21 / 77
2 彼女の事情
11
しおりを挟む
帰りは百合さんの案内で、裏門からお屋敷を出た。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」
椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。
(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。
日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」
また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。
紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
父はこの家では常にこの格好をしている。
作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。
都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。
ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。
父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」
やはりそれ以上会話は続かない。
その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」
昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
ところが――。
父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」
力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」
椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」
戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」
何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。
「ち、ちがう……」
「そうか……」
父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」
遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。
「どうかこれからも、お嬢さんと仲良くしてくださると嬉しいです……」
さっきから恐縮しっぱなしの百合さんが気の毒で、私は笑顔で答える。
「もちろんです」
椿ちゃんはお父さんに言われたように部屋から出ず、すでに三日先のぶんだという難しい数学の問題集を、黙々と解いていた。
文机の引き出しの二段目を時々開けて、悲しそうに中を見ていたことが印象的だった。
そこにしまった誠さんからのお土産を、おそらく見ているのだと思うと、私も切なくなる。
(夏祭り……ちゃんと行けるといいけど……)
日の傾きかけた田んぼ道を進み、父の仕事小屋兼住宅がある山に着いたのは、もう辺りが暗くなりかける頃だった。
日が暮れても月明かりがけっこう明るいことを椿ちゃんに教えてもらった私は、それを不安に思うことはなかったが、頂上へ通じる山道を逸れて、家へ向う小道に入ると、庭に佇む人物の姿が見えて、どきりとした。
「お父さん!」
また心配させてしまったのかと慌てて駆け寄ろうとしたが、そうではなかった。
父は仕事の合間の休憩だったようで、手にしていた煙草を唇で挟み、私に向かって手を上げてみせる。
私はほっと胸を撫で下ろしながら、ゆっくりと父に近づいた。
紺色の作務衣を緩く着て、頭には手拭いの、いつもどおりの格好。
父はこの家では常にこの格好をしている。
作業がしやすくて、その上楽なのだそうだ。
都会で一緒に暮らしていた頃は、いかにもサラリーマンという、スーツにネクタイ姿しか見たことはなかったが、今のほうが父らしい気はした。
他の何も気にせず、ただ自分の好きなものだけに向かっている姿は、いつも羨ましくさえある。
ふと――椿ちゃんのお父さんも和服姿だったのに、ずいぶん違うものだと思った。
もっともあちらは羽織まで着た、正装ではあるけれど――。
父の隣に立って、しばらく庭の木花を眺めながら、私は今日の顛末を簡単に話した。
「友だちと隣街へ行く予定だったんだけど、途中でやめたの。その子が、体調悪くなっちゃって……」
「大丈夫だったのか?」
「うん、少し休んだら治ったみたい」
「そうか……」
やはりそれ以上会話は続かない。
その居心地の悪さには多少慣れたつもりだが、並んで立っているのならばやはり何か話したほうがいい気がして、私は問いかけた。
「ねえ、お父さん。成宮って知ってる……?」
昨日初めて椿ちゃんに会った時、「この町の住人で、『成宮』を知らない者はいないもの」と彼女が言っていたのを思い出し、訊いてみたのだった。
父が「知っている」と答えたら、「その成宮の子と友だちになったんだよ」と話を続けるつもりだった。
ところが――。
父は唇の端にくわえていた煙草をぽとりと地面に落とし、それすら気にせずに両手で私の肩を掴んだ。
「誰に聞いた?」
力ずくで父のほうを向かされ、怒気をはらんで問いかけられた声は、これまで聞いたこともないほど低かった。
「え……?」
椿ちゃんのお父さんを彷彿とさせる鋭い眼差しで、睨むように見据えられる。
「いったい誰に聞いたんだ?」
「お父さん……?」
戸惑う私に初めて気がついたように、父ははっと肩から手を放し、足もとに落ちた煙草を拾うため身を屈める。
しかし声の刺々しさは変わらない。
「ハナさんか?」
何がこれほど父を怒らせてしまったのかがわからず、私はうまく言葉が出てこなかった。
「ち、ちがう……」
「そうか……」
父は煙草を拾うと、仕事小屋へ向かって歩き出す。
「しばらく小屋から出てこれないと思う」
「……うん」
遠くなっていく背中は、私がこれ以上何かを問いかけることも、説明することも拒んでいるような気がして、悲しかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サレ夫が愛した女性たちの追憶
しらかわからし
ライト文芸
この小説は、某ブログで掲載していたものですが、この度閉鎖しアクアポリス様だけで掲載いたします。
愛と欲望、裏切りと再生をテーマに主人公自身が女性たちと交錯し、互いに影響をし合いながら変化していく、様子を描きました。暫く、公開を停止していたのですが、本日(2024年10月5日)より再公開させて頂きました。
表紙の画像はCANVA様からお借りしました。
婚約破棄されなかった者たち
ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。
令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。
第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。
公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。
一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。
その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。
ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。
夫が隣国の王女と秘密の逢瀬を重ねているようです
hana
恋愛
小国アーヴェル王国。若き領主アレクシスと結婚を果たしたイザベルは、彼の不倫現場を目撃してしまう。相手は隣国の王女フローラで、もう何回も逢瀬を重ねているよう。イザベルはアレクシスを問い詰めるが、返ってきたのは「不倫なんてしていない」という言葉で……
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
【短編集】『潮流』(完結)
風雅ありす
ライト文芸
『潮流』(完結)
大学進学と共に地元を離れて一人暮らしをしていた主人公の元に、母親から1本の電話が入る。
それは、祖母の危篤を告げる内容で、主人公は、悩みながらも実家のある広島へと帰省する。
そこで、妹の舞から、祖母の病を治すため、弥山の霊薬を手に入れようと提案されて――――。
『春の妖精』(完結)
雪に閉ざされた町で、貧しい男の子と花売りの女の子が出会い、春を探す物語。
『黒猫の魔法』(完結)
自分の心無い言葉で恋人を永遠に失った一哉は、空虚な日々を過ごしていた。
ある日、一匹の黒猫を拾ったことで、一哉の生活が少しずつ変化していく……。
※これまで書き溜めた短編小説の数々を少しずつ掲載していきます。
もし、少しでも気に入って頂けたら、ご感想を頂けると嬉しいです。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
王室の醜聞に巻き込まれるのはごめんです。浮気者の殿下とはお別れします。
あお
恋愛
8歳の時、第二王子の婚約者に選ばれたアリーナだが、15歳になって王立学園に入学するまで第二王子に会うことがなかった。
会えなくても交流をしたいと思って出した手紙の返事は従者の代筆。内容も本人が書いたとは思えない。
それでも王立学園に入学したら第二王子との仲を深めようとしていた矢先。
第二王子の浮気が発覚した。
この国の王室は女癖の悪さには定評がある。
学生時代に婚約破棄され貴族令嬢としての人生が終わった女性も数知れず。
蒼白になったアリーナは、父に相談して婚約を白紙に戻してもらった。
しかし騒ぎは第二王子の浮気にとどまらない。
友人のミルシテイン子爵令嬢の婚約者も第二王子の浮気相手に誘惑されたと聞いて、友人5人と魔導士のクライスを巻き込んで、子爵令嬢の婚約者を助け出す。
全14話。
番外編2話。第二王子ルーカスのざまぁ?とヤンデレ化。
タイトル変更しました。
前タイトルは「会ってすぐに殿下が浮気なんて?! 王室の醜聞に巻き込まれると公爵令嬢としての人生が終わる。婚約破棄? 解消? ともかく縁を切らなくちゃ!」。
優しいおしごと。
鈴木トモヒロ
ライト文芸
幼き私。
大好きだった祖母との日々を思い出す。
一つ一つの優しさを感じて成長出来た私。
「お手伝い」を通じて、祖母にお返しをしたい。
読んでくださた方々に、ほっこりしたものをお届け出来ましたら幸いです。
(初めは男の子のイメージで書いていましたが、女の子のイメージが強いと複数の方々からご意見をいただき、女の子の主人公として作品を書いて生きたいと思います)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる