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第三章 蒼色の慈雨

31:傷つけたくない人1

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 朝早くの仕込みも、厨房での調理も、店頭での販売も、叔母たちの小さな弁当屋では叔母と叔父と私の三人でやる。
 昼間の配達だけバイトを雇っていたが、その日は体調が悪いということで、急に来れなくなってしまった。 

「ごめん、千紗。今日は新しい注文は受けないけど、それだけはずいぶん前から予約をもらってたやつだから……」
「はい。大丈夫……すぐ近くだし、急いで行ってくる」
「そんなこと気にしなくていいから、気をつけて行くんだよ?」

 まるで小さな子供にお遣いを頼むかのように、何度も念を押す叔母は、私が交通事故に遭ってから車が恐くなったことも、配達先へと続く大通りをいつもは決して通らないことも、よく知っている。
 だから心配して、必要以上に声をかけてくれる。

「うん。大丈夫……」

 まるで自分自身に言い聞かせるかのようにくり返し、私は両手に大きなビニール袋を下げて店を出た。




 行き先は店からそう遠くない大学の研究室だった。
 小さな町には不釣りあいな総合大学は、広大な敷地をぐるりと樹木に囲まれている。
 正門へと続く大通りにも、左右に大きな樹が植樹されており、木陰が多くて心地よい場所ではあったが、私はどうにも苦手だった。
 多くの車が途切れることなく通る道路を、耳を塞いで駆け抜けたい気持ちで足早に歩く。

(ここはあの場所じゃない! 違う! 違う!)

 必死に心の中で唱えながら、逃げこむように大学の構内へ入った。

 せわしなく車が行き来していた往来とはまるで別世界のように、そこでは時間がゆっくりと流れていた。
 煉瓦が敷きつめられた舗道や緑の芝生を行く学生たちは、みんな輝いて見える。

 楽しそうに談笑している女の人たちも、一直線に目的地へ向かっている男の人も、年齢的には私とそう変わらないはずなのにずいぶん大人に感じた。
 自分が場違いなところへ迷いこんだ気がし、不安になる。

(これを届けて早く帰ろう……)

 場違いなのは年齢のせいだろうか。
 それとも眩しすぎるほどの太陽の下で、楽しそうに笑う女子大生には、やはり自分はなれそうにないと思えるからだろうか。

 四年の高校生活を終えるまでには答えを見つけなければならない苦しい問いを、必死に考えながら歩いていると、見慣れた背中を見つけた。
 周りの人とは違うスピードで、空を見上げたりしながら建物へと向かう広い背中。 

(蒼ちゃん!)

 今すぐ駆け寄り、不安を拭い去ってしまいたいと強く感じ、そして初めて気がついた。
 蒼ちゃんもこの大学へ通う大学生だが、私はこれまで彼に気後れを感じたことはなかった。

(初めから懐っこく話しかけてくれたから? それとも独特の優しく穏やかな雰囲気のせい? それとも他にまだ何か理由が……?)

 考えこんだおかげで走りだすのが遅れ、彼の名前を声にして呼ばないでよかったと、次の瞬間心から思った。

「蒼之!」

 建物から出てきた女の人が蒼ちゃんに向かって手を振った。

「やあ」

 蒼ちゃんも手を上げて返事をするので、私の胸はドキリと跳ねる。

(な……に……?)

 蒼ちゃんに歩み寄った女の人は笑顔で何かを話し、まるで当たり前のように彼の隣へ並ぶ。
 蒼ちゃんの腕に腕を絡め、親しげに寄せられた綺麗な巻き髪の頭を、私はぼんやりと見ていた。

 いつの間にか足は止まっていた。
 ほんの先ほどまで重さなどまるで感じなかった両手の弁当が、腕が痛くなるほどに重かった。

 慌ててエプロンを外して店から出てきたままの普段着。
 履き慣れた古い靴。
 軽くとかしてうしろで一つに縛っただけの髪。
 もちろん化粧っけなどまるでない素顔。

 これまで気にとめたこともなかった自分の何もかもが、やけに野暮ったく感じた。
 蒼ちゃんに寄り添って歩く女の人の綺麗な笑顔と服装が、胸に痛くて堪らなかった。 

(早く! 早く!)

 先ほどまでよりなおさら、ここから逃げたい気持ちが強い。
 一向に動く気配のない自分の足を叱り飛ばすように、私は何度も心の中でくり返した。

(早く帰ろう! 配達を済ませて、急いでここから帰ろう!)

 蒼ちゃんと女の人が向かっている入り口とは別の入り口へ向かい、私は駆けだした。
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