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玲一編
店の影響
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会社のデスクでの昼食後に玲一が野菜ジュースを飲みながら読んでいた本を覗き込み、井上は頬を引きつらせた。
「似合わない」
「僕もそう思う。でも読んでみたら興味深いんだよ、これが」
玲一がデスクで広げていたのはアロマテラピーの入門書である。図解と写真がふんだんに盛り込まれた本は、頭の断面図もあるが花の写真も多い。イメージからして「素敵な香りでリラックス!」というようなスイーツで軽い内容かと思っていたら、解剖学まで絡んでいて予想外に理論的だった。
深く考えずに効きますかと尋ねた玲一に、浅葱が細かい説明をせずに判断を委ねてきたのもこれを読んだ後なら納得できる。
お昼寝屋に行った当日は、布団の冷たさに閉口して布団乾燥機を買い込んだ。それを受け取る事ができたのは週末だったが、その頃には毎晩使うようになったアロマが気になってネットで少しずつアロマテラピーのことを調べていた。しかし残念なことに、浅葱から聞いたお昼寝屋特製ブレンドに使われている精油の名前が思い出せないのだ。
日曜日には書店に足を運んで、全くの初心者でもわかりそうな内容の本を選んで買ってきた。
書店で本を買うのなど何年振りだったろうか。必要な本があればネットショッピングで済ませていたが、雑誌以外の紙媒体の本を買うこと自体が本当に久しぶりだった。
お昼寝屋を訪れた日を境に、玲一の生活は少しずつ変わり始めていた。
忙しさと疲労を理由にしていつの間にか運動や外出を避けていたが、週末は思い切って運動をしまくってみたら、思ったより眠ることができたのだ。劇的な改善ではないが、メリハリは付いた。
おかげで、月曜の今日には若干の精神的余裕ができている。自分の過負荷な現状も把握できずに何をしたらいいのかわからなかった五里霧中の状態ではなく、いつの間にか自分が抱え込みすぎていた仕事の工程を整理して部下に振り直すことから仕事に手を入れ始めた。回り道にはなるが長期的なスパンで見れば必ずそれは生きてくる。
「交感神経と副交感神経ってそういえば学生時代習ったよね。オンにしっぱなしじゃ駄目だって、はっとしたよ。オンとオフの適切な切り替えが仕事をするにも大事だし」
「アロマテラピーから仕事論を引き出したのか、お前は」
まだ玲一のパフォーマンスの全てが仕事に向けられていると思ったのか、井上はぴくりと眉を上げた。それを笑ってみせることで玲一は否定する。
「僕にとってそれが一番頭を占めてたからじゃないのかな。井上くんが読んだら、違うところが気になるんだよ、きっと。ほらここ、クラリセージに含まれる成分には女性ホルモンのエストロゲンと化学構造がよく似たものが含まれていて、代替することができるとか」
「女性ホルモンで俺に何をさせるつもりだ!?」
「……脱毛防止?」
「詳しく」
隣席の社員は今日は外食しているので席が空いていた。井上はその椅子に腰掛けて玲一が向けてきた本を眺める。以前井上が中央で分けている髪型を直しながら「父が禿げるタイプだ」と嘆いていたことを、玲一は本を読みながら思いだしていたのだ。
「しかし、どうして突然アロマテラピーなんだ。不眠対策か?」
目を向けたはいいが、あまり興味をそそられなかったのだろう。井上はデスクに肘をついて玲一に向き直った。
「そうなんだよ。眠るのにいいって勧められたんだけど、効くのかどうなのかよくわからなくて調べたくなったんだ。この前の水曜日に枕を買いに入った店でなんだけどね。そこで使ってた布団が快適すぎて家のベッドが冷たいのに気付いちゃってさ。土日は布団乾燥機を使ったり、この本を買いに出掛けたりしてた。仕事で疲れてるって思っててしばらく走ったりしてなかったけど、久しぶりにジョギングもしたら神経の疲れと体力的な疲れってやっぱり少し違うなあってしみじみ思ったよ」
「俺が越後湯沢に行っている間にそんなことが。運動したいならまたスノボに行くか?」
「や、それは遠慮するよ。井上くんも毎週毎週車中泊をよくやるよねえ」
玲一は慌てて手を振って危険な誘いを退けた。誘惑的ではなく、井上と一緒にスノーボードをすることは一種の恐怖と言っていい。
井上が仕事と同じくらい好きだと言ってはばからない趣味はスノーボードだ。冬のスノボのためにオフシーズンは筋トレをしたり、せっせと貯金をしたりしているのは社内では有名な話になっている。金曜日に仕事が終わってから車を飛ばして車中泊をし、土曜日は朝からスノボ三昧。夜は温泉に入ってからまた車中泊をして、日曜も半日滑って温泉にもう一度行ってから帰ってくる。
これを毎週やって尚且つ仕事に響かせないのだから、自己管理という点においては井上は完璧だと言えた。会社の人間からも遠巻きながら温かい目で見守られているのは、彼が大前提として「仕事が好き」である点に尽きる。
来年には1LDKのリゾートマンションを買うつもりだという。社内で密かに付いているあだ名は「冬男」だった。
玲一も一度同行したことがあるが、とてもついていけない上に見ているだけでひやひやするので、二度と一緒に行くまいと心に誓っている。井上の技量は確かに素晴らしいものだけれども、残念なことにスピード重視の暴走スノーボーダーなのだ。それ以来一度もゲレンデには行っていない。学生時代にはそこそこ行っていたゲレンデに足を運ばなくなってから、5年ほど経っている。
近場で済むような趣味の方がいいと思っていたが、井上くらい派手にオンとオフの切り替えをした方が気分転換にはなるのかもしれない。
しかし、目下の所玲一が一番楽しみにしているのは、また水曜日にお昼寝屋に足を運ぶ事だった。今度は三時間コースに間に合うように、会社から直行しようと決めている。
「似合わない」
「僕もそう思う。でも読んでみたら興味深いんだよ、これが」
玲一がデスクで広げていたのはアロマテラピーの入門書である。図解と写真がふんだんに盛り込まれた本は、頭の断面図もあるが花の写真も多い。イメージからして「素敵な香りでリラックス!」というようなスイーツで軽い内容かと思っていたら、解剖学まで絡んでいて予想外に理論的だった。
深く考えずに効きますかと尋ねた玲一に、浅葱が細かい説明をせずに判断を委ねてきたのもこれを読んだ後なら納得できる。
お昼寝屋に行った当日は、布団の冷たさに閉口して布団乾燥機を買い込んだ。それを受け取る事ができたのは週末だったが、その頃には毎晩使うようになったアロマが気になってネットで少しずつアロマテラピーのことを調べていた。しかし残念なことに、浅葱から聞いたお昼寝屋特製ブレンドに使われている精油の名前が思い出せないのだ。
日曜日には書店に足を運んで、全くの初心者でもわかりそうな内容の本を選んで買ってきた。
書店で本を買うのなど何年振りだったろうか。必要な本があればネットショッピングで済ませていたが、雑誌以外の紙媒体の本を買うこと自体が本当に久しぶりだった。
お昼寝屋を訪れた日を境に、玲一の生活は少しずつ変わり始めていた。
忙しさと疲労を理由にしていつの間にか運動や外出を避けていたが、週末は思い切って運動をしまくってみたら、思ったより眠ることができたのだ。劇的な改善ではないが、メリハリは付いた。
おかげで、月曜の今日には若干の精神的余裕ができている。自分の過負荷な現状も把握できずに何をしたらいいのかわからなかった五里霧中の状態ではなく、いつの間にか自分が抱え込みすぎていた仕事の工程を整理して部下に振り直すことから仕事に手を入れ始めた。回り道にはなるが長期的なスパンで見れば必ずそれは生きてくる。
「交感神経と副交感神経ってそういえば学生時代習ったよね。オンにしっぱなしじゃ駄目だって、はっとしたよ。オンとオフの適切な切り替えが仕事をするにも大事だし」
「アロマテラピーから仕事論を引き出したのか、お前は」
まだ玲一のパフォーマンスの全てが仕事に向けられていると思ったのか、井上はぴくりと眉を上げた。それを笑ってみせることで玲一は否定する。
「僕にとってそれが一番頭を占めてたからじゃないのかな。井上くんが読んだら、違うところが気になるんだよ、きっと。ほらここ、クラリセージに含まれる成分には女性ホルモンのエストロゲンと化学構造がよく似たものが含まれていて、代替することができるとか」
「女性ホルモンで俺に何をさせるつもりだ!?」
「……脱毛防止?」
「詳しく」
隣席の社員は今日は外食しているので席が空いていた。井上はその椅子に腰掛けて玲一が向けてきた本を眺める。以前井上が中央で分けている髪型を直しながら「父が禿げるタイプだ」と嘆いていたことを、玲一は本を読みながら思いだしていたのだ。
「しかし、どうして突然アロマテラピーなんだ。不眠対策か?」
目を向けたはいいが、あまり興味をそそられなかったのだろう。井上はデスクに肘をついて玲一に向き直った。
「そうなんだよ。眠るのにいいって勧められたんだけど、効くのかどうなのかよくわからなくて調べたくなったんだ。この前の水曜日に枕を買いに入った店でなんだけどね。そこで使ってた布団が快適すぎて家のベッドが冷たいのに気付いちゃってさ。土日は布団乾燥機を使ったり、この本を買いに出掛けたりしてた。仕事で疲れてるって思っててしばらく走ったりしてなかったけど、久しぶりにジョギングもしたら神経の疲れと体力的な疲れってやっぱり少し違うなあってしみじみ思ったよ」
「俺が越後湯沢に行っている間にそんなことが。運動したいならまたスノボに行くか?」
「や、それは遠慮するよ。井上くんも毎週毎週車中泊をよくやるよねえ」
玲一は慌てて手を振って危険な誘いを退けた。誘惑的ではなく、井上と一緒にスノーボードをすることは一種の恐怖と言っていい。
井上が仕事と同じくらい好きだと言ってはばからない趣味はスノーボードだ。冬のスノボのためにオフシーズンは筋トレをしたり、せっせと貯金をしたりしているのは社内では有名な話になっている。金曜日に仕事が終わってから車を飛ばして車中泊をし、土曜日は朝からスノボ三昧。夜は温泉に入ってからまた車中泊をして、日曜も半日滑って温泉にもう一度行ってから帰ってくる。
これを毎週やって尚且つ仕事に響かせないのだから、自己管理という点においては井上は完璧だと言えた。会社の人間からも遠巻きながら温かい目で見守られているのは、彼が大前提として「仕事が好き」である点に尽きる。
来年には1LDKのリゾートマンションを買うつもりだという。社内で密かに付いているあだ名は「冬男」だった。
玲一も一度同行したことがあるが、とてもついていけない上に見ているだけでひやひやするので、二度と一緒に行くまいと心に誓っている。井上の技量は確かに素晴らしいものだけれども、残念なことにスピード重視の暴走スノーボーダーなのだ。それ以来一度もゲレンデには行っていない。学生時代にはそこそこ行っていたゲレンデに足を運ばなくなってから、5年ほど経っている。
近場で済むような趣味の方がいいと思っていたが、井上くらい派手にオンとオフの切り替えをした方が気分転換にはなるのかもしれない。
しかし、目下の所玲一が一番楽しみにしているのは、また水曜日にお昼寝屋に足を運ぶ事だった。今度は三時間コースに間に合うように、会社から直行しようと決めている。
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