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133 騙された人

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 翌朝、カモミールは前日に引き続き最悪の気分で目を覚ました。
 それなりの距離を移動して土埃なども付いていたのに風呂にも入らなかったし、目は泣きはらしたせいで腫れている。
 寝付く前まではもっと気持ちは辛かったが、いくらか昨日よりは頭が働くようになっているのだけが救いだ。

 それでも、ふとした拍子に叫び出しそうになる。昨日のヴァージルの告白は耳に焼き付いていて、生々しく蘇るのだ。

 三つ編みにしたまま寝てしまったので、髪を一度ほどいてブラシで梳き、また編み直す。服は着替えてから顔を洗いに降りて行く。寝ていたいが、昨晩食事をできなかったせいで胃が痛くなるほどの空腹だった。
 こんなときでもお腹は減るのね、と自嘲気味に思う。

「おはようございます」

 いつものような元気は出なくとも、エノラに極力いつも通りの挨拶をした。それに対してエノラは挨拶を返しつつも心配そうな目をカモミールに向けてくる。

「おはよう、ミリーちゃん。あら大変、目が腫れてるわ。お水で目をよく洗った方が良いわよ」
「工房に精製水があるので、それで洗います」
「そうね、それが一番いいわ。それと、ヴァージルちゃんが昨日帰ってきてないみたいなの。特に伝言もなかったけど、ミリーちゃん何か知らないかしら?」
「ヴァージルは……」

 この家に住み始めてから、王都に行ったとき以外はヴァージルは必ず家に帰ってきた。朝帰りなどもしたことがなくて、エノラもカモミールも彼のそういった面しか知らない。
 ある意味当然のエノラの問いかけに、カモミールは言葉を詰まらせた。

 エノラになんと説明したらいいのだろう。どこから説明したらいいのだろう。ヴァージルの経歴を考えれば、「エノラの息子がヴァージルの父の友達」という繋がりは嘘のはずだ。

「ヴァージルは」

 さよなら、と別れを告げた彼の声が耳元で蘇る。途端にまた涙があふれ出して、カモミールは必死に声を殺してしゃがみ込んだ。

「ミリーちゃん!? ヴァージルちゃんに何かあったの? 大怪我とか……まさか」
「ちが……ちがいます……ヴァージルは、私たちに嘘をついていたんです。魔法使いで、嘘を刷り込んだり記憶を消したりしてて、私はそれに気づいちゃって……私の前から消えてって。彼はゼルストラに戻るって」
「ゼルストラに……そう、あの子はそっちの人だったの」

 エノラの声は驚いてはいたが、カモミールのようには取り乱していなかった。カモミールよりも少し背の高い老婦人は、うずくまるカモミールの横に膝をつき、彼女の背をさすってくれた。

「ミリーちゃん、あのね。ヴァージルちゃんは私を騙してはいないの。逆なのよ。あの子を騙したのは私なの」

 エノラの言葉の意味がわからず、カモミールはただ驚いて、妙に落ち着いているエノラを見上げた。まさか、エノラまでがゼルストラの間諜ではないかと疑いかけたとき、エノラは寂しそうな顔で驚くべき事を話し始めた。

「ヴァージルちゃんに初めて会ったのは、ミリーちゃんがお隣に越してきた日よ。
 あの子が私に魔法を使ってきたのは気づいていたけど、私は魔法が効かない体質なの。だけど、あの子の必死な目が可哀想で……。ひとりで暮らしていたのだし、この子が間借りしてくれたら賑やかになるわなんて思ってね、魔法にかかった振りをしていたのよ。
 それに……今だから言うわ、私には息子も娘もいないの。いえ、いたけれども、息子は幼いうちに、娘はお嫁に行って孫を産んだときに孫と一緒に死んでしまったのよ。死んだ子の歳を数えると言うけれど、ヴァージルちゃんを見たときに孫が生きていたらちょうどこのくらいなのだわと思って、お芝居に乗ることにしたの。
 ヴァージルちゃんは『自分の父がエノラおばさんの息子と友達で、幼い頃に何度か遊びに来たことがある』なんて言ったでしょう? あれはね、私があの子に吹き込んだ嘘。『小さい頃によく遊びに来ていたわよね』って騙された振りをして言ったら、あの子ったら急にほっとした顔をしたのよ」

 カモミールは驚きすぎて声が出なかった。自分と同じく騙されていたのだと思っていたエノラは、魔法が効かなかったことを利用してヴァージルを騙していたのだ。

「どうして、そんなヴァージルと一緒に過ごすことができたんですか……? 私だったら、一緒にいられない」
「魔法を使ってきたのはあの一度きりだったしね。ミリーちゃんと一緒にいるヴァージルちゃんを見ていたら、『ああ、この子はあんな魔法を使ってでもミリーちゃんの側にいたいんだわ』って気持ちがひしひしと伝わってきて、余計何も言えなくなってしまったの」

 エノラには魔法が掛かっていないことがわかって、その部分だけはカモミールも安心することができた。酷い頭痛に襲われたり、無理矢理封じられた過去の記憶が蘇りかけて倒れたり、そんなのは端から見ていても耐えられない。

「エノラさんはもしかして耐魔体質なんですか?」
「いえ、ちょっと特殊な魔力持ちみたいなの。何ができるわけでもないんだけど、魔力はかなり強いらしいわ。ただ、それが体の中から引き出せなくて、外から働きかけてくるヴァージルちゃんの魔力に競り勝ったということになるのかしら」

 小首を傾げながら答えるエノラは、カモミールには理解しがたい存在らしい。ヴァージルですら現代では珍しいと言われるレベルの魔法使いだったのに、エノラの魔力はその上を行くという。
 それに思い至ったとき、カモミールははっとした。ヴァージルは精霊眼のせいか一目でテオを人間ではないと見抜いていたが、ヴァージル以上に魔法使いとしての資質を持ったエノラもテオのことに気づいているかもしれない。

「もしかして、テオのことは……」

 恐る恐る訪ねたカモミールに、エノラは驚く様子もなく、優しく頷く。それを見て、やはりとカモミールは息をのんだ。

「精霊さんよね。ずっと隣の家に住んでたんだもの、何十年も前からそれくらい気づいてるわ。気配は感じていたんだけど、姿を見たのはあの時が初めてで。
 余りにも好みの美形だから本当に驚いちゃったわ。驚きすぎて、自分が知ってる精霊さんだとしばらく気づかなかったくらい」

 しかもテオが人間の姿を取るずっと以前からその存在に気づいていたとは。――歴代の持ち主の中にも精霊がいることに気づいていた人間は確かにいたし、マシューもその存在は知っていたのだが。
 好みの美形という言葉で、つい笑ってしまいそうになった。確かに初めて工房を訪れたエノラは、テオを見て随分とはしゃいでいたなあと思い出す。

 ヴァージルに関することをエノラと分かち合えたことで、カモミールは気持ちが楽になったことに気づいていた。しかも、彼女に関してはヴァージルの魔法は効いていない。それだけで、彼の罪が少しは軽くなったように思える。
 エノラはいくらか落ち着いたカモミールを椅子に座らせ、自分も隣の椅子に座った。冷たくなったカモミールの手を慈しむように握って、話を続ける。

「息子も娘も先に旅立ってしまって、夫も亡くして、私は天涯孤独の身だったわ。自由に楽しく暮らしてはいたけれど、やはり寂しさを感じることはあった。
 ヴァージルちゃんは最初の魔法だけで私と知り合いだと思い込ませたつもりだったみたいだけど、この家で一緒に暮らしている間、階段の上り下りの時に手を貸してくれたり、疲れたときには肩を揉んでくれたり、本当に優しく接してくれたの。それがあの子の偽りない本来の姿なのだと信じることができるまで、そう時間はかからなかったわ。
 私はあの子をまるで本物の孫のように思っているのよ。
 だから、ミリーちゃん、どうかヴァージルちゃんの建前と本当の部分を見定めてあげて」

 エノラの言葉は、乾いてひび割れたカモミールの心を癒やす雨のように染み込んでくる。
 ヴァージルは魔法を使って人々の記憶の中に、自分の存在を嘘の経歴で紛れ込ませていた。――それならば、2度目はそうそうないのだろう。何度も魔法を使うことになったカモミールが特殊なだけだ。

 昨日聞いた話を反芻すれば、エドマンド男爵家にも養子として入ったと言っていた。その場合は、「トニーという男の子を養子として迎えることにした」と男爵に思い込ませるだけで済むはずだ。
 けれど、去るときには「トニーという男の子がいたこと」を消さなければならなかった。それは家族や使用人だけで済むだろう。侯爵夫人も、「嫁ぐ前のことは知らないが、私が知る限りは男子はいない」と言っていたくらいなのだから。

 そう考えると、ヴァージルは魔法を使う相手が最小限になるようにしていたようにも思える。けれど、魔法が及ぼす体への悪影響までは知らなかったようだし……。

 ふと気づけばヴァージルを擁護する材料を探している自分に、カモミールは落胆した。自分で「私の前から消えて」と言ったのに、彼の咎が小さければ良いと思ってもいる。
 自分のやることがあまりに矛盾していて、全然論理的に行動できていないことを改めて思い知らされた。

「……もう、彼は帰ってきませんから」

 彼がカモミールを心配して隣に住んだのは、本心での行動だろう。ただ友達で居続けたいだけならば、もっと距離感があっても良かったのだ。
 ヴァージルはカモミールに恋をして、距離感を誤った。必要以上に近付きすぎ、世話を焼きすぎ――そして、カモミールも彼に恋をした。いつでも自分を一番に考えてくれる、優しい幼馴染みとして。

 建前は、ゼルストラでの密命のため。本音は、ただの恋する男として、カモミールの側にいたかったから。
 今はそれがわかる。だが、わかっても意味がない。わかってしまった分、余計に辛い。

 少しのことでも簡単に泣いてしまう自分に「私ってこんなだったかしら」と疑問を感じながらも、カモミールはまた流れ始めた涙を堪えることができなかった。
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