞳子は、祐貴の入れてくれた暖かいココアを飲んで、深く吐息をついたところであった。
隣に座る祐貴は、瞳子を何かから守るように、ぴったりと寄り添っていた。
伝わる体温が、瞳子の心を暖めてくれる。
つい今しがたも、恐怖心に捕らわれていた瞳子を救い出してくれた祐貴は、安堵した事で声を上げて泣き出した瞳子を、ただ黙って抱き締めた。
すっぽりと包み込まれ、泣き止むまでずっと頭を撫でてくれた。
包み込む温もりも優しい手も、心地良く瞳子を癒し、今こうして寄り添って座りながら、ここがどこよりも安心できる場所なのだと知った。
瞳子の心を乱すのも祐貴なら、癒す事が出来るのもまた祐貴だけなのだ。
瞳子はそれを思い知った。
「ごめん……。俺、とーこさんを恐がらせてしまったんですね……」
尋常ではなかった瞳子の恐がり様に、違和感を覚えながらも祐貴が言った。
瞳子は弾かれたように顔を上げた。
「違うの。あなたのせいじゃないの……。子供の頃に刷り込まれた恐怖心が、私を時々あんな風にするの……」
そこまで言って、瞳子は不意に瞳を曇らせた。
「……私……子供の頃……ね……」
言いかけた瞳子の表情が辛そうに歪んだのを見て、祐貴は震える小さな肩を抱き寄せた。
「言わなくていい。とーこさんが辛い話なら、訊かない……」
暖かい腕の中で、瞳子は大きく息をついた。
母や祖父にさえ、すべてを話してはいなかった。きっと二人とも、瞳子の境遇を自分のせいだと責めたであろうし、何より瞳子が話したくなかったからだった。もちろん、思い出す事さえしたくなかった。
しかし今、祐貴には話さなければならないと思っている自分がいた。
このまま話さずにいれば、ふたりの感情は新しい領域に踏み込む事になるだろう。
だが、話を聞けば、祐貴はそれを躊躇するかも知れない。
だからこそ、話さなければならないと、瞳子は思った。
ずっと祐貴に訊きたいと思っていた答えを、その口から聞く前に……。
後で失う方が辛いという事を、瞳子は知っていた。
「あなたには……聞いて欲しいの……」
祐貴の胸を押しやるようにして顔を上げた瞳子は、呟いて、不安げに瞳を揺らめかせた。
それをすべて受け止めるような穏やかな表情で、祐貴は頷いた。
瞳子の心の闇に巣食う、忌まわしい数々の記憶――
その始まりは、瞳子が生れ落ちるよりも前の、瞳子の母の時代に遡る。
資産家の娘として何不自由なく育った母は、たおやかで優しく、しかし芯のしっかりした女性だった。
高校を卒業した十九歳の夏。
避暑に出掛けた先で、恋をした。
相手は、アルバイトをしながら役者を目指す、美しい男だった。
ふたりは互いに電流に打たれたように一目で恋に落ち、それは一気に燃え上がった。
しかし祖父は反対した。
その男を、繊細で優しい人だと母は言ったが、祖父の目には、神経質で気の小さい男に映ったからだった。
許してもらえないと知ったふたりは、突然祖父の前から姿を消した。
手に手を取って、駆け落ちしたのである。
小さな町に流れ着いたふたりは、そこで夫婦となる。
次の年には瞳子を授かり、ささやかな幸せの時間を過ごした。
しかし――
その幸せは長くは続かなかった。
父は、祖父の思った通りの男だったのだ。
目指していた役者も、中途半端な努力で挫折し、それからはどんな職についても長続きせず、荒んで昼間から酒を飲むようになった。
飲んでは母に暴力を奮い、酔いつぶれて眠ると、瞳子と母は安堵するような毎日だった。
どんなに殴られても蹴られても、母は耐えた。
ただ、父に立ち直って欲しくて、健気に尽くし、毎朝笑顔で父を送り出した。
当然、生活は苦しく、母も仕事に出なければならなかった。
母が出掛けて留守の時、父はイライラの捌け口を瞳子に向けるようになった。
ある日、様子のおかしい瞳子に気付いて、小学校の担任教師が家を訪ねて来た。
生徒達にも人気のある、若い男の教師だった。
父も母も留守だったが、瞳子は教師を家に迎え入れた。
心配してくれた事が嬉しくて瞳子が笑顔を見せた時――
教師の何かが壊れた。
幼くとも、すでに瞳子は美しすぎたのだ。
大人の男に組み敷かれ、身動きも出来なかった。
声を上げる事も忘れ、男の瞳に揺らめく欲望の炎を見た。
恐怖に凍りつき、ただ震える事しか出来なかった瞳子を、あわや、という所で救ったのは父の帰宅だった。
教師は逃げるように帰って行った。
父も、あれは誰だ……と訊く事はしなかった。
しかし、漸く起き上がり、震える手で衣服を直す瞳子を、父はいきなり殴りつけた。
その歳で男をたらし込む……なんて娘だ!
淫らな娘だ……なんて汚れた、恐ろしい娘だろう!
激しく詰りながら、父は何度も何度も瞳子を殴り続けた。
その日から、父の折檻は激しさを増した。
しかし瞳子はそれを誰にも言わなかった。
母がそうしたように、瞳子もまた、殴られても蹴られても耐えた。
それでも限界は近付いていた。
夢の中でさえ恐怖にうなされるようになり、母の知るところとなった。
瞳子の身体に無数の痣を見付けて、母は絶望した。
完成を信じて組み続けてきた幸せのパズルが、ガラガラと音を立てて崩れた。
もう耐えられない……
瞳子を守らなくては……
気を失うほど殴られて、母は漸く、父に離婚届の印を押させた。
その日のうちに、瞳子を連れて、逃げるように町を出た。
行くあてなどなかったが、母は裕福な実家に身を寄せようとはしなかった。
実家に帰った事が知れると、あの男が金の無心に来るかも知れない。
恐怖に心を閉ざしかけている瞳子の周りに、あの男の影が射す事を母は怯えた。
裕福な生活などなくてもいい。
暴力に怯えないで、心穏やかに生きて行ければそれで良かった。
母娘、ふたりきりで……。
歳を重ね、生活に追われていてもなお、母は美しい女性であった。
面倒を見たいと申し出る男は後を絶たなかったが、母はやんわりとそれらを断り続けた。
心に傷を負った瞳子を守る事を、母は最優先とした。
男性に対して怯えた表情をする瞳子に気付いていながら、女の幸せを追う事など、母には出来なかった。
しかし、そんな母にも一度だけ、結婚話が持ち上がった。
相手は、その当時母が勤めていた総菜屋の店主であった。
平凡だが、働き者で気持ちの大らかな男だった。十年も前に妻に先立たれてからは、ずっと仕事一筋に生きてきたのだという。
何より、心の傷が癒え始めた瞳子が、その男を恐がらなかった事で、母は決断しようかという気になったのだった。
瞳子はその頃、中学生になっていた。
その肢体が、子供から大人へと変化を始めたばかりの年頃だった。
我が子のように瞳子を大事にしてくれていた店主だったが、会うたび艶やかさを増す瞳子の中に、いつしか女を見るようになった。
瞳子は敏感にそれを察知した。
母もまた、最優先は瞳子である事を忘れてはいなかった。
にわかに不信感が育ち始めた母の恋は、ある日突然、終わりを迎えた。
店主には合鍵も渡して、母娘の家への出入りを自由に許していたが、留守宅に上がり込むようなまねはしない男だった。
しかしその日は違っていた。
買い物から帰った母娘が見たのは、瞳子のタンスの前で、瞳子の下着を物色している店主の姿であった。
私はなぜ、女に生まれてしまったのだろう……
瞳子は自分の性を呪った。
自分が、男の欲望に干渉されない性に生まれていれば、母は女の幸せを掴むチャンスが幾度もあっただろう。
男に生まれてさえいれば、母を、もっと強く支えてやる事が出来るのに……。
しかし、それからの二年間、母は瞳子との生活だけに幸せを求め、瞳子の成長だけを楽しみに生きた。
瞳子のためだけにすべてを捧げ――
ある日、瞳子を置いて、ひとりで逝ってしまった。
つづく
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