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第四章 錆色の迷宮

60:告解2

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「私がこの町に来る前に住んでいたのは、紅君が育ったあの街……そして私たちは同じ小学校に通う同級生だった……」

 そういう爆弾発言から始まる昔話を、蒼ちゃんはひどく驚いたりはせず、穏やかに聞いてくれた。
 私が言葉に詰まった時は助け舟を出してくれるし、言いにくいことはさらりと先に口にしてくれる。
 あいかわらずの心配りがありがたかった。

「そっか……紅也と一緒に事故に遭った女の子って、千紗ちゃんだったんだ……どうりであの街でいくら探したって見つからないわけだ……」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい!」

 膝につきそうなほど深々と下げた頭を、ポンと軽く叩かれた。
 内心、蒼ちゃんがそういうふうに私に接してくれることはもうないだろうと思っていたので、ひどく驚いた。

(…………え?) 

「謝らなくっていい……本当は思い出すのだって苦しいでしょ? なのに僕に話してくれた……それが嬉しいよ。ありがとう……だから千紗ちゃんは余計なことは気にしなくっていい」
「蒼ちゃん!」 

 驚いて顔を上げると、やはりいつものように笑ってくれている。
 思わずその笑顔に手を伸ばして縋りつきかけ、私はそういう自分を慌てて諫めた。

(ダメだ……ダメ)

「でも……そっか……そうだったんだなあ……」

 蒼ちゃんは苦笑しながら、自分のボサボサの髪に手をつっこむ。
 ギュッと両目を瞑り、前髪をかき上げながらそのまま空を見上げた。

 これほど動揺した蒼ちゃんを見たのは、初めてだった。
 そう思ったから――気がついた。
 そういえば出会った時からほぼ、私は蒼ちゃんの笑顔以外の顔を見ていない。
 まるで生まれた時から笑顔だったかのように、いつも優しく笑っている人だから、不思議に思わなかったが、考えてみればおかしな話だ。 

(いくら蒼ちゃんだって、嫌なことや辛いこと、悲しいことだってあるはず……なのにいつも笑顔だなんて……)
 
 無理していたのだろうと思う。
 いや、無理をさせていたのはおそらく私だ。 


「ごめんなさい、蒼ちゃん……」
 声に出して言うと、蒼ちゃんが私へ視線を戻した。
 ぶ厚い眼鏡の向こうから私を見つめる優しい瞳。
 いつ見てもそれだけは紅君とそっくりだ。

 私がそういうことを考えてる間も、蒼ちゃんは苦しさを滲ませながら――やはり笑っている。

「謝らなくっていいって……千紗ちゃんには絶対に譲れないものがあるって、僕はちゃんとわかってたんだから……どう? たいしたものでしょ? ……でも、紅也に対しては態度が違ったから、ああ僕じゃダメなのかな、なのに紅也ならいいのかななんて、みっともなく落ちこんだりもしたけど……そっか……最初から紅也だったんなら納得だ……千紗ちゃんの譲れないものってあいつだったんだなあ……」

「蒼ちゃん……! 私……」

 私が蒼ちゃんに惹かれていた気持ちは嘘ではない。
 このまま彼の隣にいようと、一時は本気で思った。
 以前自分が紅君にしてもらったように、蒼ちゃんの力になりたいと願った想いは、確かに本物だった。

 ただ、やはりそれでも紅君が私にとって特別だった。
 そうしようなどと頭で考える間もなく、自然と体が動いてしまった。

 だから蒼ちゃんが自分を卑下する必要などない。
 できることなら『私は蒼ちゃんのことも大好きだ』と言ってしまいたい。
 しかしそれは絶対に口にしてはいけない言葉だ。

「紅也に本当のことを話さなくていいの?」

 とても悲しそうな瞳で、それなのに表情だけは無理に笑顔を作り、どうして蒼ちゃんは私のことばかり気にするのだろう。
 もう放っておいていいのに、知らんふりしていいのに、それでも気遣ってくれる。 

「うん……前に蒼ちゃんが言ってたのと、私も同じ気持ちだから……思い出しても辛いことが多いから、紅君には思い出してほしくない」 

 蒼ちゃんは詰めていた息を少し吐いた。

「ありがとう……ごめんね……あいつにとって千紗ちゃんは、きっと特別だったんだろうにね……そして千紗ちゃんにとっても……でしょ?」 

 いつの間にか固く組まれていた蒼ちゃんの両手が、小さく震えている。
 まるで祈るような格好で胸の前に組まれたまま、カタカタと震えていた。 

「蒼ちゃん……」

 だめだ、私のほうが、もう胸が痛くてたまらない。

 これほど優しく、愛情に溢れた人を、どうして私は傷つけることしかできなかったのだろう。
 初めから背を向けていればよかったのか、深く関わらないようにすればよかったのか、後悔ばかりが募る。

 紅君ともう一度ひきあわせてくれたのは蒼ちゃんだ。
 感謝のしようもないのに、私は何も返せない。
 彼が望んでいたものは何か――よくわかっているのに、それは決して与えられない。 

「蒼ちゃん……」
「千紗ちゃん!」 

 私の呟きと、蒼ちゃんの叫びが重なった。
 蒼ちゃんは深く俯き、私へ背を向ける。 

「ごめん……ちょっと、今はもう無理だ……今度会う時はきっといつもどおり笑うから……笑えるようになってるから……だからごめん……」

 蒼ちゃんが何を言いたいのかはわかる。
 ひょろりと背の高い背中が、小刻みに揺れている。
 それは私が見てはいけない姿だ――蒼ちゃんがおそらく誰にも見られたくない姿だ。
 だから私は蒼ちゃんへ背を向け、駆けだした。

「ごめんなさい……蒼ちゃん!」

 懺悔の言葉だけ、彼の傍に残すように叫び、その場から逃げた。

 涙は止まらなかった。
 当然だ。
 あれほど自分を大切にしてくれた人に、酷いことをした。
 酷いことしかできなかった。

 たとえ蒼ちゃんが、次に会う時は平気な顔をしてくれても、何事もなかったかのように笑いかけても、自分で自分が許せない。
もう許せない。

(会えないよ……! もう蒼ちゃんにも……紅君にも会えない!)

 おそらくそれがいい。
 私は紅君に記憶をとり戻して欲しくはないし、蒼ちゃんをこれ以上傷つけたくもない。
 ましてや、私のせいであの仲のいい兄弟の関係がおかしくなってしまうのは、絶対に嫌だ。 

(私が一人……いなくなればいい……)

 そう決意して、叔母たちが営む小さな弁当屋へ駆け戻った。
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