上 下
25 / 103
第三章 蒼色の慈雨

25:新たな日常2

しおりを挟む
「いらっしゃいませ」

 私が弁当屋の店頭に立つ夕方に、店を訪れる客の半分は常連客だ。

「千紗ちゃん、いつものやつ」
「はい」

 仕事帰りのサラリーマン。
 二人暮しの新婚夫婦。
 母のように女手一つで小さな子供を育てているシングルマザー。

 特別な会話をするわけではないが、毎日のように同じ顔を見るのが習慣になると、来店のない日には「今日はどうしたんだろう?」と心配したりもする。

 そういう中でも彼は特別だった。
 毎日決まった時間に、毎日同じ弁当を三つ買いに来る若い男の人。
 叔母さんと彼の会話で、最近近くの診療所へ赴任してきた医師の息子なのだと知った。

「父は、医者といっても雇われ医師だから安月給で……そのうえ僕が大学に進学したばっかりで、うちって実は、かなり貧乏なんです」

 ボサボサの髪を雑にかき上げながら、大きな眼鏡越しに屈託なく笑うその人は、言葉とは裏腹にいつも笑顔だった。

 野暮ったい大きなシャツを着て、いまどき珍しいぶ厚い眼鏡をかけた細身の青年。
 どちらかといえば無愛想に店頭に立つ私にも、躊躇なく笑いかける。

「千紗ちゃん、今日もお得弁当三つね」

 いつもどおりの注文に、仕切りの向こうの厨房から叔母が声をはり上げた。

そうちゃん! 野菜も食べないといつか具合が悪くなるよ! あんただって医者の卵なんだろ? 千紗、私のおごりでいいから今日はサラダもつけといて!」
「はい」

 頷いた私を慌てて両手で制し、その人――蒼之そうしさんは急いで鞄から財布を取り出した。

「待って千紗ちゃん! お金ならちゃんと払うから! いやあほんと、小母さんにはかなわないなあー」

 人の良すぎる笑顔でにこにこと笑う蒼之さんは、毎日休みなく働いている父親を少しでも助けるため、自分も医師を目指しているのだといつか語っていた。
 おそらく患者や看護師に怒られても、こういうふうに笑っている優しい医師になるのだろう。

(うん……ぴったりだな……)

 財布の中身を必死に探っている様子を頭の上から見ていたら、ふいに上目遣いに視線を向けられ、ドキリとした。

「なに? どうかした?」

 いつもぶ厚い眼鏡に隠されている蒼之さんの目は、眼鏡のない位置から見ると私のよく知る人に似ていた。
 ――どんなに忘れようとしても、決して忘れられない人――紅君。

「なんでも……」

 あわてて視線を逸らすと、その先にわざわざ移動してまで顔をのぞきこまれる。

「千紗ちゃん……?」

 どちらかといえば面長の顔も、細すぎるほどに華奢な体つきも、真っ黒で硬そうな髪も、蒼之さんはまったく紅君に似ていない。
 だが時々ちらりと見える目元だけ、いつも笑顔なところと、相手の心の機微に敏感なところだけ、とてもよく似ている。 

「なんですか?」

 失礼にならない程度にぶっきらぼうに答える私にも、蒼之さんの笑顔は崩れない。

「うん……なんでもない。また、明日ね……」

 にっこり笑ってうしろ手に手を振る姿が、また忘れられない少年のそれと重なり、私はブルブルと首を横に振った。 

「千紗……?」

 叔母が訝しげに問いかける。

 どうやら私の様子がおかしいと察してくれたらしい。
 私の周りにいる人はどうしてこれほど優しいのだろう。
 私自身は何も恩を返せないどころか、迷惑ばかりかけているというのに。 

「もうすぐ学校に行く時間だろ? 今日はもう上がりな……一人でも面倒臭がらずにちゃんとご飯食べるんだよ? あんただって蒼ちゃんと変わんないくらい、食事には無頓着なんだから」
「……はい」

 叔母が苦笑する気配を背後に感じながら、私はつけていたエプロンを外した。
 夕食用にと叔母がくれた弁当を持って店から出ると、裏口近くの塀の横に、その蒼之さんがしゃがんでいた。

「あーあ、そんなにがっつくなよ……今日はちゃんとたくさん持ってきたからさ……」

 背中越しにのぞいてみると、五匹もの野良猫が彼の前に集まっていた。

 買ったばかりの自分の弁当は塀の上へ置き、彼が手にしているのは煮干しの袋だろうか。
 にゃあにゃあと懐っこく鳴く猫に、まるで人間相手のように自然に話しかける背中を見ていると、思わず頬が緩む。

(本当に優しい人……きっと誰が見ていても見ていなくても、変わらずに優しい人……)

 気がついたら蒼之さんが、しゃがんだ体勢のまま、私をふり返っていた。

「千紗ちゃん……!」

 にっこりと笑いかけられ、逆に私の表情は凍りつく。
 笑顔の作り方は、四年前のあの日に忘れた。
 大好きだった紅君の笑顔を思い出せば思い出すほど、私自身は笑えなくなる。
 どことなく紅君と印象が被る蒼之さんの笑顔は、私にとっては見ているだけで心がひきつるようだった。

「もう今日は帰るところ? これから学校?」
「はい」

 私が笑うのを苦手なことも、尋ねられなければ決して自分からは口を開かないことも、全部わかっているかのように蒼之さんは接してくれる。
 それが、彼は本当に優しい人なのだと思うところであり、きっと良い医師になるだろうと思う所以でもあった。 

「ここで猫を集めてたらやっぱダメかな……お弁当屋の裏だもんね……」

 私の出てきた裏口と、幸せそうに煮干しをほおばる猫たちを代わる代わる見ながら、蒼之さんは申し訳なさそうに頭を掻く。
 私はゆっくりと首を振り、彼の隣にしゃがみこんだ。

「大丈夫ですよ……叔母さんも叔父さんも野良犬や野良猫を放っとけない優しい人だから……行く宛てのない私を拾ってくれたみたいに……」
「千紗ちゃん……」

 呼びかけられてはっとした。
 穏やかな蒼之さんの雰囲気に安心し、つい錯覚を起こした。
 まるで紅君の隣にいた頃のような感覚で、余計なことを話してしまった。

「私……!」

 立ち上がって急いで背を向け、走り出そうとしたら背中に声がかかった。 

「千紗ちゃん! 実際三つ年上なわけだけど……ごらんのとおり僕は頼りないし、君ほどしっかりもしてないから、『さん』はいらないよ……敬語もいらない!」

 ふり返ると蒼之さんも私と同じように立ち上がり、こちらを見ていた。
 提案はしたものの落ち着かない様子で、困ったようにこちらを見ている姿は、確かに彼が言うようにあまり年上らしくはない。
 だからといって「さん」づけでないなら、いったい何と呼べばいいのだろう。 

「蒼ちゃん……?」

 叔母が彼を呼んでいるままに呼びかけてみると、蒼之さんがにっこり笑った。
 それは、私が思わずドキリとせずにはいられない、紅君にどことなく似た満面の笑みだった。 

「うん。それでいいよ。千紗ちゃん……」

 紅君を初めて名前で呼んだ時の焦りと緊張が、その瞬間、私の胸に甦った。
 ありありと甦った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru
恋愛
記憶を失った第二王子妃シルヴェーヌ。シルヴェーヌに寄り添う騎士クロヴィス。 元々は王太子であるセレスタンの婚約者だったにも関わらず、嫁いだのは第二王子ディオンの元だった。 実家の公爵家にも疎まれ、夫となった第二王子ディオンには愛する人がいる。 記憶が戻っても自分に居場所はあるのだろうかと悩むシルヴェーヌだった。 記憶を取り戻そうと動き始めたシルヴェーヌを支えるものと、邪魔するものが居る。 記憶が戻った時、それは、それまでの日常が崩れる時だった。 ★1話目の文末に時間的流れの追記をしました(7月26日) ●ゆっくりめの更新です(ちょっと本業とダブルヘッダーなので) ●ルビ多め。鬱陶しく感じる方もいるかも知れませんがご了承ください。  敢えて常用漢字などの読み方を変えている部分もあります。 ●作中の通貨単位はケラ。1ケラ=1円くらいの感じです。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界の創作話です。時代設定、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

彼女があなたを思い出したから

MOMO-tank
恋愛
夫である国王エリオット様の元婚約者、フランチェスカ様が馬車の事故に遭った。 フランチェスカ様の夫である侯爵は亡くなり、彼女は記憶を取り戻した。 無くしていたあなたの記憶を・・・・・・。 エリオット様と結婚して三年目の出来事だった。 ※設定はゆるいです。 ※タグ追加しました。[離婚][ある意味ざまぁ] ※胸糞展開有ります。 ご注意下さい。 ※ 作者の想像上のお話となります。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~

志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。 政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。 社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。 ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。 ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。 一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。 リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。 ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。 そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。 王家までも巻き込んだその作戦とは……。 他サイトでも掲載中です。 コメントありがとうございます。 タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。 必ず完結させますので、よろしくお願いします。

王妃の手習い

桃井すもも
恋愛
オフィーリアは王太子の婚約者候補である。しかしそれは、国内貴族の勢力バランスを鑑みて、解消が前提の予定調和のものであった。 真の婚約者は既に内定している。 近い将来、オフィーリアは候補から外される。 ❇妄想の産物につき史実と100%異なります。 ❇知らない事は書けないをモットーに完結まで頑張ります。 ❇妄想スイマーと共に遠泳下さる方にお楽しみ頂けますと泳ぎ甲斐があります。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

処理中です...