添い寝屋浅葱

加藤伊織

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玲一編

眠れない男

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 その頃の赤羽根玲一は、後から思い返してみると病気になる一歩手前だったと自分でも思える有様だった。

 主任に昇進して仕事の幅が増えて、部下もできた。給料は増えたけどもそれはまさしく労働力――つまりは時間と体力と気力を売って得たもので、給料日の後に残高を確認しても何の感慨も持てなかった。
 目を閉じても、頭に浮かぶのは仕事のことばかり。睡眠不足なのはわかりきっているのにベッドに入ってもなかなか寝付けない。目を瞑ると何か大きな物が覆い被さってきそうなわけのわからない恐怖に襲われることもあった。

 なんとか目を瞑って襲いかかってくる正体不明の敵を追い払って、夢なのかただの思考なのかわからないとりとめのない揺らぎの中を泳ぎ、時間を掛けてようやく眠る。そして、寝付いたと思った瞬間にスマホのアラームがけたたましい音を立てるのだ。
 このアラームを解除するのに、一日の気力の半分を消費する。大袈裟ではなく、これが一番辛い瞬間なのだ。

 まだ疲れている、寝るべきだ、そう主張する体に活を入れてなんとか起き上がり、電気ケトルで湯を沸かす。
 多めの湯を沸かしている間に着替えて、野菜たっぷりが売り文句のインスタント味噌汁と雑穀米だけの食事を胃に入れる。余った湯でドリップパックで簡単にコーヒーを淹れて、苦みしかろくに感じない黒い液体を胃に流し込むのも日課だ。うまいとはいえない代物だが、これでようやく完全に目が覚めるのだ。そして洗い物をして、身支度を調える。
 これが毎朝の赤羽根玲一のルーティンとなっていた。

 決められた事を決められた順番に。そうすれば最後には靴を履いて玄関を出ている。不思議なもので、玄関から出てしまうと「面倒だから会社に行くのやめよう」なんて思わなくなるのだ。玄関の鍵を開けてもう一度家の中に入る方が余程面倒に思えてくる。
 目の前にあることを順番に片付けていくだけで、何もかもが終わる。仕事も、一日という長さの時間も。
 知らぬ間に、気力も体力も削り取られて、目の前にあることで手一杯な人生を玲一は送っていた。
 今までの人生で女性からもてはやされなかったことはない、上背があって均整の取れたスタイルに彫りが深くて甘い容貌はドイツ人の祖父譲りだが、最近はその背中が無意識のうちに丸まっている。もちろん、本人がそれに気づくことはなかった。


「おい、赤羽根」
 ゴツリと後頭部に固い感触。声の主は同期でやはり同時期に昇進した井上だ。多分頭にぶつけられたのは缶コーヒーだとその軽い痛みでわかる。

「……わざと? 角をぶつけたのわざとかい? 痛かったんだけど」
 
 恨みがましい目で抗議すると、いかにも「できる仕事人間」というきつめな印象を抱かせる井上は椅子に掛けた玲一に向かって見下す視線を投げてくる。

「わざとに決まってる。死んだ魚みたいな目で何を言ってるんだ。ちゃんと寝てるのか、お前」
「君より残業してないと思うよ」

 正論を言ったつもりなのに、振り返って見ると井上は困惑というタイトルの絵画のような、微妙この上ない表情を顔に貼り付けていた。玲一の頭に向けてかざしていたのは、缶コーヒーではなくてホットレモネードだ。彼にしては珍しいセレクトに驚いて、玲一は微かにだが笑みを浮かべる。

「……どうしたんだい?」

 へらへらとしていると、井上の眉間の皺が深くなっていく。ああ、彼は不機嫌なのだとわかるけれども、それなりに親しい同期のはずなのに不機嫌の理由は玲一にはわからない。

「俺より残業が多くなってるぞ。気付かなかったのか」
「えっ!?」
「それに、俺は体を壊すような仕事の仕方はしてないつもりだ。誰かさんと違ってな。お前、寝てないだろう。ぼーっとしてる時間が多いぞ」
「君にそんなに見られていたことにびっくりだ……」
「あからさまに様子がおかしければ気にもなるさ。今日は仕事を持ち帰らないでまともに寝たらどうだ」

 差し出されたホットレモネードは、普段わかりやすい気遣いなどはしてこない友人にとっては精一杯の心配の表れなのだろう。コーヒーなんか飲んでいる場合じゃない、休めと彼に言われている気がした。
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