上 下
64 / 154

64 侯爵邸での特訓・5

しおりを挟む
 カモミールの身支度が済んですぐ、昼食に招かれた。侯爵は忙しいらしく、昼食の席を同じくするのは侯爵夫人とそのこどもたちだと聞いて一安心する。

「……妖精の君!」

 カモミールを見た途端、ジョナスが椅子から降りて一直線に向かってくる。目を輝かせてカモミールを見上げながら、彼は片膝を付いて礼を取った。

「またお会い出来て光栄です! 我が家の客人として滞在されること、このジョナス・アーサー・ジェンキンス望外の喜びにて!」

 どうすべきかと侯爵夫人に視線を送ると、「どうぞお好きになさい」とでも言うような笑顔で頷かれた。
 カモミールは美しい姿勢だったドロシーのお辞儀を見習い、手を重ねて深く頭を下げる。

「カモミール・タルボットにございます。ジョナス様におかれましてはお健やかにお過ごしのようで、わたくしも大変嬉しゅうございます」
「麗しき妖精の君、席までエスコートする栄光を賜っても?」
「え、ええ。喜んで」

 ジョナスが手を伸ばしてきたので、その小さな手に自分の手を重ねる。途端にパアアアと笑顔になったのが7歳らしい。――その7歳が花も恥じらうような扱いをカモミールにしている事実が凄いと思うのだが。

 距離にして10歩ほど。カモミールは侯爵令息のエスコートを受けて席まで案内された。既に侍女が椅子を引いて待っていたので、侯爵夫人とアナベルには会釈をして席に着く。
 一方ジョナスはスキップの一歩手前くらいの浮かれた足取りで自分の席へ戻っていった。

「マーガレット様、素敵なドレスをありがとうございます」
「カモミールをこの屋敷に招こうと思ったときから思いついて、実家から引き取っておいたのよ。私の両親が思い出にと取っておいてくれてちょうど良かったわ。
 ほら、私たちって身長は違うけれども体型としてはかなり近いでしょう? わざわざあつらえるよりも、私が以前着ていた服の方があなたも気が楽だろうと思って」

 確かに誂えられるよりは気が楽だけども、案外どっちもどっちです――そう言いたくなるのをぐっと笑顔で飲み込む。

「はい。お心遣いありがとうございます。ドロシーとサマンサが、私に似合うよう頑張ってくれました」

 マーガレットのお下がりだけあって、本来赤髪にはあまり似合わない明るい水色だ。この色は金髪の人が好んで着る事が多い。髪の毛を目立たなくすれば、工房に籠もっているせいで色白のカモミールにはよく似合った。

「思ったより良い調子ね。『このようなドレスをわざわざわたくしなどのために』なんて言わなくなったのは進歩だわ」
「すてきよ、ミリー。ねえおかあしゃま、あのドレス、私も大きくなったら着られる?」
「そうねえ、では侍女にお願いして傷まないよう大事に取っておきましょうね。ふふっ、親子二代で着られるドレスはきっと幸せね」

 侯爵夫人とアナベルの会話を聞いてカモミールも胸が温かくなった。流行の型でなくても、「素敵」と言ってもらえるドレスを作った職人は誇りに思うだろう。それに、「似たものを新しく作ってあげる」ではなく「侍女に頼んで傷まないよう大事に取っておきましょう」と言った侯爵夫人の言葉にも職人として心震える。

 侯爵家であれば新しいドレスを作るのが当たり前かもしれない。けれど、アナベルが「着たい」と言ったのは今カモミールが着ているこのドレスなのだ。別の物で代用してはアナベルの気持ちが無視されてしまうことを侯爵夫人はよくわかっている。

「それでは、私もお借りしている間大切に着させていただきます」

 アナベルに向かって微笑むと、小さな姫君は花が咲くように笑った。


 昼食はテーブルマナーを問われない、手で食べる形式の物が出てほっとした。昼食を食べる習慣ができてからの歴史は案外浅いというので、軽く済ませるのが貴族も庶民も定番なのだ。

「そうそう、晩餐は夫も同席をするわ。いきなりのことであなたが卒倒したら大変だから先に言っておくわね。テーブルマナーに関しては、行儀作法の先生にも事情を伝えておきました。――まあ、我が家には厳しく言う人は……イザベラが厳しいわね。でもそれは侯爵家内でのことで、客人に対して失礼にも叱るなんてことはしないから安心して」

 イザベラというのはマーガレット付の筆頭侍女で、マーガレットの幼少期から側仕えをしている最古参の侍女だとサマンサから聞いている。侯爵夫人も彼女にだけは頭が上がらないそうで、それは関係上仕方ないのだろう。

「ミリー、午後はグリエルマせんせいのレッスンよ。いっしょに行きましょう」

 アナベルが手を伸ばしてくるので、頷いてぷっくりした柔らかな手を握る。

「礼儀作法の先生はグリエルマ先生と仰るんですか?」
「ええ、そうよ。とっても、とーってもきびしくて、でも時々びっくりするくらい優しいの。ミリーもきっとさいしょはこわい思いをすると思うのだわ」
「姫様が一緒にいてくださるから、大丈夫ですよ、きっと」

 歩きながら言った言葉は、半分以上自分に言い聞かせたものだった。
 緊張するが、繋がれた温かいアナベルの手の感触に安心する。
 5歳のアナベルが一緒なのだから大丈夫――それほど高度なことは要求されないだろうし、とずっと自分に言い聞かせている。自分は20歳だ。アナベルができることができないようでは恥ずかしい。

 ある一室の前でアナベルは立ち止まった。精一杯の背伸びをして、内緒話のように小さな声で「ここでグリエルマせんせいがお待ちなの。ミリー、じゅんびはいい?」と聞いてくる。
 カモミールが無言で頷くと、アナベルは部屋をノックした。中からは厳めしい中年女性の声で「どうぞ」といらえがあった。

「ごきげんよう、グリエルマせんせい」
「ごきげんよう、アナベル様」

 先に入室したアナベルがカーテシーを取る。それに対してグリエルマの取ったカーテシーは全くぐらつきのない、滑らかで美しい所作だった。

「お初にお目にかかります。カモミール・タルボットと申します。本日からよろしくお願いいたします」

 先程ジョナスにしたように、カーテシーではなく一般的なお辞儀をする。グリエルマはカモミールの挨拶を受けて頷いた。

「私はグリエルマ・グレイス・ベイクウェル子爵夫人です。講義の間はグリエルマ先生と呼んでください。それ以外の時にはベイクウェル夫人でもなんでも結構よ。
 今日から3日間の短い間ですが、あなたに剣と鎧を授けるために尽くしましょう。――それにしても、根っからの平民という割には言葉遣いがとても綺麗ですね。緊張はしているようだけれど」

 黒髪をひっつめ、丈の長いドレスを身にまとったグリエルマは侯爵夫人よりも威厳に満ちていた。年齢は50代くらいだろうか。アナベルが厳しいと言ったのがその佇まいからも滲み出ている。

「わたくしは15歳まで農家で育ち、その後カールセンへとやってきて師に弟子入りしました。師であるロクサーヌ・シンクはわたくしたちが作る化粧品は貴族階級の方々が主な購買層になることを想定しておりましたので、将来的に顧客と直接のやりとりがあっても困らないようにと、言葉遣いだけは厳しく教えてくれたのです」
「なるほど。言葉遣い『だけは』ね。侯爵夫人からあなたの卑下癖と緊張癖については伺っています。
 あなたにはアナベル様と同じく礼儀作法のなんたるかと、特別にテーブルマナーなどを教えるように仰せつかっております。厳しいことも言うけれども、淑女の戦場と思って臨みなさい」
「淑女の戦場、ですか」

 想像していた「礼儀作法の授業」と全く違う。カモミールが思わず聞き返すと、グリエルマは笑顔も浮かべずに頷く。

「礼儀作法とは時に身を守る鎧となり、剣ともなるものです。
 私は剣を授ける者、それが侯爵令嬢であっても、平民であっても変わりはありません。必要とする者にはそれを授けます。
 アナベル様もカモミール嬢もお掛けなさい。アナベル様には少し難しい話かもしれませんが、礼儀作法の本質から話をいたしましょう」

「……失礼いたします」
「しつれいいたします」

 この部屋にあるのはソファではなくテーブルと椅子だった。侍女が踏み台を用意し、アナベルはそれを使って椅子に座る。
 カモミールも椅子に座ったところで「背筋を伸ばしなさい」と早速グリエルマの鋭い指摘が入った。

 慌てて背筋をピンと伸ばしながら、アナベルと一緒だから難しいことはないと思った自分は間違いだったのだとカモミールは気づき始めていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】天下無敵の公爵令嬢は、おせっかいが大好きです

ノデミチ
ファンタジー
ある女医が、天寿を全うした。 女神に頼まれ、知識のみ持って転生。公爵令嬢として生を受ける。父は王国元帥、母は元宮廷魔術師。 前世の知識と父譲りの剣技体力、母譲りの魔法魔力。権力もあって、好き勝手生きられるのに、おせっかいが大好き。幼馴染の二人を巻き込んで、突っ走る! そんな変わった公爵令嬢の物語。 アルファポリスOnly 2019/4/21 完結しました。 沢山のお気に入り、本当に感謝します。 7月より連載中に戻し、拾異伝スタートします。 2021年9月。 ファンタジー小説大賞投票御礼として外伝スタート。主要キャラから見たリスティア達を描いてます。 10月、再び完結に戻します。 御声援御愛読ありがとうございました。

【完結】捨てられた双子のセカンドライフ

mazecco
ファンタジー
【第14回ファンタジー小説大賞 奨励賞受賞作】 王家の血を引きながらも、不吉の象徴とされる双子に生まれてしまったアーサーとモニカ。 父王から疎まれ、幼くして森に捨てられた二人だったが、身体能力が高いアーサーと魔法に適性のあるモニカは、力を合わせて厳しい環境を生き延びる。 やがて成長した二人は森を出て街で生活することを決意。 これはしあわせな第二の人生を送りたいと夢見た双子の物語。 冒険あり商売あり。 さまざまなことに挑戦しながら双子が日常生活?を楽しみます。 (話の流れは基本まったりしてますが、内容がハードな時もあります)

【完結】魔力がないと見下されていた私は仮面で素顔を隠した伯爵と結婚することになりました〜さらに魔力石まで作り出せなんて、冗談じゃない〜

光城 朱純
ファンタジー
魔力が強いはずの見た目に生まれた王女リーゼロッテ。 それにも拘わらず、魔力の片鱗すらみえないリーゼロッテは家族中から疎まれ、ある日辺境伯との結婚を決められる。 自分のあざを隠す為に仮面をつけて生活する辺境伯は、龍を操ることができると噂の伯爵。 隣に魔獣の出る森を持ち、雪深い辺境地での冷たい辺境伯との新婚生活は、身も心も凍えそう。 それでも国の端でひっそり生きていくから、もう放っておいて下さい。 私のことは私で何とかします。 ですから、国のことは国王が何とかすればいいのです。 魔力が使えない私に、魔力石を作り出せだなんて、そんなの無茶です。 もし作り出すことができたとしても、やすやすと渡したりしませんよ? これまで虐げられた分、ちゃんと返して下さいね。 表紙はPhoto AC様よりお借りしております。

転生幼女具現化スキルでハードな異世界生活

高梨
ファンタジー
ストレス社会、労働社会、希薄な社会、それに揉まれ石化した心で唯一の親友を守って私は死んだ……のだけれども、死後に閻魔に下されたのは願ってもない異世界転生の判決だった。 黒髪ロングのアメジストの眼をもつ美少女転生して、 接客業後遺症の無表情と接客業の武器営業スマイルと、勝手に進んで行く周りにゲンナリしながら彼女は異世界でくらします。考えてるのに最終的にめんどくさくなって突拍子もないことをしでかして周りに振り回されると同じくらい周りを振り回します。  中性パッツン氷帝と黒の『ナンでも?』できる少女の恋愛ファンタジー。平穏は遙か彼方の代物……この物語をどうぞ見届けてくださいませ。  無表情中性おかっぱ王子?、純粋培養王女、オカマ、下働き大好き系国王、考え過ぎて首を落としたまま過ごす医者、女装メイド男の娘。 猫耳獣人なんでもござれ……。  ほの暗い恋愛ありファンタジーの始まります。 R15タグのように15に収まる範囲の描写がありますご注意ください。 そして『ほの暗いです』

至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます

下菊みこと
恋愛
至って普通の女子高生でありながら事故に巻き込まれ(というか自分から首を突っ込み)転生した天宮めぐ。転生した先はよく知った大好きな恋愛小説の世界。でも主人公ではなくほぼ登場しない脇役姫に転生してしまった。姉姫は優しくて朗らかで誰からも愛されて、両親である国王、王妃に愛され貴公子達からもモテモテ。一方自分は妾の子で陰鬱で誰からも愛されておらず王位継承権もあってないに等しいお姫様になる予定。こんな待遇満足できるか!羨ましさこそあれど恨みはない姉姫さまを守りつつ、目指せ隣国の王太子ルート!小説家になろう様でも「主人公気質なわけでもなく恋愛フラグもなければ死亡フラグに満ち溢れているわけでもない至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます」というタイトルで掲載しています。

失われた力を身に宿す元聖女は、それでも気楽に過ごしたい~いえ、Sランク冒険者とかは結構です!~

紅月シン
ファンタジー
 聖女として異世界に召喚された狭霧聖菜は、聖女としての勤めを果たし終え、満ち足りた中でその生涯を終えようとしていた。  いや嘘だ。  本当は不満でいっぱいだった。  食事と入浴と睡眠を除いた全ての時間で人を癒し続けなくちゃならないとかどんなブラックだと思っていた。  だがそんな不満を漏らすことなく死に至り、そのことを神が不憫にでも思ったのか、聖菜は辺境伯家の末娘セーナとして二度目の人生を送ることになった。  しかし次こそは気楽に生きたいと願ったはずなのに、ある日セーナは前世の記憶と共にその身には聖女としての癒しの力が流れていることを知ってしまう。  そしてその時点で、セーナの人生は決定付けられた。  二度とあんな目はご免だと、気楽に生きるため、家を出て冒険者になることを決意したのだ。  だが彼女は知らなかった。  三百年の時が過ぎた現代では、既に癒しの力というものは失われてしまっていたということを。  知らぬままに力をばら撒く少女は、その願いとは裏腹に、様々な騒動を引き起こし、解決していくことになるのであった。 ※完結しました。 ※小説家になろう様にも投稿しています

悪役令嬢に転生したので、ゲームを無視して自由に生きる。私にしか使えない植物を操る魔法で、食べ物の心配は無いのでスローライフを満喫します。

向原 行人
ファンタジー
死にかけた拍子に前世の記憶が蘇り……どハマりしていた恋愛ゲーム『ときめきメイト』の世界に居ると気付く。 それだけならまだしも、私の名前がルーシーって、思いっきり悪役令嬢じゃない! しかもルーシーは魔法学園卒業後に、誰とも結ばれる事なく、辺境に飛ばされて孤独な上に苦労する事が分かっている。 ……あ、だったら、辺境に飛ばされた後、苦労せずに生きていけるスキルを学園に居る内に習得しておけば良いじゃない。 魔法学園で起こる恋愛イベントを全て無視して、生きていく為のスキルを習得して……と思ったら、いきなりゲームに無かった魔法が使えるようになってしまった。 木から木へと瞬間移動出来るようになったので、学園に通いながら、辺境に飛ばされた後のスローライフの練習をしていたんだけど……自由なスローライフが楽し過ぎるっ! ※第○話:主人公視点  挿話○:タイトルに書かれたキャラの視点  となります。

実家から絶縁されたので好きに生きたいと思います

榎夜
ファンタジー
婚約者が妹に奪われた挙句、家から絶縁されました。 なので、これからは自分自身の為に生きてもいいですよね? 【ご報告】 書籍化のお話を頂きまして、31日で非公開とさせていただきますm(_ _)m 発売日等は現在調整中です。

処理中です...