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玲一編
思わぬ邂逅
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水曜日の退社後、玲一は足早にお昼寝屋に向かった。逸る気持ちが自然と足を急がせたのだ。
重めの木のドアを押して店内に入ると、いらっしゃいませと女性の声が掛けられる。
いつも浅葱が立っていて玲一を出迎えたフロントの中には、見知らぬ女性スタッフがいた。
てっきり浅葱に会うと思っていたから、拍子抜けする。財布の中から会員証を出しながら、玲一は女性スタッフに思わず尋ねていた。
「あの、いつもフロントにいた浅葱くんは?」
「浅葱ですか? 申し訳ありませんが、浅葱は他の曜日に移ってしまって」
完璧な営業スマイルで女性は答えた。なんでもない言葉のはずなのに、玲一は目の前が一瞬真っ白になるようなショックを受けていた。
「そうなんですか……いつ頃?」
問いかける自分の声はどこか震えていないだろうか。不安に思いながら玲一は声を絞り出す。
「今月からです」
「そっか、ああ、すみません、今日はいいです」
彼と添い寝ができなくても、ここの布団が恋しいのだと思ったのに。
井上に頬をつねられるくらいのため息を吐くほど、ここの布団で寝たいと思ったはずなの
に。
彼に合わせる顔がないと思い、会っても最低限のことだけやりとりすればいいと決めてきたのに。
彼がここにいないという事実は、恐ろしく玲一を打ちのめした。
返された会員証を受け取って、気がつくと玲一は回れ右をして本当に店から出てしまっていた。
胸の中を占めるのは、驚くほどの寂しさだ。手までが冷たくなるほど、冷え冷えとした風が心中で吹いている。
浅葱がいなくなったのではない。彼はまだこの店で働いている。別の曜日に移っただけだ。それもつい最近。
自分が避けられたのではないはずなのに、そんな気がしてしまうのは自意識が過剰すぎるだろうか。なんとなく、彼はいつでもここで待っていてくれると当然のように思っていた。
ぽっかりと開いた時間をどう過ごそうかと思案する。このまま真っ直ぐ帰宅しても良いのだが、気分転換をした方がきっといいだろう。その程度には落ち込んでいる。
映画館でも行ってみようか。ふとそんな事を思いついた。特に見たい映画があるわけではなかったけども、実際に行ってから一番近い上映時間のものを選んでチケットを買えばいい。いっそ普段見ないジャンルだったら尚更いい。
ここからなら、9つのシアターがある大型シネコンが歩いて行ける距離にある。それだけ選択肢があれば、時間が合うものが何かしらあるだろう。
途中で近道のために玲一は公園を通り抜けようとした。日が落ちたばかりの冬の公園は寒々しく、ベンチに座っている人影もひとつしかない。
そのまま足早にそこを通り過ぎようとして、玲一は巡らせた視線を慌てて戻した。
あまりのことに自分の視力を疑って、眼鏡を度入りのものにした方が良いのかと考え直すところだった。
たったひとり、公園のベンチで長い足を組んで座っているのは浅葱だ。彼の横にはバーガーショップのロゴが入った紙袋があって、口を大きく開けてハンバーガーにかじりついているところだった。
「えっ……浅葱、くん?」
「あ」
思わず呼びかけると、浅葱が玲一に気付いてこちらを向いた。
彼に会ったらどんな顔をしていいのかと悩んでいたはずなのだが、驚きが上回ったせいで自分から声を掛けてしまった。
お互いに見つめ合ったままで、微妙な沈黙がしばし落ちた。
「猫が逃げた……」
「猫?」
沈黙を破ったのは浅葱の呟いた一言だ。意外な言葉に思わず側に寄って彼の視線を追うと、植え込みの中からこちらを伺う猫に気付く。いつでも逃げられるような態勢を取っている猫は痩せていて、白に茶色のぶちが入った毛並みは薄汚れていた。
「ほら、こっちに来い」
浅葱が足元に置いたタッパーを振ってガサガサと音をさせると、猫は耳をピクリと動かしてしきりにこちらを気にしている。人間に近づきたくはないが、餌は気になる。そういうことなのだろう。
「餌やりしてるのかい? 怒られたりしない?」
「こいつは昨日見つけたばかりだ。それに、俺の目の前でしか餌はやらないことにしてる。目の前で食べさせて、食べ終わったらタッパーは持って帰る。保護できるなら保護もするから餌やりだけ無責任にやってるって文句は言わせない。でもこいつは俺に近寄らないから今すぐは保護できないな」
「待って。もしかしていつも猫の餌持ち歩いてるの?」
「そうだが?」
ハンバーガーの残りを口に押し込んで、浅葱は傍らに立ったままの玲一を見上げた。少しぞんざいな口調は彼の素なのだろう。極めて自然に会話してしまったことも驚きだが、他にもいろいろと驚いたことがあって玲一は軽く飽和状態になった。
そんな中で意識の一番上にぽかりと浮かんできたのは、浅葱が口の横にケチャップを付けていることだ。
コートのポケットからハンカチを出して、玲一は彼の口元を拭う。浅葱は何をされているかわからないといった風にきょとんとしていた。
「ケチャップ付いてたよ」
カッと浅葱が顔を赤らめた。慌てて玲一にハンカチを押し返してくる。
「手を出す前に先に言ってくれれば紙ナプキンで拭いたのに……どうするんだ、ケチャップは洗っても落ちにくいぞ」
「あっ、ごめん。そうだね、一緒に紙ナプキン入ってくるよね。忘れてたよ」
「ハンカチ、買って返す」
「このくらいいいよ、気にしないで。それより君の口元が汚れてる方が気になっちゃったんだ」
「……あんた、いつもその調子なのか」
「何がだい?」
浅葱の質問の意味がわからずに玲一は首を傾げる。下がり気味の眉を寄せて浅葱はため息を吐いた。
重めの木のドアを押して店内に入ると、いらっしゃいませと女性の声が掛けられる。
いつも浅葱が立っていて玲一を出迎えたフロントの中には、見知らぬ女性スタッフがいた。
てっきり浅葱に会うと思っていたから、拍子抜けする。財布の中から会員証を出しながら、玲一は女性スタッフに思わず尋ねていた。
「あの、いつもフロントにいた浅葱くんは?」
「浅葱ですか? 申し訳ありませんが、浅葱は他の曜日に移ってしまって」
完璧な営業スマイルで女性は答えた。なんでもない言葉のはずなのに、玲一は目の前が一瞬真っ白になるようなショックを受けていた。
「そうなんですか……いつ頃?」
問いかける自分の声はどこか震えていないだろうか。不安に思いながら玲一は声を絞り出す。
「今月からです」
「そっか、ああ、すみません、今日はいいです」
彼と添い寝ができなくても、ここの布団が恋しいのだと思ったのに。
井上に頬をつねられるくらいのため息を吐くほど、ここの布団で寝たいと思ったはずなの
に。
彼に合わせる顔がないと思い、会っても最低限のことだけやりとりすればいいと決めてきたのに。
彼がここにいないという事実は、恐ろしく玲一を打ちのめした。
返された会員証を受け取って、気がつくと玲一は回れ右をして本当に店から出てしまっていた。
胸の中を占めるのは、驚くほどの寂しさだ。手までが冷たくなるほど、冷え冷えとした風が心中で吹いている。
浅葱がいなくなったのではない。彼はまだこの店で働いている。別の曜日に移っただけだ。それもつい最近。
自分が避けられたのではないはずなのに、そんな気がしてしまうのは自意識が過剰すぎるだろうか。なんとなく、彼はいつでもここで待っていてくれると当然のように思っていた。
ぽっかりと開いた時間をどう過ごそうかと思案する。このまま真っ直ぐ帰宅しても良いのだが、気分転換をした方がきっといいだろう。その程度には落ち込んでいる。
映画館でも行ってみようか。ふとそんな事を思いついた。特に見たい映画があるわけではなかったけども、実際に行ってから一番近い上映時間のものを選んでチケットを買えばいい。いっそ普段見ないジャンルだったら尚更いい。
ここからなら、9つのシアターがある大型シネコンが歩いて行ける距離にある。それだけ選択肢があれば、時間が合うものが何かしらあるだろう。
途中で近道のために玲一は公園を通り抜けようとした。日が落ちたばかりの冬の公園は寒々しく、ベンチに座っている人影もひとつしかない。
そのまま足早にそこを通り過ぎようとして、玲一は巡らせた視線を慌てて戻した。
あまりのことに自分の視力を疑って、眼鏡を度入りのものにした方が良いのかと考え直すところだった。
たったひとり、公園のベンチで長い足を組んで座っているのは浅葱だ。彼の横にはバーガーショップのロゴが入った紙袋があって、口を大きく開けてハンバーガーにかじりついているところだった。
「えっ……浅葱、くん?」
「あ」
思わず呼びかけると、浅葱が玲一に気付いてこちらを向いた。
彼に会ったらどんな顔をしていいのかと悩んでいたはずなのだが、驚きが上回ったせいで自分から声を掛けてしまった。
お互いに見つめ合ったままで、微妙な沈黙がしばし落ちた。
「猫が逃げた……」
「猫?」
沈黙を破ったのは浅葱の呟いた一言だ。意外な言葉に思わず側に寄って彼の視線を追うと、植え込みの中からこちらを伺う猫に気付く。いつでも逃げられるような態勢を取っている猫は痩せていて、白に茶色のぶちが入った毛並みは薄汚れていた。
「ほら、こっちに来い」
浅葱が足元に置いたタッパーを振ってガサガサと音をさせると、猫は耳をピクリと動かしてしきりにこちらを気にしている。人間に近づきたくはないが、餌は気になる。そういうことなのだろう。
「餌やりしてるのかい? 怒られたりしない?」
「こいつは昨日見つけたばかりだ。それに、俺の目の前でしか餌はやらないことにしてる。目の前で食べさせて、食べ終わったらタッパーは持って帰る。保護できるなら保護もするから餌やりだけ無責任にやってるって文句は言わせない。でもこいつは俺に近寄らないから今すぐは保護できないな」
「待って。もしかしていつも猫の餌持ち歩いてるの?」
「そうだが?」
ハンバーガーの残りを口に押し込んで、浅葱は傍らに立ったままの玲一を見上げた。少しぞんざいな口調は彼の素なのだろう。極めて自然に会話してしまったことも驚きだが、他にもいろいろと驚いたことがあって玲一は軽く飽和状態になった。
そんな中で意識の一番上にぽかりと浮かんできたのは、浅葱が口の横にケチャップを付けていることだ。
コートのポケットからハンカチを出して、玲一は彼の口元を拭う。浅葱は何をされているかわからないといった風にきょとんとしていた。
「ケチャップ付いてたよ」
カッと浅葱が顔を赤らめた。慌てて玲一にハンカチを押し返してくる。
「手を出す前に先に言ってくれれば紙ナプキンで拭いたのに……どうするんだ、ケチャップは洗っても落ちにくいぞ」
「あっ、ごめん。そうだね、一緒に紙ナプキン入ってくるよね。忘れてたよ」
「ハンカチ、買って返す」
「このくらいいいよ、気にしないで。それより君の口元が汚れてる方が気になっちゃったんだ」
「……あんた、いつもその調子なのか」
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