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悪役令嬢の、異世界転生
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わたくしが目を覚ますと、そこは見慣れない白くて低い天井の部屋だった。
あり得ないほど小さくて固い、寝心地の悪いベッドにわたくしは寝かされていた。額には何か、冷たい物が乗っている。それを取り上げてみると、なにか冷たい物がグニャグニャとした物に包まれているようだった。こんな不気味な物をわたくしの顔に乗せたの!? 信じられないわ!
「誰か! 誰かいないの!?」
貧血で倒れたか、それとも何か別の原因があるのか――気を失う直前の記憶がない。けれどひとつだけ言えるのは、メーヴェ侯爵家の一人娘にして王太子殿下の婚約者である、このネルヴェリア・メーヴェに対しての敬意が徹底的に足りていないと言うこと。
こんな粗末なベッドに寝かせるなんて、不敬の極みだわ。おそらく運んだのは従者のひとりなのだろうけど、お父様に言いつけて解雇しましょう。その前に、自分が何をしでかしたか徹底的に思い知らせなくては。
寝台を囲むカーテンの向こうでバタバタと足音がした。まあ、なんて品のない歩き方! こんな教育は我が家ではしていないはずなのに。
「おっ、まりりん、起きたー?」
「頭痛くない? どう? びびったさー、りさの打球が思いっきりおでこにガーンいったし」
カーテンを開けて顔を覗かせたのは、見覚えのないふたりの少女。斬新な髪形もその身を包む服装も、わたくしにとっては全く馴染みがなくて、思わず言葉を失ってしまった。
「まりりん、どした?」
少年と見紛うかのような短い髪の少女が歩み寄ってきて、わたくしの顔のすぐ前で手を振る。わたくしはその手をバシリと手で払った。
「どこのどなたか存じませんけど、失礼ですわよ、貴女方。まさかわたくしがネルヴェリア・メーヴェと知らない訳ではないでしょう?」
わたくしが通う王立学院は貴族しか通えない。生徒の身の回りをする従者がだいたい家から付けられているけども、彼らは学院の生徒ではない。
身なりから察するに、この少女たちは貴族とは思えないわ、おそらく誰かの従者なのでしょう。けれど、王太子殿下の婚約者であるわたくしを知らない訳がない。学院の中でもわたくしは王太子殿下に次ぐ重要な人間なのだから。
「頭打っておかしくなった?」
「今日、エイプリルフールじゃないし」
わたくしの厳しい声にも怯まず、ふたりの少女は顔を見合わせると態度を変えることなくこちらに話しかけてくる。
「なっ……おかしいのはそちらですわ!」
「やっぱたんこぶデカいからでは? りさー、まりりんにちゃんと謝りなよー」
「うっはー、それもそうだ! まりりん、ホントごめんね! 保健の先生が念のため病院行った方がいいって言ってたから、ウチが付いてくし。動けるなら行こ? カバン教室から持ってきてあるからさ」
馴れ馴れしいふたりの態度に苛立ちつつ、そんなに大きなこぶが出来ているのかと気になって額を触る。
「……つっ!」
痛みに思わず声を上げてしまう。触れただけで額が腫れ上がり、熱を持っているのがわかった。
「信っじられませんわ! 貴女が、このわたくしの顔に傷を付けたというの!? 殿下とお父様に報告しますわ! 名を名乗りなさい!」
「いや、殿下って誰やねん。おもろー」
「カンナ、おもしろがってる場合じゃないって。ちょっとマジおかしいよ、これ。だから早く病院行こ? ――あ、とりあえず鏡見なよ。たんこぶヤバいから」
差し出された小さな鏡をわたくしは覗き込んだ。そして、再び気を失った。
――鏡の中にいたのは、艶やかな銀髪を巻き、薄く化粧をして整えた見慣れた自分の顔ではなく、黒髪を顎のあたりで切りそろえて眉も整えていない、十人並みの容姿の娘だったのだ……。
桐原万里――それが、今のわたくしの名前だった。
理彩と栞那というふたりの少女は再び気を失った私を粗雑ではあるけれども親身に介抱し、わたくしが最初に気を失うに至った経緯を話してくれた。
曰く、わたくしはこの世界の「高校」と呼ばれる学校に通っており、6限目の体育という授業でやっていたソフトボールなる球技で理彩の打った球を頭に受けて倒れたのだという。
わたくしには、それ以前の記憶は全くない。あるのは、ネルヴェリアとしての記憶だけ。
思い出せるのは、最近殿下に身分もわきまえずつきまとうミリアンという男爵家の娘が疎ましくて、取り巻きのひとりに彼女を階段から突き落とさせたのを上から見下ろしていたところ。
そして、その直後に酷い衝撃と、熱さがわたくしを襲ったこと……。
そこまで思い出して、急に鮮明に最期の記憶が蘇ってきた。階段の上で手すりにもたれてミリアンが落ちる様を笑って見ていたわたくしは、誰かに体当たりされたのだ。
いや、体当たりではなくて、あれはおそらく剣で刺された衝撃。そして、強すぎる勢いでわたくしの体はそのまま手すりを乗り越え、吹き抜けのロビーを3階分落ちていった。
床に打ち付けられた衝撃で急激に視界は黒く塗りつぶされていった。そこで、「ネルヴェリア」の記憶は終わっている。
わたくしは、誰かに殺された。
そして、桐原万里としてこの世界に生まれ、今まで生きてきた。
それが頭に怪我を負ったショックで、ネルヴェリアの記憶が蘇って、万里としての記憶は失ってしまった。
そういうこと、らしい……。
この世界のこの国では、貴族という存在がなくほぼ全てが平民。万里が通っている学校も、前世での王立学院のような最高峰の学校ではなく、中の中であり平凡極まりない頭の程度を持った生徒が集うらしい。
情けないわ。このわたくしが生まれ変わった存在でありながら。
前世のようにお父様にお願いして不敬者を処罰することは出来なくなったけども、未来の王太子妃として定められたほどの才媛であるわたくしの頭脳を見せるとき!
なのに。
「なんですの、これは」
わたくしは広げられた書物を見てすっかり固まってしまった。
見たことの無い字が並ぶ、見事に作られた本。わたくしの前世では、このように全てに色が付いて、形の整った本が同じように何冊もありはしなかった。
病院で不思議な「検査」を受けて問題ないと解放された後、理彩と栞那はわたくしを心配して家まで付き添ってきた。
その心がけは素晴らしいわね。粗雑なのが気になるけども、新しい取り巻きにしてあげてもいいかもしれないと思うわ。
病院とやらへ行く途中も、馬のような速度で走る箱形の物が多くて驚いたけれど、もっと驚いたのはわたくしたちは歩いて移動したということだった。馬車で移動するのが当たり前だったのだもの。
更に本当のことを言うと、「自転車」という物に乗って自分で走るのが本来の「万里」らしい。馬なら乗ることが出来るけど、こんな前後に車輪がふたつしかない得体の知れない物を乗りこなせるとは思えず、わたくしは自転車を押して歩くことにした。
そして、理彩と栞那は当たり前にそれに付き合い、自分たちの自転車を押して私の前を歩いた。前を歩いていたのは、わたくしが記憶を無くしていることをこのふたりが理解したから。
家まで送られたのも、そのせいだった。
その点は気が利くわね。褒めてあげてもいいわ。
使用人の小屋かと思うような小さな家が万里の家で、狭いことで有名な学院寮の下位貴族の生徒の部屋よりも更に狭いのが万里の部屋だった。
よくこんなところで生活できるわね。息が詰まりそうだわ……。
そこで私は、ふたりから教科書という物を見せられ、それが読めるにもかかわらず内容が全く理解できないことで困惑しきってしまった。
数学……ええ、数学というもの自体は知っているわ。計算も出来ないようでは領地経営はままならない。家令や執事が事務仕事を対応しようとも、最終的に判断を下すのは領主の役割ですもの。わたくしは家を継ぐ訳ではないけども、将来の王太子妃としてふさわしい教育は幼い頃から受けてきた。様々な学問に、マナーにダンス……。
でも、目の前にいるふたりを見ていると、少なくともわたくしの身につけてきたマナーはこの世界では全く必要ないように思えるわね。
妙に薄く安っぽい絨毯に直に座り、膝を出して脚を組んだふたりは無作法そのもの。床に直接座ったことのないわたくしは、どうしたらいいかわからず先程のよりは少しはマシなベッドに腰掛けていた。
「まりりん、じゃなくて、えーと、なんだっけ? 名前長くて覚えらんない」
「ネルヴェリアですわ」
「ねるっち、宿題やろうか」
「ねるっち!? まさか、それはわたくしのことですの!? 失礼にもほどがありましてよ!?」
「うーん、調子狂うなー。性格が違いすぎる」
「顔が同じでも表情が違うと別人に見えるんだねー。ウチひとつ賢くなったかも」
「あー、あれだー!! ねるっちにデジャヴあると思ったら悪役令嬢! 乙女ゲーの!」
栞那が私を指さして叫ぶ。その態度に眉を顰めつつ、わたくしは聞き捨てならない言葉を拾っていた。
「悪役令嬢ですって? 確かにわたくしは侯爵令嬢でしたわ。ですが悪役というのは聞き捨てなりませんわね」
「あのねー、自分がヒロインの女の子になって、男の子たちを攻略してく恋愛ゲームがあるのさー。私がやったのは『薔薇園の聖乙女』っていうゲームで、聖女の力を持った男爵令嬢のローズィアってヒロインが、王子様とか学院一の秀才とか、騎士志望の爽やか系とか、そういうイケメンを攻略するゲームでね。それに、王子の婚約者のライバルのヴァレリアっていうキャラが出てくんの。侯爵令嬢で銀髪で縦ロールで、美人なんだけど性格悪くってさ。ローズィアにこっそり魔法で水を掛けて服をびしょびしょにしたり、取り巻き使って階段から突き落としたりとか、いろんな嫌がらせすんの。で、ちゃんと男の子攻略してくと最後には悪いことしてたのが王子にバレて、みんなの前で婚約解消されて追放されんだ。そのヴァレリアが悪役だから、悪役令嬢って言われてんのよー」
早口で一気に喋る栞那に圧倒されつつ、わたくしは思わず胸を押さえていた。
魔法で水を掛けて、ミリアンの服をびしょ濡れにして台無しにしたわ。だって、殿下に自分の作った粗末な菓子など食べさせようとするんだもの。
それに、彼女への鬱陶しさがどんどん増してきて、まさに階段から突き落としたところだったわ……。
銀髪で縦ロールで美人というのも、まさに前世のわたくしそのもの。
栞那の話す「ヴァレリア」は、他人とは全く思えなくて。
わたくしは、「悪役令嬢」だったのかしら……。
だとしたら、あそこで殺されなくても、酷い未来が待っていたのかもしれない。
「ねるっち、どしたん? 顔色悪いよ?」
理彩がわたくしの顔を下から覗き込んでくる。きっとわたくしは酷い顔色をしているのね。それがわかるけれども今顔を見られたくはなくて、わたくしは両手で顔を覆った。
「ねるっち、大丈夫? 悪役令嬢の話ショックだった? ねるっちで悪役令嬢デジャヴって言ってごめんね。ねるっちが悪役令嬢って意味じゃないからね」
栞那がわたくしの隣に腰掛けて肩を抱いてくる。
先程までのわたくしだったら、無礼と言って振り払ったでしょうね……。
でも、今は何故かその温かさが心地よくて、わたくしはされるがままになっていた。
「わたくしは……前世のわたくし――ネルヴェリアは、きっと悪役令嬢だったのですわ……」
「えっ!?」
「そ、そんなことないよ! まりりんの前世でしょ? まりりん優しくていい子だし、そんなまりりんの前世が悪役令嬢の訳ないって!」
前世での取り巻きとは響きの違う言葉が私に向けられる。ふたりの言葉はわたくしの聞き慣れた美辞麗句ではなかったけれども、真摯にわたくしを案じる気持ちがこもっているように感じた。
「わたくしは、王太子殿下の婚約者でしたの。髪は今とは違って銀髪で、いつも巻いていましたわ。学院に入学してきた男爵令嬢のミリアンが殿下に近づくのが嫌で、水も掛けましたし、取り巻きの生徒に階段から突き落とさせもしました。
栞那が言う、『性格の悪い』女だったのですわ……だから、あの時階段の上で刺されて殺されたのは、きっとそのせい……」
「殺された!? それを覚えてるの!?」
「ええ、はっきりと。背後から剣で刺されて、勢いでそのまま下のロビーまで落ちて、そこで意識が途切れて……」
わたくしは声を震わせながら告白した。
自分が「悪役」だなんて、わたくしは決して思っていなかった。邪魔なのはミリアンで、分をわきまえないあの娘に貴族の力関係という物を知らしめているつもりだった。
わたくしは王太子妃という未来を約束された侯爵令嬢。それに対してあの子はしがない男爵家の娘。
他に後ろ盾もない男爵家の娘など、側室にすらなれるか怪しいものなのだから。
ああ、だけど、その「乙女ゲー」とかいう物の主人公としての視点で見たら、わたくしのしたことは酷いことに間違いないわ。
理彩と栞那のことも中の中の平凡な頭と馬鹿にしたのに、その教科書を見てもほんの少しも理解できないわたくしはそれ以下だった。
ネルヴェリアは、ただ恵まれた家に生まれ、美しかっただけの愚かな娘。――いえ、その美しさすらも、財力を注ぎ込んで手入れを惜しまなかったからこそのもの。その点に関しては努力したのは間違いないもの、だからわかるわ。
「ねるっち、可哀想……」
「怖いこと思い出させたね、ほんとごめんね」
わたくしの肩を抱く栞那が手にぎゅっと力を込め、理彩の手がわたくしの頭を撫でる。
なにかしら、この感情は。
頭を撫でてもらったのなんて、本当に幼い頃以来だわ。
温かな手が罪深いわたくしに慰めを与えていた。わたくしはそれを受け取る資格があるのかわからないけれど、このふたりから親愛を向けられている「万里」は、わたくしより余程価値のある存在に思えてきた。
わたくしは上に立つ者として育てられた。だから、かしずく者は多かったけれども、「友達」と言える存在はわたくしにはいなかったのね――。
「わたくしは、ネルヴェリアは、悪役令嬢……。裁かれるべき罪を犯しましたし、愚かでした。それに比べて、『万里』にはこんな友達がいましたのね。――記憶なんて戻らなければ良かった。きっと貴女方にとってもその方が良かったのに」
「そんなこと言わないで!」
ごん、と理彩の手がわたくしの頭に手刀を入れてきた。それが額のこぶに響いて思わず「痛い」と呻くと理彩は慌てて謝った。
「ごめんごめん! ついいつもの調子でチョップしちゃった!」
たった今打ったわたくしの頭を撫でて、理彩は顔を覆うわたくしの手に手を重ねた。
「あのさ、まりりんでもねるっちでもいいの。だってウチら友達じゃん。小学校の時からずーっと仲良くしてきたじゃん。まりりんがそれを忘れても、ウチは忘れないから関係ないの」
「ねるっちさ――いや、まりりん。これからまりりんって呼ぶからね。ねるっちの時の記憶に足掴まれることないよ。いけないことしたとしても前世なんだよ。今のあんたは桐原万里なの。優しくて、友達の中では勉強できて、ちょっと鈍くさいけど友達想いのいい子で、私たちの大事な友達なんだよ。だから」
「うん、泣かないで。友達が泣いてるの、ウチ嫌だから」
その言葉で、わたくしは自分が涙を流していることに気がついた。
万里、容姿が十人並みとか頭が平凡とか思ってごめんなさい。貴女は、ネルヴェリアより余程価値ある人生を送ってきた。今なら、それがわかるわ。
「やり直せる……かしら、わたくし。万里として生きていってもいいのかしら」
「できるよ! また頭打ったら記憶が戻るかもしれないし、ね?」
「まず、その『わたくし』ってすっごいお嬢様喋りやめよ? 私、でいいんだよ、ほら、言ってみ?」
ふたりの言葉に背を押されて、わたくしはゆっくりと顔を覆っていた手を外す。
涙に汚れた顔をさらして、少し無理に微笑んで見せた。
「私、やり直してみる。理彩、栞那、これでいい?」
「うん、いいよー! まりりんー!」
「教科書見たら、全然わからなかったの。勉強も教えてくれる?」
「お安いご用さっ! でも、ウチらの中で一番頭良かったのまりりんだからね? 自信持っていいんだから」
「ありがとう、理彩、栞那――万里は、私は幸せ者ね」
私はふたりの友達に抱きついた。こんなこと初めてで、胸がとても熱い。
その熱は、私に力をくれた。
――悪役令嬢だった私は、普通の女子高生としてやり直す。
あり得ないほど小さくて固い、寝心地の悪いベッドにわたくしは寝かされていた。額には何か、冷たい物が乗っている。それを取り上げてみると、なにか冷たい物がグニャグニャとした物に包まれているようだった。こんな不気味な物をわたくしの顔に乗せたの!? 信じられないわ!
「誰か! 誰かいないの!?」
貧血で倒れたか、それとも何か別の原因があるのか――気を失う直前の記憶がない。けれどひとつだけ言えるのは、メーヴェ侯爵家の一人娘にして王太子殿下の婚約者である、このネルヴェリア・メーヴェに対しての敬意が徹底的に足りていないと言うこと。
こんな粗末なベッドに寝かせるなんて、不敬の極みだわ。おそらく運んだのは従者のひとりなのだろうけど、お父様に言いつけて解雇しましょう。その前に、自分が何をしでかしたか徹底的に思い知らせなくては。
寝台を囲むカーテンの向こうでバタバタと足音がした。まあ、なんて品のない歩き方! こんな教育は我が家ではしていないはずなのに。
「おっ、まりりん、起きたー?」
「頭痛くない? どう? びびったさー、りさの打球が思いっきりおでこにガーンいったし」
カーテンを開けて顔を覗かせたのは、見覚えのないふたりの少女。斬新な髪形もその身を包む服装も、わたくしにとっては全く馴染みがなくて、思わず言葉を失ってしまった。
「まりりん、どした?」
少年と見紛うかのような短い髪の少女が歩み寄ってきて、わたくしの顔のすぐ前で手を振る。わたくしはその手をバシリと手で払った。
「どこのどなたか存じませんけど、失礼ですわよ、貴女方。まさかわたくしがネルヴェリア・メーヴェと知らない訳ではないでしょう?」
わたくしが通う王立学院は貴族しか通えない。生徒の身の回りをする従者がだいたい家から付けられているけども、彼らは学院の生徒ではない。
身なりから察するに、この少女たちは貴族とは思えないわ、おそらく誰かの従者なのでしょう。けれど、王太子殿下の婚約者であるわたくしを知らない訳がない。学院の中でもわたくしは王太子殿下に次ぐ重要な人間なのだから。
「頭打っておかしくなった?」
「今日、エイプリルフールじゃないし」
わたくしの厳しい声にも怯まず、ふたりの少女は顔を見合わせると態度を変えることなくこちらに話しかけてくる。
「なっ……おかしいのはそちらですわ!」
「やっぱたんこぶデカいからでは? りさー、まりりんにちゃんと謝りなよー」
「うっはー、それもそうだ! まりりん、ホントごめんね! 保健の先生が念のため病院行った方がいいって言ってたから、ウチが付いてくし。動けるなら行こ? カバン教室から持ってきてあるからさ」
馴れ馴れしいふたりの態度に苛立ちつつ、そんなに大きなこぶが出来ているのかと気になって額を触る。
「……つっ!」
痛みに思わず声を上げてしまう。触れただけで額が腫れ上がり、熱を持っているのがわかった。
「信っじられませんわ! 貴女が、このわたくしの顔に傷を付けたというの!? 殿下とお父様に報告しますわ! 名を名乗りなさい!」
「いや、殿下って誰やねん。おもろー」
「カンナ、おもしろがってる場合じゃないって。ちょっとマジおかしいよ、これ。だから早く病院行こ? ――あ、とりあえず鏡見なよ。たんこぶヤバいから」
差し出された小さな鏡をわたくしは覗き込んだ。そして、再び気を失った。
――鏡の中にいたのは、艶やかな銀髪を巻き、薄く化粧をして整えた見慣れた自分の顔ではなく、黒髪を顎のあたりで切りそろえて眉も整えていない、十人並みの容姿の娘だったのだ……。
桐原万里――それが、今のわたくしの名前だった。
理彩と栞那というふたりの少女は再び気を失った私を粗雑ではあるけれども親身に介抱し、わたくしが最初に気を失うに至った経緯を話してくれた。
曰く、わたくしはこの世界の「高校」と呼ばれる学校に通っており、6限目の体育という授業でやっていたソフトボールなる球技で理彩の打った球を頭に受けて倒れたのだという。
わたくしには、それ以前の記憶は全くない。あるのは、ネルヴェリアとしての記憶だけ。
思い出せるのは、最近殿下に身分もわきまえずつきまとうミリアンという男爵家の娘が疎ましくて、取り巻きのひとりに彼女を階段から突き落とさせたのを上から見下ろしていたところ。
そして、その直後に酷い衝撃と、熱さがわたくしを襲ったこと……。
そこまで思い出して、急に鮮明に最期の記憶が蘇ってきた。階段の上で手すりにもたれてミリアンが落ちる様を笑って見ていたわたくしは、誰かに体当たりされたのだ。
いや、体当たりではなくて、あれはおそらく剣で刺された衝撃。そして、強すぎる勢いでわたくしの体はそのまま手すりを乗り越え、吹き抜けのロビーを3階分落ちていった。
床に打ち付けられた衝撃で急激に視界は黒く塗りつぶされていった。そこで、「ネルヴェリア」の記憶は終わっている。
わたくしは、誰かに殺された。
そして、桐原万里としてこの世界に生まれ、今まで生きてきた。
それが頭に怪我を負ったショックで、ネルヴェリアの記憶が蘇って、万里としての記憶は失ってしまった。
そういうこと、らしい……。
この世界のこの国では、貴族という存在がなくほぼ全てが平民。万里が通っている学校も、前世での王立学院のような最高峰の学校ではなく、中の中であり平凡極まりない頭の程度を持った生徒が集うらしい。
情けないわ。このわたくしが生まれ変わった存在でありながら。
前世のようにお父様にお願いして不敬者を処罰することは出来なくなったけども、未来の王太子妃として定められたほどの才媛であるわたくしの頭脳を見せるとき!
なのに。
「なんですの、これは」
わたくしは広げられた書物を見てすっかり固まってしまった。
見たことの無い字が並ぶ、見事に作られた本。わたくしの前世では、このように全てに色が付いて、形の整った本が同じように何冊もありはしなかった。
病院で不思議な「検査」を受けて問題ないと解放された後、理彩と栞那はわたくしを心配して家まで付き添ってきた。
その心がけは素晴らしいわね。粗雑なのが気になるけども、新しい取り巻きにしてあげてもいいかもしれないと思うわ。
病院とやらへ行く途中も、馬のような速度で走る箱形の物が多くて驚いたけれど、もっと驚いたのはわたくしたちは歩いて移動したということだった。馬車で移動するのが当たり前だったのだもの。
更に本当のことを言うと、「自転車」という物に乗って自分で走るのが本来の「万里」らしい。馬なら乗ることが出来るけど、こんな前後に車輪がふたつしかない得体の知れない物を乗りこなせるとは思えず、わたくしは自転車を押して歩くことにした。
そして、理彩と栞那は当たり前にそれに付き合い、自分たちの自転車を押して私の前を歩いた。前を歩いていたのは、わたくしが記憶を無くしていることをこのふたりが理解したから。
家まで送られたのも、そのせいだった。
その点は気が利くわね。褒めてあげてもいいわ。
使用人の小屋かと思うような小さな家が万里の家で、狭いことで有名な学院寮の下位貴族の生徒の部屋よりも更に狭いのが万里の部屋だった。
よくこんなところで生活できるわね。息が詰まりそうだわ……。
そこで私は、ふたりから教科書という物を見せられ、それが読めるにもかかわらず内容が全く理解できないことで困惑しきってしまった。
数学……ええ、数学というもの自体は知っているわ。計算も出来ないようでは領地経営はままならない。家令や執事が事務仕事を対応しようとも、最終的に判断を下すのは領主の役割ですもの。わたくしは家を継ぐ訳ではないけども、将来の王太子妃としてふさわしい教育は幼い頃から受けてきた。様々な学問に、マナーにダンス……。
でも、目の前にいるふたりを見ていると、少なくともわたくしの身につけてきたマナーはこの世界では全く必要ないように思えるわね。
妙に薄く安っぽい絨毯に直に座り、膝を出して脚を組んだふたりは無作法そのもの。床に直接座ったことのないわたくしは、どうしたらいいかわからず先程のよりは少しはマシなベッドに腰掛けていた。
「まりりん、じゃなくて、えーと、なんだっけ? 名前長くて覚えらんない」
「ネルヴェリアですわ」
「ねるっち、宿題やろうか」
「ねるっち!? まさか、それはわたくしのことですの!? 失礼にもほどがありましてよ!?」
「うーん、調子狂うなー。性格が違いすぎる」
「顔が同じでも表情が違うと別人に見えるんだねー。ウチひとつ賢くなったかも」
「あー、あれだー!! ねるっちにデジャヴあると思ったら悪役令嬢! 乙女ゲーの!」
栞那が私を指さして叫ぶ。その態度に眉を顰めつつ、わたくしは聞き捨てならない言葉を拾っていた。
「悪役令嬢ですって? 確かにわたくしは侯爵令嬢でしたわ。ですが悪役というのは聞き捨てなりませんわね」
「あのねー、自分がヒロインの女の子になって、男の子たちを攻略してく恋愛ゲームがあるのさー。私がやったのは『薔薇園の聖乙女』っていうゲームで、聖女の力を持った男爵令嬢のローズィアってヒロインが、王子様とか学院一の秀才とか、騎士志望の爽やか系とか、そういうイケメンを攻略するゲームでね。それに、王子の婚約者のライバルのヴァレリアっていうキャラが出てくんの。侯爵令嬢で銀髪で縦ロールで、美人なんだけど性格悪くってさ。ローズィアにこっそり魔法で水を掛けて服をびしょびしょにしたり、取り巻き使って階段から突き落としたりとか、いろんな嫌がらせすんの。で、ちゃんと男の子攻略してくと最後には悪いことしてたのが王子にバレて、みんなの前で婚約解消されて追放されんだ。そのヴァレリアが悪役だから、悪役令嬢って言われてんのよー」
早口で一気に喋る栞那に圧倒されつつ、わたくしは思わず胸を押さえていた。
魔法で水を掛けて、ミリアンの服をびしょ濡れにして台無しにしたわ。だって、殿下に自分の作った粗末な菓子など食べさせようとするんだもの。
それに、彼女への鬱陶しさがどんどん増してきて、まさに階段から突き落としたところだったわ……。
銀髪で縦ロールで美人というのも、まさに前世のわたくしそのもの。
栞那の話す「ヴァレリア」は、他人とは全く思えなくて。
わたくしは、「悪役令嬢」だったのかしら……。
だとしたら、あそこで殺されなくても、酷い未来が待っていたのかもしれない。
「ねるっち、どしたん? 顔色悪いよ?」
理彩がわたくしの顔を下から覗き込んでくる。きっとわたくしは酷い顔色をしているのね。それがわかるけれども今顔を見られたくはなくて、わたくしは両手で顔を覆った。
「ねるっち、大丈夫? 悪役令嬢の話ショックだった? ねるっちで悪役令嬢デジャヴって言ってごめんね。ねるっちが悪役令嬢って意味じゃないからね」
栞那がわたくしの隣に腰掛けて肩を抱いてくる。
先程までのわたくしだったら、無礼と言って振り払ったでしょうね……。
でも、今は何故かその温かさが心地よくて、わたくしはされるがままになっていた。
「わたくしは……前世のわたくし――ネルヴェリアは、きっと悪役令嬢だったのですわ……」
「えっ!?」
「そ、そんなことないよ! まりりんの前世でしょ? まりりん優しくていい子だし、そんなまりりんの前世が悪役令嬢の訳ないって!」
前世での取り巻きとは響きの違う言葉が私に向けられる。ふたりの言葉はわたくしの聞き慣れた美辞麗句ではなかったけれども、真摯にわたくしを案じる気持ちがこもっているように感じた。
「わたくしは、王太子殿下の婚約者でしたの。髪は今とは違って銀髪で、いつも巻いていましたわ。学院に入学してきた男爵令嬢のミリアンが殿下に近づくのが嫌で、水も掛けましたし、取り巻きの生徒に階段から突き落とさせもしました。
栞那が言う、『性格の悪い』女だったのですわ……だから、あの時階段の上で刺されて殺されたのは、きっとそのせい……」
「殺された!? それを覚えてるの!?」
「ええ、はっきりと。背後から剣で刺されて、勢いでそのまま下のロビーまで落ちて、そこで意識が途切れて……」
わたくしは声を震わせながら告白した。
自分が「悪役」だなんて、わたくしは決して思っていなかった。邪魔なのはミリアンで、分をわきまえないあの娘に貴族の力関係という物を知らしめているつもりだった。
わたくしは王太子妃という未来を約束された侯爵令嬢。それに対してあの子はしがない男爵家の娘。
他に後ろ盾もない男爵家の娘など、側室にすらなれるか怪しいものなのだから。
ああ、だけど、その「乙女ゲー」とかいう物の主人公としての視点で見たら、わたくしのしたことは酷いことに間違いないわ。
理彩と栞那のことも中の中の平凡な頭と馬鹿にしたのに、その教科書を見てもほんの少しも理解できないわたくしはそれ以下だった。
ネルヴェリアは、ただ恵まれた家に生まれ、美しかっただけの愚かな娘。――いえ、その美しさすらも、財力を注ぎ込んで手入れを惜しまなかったからこそのもの。その点に関しては努力したのは間違いないもの、だからわかるわ。
「ねるっち、可哀想……」
「怖いこと思い出させたね、ほんとごめんね」
わたくしの肩を抱く栞那が手にぎゅっと力を込め、理彩の手がわたくしの頭を撫でる。
なにかしら、この感情は。
頭を撫でてもらったのなんて、本当に幼い頃以来だわ。
温かな手が罪深いわたくしに慰めを与えていた。わたくしはそれを受け取る資格があるのかわからないけれど、このふたりから親愛を向けられている「万里」は、わたくしより余程価値のある存在に思えてきた。
わたくしは上に立つ者として育てられた。だから、かしずく者は多かったけれども、「友達」と言える存在はわたくしにはいなかったのね――。
「わたくしは、ネルヴェリアは、悪役令嬢……。裁かれるべき罪を犯しましたし、愚かでした。それに比べて、『万里』にはこんな友達がいましたのね。――記憶なんて戻らなければ良かった。きっと貴女方にとってもその方が良かったのに」
「そんなこと言わないで!」
ごん、と理彩の手がわたくしの頭に手刀を入れてきた。それが額のこぶに響いて思わず「痛い」と呻くと理彩は慌てて謝った。
「ごめんごめん! ついいつもの調子でチョップしちゃった!」
たった今打ったわたくしの頭を撫でて、理彩は顔を覆うわたくしの手に手を重ねた。
「あのさ、まりりんでもねるっちでもいいの。だってウチら友達じゃん。小学校の時からずーっと仲良くしてきたじゃん。まりりんがそれを忘れても、ウチは忘れないから関係ないの」
「ねるっちさ――いや、まりりん。これからまりりんって呼ぶからね。ねるっちの時の記憶に足掴まれることないよ。いけないことしたとしても前世なんだよ。今のあんたは桐原万里なの。優しくて、友達の中では勉強できて、ちょっと鈍くさいけど友達想いのいい子で、私たちの大事な友達なんだよ。だから」
「うん、泣かないで。友達が泣いてるの、ウチ嫌だから」
その言葉で、わたくしは自分が涙を流していることに気がついた。
万里、容姿が十人並みとか頭が平凡とか思ってごめんなさい。貴女は、ネルヴェリアより余程価値ある人生を送ってきた。今なら、それがわかるわ。
「やり直せる……かしら、わたくし。万里として生きていってもいいのかしら」
「できるよ! また頭打ったら記憶が戻るかもしれないし、ね?」
「まず、その『わたくし』ってすっごいお嬢様喋りやめよ? 私、でいいんだよ、ほら、言ってみ?」
ふたりの言葉に背を押されて、わたくしはゆっくりと顔を覆っていた手を外す。
涙に汚れた顔をさらして、少し無理に微笑んで見せた。
「私、やり直してみる。理彩、栞那、これでいい?」
「うん、いいよー! まりりんー!」
「教科書見たら、全然わからなかったの。勉強も教えてくれる?」
「お安いご用さっ! でも、ウチらの中で一番頭良かったのまりりんだからね? 自信持っていいんだから」
「ありがとう、理彩、栞那――万里は、私は幸せ者ね」
私はふたりの友達に抱きついた。こんなこと初めてで、胸がとても熱い。
その熱は、私に力をくれた。
――悪役令嬢だった私は、普通の女子高生としてやり直す。
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