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第四章 錆色の迷宮

53:心傷1

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 学校が夏休みに入るとすぐ、以前から宣言していたとおり、蒼ちゃんと紅君は旅に出た。
 紅君が十二歳までを過ごしたあの街を二人で訪れるのは、実はもう四度目らしい。

「毎年夏休みになると行ってるんだ……俺がお世話になってた福祉施設は、今はもうないけど、当時を知ってる人から少しでも話を聞けないかと思って……」

 終業式の日に、電車で揺られながら紅君が話してくれた時、やはり私は名乗りを上げられなかった。
 誰よりも私が詳しい話をできるのに、そうすることは恐い。

(本当のことを知ったら、紅君がどんなに傷つくだろう)

 その思いがどうしても頭から消えない。 

「やっぱり……思い出したいの?」

 恐る恐る尋ねると、迷いのない目を向けられた。
 それは私が思わず怯みそうになるほど、昔から変わらない、強い意志を感じさせる眼差しだった。 

「うん。そうしなくちゃいけない気がする。このまま、自分の中に大きな空洞を抱えて生きていくのは辛い……でもそれ以上に、絶対に忘れちゃいけないことが俺にはあったはずなんだ……きっと誰だってそうなんだろうけど……」

 飛ぶように過ぎる窓の向こうの風景へと、視線を移した横顔から目が離せない。

 紅君にとって、忘れてはならなかったもの――園長先生や『希望の家』の子供たち。
 学校のみんな。
 そしてたった一つだけのお母さんの思い出。
 多くの失くしものの中に、私は含まれているだろうか。
 二人で交わしたあの小さな約束は――。

 力任せに握り潰されたかのように胸が痛くなり、私は紅君の横顔から視線を逸らした。

(確かに……できればとり戻してほしい! でもやっぱり……悲しい事実は知らせたくない!) 

 私の中で渦巻いている感情は、ずいぶん身勝手なものだ。
 覚悟を決めて口にしてしまえば、ものの数分もかからず終わる説明なのに、それは実行されない。
 以前蒼ちゃんも言っていたとおり、そこに『思い出したい』という紅君自身の思いが反映されることはない。

(ごめんね……紅君……)

 自然と私の頭は下がり、彼の少し不自由な左足に視線が落ちた。
 その時、頭上から声がした。

「……一緒に行く?」

 はっと息を呑み、すぐに顔を上げた。
 紅君は少し困ったように私を見下ろしていた。

「ごめん……また変なこと言ってる……なんでだろう。全然そんなつもりないのに勝手に言葉が出てくるんだ……いつも悪い……ほんとごめん……」
 
 私は必死に首を横に振った。

(謝らなきゃいけないのは私なのに! いつだって紅君の気持ちなんかおかまいなしで、自分の思いばっかり優先してる私のほうなのに!)

 顔を上げると不自然なほど動揺していると伝わりそうで、私は俯いたまま頭を振り続けた。 

「ひょっとして……俺が記憶を失くす前にも会ったことがある? ……新幹線で三時間もかかるあの町にいたなんて……あるはずないか……」

 ドキリとこの上なく心臓が跳ね、思わず動きが止まってしまった。
 あまりのタイミングで首を振るのを止めた私を、紅君がどう解釈したのか、確認することが恐い。
 顔を上げられない。

 ガタンと電車が揺れ、聞き慣れた車内アナウンスが、じきに次の駅へ到着することを告げる。

「次は……。……。降り口左側となっております。お忘れもののないように……」

 永遠とも思える一瞬の沈黙を、とても現実的な声によって打ち砕かれ、私はほっと安堵した。
 緊張に強張っていた全身から力が抜ける。

「行こう……」

 紅君はまるで蒼ちゃんのように、俯いたままの私の頭を軽く叩き、座席から立った。

「うん」

 慌ててその背中を追いながら、私は頬に一筋零れ落ちた涙を、ぐいっと手の甲で拭った。
 
(よかった……紅君に嘘を吐かずにすんで……よかった!)

 深く問い詰められず助かった思いより、その些細な事実に涙が零れるほど、彼は私にとって特別だった。
 やはりどうしようもなく特別だった。
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