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Bastard & Master 【9】
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【9】
黒馬を駆るラインハルトの傍らで、やはり馬に跨ったままダニエルが杖を掲げた。
「我が名はダニエル」
スピリッツ・マスターの名乗りである。
「万物に宿る精霊たちよ……太古より交わせし契約のもと、我が呼びかけに応え、我の助けとなれ」
精霊に呼びかけるための正式な段取り――名乗りと契約を詠み上げるダニエルの声を聞きながら、目標の旅人がそう遠くない事をラインハルトは察した。
「ラインハルト卿。前方の小川の手前、木の側です」
ダニエルの示す方向を見やり、ラインハルトはそれが漸く、人の姿だと見て取れる程の距離にある事を知った。
「弓引けー!」
将の号令に、兵士達が一斉に弓を引き絞る。
ラインハルトはダニエルをちらりと横目で見た。
「致命傷は負わせるな。動きを止めるだけでよい」
ダニエルはニヤリと笑った。
「またそんな無茶を仰る……」
その顔が、可能だと言っている。
ラインハルトは小さく鼻で笑った。
「放てーっ!」
ラインハルトの声と共に、矢が放たれる。
同時にダニエルが杖を振るった。
「風の精霊よ! 我らが放つ矢を、かの者らの元へ運び、その動きを封じよ!」
たちまち追い風が彼らを追い越し、飛んで行く矢に力を与える。
普通に放ったのでは、とうてい届かないであろう距離を、矢は意志を持ったように力を失わず、空を切る。
誰もが、捕らえたと確信していた。
旅人の一人が気配を察したようにこちらを向いた。
手に杖を持っていた。
その杖を掲げるのが見えた。
「スピリッツ・マスターか?」
ラインハルトの声に、ダニエルが頷く。
「はい。しかしもう遅……」
その声が途中で途切れた。
無数の矢が、旅人の目の前で、ぱぁん、と、弾かれて落ちた。
「大気の壁!? まさかっ……名乗りはまだのはずだ……!」
ダニエルの呟きを聞きながら、ラインハルトは続けて矢を放つよう命令を下す。
かなりの能力がなければ大気は操れない。
それなのに……
まさか……名乗りも上げずにあれをやったというのか……!?
ダニエルの驚愕を嘲笑うように、矢を運ぶ風の勢いが失せた。
同時に強い逆風に乗って、矢がその向きを変える。
「危ないっ!」
ダニエルは咄嗟にラインハルトの前に出て、杖を振るう。
「大気の精霊よ!見えざる壁で我らを守れっ!」
しかしカバーするには人数が多すぎた。しかもこちらは馬で疾走中である。
兵が三名、落馬したのが目の端に映る。
「出来る……」
ラインハルトの呟きがダニエルの耳を打ち、思わず唇を噛む。
まだ負けを認める訳にはいかない。
ダニエルは旅人たちの背後の小川に目を向け、杖を掲げた。
「水の精霊よ! 怒涛となり、かの者たちを押し流せ!」
旅人の背後で、小さな小川の水が盛り上がり、高波となるのが見て取れた。
それは滑るように忍び寄り――
二人の旅人を飲み込んだ……かに見えた。
しかし――
「いけないっ! ラインハルト卿! 兵を退いて下さいっ!」
ダニエルが悲痛な叫び声を上げた。
「何だと?!」
初めて聞く、ダニエルの絶望した声に、ラインハルトはただ事ではないと察した。
「私の精霊があちらの力に惹かれている……! レベルが違いすぎます!」
「なっ……!?」
ダニエルはフッサールでも一・二を争う手足れの術師である。その彼をここまで屈服させる術師がいるなど、ラインハルトは信じられない思いで、旅人を飲み込んだ高波を見やった。
それはダニエルの命令を遂行したと思われた後も、その勢いを失わず膨れ上がり続け、こちらへ押し寄せて来る。
先走った兵の何人かが、今にもその懐に飲み込まれようとしていた。
「ちぃっ!」
ラインハルトは愛馬を駆って、兵たちの元へと走る。
「退却ーっ! 全員下がれーっ!」
「ジュリアス様っ!」
ダニエルの悲鳴が背中を追って来るのが聞こえた。
崇拝する将の声を間近に聞いて、我を失っていた兵たちが、わらわらと退却を始める。
「急げ! 下がるのだ!」
遅れていた兵を先に送り出し、振り返ったラインハルトは覚悟の溜息をついた。
高波は――すぐ側で、冷ややかに彼を見下ろしていた。
しかし。
それは、彼を飲み込もうとはせず――
その見上げるような高さを保ったまま、そこに静止していた。
「ジュリアス様っ……なんて無茶を……っ」
ダニエルの震える声が近寄ってきたが、ラインハルトの耳に届いたかどうか――
呆然とするラインハルトの目は、水のカーテンの向こうに透けて見える術師の姿に釘付けになっていた。
「ま……さか……」
見覚えのあるその顔に、ラインハルトは、もはや一歩も動く事が出来なかった。
「あれは……」
高波のその向こうに、黒い甲冑姿の騎士を見とめ、クリステルが一歩踏み出した。
心配して寄り添うレオンをクリステルは手で制し、高波に背後から近付く。
クリステルに道を開くように水が割れ始めると、向こう側で呆然とこちらを見ている騎士の姿が透けて見えた。
「我が名はクリステル。フォンテーヌ王の勅命により、都まで旅の途中である。この度の事は、それと知っての所業か」
水の壁を一枚隔てた所で、クリステルの声が凛と響く。
ラインハルトは馬を下り、剣を鞘に収めた。右手を胸に当てて、軽く頭を下げた。
「兵を退かせます。……どうか……水をお収め下さい」
傍らで、ダニエルが息を呑むのが気配でわかった。
ラインハルトの騎兵隊が武装を解き、深く後退すると、水はさざなみのように静かに、小川へと戻って行った。
隔てる物のないところでクリステルの姿を見て、ラインハルトは安堵の吐息をついた。
知らなかった事とはいえ、自分が仕掛けたのだ。
この人の身に、何もなくて良かった――それがラインハルトの正直な気持ちであった。
「クリステル殿……まさか、あなただったとは……。ご無礼をお許し下さい」
華やかな宮廷の宴で出会う彼女と、あまりに違うその姿に、一目でそれとは気付かなかった。
迂闊であったと、悔やむ気持ちが泉のように湧き起こる。
「では……ご承知の上でなさった事ではないと……仰りたいのですか? ラインハルト卿」
クリステルの射るような眼差しを受けて、ラインハルトの顔に苦渋の色が広がる。
「知らされていれば、あなたに弓を引くなど! いくら命令でも……」
そこまで吐き出して、はっと言葉を呑み込む。
命令――
もちろんクリステルは聞き逃さなかった。
そして、ラインハルトに命令出来る立場の人間が、限られたごく少数の権力者である事も、彼女は知っていた。
「命じたのがどなたかについては、伺わない事に致します。あなたは何もご存知でなかったという事で、この件は私の胸に収めておきましょう」
クリステルは冷ややかに感じさせるほど淡々と言った。
「しかし……。私共は我が王の勅命を受けての旅である事を、今後は御承知置き頂きたい」
これ以上邪魔立てすれば、フォンテーヌ王とて黙ってはいまい。事は国と国との争いにまで発展するであろう……と、クリステルは釘を刺したのだ。
ラインハルトも疑問に思っていた。
フッサールは軍事国家として近隣の諸国に睨みを利かせてはいるが、フォンテーヌに比べれば豊かとは言えない。
肥沃な土地に恵まれ、風光明媚な大国フォンテーヌと深く結び付きたいと願う気持ちから、フッサールの王族の女を嫁がせたり――といった経歴も両国にはある。
しかしその裏で、今回のような企て――
きな臭さがラインハルトの胸を騒がせる。
彼の知り果せない何かが、深く静かに蠢いていた。
つづく
黒馬を駆るラインハルトの傍らで、やはり馬に跨ったままダニエルが杖を掲げた。
「我が名はダニエル」
スピリッツ・マスターの名乗りである。
「万物に宿る精霊たちよ……太古より交わせし契約のもと、我が呼びかけに応え、我の助けとなれ」
精霊に呼びかけるための正式な段取り――名乗りと契約を詠み上げるダニエルの声を聞きながら、目標の旅人がそう遠くない事をラインハルトは察した。
「ラインハルト卿。前方の小川の手前、木の側です」
ダニエルの示す方向を見やり、ラインハルトはそれが漸く、人の姿だと見て取れる程の距離にある事を知った。
「弓引けー!」
将の号令に、兵士達が一斉に弓を引き絞る。
ラインハルトはダニエルをちらりと横目で見た。
「致命傷は負わせるな。動きを止めるだけでよい」
ダニエルはニヤリと笑った。
「またそんな無茶を仰る……」
その顔が、可能だと言っている。
ラインハルトは小さく鼻で笑った。
「放てーっ!」
ラインハルトの声と共に、矢が放たれる。
同時にダニエルが杖を振るった。
「風の精霊よ! 我らが放つ矢を、かの者らの元へ運び、その動きを封じよ!」
たちまち追い風が彼らを追い越し、飛んで行く矢に力を与える。
普通に放ったのでは、とうてい届かないであろう距離を、矢は意志を持ったように力を失わず、空を切る。
誰もが、捕らえたと確信していた。
旅人の一人が気配を察したようにこちらを向いた。
手に杖を持っていた。
その杖を掲げるのが見えた。
「スピリッツ・マスターか?」
ラインハルトの声に、ダニエルが頷く。
「はい。しかしもう遅……」
その声が途中で途切れた。
無数の矢が、旅人の目の前で、ぱぁん、と、弾かれて落ちた。
「大気の壁!? まさかっ……名乗りはまだのはずだ……!」
ダニエルの呟きを聞きながら、ラインハルトは続けて矢を放つよう命令を下す。
かなりの能力がなければ大気は操れない。
それなのに……
まさか……名乗りも上げずにあれをやったというのか……!?
ダニエルの驚愕を嘲笑うように、矢を運ぶ風の勢いが失せた。
同時に強い逆風に乗って、矢がその向きを変える。
「危ないっ!」
ダニエルは咄嗟にラインハルトの前に出て、杖を振るう。
「大気の精霊よ!見えざる壁で我らを守れっ!」
しかしカバーするには人数が多すぎた。しかもこちらは馬で疾走中である。
兵が三名、落馬したのが目の端に映る。
「出来る……」
ラインハルトの呟きがダニエルの耳を打ち、思わず唇を噛む。
まだ負けを認める訳にはいかない。
ダニエルは旅人たちの背後の小川に目を向け、杖を掲げた。
「水の精霊よ! 怒涛となり、かの者たちを押し流せ!」
旅人の背後で、小さな小川の水が盛り上がり、高波となるのが見て取れた。
それは滑るように忍び寄り――
二人の旅人を飲み込んだ……かに見えた。
しかし――
「いけないっ! ラインハルト卿! 兵を退いて下さいっ!」
ダニエルが悲痛な叫び声を上げた。
「何だと?!」
初めて聞く、ダニエルの絶望した声に、ラインハルトはただ事ではないと察した。
「私の精霊があちらの力に惹かれている……! レベルが違いすぎます!」
「なっ……!?」
ダニエルはフッサールでも一・二を争う手足れの術師である。その彼をここまで屈服させる術師がいるなど、ラインハルトは信じられない思いで、旅人を飲み込んだ高波を見やった。
それはダニエルの命令を遂行したと思われた後も、その勢いを失わず膨れ上がり続け、こちらへ押し寄せて来る。
先走った兵の何人かが、今にもその懐に飲み込まれようとしていた。
「ちぃっ!」
ラインハルトは愛馬を駆って、兵たちの元へと走る。
「退却ーっ! 全員下がれーっ!」
「ジュリアス様っ!」
ダニエルの悲鳴が背中を追って来るのが聞こえた。
崇拝する将の声を間近に聞いて、我を失っていた兵たちが、わらわらと退却を始める。
「急げ! 下がるのだ!」
遅れていた兵を先に送り出し、振り返ったラインハルトは覚悟の溜息をついた。
高波は――すぐ側で、冷ややかに彼を見下ろしていた。
しかし。
それは、彼を飲み込もうとはせず――
その見上げるような高さを保ったまま、そこに静止していた。
「ジュリアス様っ……なんて無茶を……っ」
ダニエルの震える声が近寄ってきたが、ラインハルトの耳に届いたかどうか――
呆然とするラインハルトの目は、水のカーテンの向こうに透けて見える術師の姿に釘付けになっていた。
「ま……さか……」
見覚えのあるその顔に、ラインハルトは、もはや一歩も動く事が出来なかった。
「あれは……」
高波のその向こうに、黒い甲冑姿の騎士を見とめ、クリステルが一歩踏み出した。
心配して寄り添うレオンをクリステルは手で制し、高波に背後から近付く。
クリステルに道を開くように水が割れ始めると、向こう側で呆然とこちらを見ている騎士の姿が透けて見えた。
「我が名はクリステル。フォンテーヌ王の勅命により、都まで旅の途中である。この度の事は、それと知っての所業か」
水の壁を一枚隔てた所で、クリステルの声が凛と響く。
ラインハルトは馬を下り、剣を鞘に収めた。右手を胸に当てて、軽く頭を下げた。
「兵を退かせます。……どうか……水をお収め下さい」
傍らで、ダニエルが息を呑むのが気配でわかった。
ラインハルトの騎兵隊が武装を解き、深く後退すると、水はさざなみのように静かに、小川へと戻って行った。
隔てる物のないところでクリステルの姿を見て、ラインハルトは安堵の吐息をついた。
知らなかった事とはいえ、自分が仕掛けたのだ。
この人の身に、何もなくて良かった――それがラインハルトの正直な気持ちであった。
「クリステル殿……まさか、あなただったとは……。ご無礼をお許し下さい」
華やかな宮廷の宴で出会う彼女と、あまりに違うその姿に、一目でそれとは気付かなかった。
迂闊であったと、悔やむ気持ちが泉のように湧き起こる。
「では……ご承知の上でなさった事ではないと……仰りたいのですか? ラインハルト卿」
クリステルの射るような眼差しを受けて、ラインハルトの顔に苦渋の色が広がる。
「知らされていれば、あなたに弓を引くなど! いくら命令でも……」
そこまで吐き出して、はっと言葉を呑み込む。
命令――
もちろんクリステルは聞き逃さなかった。
そして、ラインハルトに命令出来る立場の人間が、限られたごく少数の権力者である事も、彼女は知っていた。
「命じたのがどなたかについては、伺わない事に致します。あなたは何もご存知でなかったという事で、この件は私の胸に収めておきましょう」
クリステルは冷ややかに感じさせるほど淡々と言った。
「しかし……。私共は我が王の勅命を受けての旅である事を、今後は御承知置き頂きたい」
これ以上邪魔立てすれば、フォンテーヌ王とて黙ってはいまい。事は国と国との争いにまで発展するであろう……と、クリステルは釘を刺したのだ。
ラインハルトも疑問に思っていた。
フッサールは軍事国家として近隣の諸国に睨みを利かせてはいるが、フォンテーヌに比べれば豊かとは言えない。
肥沃な土地に恵まれ、風光明媚な大国フォンテーヌと深く結び付きたいと願う気持ちから、フッサールの王族の女を嫁がせたり――といった経歴も両国にはある。
しかしその裏で、今回のような企て――
きな臭さがラインハルトの胸を騒がせる。
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