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第五章
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広間から大きな硝子扉を開けて出たところにあるバルコニーは、ヴェンダール城が誇る広大な園庭に面しており、昼間ならば緑豊かな景色が見渡せるはずだ。
しかし今は夜なので、全てが闇に沈んでいる。
警護の篝火が焚かれている場所以外は暗闇であり、何も見えないが、おかげで星が美しい。
月はあまり明るくない夜だった。
バルコニーの白い手すりに体重をかけて、前のめりぎみに庭園を見下ろすリリーアから少し離れた場所で、フィオレンツィオも同じように何も見えない庭園を覗きこんでいる。
賑やかな大広間を出て、静かな場所へ逃げ込んだからなのか、リリーアの気持ちは少し落ち着いていた。
やはり自分は煌びやかな舞踏会より、夜の静けさや星明りのみの生活のほうが、馴染み深いように感じる。
(やっぱり私は、『姫』なんかじゃないわ……)
そう納得していると、フィオレンツィオが口を開いた。
「大広間にいた時より、安心した顔をしている……こういう静かな場所のほうが好み……か?」
他に誰もいないので、彼はまたくだけた口調に戻っている。
照明がないのではっきりとは見えないが、顔を見られているらしい雰囲気に、少し俯きながら、リリーアは頷いた。
「ええ」
だから自分はやはりコンスタンツェ姫ではないと主張しようとしたのに、フィオレンツィオに先を越される。
「姫君もそうおっしゃっていた」
「え……?」
思わず顔を跳ね上げたリリーアを見つめ、フィオレンツィオが優しく笑った。
星の明かりしかない中、その微笑だけはなぜかはっきりと目に飛び込んできて、リリーアはまた落ち着かない気持ちになる。
「グランディスに来て最初の歓迎会で、顔色が悪かったので、休憩のためにこちらへ案内した……その時、人が多いのはあまり好きではなくて、こういう静かな場所のほうが落ち着くと打ち明けてくださった……今のきみのように夜の庭園を眺めながら……」
「そう……ですか……」
自分は姫ではないと思う根拠を覆されてしまい、リリーアはまた何が真実なのかわからなくなる。
困る思いはあったが、フィオレンツィオの話で、コンスタンツェ姫に少し親近感が湧いた。
「一国の姫でも、賑やかな場所が苦手な方もいらっしゃるんですね……もの静かな姫君だったのですか?」
「うーん……どうだろう」
曖昧に笑って、フィオレンツィオは庭園のほうへ向き直った。
リリーアはその横顔を見つめる。
「短い間だったけれど、傍にいた俺から見たら、普通の可愛らしい方だったよ……珍しいものには瞳を輝かせて……感嘆できるものには心から尊敬の念を示すような……素直で優しい……もちろん、類まれなる美貌には違いないのだけれど……」
「そう……ですか……」
コンスタンツェ姫の話をするフィオレンツィオが、あまりに優しい顔をしているので、リリーアの胸は鈍く痛む。
彼が言葉を尽くして褒めている相手が、本当に自分だったらよかったのにと一瞬思いかけ、その考えをふるい落とすように頭をぶるぶる振った。
(そんなわけない……そんなことありえない……)
暗い中でフィオレンツィオがくすっと笑う気配がした。
「それ……癖なの……?」
「え……?」
見るとこちらを見ながら、艶やかに笑っている。
今宵のフィオレンツィオは、アルノルト王子のように貴族めいた上着を着て、首元で白いクラヴァットを絞め、袖口からもフリルをたっぷりのぞかせた恰好をしているので、普段の騎士らしさはすっかりなりを潜め、まるでどこかの国の麗しい王子にしか見えない。
(王家の血筋には違いないのだけれど……)
見つめられるとどんどん緊張が高まるので、出来ればこちらを見てほしくないのだが、話の流れからそういうわけにもいかない。
(えっと……何? 癖……?)
思考をはっきりさせようと軽く頭を振ると、また笑われた。
「ほら、また……」
「あ……」
リリーア自身も、これまで特に意識したことはなく、フィオレンツィオに言われて初めて気が付いたことなので、正直にそう告げる。
「よく……わからないです」
「そうか……」
暗い中で、フィオレンツィオの碧の瞳が、輝いたように見えた。
「リリーア」
ふいに名前を呼ばれて、リリーアの胸はどきりと跳ねる。
普段よりも笑みの薄い真剣な顔で、フィンレンツィオがこちらを見ていた。
「自分が、本当にコンスタンツェ姫なんじゃないかと思ったことはない?」
「――――!」
それこそ、城へ来てから何度も、リリーアの胸に湧いては、否定してをくり返している疑問であり、つい今も、また真実がわからなくなってしまった事柄だ。
リリーア本人には、そう思ってしまう根拠がいくつもあるのだが、それらを誰かに打ち明けたことはない。
そうだと決めつけられることも、ぬか喜びさせて後から失望させることも、避けたかった。
だから自分の胸だけに秘めてきた。
それでも、くり返し何度も頭を過る疑惑を、どうして急にフィオレンツィオが確認してきたのかが気になる。
「どうして……ですか?」
用心深く尋ねると、彼はふっと頬を綻ばせた。
「いや、姫君も、可愛らしく頭を振る癖があったなと、ふと思い出して……」
まるで、真剣に尋ねてしまったことを照れるように、顔の前で手を振る。
「好みや、雰囲気も、本当によく似ているところが多いから、つい……いいんだ。気にしないでくれ……」
リリーアを困らせないためにか、明るく笑いながら、何度も手を振るフィオレンツィオを見ているうちに、リリーアの中である思いが湧いた。
(フィオレンツィオ様なら、私がこれまで感じた姫君との奇妙な一致や、逆にまったくそぐわない感覚……全部打ち明けても、一緒に考えてくださるかもしれない……)
その気持ちは、少しずつ大きくなっていく。
(始めから決めつけたり、一方的にどちらかの結論に結び付けるのではなく、悩んだり、迷ったり、考えたり……私の気持ちに寄り添ってくださるかもしれない……)
懸命に考えるあまり、いつの間にか顔を凝視してしまっていたリリーアに、フィオレンツィオが問いかける。
「どうした?」
その笑顔に、リリーアは勇気を出して全てを打ち明けようとした。
「あの! 私……」
その時、二人の間を何かがものすごい速度で通った。
フィオレンツィオの反応は速く、すかさずリリーアに手を伸ばして腕の中に抱き込むと、通り過ぎた何かが到達したと思われる地点へ向き直る。
「騎士団!」
彼が大きな声で一喝すると、庭園からも硝子扉の向こうの大広間からも、ばらばらばらと大勢の人間が集まってくる足音が聞こえた。
大広間から真っ先に飛び出してきたのは、アルノルト王子の先に立ったドナテーノで、リリーアを腕に抱きしめたまま、飛来した何かに近づいたフィオレンツィオが、それを抜き取ってドナテーノに投げる。
小さな紙が巻かれた矢だった。
「ドナテーノ! 危険がないか確認して、アルに渡せ。アル! 後のことと姫君を頼む!」
「はっ」
「はーい」
腕から解放したリリーアを、呑気な返事をしたアルノルト王子に向かってそっと押し出すと、フィオレンツィオ自身は素早く踵を返して、バルコニーの手すりに手をかけ、ひらりとそこから飛び降りた。
「――――!」
リリーアは驚きのあまり手で口を覆ったが、ドナテーノとアルノルト王子は驚いたふうではない。
庭園からは騎士たちの歓声と、フィオレンツィオのきびきびとした声が聞こえてくる。
「東の方角から矢が飛んできた。矢の大きさと速度からして、そう遠くない場所から放たれたはずだ。角度的に高い木の上。手分けして包囲しろ!」
「「「はいっ!!」」」
地面を揺るがすかのように勢いのある男たちの声が響き、ばらばらばらと足音の遠ざかっていく音が聞こえる。
慌ててバルコニーの手すりに駆け寄ったリリーアは、木立の向こうにフィオレンツィオの背中が見えなくなる瞬間を、見送った。
「まったく……こういう時だけ、主君じゃなくて、昔の子分扱いなんだから……」
隣に立ったアルノルト王子も、笑いながらフィオレンツィオを見送っている。
「大丈夫だよ、フィオはこの国一番の剣の腕だって言っただろう? 僕の自慢の従兄さ……」
アルノルト王子に肩を叩かれて初めて、リリーアは自分が震えていることに気が付いた。
フィオレンツィオの無事を祈って、固く握りしめた両手を、長い時間解くことができなかった。
しかし今は夜なので、全てが闇に沈んでいる。
警護の篝火が焚かれている場所以外は暗闇であり、何も見えないが、おかげで星が美しい。
月はあまり明るくない夜だった。
バルコニーの白い手すりに体重をかけて、前のめりぎみに庭園を見下ろすリリーアから少し離れた場所で、フィオレンツィオも同じように何も見えない庭園を覗きこんでいる。
賑やかな大広間を出て、静かな場所へ逃げ込んだからなのか、リリーアの気持ちは少し落ち着いていた。
やはり自分は煌びやかな舞踏会より、夜の静けさや星明りのみの生活のほうが、馴染み深いように感じる。
(やっぱり私は、『姫』なんかじゃないわ……)
そう納得していると、フィオレンツィオが口を開いた。
「大広間にいた時より、安心した顔をしている……こういう静かな場所のほうが好み……か?」
他に誰もいないので、彼はまたくだけた口調に戻っている。
照明がないのではっきりとは見えないが、顔を見られているらしい雰囲気に、少し俯きながら、リリーアは頷いた。
「ええ」
だから自分はやはりコンスタンツェ姫ではないと主張しようとしたのに、フィオレンツィオに先を越される。
「姫君もそうおっしゃっていた」
「え……?」
思わず顔を跳ね上げたリリーアを見つめ、フィオレンツィオが優しく笑った。
星の明かりしかない中、その微笑だけはなぜかはっきりと目に飛び込んできて、リリーアはまた落ち着かない気持ちになる。
「グランディスに来て最初の歓迎会で、顔色が悪かったので、休憩のためにこちらへ案内した……その時、人が多いのはあまり好きではなくて、こういう静かな場所のほうが落ち着くと打ち明けてくださった……今のきみのように夜の庭園を眺めながら……」
「そう……ですか……」
自分は姫ではないと思う根拠を覆されてしまい、リリーアはまた何が真実なのかわからなくなる。
困る思いはあったが、フィオレンツィオの話で、コンスタンツェ姫に少し親近感が湧いた。
「一国の姫でも、賑やかな場所が苦手な方もいらっしゃるんですね……もの静かな姫君だったのですか?」
「うーん……どうだろう」
曖昧に笑って、フィオレンツィオは庭園のほうへ向き直った。
リリーアはその横顔を見つめる。
「短い間だったけれど、傍にいた俺から見たら、普通の可愛らしい方だったよ……珍しいものには瞳を輝かせて……感嘆できるものには心から尊敬の念を示すような……素直で優しい……もちろん、類まれなる美貌には違いないのだけれど……」
「そう……ですか……」
コンスタンツェ姫の話をするフィオレンツィオが、あまりに優しい顔をしているので、リリーアの胸は鈍く痛む。
彼が言葉を尽くして褒めている相手が、本当に自分だったらよかったのにと一瞬思いかけ、その考えをふるい落とすように頭をぶるぶる振った。
(そんなわけない……そんなことありえない……)
暗い中でフィオレンツィオがくすっと笑う気配がした。
「それ……癖なの……?」
「え……?」
見るとこちらを見ながら、艶やかに笑っている。
今宵のフィオレンツィオは、アルノルト王子のように貴族めいた上着を着て、首元で白いクラヴァットを絞め、袖口からもフリルをたっぷりのぞかせた恰好をしているので、普段の騎士らしさはすっかりなりを潜め、まるでどこかの国の麗しい王子にしか見えない。
(王家の血筋には違いないのだけれど……)
見つめられるとどんどん緊張が高まるので、出来ればこちらを見てほしくないのだが、話の流れからそういうわけにもいかない。
(えっと……何? 癖……?)
思考をはっきりさせようと軽く頭を振ると、また笑われた。
「ほら、また……」
「あ……」
リリーア自身も、これまで特に意識したことはなく、フィオレンツィオに言われて初めて気が付いたことなので、正直にそう告げる。
「よく……わからないです」
「そうか……」
暗い中で、フィオレンツィオの碧の瞳が、輝いたように見えた。
「リリーア」
ふいに名前を呼ばれて、リリーアの胸はどきりと跳ねる。
普段よりも笑みの薄い真剣な顔で、フィンレンツィオがこちらを見ていた。
「自分が、本当にコンスタンツェ姫なんじゃないかと思ったことはない?」
「――――!」
それこそ、城へ来てから何度も、リリーアの胸に湧いては、否定してをくり返している疑問であり、つい今も、また真実がわからなくなってしまった事柄だ。
リリーア本人には、そう思ってしまう根拠がいくつもあるのだが、それらを誰かに打ち明けたことはない。
そうだと決めつけられることも、ぬか喜びさせて後から失望させることも、避けたかった。
だから自分の胸だけに秘めてきた。
それでも、くり返し何度も頭を過る疑惑を、どうして急にフィオレンツィオが確認してきたのかが気になる。
「どうして……ですか?」
用心深く尋ねると、彼はふっと頬を綻ばせた。
「いや、姫君も、可愛らしく頭を振る癖があったなと、ふと思い出して……」
まるで、真剣に尋ねてしまったことを照れるように、顔の前で手を振る。
「好みや、雰囲気も、本当によく似ているところが多いから、つい……いいんだ。気にしないでくれ……」
リリーアを困らせないためにか、明るく笑いながら、何度も手を振るフィオレンツィオを見ているうちに、リリーアの中である思いが湧いた。
(フィオレンツィオ様なら、私がこれまで感じた姫君との奇妙な一致や、逆にまったくそぐわない感覚……全部打ち明けても、一緒に考えてくださるかもしれない……)
その気持ちは、少しずつ大きくなっていく。
(始めから決めつけたり、一方的にどちらかの結論に結び付けるのではなく、悩んだり、迷ったり、考えたり……私の気持ちに寄り添ってくださるかもしれない……)
懸命に考えるあまり、いつの間にか顔を凝視してしまっていたリリーアに、フィオレンツィオが問いかける。
「どうした?」
その笑顔に、リリーアは勇気を出して全てを打ち明けようとした。
「あの! 私……」
その時、二人の間を何かがものすごい速度で通った。
フィオレンツィオの反応は速く、すかさずリリーアに手を伸ばして腕の中に抱き込むと、通り過ぎた何かが到達したと思われる地点へ向き直る。
「騎士団!」
彼が大きな声で一喝すると、庭園からも硝子扉の向こうの大広間からも、ばらばらばらと大勢の人間が集まってくる足音が聞こえた。
大広間から真っ先に飛び出してきたのは、アルノルト王子の先に立ったドナテーノで、リリーアを腕に抱きしめたまま、飛来した何かに近づいたフィオレンツィオが、それを抜き取ってドナテーノに投げる。
小さな紙が巻かれた矢だった。
「ドナテーノ! 危険がないか確認して、アルに渡せ。アル! 後のことと姫君を頼む!」
「はっ」
「はーい」
腕から解放したリリーアを、呑気な返事をしたアルノルト王子に向かってそっと押し出すと、フィオレンツィオ自身は素早く踵を返して、バルコニーの手すりに手をかけ、ひらりとそこから飛び降りた。
「――――!」
リリーアは驚きのあまり手で口を覆ったが、ドナテーノとアルノルト王子は驚いたふうではない。
庭園からは騎士たちの歓声と、フィオレンツィオのきびきびとした声が聞こえてくる。
「東の方角から矢が飛んできた。矢の大きさと速度からして、そう遠くない場所から放たれたはずだ。角度的に高い木の上。手分けして包囲しろ!」
「「「はいっ!!」」」
地面を揺るがすかのように勢いのある男たちの声が響き、ばらばらばらと足音の遠ざかっていく音が聞こえる。
慌ててバルコニーの手すりに駆け寄ったリリーアは、木立の向こうにフィオレンツィオの背中が見えなくなる瞬間を、見送った。
「まったく……こういう時だけ、主君じゃなくて、昔の子分扱いなんだから……」
隣に立ったアルノルト王子も、笑いながらフィオレンツィオを見送っている。
「大丈夫だよ、フィオはこの国一番の剣の腕だって言っただろう? 僕の自慢の従兄さ……」
アルノルト王子に肩を叩かれて初めて、リリーアは自分が震えていることに気が付いた。
フィオレンツィオの無事を祈って、固く握りしめた両手を、長い時間解くことができなかった。
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