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111 頼れないもの 

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 侯爵の提案で、新しく作った香水は「勇気ある者」と名付けられた。
 カモミールからすれば少々恥ずかしいネーミングだが、貴族の男性が主な購買層となれば、意味合いも少し違ってくるだろう。

 香水はある程度まで工程を絞っていたので製作は早くに終わり、ちょうどその頃には石けんの方もトレースと呼ばれる混ぜた跡が出るくらいに固まってきた。
 まず計量したクレイを入れて混ぜてから3つに分け、松の精油だけを入れたもの、松とミントの精油を入れたもの、松の精油と砕いたメントール結晶を入れたものにして、型入れをする。

「1週間ほどすると型から出せるほど固くなっておりますので、型出しして切り分け、更に4週間熟成をいたします」
「ミントの香りは飛びやすいので、体を洗った際に清涼感が残るかどうかもテスト項目のひとつでございます」

 キャリーとマシューの説明に侯爵は感心しているが、やや残念そうでもある。

「すると、今年の夏にはこれは出回らないのだね」
「はい、使えるようになるのが7月の終わり頃になりますので、そこから作成をしてもこの夏には間に合わないかと」

 これはカモミールもうっかりしていたのだが、なにせ冷製法は時間が掛かる。クレイ入り石けんは一年中売ってもいいが、ミントが入っているものは夏以外出番がないだろう。
 しかし、お披露目会の前は既にできている製品を量産するのが精一杯で、新規の商品を作る余裕はなかったのも事実だ。

「来年の夏は本格的に暑くなる前に、完成品の石けんをお届けすることをお約束いたします」

 なので、その時を楽しみにして欲しいという気持ちでカモミールが微笑むと、侯爵も笑って頷いた。


 約3時間ほどの滞在を経て、侯爵は帰っていった。彼にとって今回の視察は満足のいくものだったらしい。

「侯爵様が喜んでくださってよかったわ」
「そうじゃな、こんなに石けん作りを熱心に見て頂いて、職人冥利に尽きるというものじゃ」

 長らく不遇だったマシューにとっては認められることが何より嬉しいのだろう。カモミールが見たことがないほど上機嫌だ。

「そうだ、マシュー先生は古傷とかないですか? ちょっと試して貰いたいものがあるんですが」
「藪から棒に古傷とは……あるにはあるが」

 マシューが袖を捲って左腕を出す。そこにはマリアの顔に残っているような火傷らしき傷痕があった。

「うわあ、ちょうどいい!」
「これ、その言い様はなんじゃ! これは若い頃に苛性ソーダを爆発させて作った傷じゃな」

 聞けば、ぼんやりしていて計量した苛性ソーダに水を注いでしまったのだという。この手順を間違えるだけで大怪我を負いかねないのが石けん作りで、マシューもそこを通ってしまったらしい。

「古傷を消せるかどうか試したい軟膏があるんです。塗ってもいいですか?」
「なるほど、テオに作らせたのか。まあいいが」

 カモミールは傷の大きさを測ってから、魔女の軟膏をマシューの傷に塗った。
 マシューは1週間後に来る予定なので、その時に傷がどのくらい薄くなっているのか確認したかったのだ。

「あれ、そういえば昨日買ってきたパンは」
「パンとベーコンは食った」

 今更ながら目立つはずの食料品が見えないことに気づきカモミールが尋ねると、テオが事もなく言う。確かに昨日はポーションの比ではない魔力消費をするものを作ったが、大きな丸パンが1日でなくなってしまうとは思わなかった。

「そんなにお腹が減るのね……」
「魔力を使うとな。これはしょうがないぜ」
「世の中の大食いの人って、もしかして魔力を使うようなことしてるのかしら……」
「ああー、父もポーションを作ると凄く食べますね。お腹が空くらしくて」

 魔力持ちで魔力を消費してポーションを作るというキャリーの父がそうならば、他の人もそうなのだろう。
 ふと思い浮かぶのは、見た目にそぐわない食べ方をする恋人のことだ。

「そういえば、ヴァージルもすっごい食べるときとそうでもないときがあるのよね。と言っても、大盛りか特盛りかの違いくらいだけど」

 何気なくカモミールが言った言葉で、何故かテオが目を逸らした。

「何、テオ。何か隠してる?」
「いや、なんでもねえ!」
「じゃあなんで目を逸らしたの?」
「あー! カモミールさん! 蜂蜜が半分ないですよ!」

 キャリーの叫びに振り返れば、確かに昨日買ってきた瓶の蜂蜜が半分に減っている。
 テオは確かに甘いものが好きだが、パンを1個にベーコンを全部食べた上にこれはさすがに予想外だった。

「食べていいって言ったけど、ちょっと加減を考えて!?」

 目を逸らした原因はこれかとカモミールがテオの長い髪を引っ張ると、テオは必死に頭を押さえた。

「わ、悪かった。これから気を付ける」

 カモミールが髪から手を放すと、テオはあからさまにほっとした顔で胸を撫で下ろしていた。

「お嬢さんや……フレーメが『毛生え薬以外は作れないものがなかった』と言われているのを知っとるじゃろ……髪は、引っ張らないであげなさい」
「あっ、そうでしたね」

 結局カモミールは、テオの焦りや隠し事を「蜂蜜と髪の毛のせい」と片付けてしまったのだった。


 午後の予定はどうなるかわからないと思っていたが、石けんの試作も終わり、香水のモチーフでもある侯爵が目の前にいたことでそちらも予定より早く片付いた。
 これならばヴァージルが誘ってくれた店に夕食に行くことができるだろう。
 けれどその前に、カモミールは魔女の軟膏を見せたい相手がいた。

 軟膏を持って訪れたのはガストンの元だ。エノラに試作品は渡したが、正直自分でもあれは苦し紛れにも程があると思っている。せっかく傷痕も消せるはずの薬があるのに、カモミールひとりでは有効かつ自然な利用法が思いつかないのだ。

 シンク家のドアをノックすると、すぐにガストンが顔を出した。今は運良く診察中ではなかったらしい。

「今患者さんはいないのよね、ちょっといい?」
「ああ、大丈夫だ。入りなさい」

 昨日胸中を吐露したことでカモミールに対するわだかまりが消えたのか、ガストンは一緒に住んでいた頃カモミールがよく知っていた彼に戻っていた。
 落ち着きがあり、常に冷静で理論的。感情を露わにするよりも理に従って行動する。それがガストンという人物だ。

「うちの工房に精霊がいるって話したでしょ? 彼に古傷も治せる薬について訊いたの。それで、昨日の午後材料を集めて作ったのがこれ。『魔女の軟膏』っていう凄い薬」
「魔女の軟膏……名前だけは見たことがあるが、到底今の錬金術師には作れないものではないのか?」

 ガストンは眼鏡の奥の灰色の瞳をカモミールに向けてくる。それは疑いではなくただの確認だ。カモミールはそれがわかるので頷いて見せた。

「そう、今の錬金術師にはとても作れない。効果も凄いけど魔力消費が多くて、魔法の衰えた現代でこれを作れるのは精霊であるテオだけのはず。
 だからこそ、取り扱いに気を付けないと駄目なの。見てて」

 カモミールは台所へ行き、包丁をよく洗ってから昨日と同じように指の腹を切った。痛みに顔をしかめたが、魔女の軟膏の効き目を知っているのでそれほど恐ろしくは思わなかった。

 顔をしかめたカモミールが指から血を垂らして戻ってきたのでガストンは驚いていたが、彼女が傷口に軟膏を塗り込むのを凝視し、すぐに血が止まったのを確認すると眼鏡を外して目頭を揉んだ。

「今、痛みはあるのか?」
「ないのよ。参っちゃうでしょ?」
「なんだこれは……昔の錬金術師はとんでもないものを作っていたんだな。いや、今の私たちはそれだけ魔力が衰えているということか」
「しかも、明日になるとどこに傷があったかわからないくらい、跡形もなく消えてるの」
「確かに、これならマリアさんの傷痕を治すこともできるかもしれない。……本来、小さな傷痕ならば傷痕自体を切除して縫合することで消去することも可能だが、あの広範囲ではそれもできない。
 だからこそ、化粧品で隠すことを考えたのだが」
「でもこれをそのまま使うことはできない。それはガストンも思うでしょう」

 カモミールよりも常識的な錬金医は、悩ましげに眉を寄せて頷く。
 一般常識で、出血が瞬時に止まる薬も傷痕を治せる薬も、現在は存在していないのだ。それができてしまっては、誰でもおかしいと思うだろう。

「今、これを10倍に薄めたクリームを古傷に塗って貰って、傷が薄くなるか試してるの。
 テオは――あ、うちにいる精霊ね。薄めたからって時間を掛けて傷を治せる薬になるわけじゃないって言うわ。それが道理よね。普通には治らない傷を治すための強い薬効が、傷を治すに至らないものになってしまう可能性の方が高いもの。
 でも、できれば時間を掛けて少しずつ傷が消えていくようにしたいの。私にはいい方法が思いつかなくて」
「その軟膏を分けて貰えるか? こっちでも実験をして検討しよう」
「そのために持ってきたのよ。容器を貸して」

 やはりガストンは話が早い。カモミールの意図することをすぐに汲んで、容器と消毒済みのへらを出してくれた。その容器にカモミールは軟膏の三分の一程を移す。

「しかし、この軟膏が使えるなら、今より容易く様々な治療ができるのだが――」
「でも、これは本来現在の技術で作れないものなの。だから、頼っちゃ駄目なのよ。魔力を大量に必要として、たったひとりにしか作れないものに依存したら、医学がその先どうなるかわかるでしょう?」

 それこそが、キャリーが「表に出せない」と言い、カモミールも通常の薬としてテオのポーションを使わない理由である。

「ああ、魔法に頼らないよう模索している全ての技術が停滞しかねない。そうか、だからこその『化粧品止まり』なのか」

 強力な効果を持つ薬を前にして、ガストンは酷く悔しそうだ。これを正しく薬として運用できればどんなにいいかと思っているのだろう。カモミールにもそれはわかる。

「ポーションはまだいいわよ、化粧水に入れても極端な効果が出るわけじゃないから。でも既存の化粧品とは性能が明らかに違うけどね。
 でもこれは駄目。――できれば、ある程度までマリアさんの傷を薄くして、簡単な化粧で本人が気にならなくなる程度に隠せるのがいいんだけど」
「いろいろ考えて貰ってすまない。こんな勝手な私の事情におまえまで巻き込んで」

 ガストンが妙に殊勝だ。やはりカモミールへの仕打ちが彼自身を苦しめていたのだろう。

「ガストンだけのためじゃないから、それはよく心得ておいて。
 私は化粧品を作ることを一生の仕事にしようとしている人間なの。その私が、マリアさんに出会った。――あんな傷痕を見れば心が痛むし、誰かを好きになっても『こんな私が』って自分を卑下し続ける姿を見ているのは辛いわ。
 それに、好きな人と気持ちが通じた今だからわかるけど、誰かを好きになって、相手も自分に好意を持ってると知ってるのに、自分の価値を下げすぎて諦めているのは悲しすぎる。マリアさんが自分でそこから抜け出せないなら、ガストンしかマリアさんの心を救える人はいないの。私が何かできてもそれは手助け程度でしかない。
 それでも、私は手を貸すわ。私は使った人が幸せになれる化粧品を作りたいと思ってるから。ヴィアローズは全ての女性の幸せを願ったものなの」
「妙に頑固なところだけ母に似たな……親子同然に5年も過ごせば仕方がないか」
「それはあんたも一緒よ? 今のをタマラが聞いてたら凄い勢いで『あんたもね』って言われるところだからね?」

 ガストンはふうとため息をつき、珍しく柔らかい笑顔をカモミールに向けた。

「つまりは、カモミールはカモミールの信念に従い、マリアさんを幸せにするために動くと言うことだな」
「そう。もしかしたら、この先同じような人に出会ったときに解決策として使うこともできるでしょう?」
「私のためにと言われるより、マリアさんのためと言われる方がカモミールらしいし気が楽だ。
 あの人の深い悲しみに囚われた心を解放するために、私に力を貸して欲しい」

 それは今までカモミールがガストンと数え切れないほど交わしてきた会話の中で、最も素直な言葉だった。
 恋というものは凄いものだとカモミールはしみじみ思う。この四角四面な男を柔らかくできるのだから。

「もちろんよ」

 けれど自分も恋をしていろいろと変わったのだ。ガストンとの関係も昔のままではない。
 きっと、以前よりも自分たちは上手く折り合っていける。
 そうカモミールは信じていた。
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