キミの秘密も愛してる

シェリンカ

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第九章 新しい毎日

4.苦しい約束

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 海君はあっという間に私たちのところへ駆けつけて、私を地面に押しつけるように覆い被さっていた幸哉をうしろに引き戻し、力いっぱい殴りつけた。
 
 彼の細身の体のいったいどこにそんな力があったのかと思うくらい、幸哉は大きく吹き飛んで地面に叩きつけられた。
 
 一気に圧迫から開放されて、ゴホゴホゴホッと激しく咳きこむ私には目もくれず、海君は突然のことに呆然としている幸哉を、何度も何度も殴りつける。
 
 もともとすでに正気を失っていた幸哉は、何が起こったのか理解することもできないまま、たいした抵抗もせず、海君に殴られるままになっている。
 
 それが全力で走ってきたからなのか。
 これ以上ない怒りに震えているからなのか。
 肩を揺すって大きな息をくり返しながら、それでも幸哉を殴り続ける海君に、
 
「海君! ……海君!」
 私は痛む喉を押さえながら、必死で声をふり絞った。
 
(もうやめて!)
 そう伝えるために――。
 
 でも海君は、私に負けないくらい苦しそうな声で叫ぶ。
 
「駄目だ! 言ったでしょ? 俺は絶対に許さない!」
 
 私のほうに顔だけを向けた海君の、私の大好きなあの綺麗な瞳は、ギラギラと今まで見たこともないような色に燃えていた。
 
「真実さんを傷つける奴は、絶対に許さない! 俺が許さない!」
 
 実際、何度も何度も海君に殴られた幸哉は、もうとっくに動かなくなっていた。
 これ以上はきっと、海君のためによくないだけだ。
 止めなければと思う。
 やめさせなければと思う。
 ――だけど涙が溢れて止まらない。
 
 本当に助けて欲しい時に迷うことなく来てくれた。
 その結果どんなことになるのか。
 思惑も思慮も投げ捨てて、ただ私のために来てくれた。
 
 なんて恐ろしいくらいの幸せ。
 決して私が自分から望むことはなかっただろうその想いの形は、胸を抉られるように心に痛い。
 
 だけど彼が見せてくれた想いの大きさは、本当に嬉しかった。
 嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
 
 地面に突っ伏すように泣き崩れた私を、ようやくのことで海君が体ごとふり向いてくれる。
「真実さん……」
 
 やっぱり明らかに苦しげな声で、私のことをそっと呼ぶ。
 大きく肩を揺すって荒い呼吸をくり返しながら、私を抱き起こそうとするから、私は泣きながら自分で起き上がり、逆に彼を抱きしめた。
 
「嫌だよ! 海君……嫌だよ!」
 
 多くを語らなくても、きっと彼なら私の伝えたいことがわかってくれるだろう。
 初めて会ったあの日から、不思議なほどに理解してくれたのだから――。
 
 海君は素直に、「うん」と頷いて、私の肩に頭を乗せた。
 普段よりはかなり顔色が悪い状態で、それでも瞳だけはいつものように悪戯っぽく輝かせながら、
「ラッキー……会えたうえに、真実さんに抱き締しめられた……!」
 小さく笑ってそんなことを言う。
 
 私は彼を支える腕に力をこめて、その体をギュッと抱きしめた。
 このまま失うことになったりはしないだろうかという不安をふり払うように――。
 
「大丈夫だよ……真実さん。大丈夫……」
 海君は私を安心させるかのように何度もくり返してくれるけれども、全然安心できない。
 
 彼の荒い呼吸と、どんどん色を失っていく顔色に、どうしようもなく不安になる。
「でも、海君……!」
 
 我慢できずに不安を口に出してしまいそうになった瞬間、海君の腕が私の頭を引き寄せて、その唇で唇を塞がれてしまった。
 
(海君!)
 
 溢れんばかりの想いと共に溢れ出した私の涙に、あの日と同じように彼が唇を寄せる。
 唇に頬に瞼に、何度も何度もその冷たい唇の感触を感じて、私は余計に涙が止まらなかった。
 
 あきらかに調子の悪い顔色の海君は、それでも私を安心させようと、あのいつもの屈託のない笑顔を見せてくれる。
 
「本当はいつもみたいに『送るよ』って言いたいところなんだけど……さすがにそれは無理だから……ゴメン……貴子さんたちに連絡して迎えに来てもらって……?」
 
 頷く私に、ホッとしたように彼も頷き返す。
「あいつももうすぐ迎えが来るから……」
 
 幸哉のほうを顎で示しながら、海君は胸ポケットから出した携帯電話を、私に振ってみせた。
 
 その仕草に私は神妙な面持ちで頷く。
 きっと警察に連絡してくれたということだ。
 
 海君は満足そうにニッコリ笑って、それから急に真顔になった。
「真実さん……ゴメンね」
 
 そう言うなり、携帯電話をそのまま自分の耳に押し当てる。
 
 一度コールしたかしないかくらいの速さで、誰かが応答したことが私にもわかった。
 
 海君は、どんな反応を返したらいいのかわからなくなるくらいに、私の顔をじっと見つめている。
 それからふいに微かに頭を下げて、私から視線を逸らした。
 
「……ひとみちゃん? 俺。悪い……ドジった。動けない。迎えに来て」
 
 ズキリとどうしようもなく胸が痛んだ。
 
(そうか……そういうことか……)
 
 とてつもなく胸が痛い。
 どうやらいつかみたいに私が気にしないようにと、先に謝ってくれたらしい。
 
 でもそれぐらいじゃ全然大丈夫じゃない。
 胸の痛みは全然おさまらない。
 
(そっか……)
 
 涙が零れないように私は俯いた。



 
 私が海君とサヨナラすることを決意したのは、海君にこれ以上無理をさせたくなかったからだった。
 
 と同時に、私が一緒にいても彼にしてあげられることは何もないとわかったからでもあった。
 
(私じゃだめだ……! 海君のために、なんにもできない……!)
 
 それは、いつもいつも彼に助けてもらうばかりだった自分には、この上なく悲しい事実だった。
 
 助けてあげて助けられて、そんな持ちつ持たれつの関係に憧れていた私は、そんな恋ができない海君を諦めた。
 ――そう解釈されてもかまわない。
 
 だけど本当はわかっている。
 どんな恋がしたいかではなくて、大事なのは誰と恋をするかだ。
 
 私の心は海君と出会ったあの夜から、頑ななくらいに彼のことしか想えなくなった。
 彼のことしか好きじゃない。
 他の何も、誰も要らない。 
 
 『だけどいくら望んでも、彼は私の隣にいてはくれない』
 
 海君と別れる前後頃から、何度も何度も深い絶望を伴ってくり返してきた言葉が、今もまた心に浮かんだ。
 どうしようもなく浮かんだ。
 
 たぶんこの上なく切ない表情になってしまった私を、海君が抱きしめる。
「ゴメン真実さん……」
 
 二人でいた間も、いつもいつもそうだったように、そっと謝るから、私は黙って首を振る。
(悪いのは海君じゃない……)
 
 その意思表示のために、何度も何度も首を振る。
 
 その時、パトカーよりも、私が呼んだ愛梨たちよりも早く、海君が呼んだその子が到着した。
 土手の上にタクシーを待たせて、真っ直ぐに私たちのほうへ向かってくる。
 
 ハッキリした顔立ちの、意志の強そうな目をした綺麗な子だった。
 白いラインが襟に二本入ったセーラー服を着て、黒い真っ直ぐな腰まである長い髪を、風になびかせている。
 
 彼女の目の前で海君と抱きあっていることが恥ずかしくなって、体を放そうとする私を、まるで放すまいとするように、海君がさらに強く抱きしめる。
 
「海君?」
 見上げた瞳は恐ろしく魅力的に輝いていた。
 
 そのまま私に顔を近づけて来ようとまでするから、私は彼の体調を心配する気持ちも、『ひとみちゃん』に対するわだかまりも投げ捨てて、ただ大慌てで彼の体を押し戻そうとする。
 でも――。
 
「……海君!」
 たぶんいつもの冗談で私をからかっているんだろうとばかり思っていたのに、海君はそのまま力で私をねじ伏せて、本当に『ひとみちゃん』の目の前で、私にキスしてしまった。
 
「なによ! ……じゅうぶん元気じゃないのよ!」
 呆れたように呟くその子の声を聞きながら、私はそっと目を閉じた。
 
(そうか……これってお別れのキスだね……)
 海君の意図がわかった気がした。
 
 強く強く私を抱きしめて唇を放すと、海君はこれ以上ないくらい優しい瞳で私に告げた。
「真実さん……また今度」
 
 約束をくれるのだろうか。
 また会いに来てくれるというのだろうか。
 
 だけど、真っ白な顔色をして、額に汗を浮かべながら大きな息をくり返す彼に、私は不安ばかりが募る。
「でも……海君……!」
 
 言いかける言葉に、彼はあの心に染み入るような瞳だけでストップをかける。
 
「無理をしたら、駄目だよ」
 なんて言葉は、私に言わせるつもりはないらしい。
 
 だから私は頭を捻る。
 彼が予想していないだろう角度から問いかける。
 
「……もう、私に会いに来ないんじゃなかった?」
 
 海君はニヤッと、いかにも嬉しそうに笑った。
「うん、そうなんだけど……でもこれは、真実さんと約束しておかないとヤバイんだ……俺にはわかるんだよ……正直かなりヤバイって……! 俺はね……真実さんが『私のせいで……』なんて思ってしまうような死に方だけは、絶対したくないんだ……!」
 
 絶句する。
 瞬き一つさえできずに、彼の顔を凝視する。
 
「だから約束させて……きっとまた会いに来る……ね?」
 
 その約束が海君の支えになるというのなら、私にはいくらだってできる。
 約束を守ろうという気持ちが、彼が病気と闘う武器になるのなら、いくつ交わしたっていい。 
 
 必死で首を縦にふり続ける私に、
「じゃあ約束……」
 彼は見惚れるくらいに艶やかに笑ってくれた。
 
 そして――。
「ありがとう……ひとみちゃん……」
 
 目の前にいる私には目もくれず、ただ海君だけを見つめて立っていたその女の子に、手をさし伸べた。
 細い腕からは想像もできないくらいの力強さで、海君の体を引き上げたその子は、そのまま海君の腕を自分の肩に廻すようにして、彼の体を担いだ。
 
「いつかこんなことになるんじゃないかと思ってた……」
 初めて私に向けられた視線は、咎めるようなキツイものだった。
 
 心を射抜かれたような気がする。
 
 思わず俯く私の耳に、
「真実さんのせいじゃない……!」
 怒りを含んだ海君の冷静な声が聞こえた。
 
「だって……!」
 不満まじりに、ひとみちゃんは言い募ろうとしているのに、海君はそんな彼女に冷たい一瞥をくれる。
 
「俺が自分で決めたことだから」
 
 強い口調でキッパリと言い切られても、彼女はまだ納得がいかないようだった。
 フンとそっぽを向いて、海君の体を支えながら歩き出す。
 
 でも海君を見つめる視線から、彼を支える仕草から、彼女がどんなに彼のことを大切に思っているのかがわかった。
 同じ想いを抱えている私にはわかってしまった。
 
 どんなに海君が、
「俺が好きなのは真実さんだ」
 と態度で示してくれたって、
 やっぱり他の女の子に心を許している様子を見ているのは辛い。
 
 小さな頃からずっと近くで育ってきた従兄妹で、彼の事情も全部承知していて、だから他の家族には秘密にしているようなことにも手を貸してくれるんだ、なんて説明されても、やっぱり切ないし、悲しい。
 
 ――それはきっと彼女も同じだろう。
 
「…………」
 私には聞こえないように彼の耳元で、おそらく彼の本当の名前を呼んで、容態を確認する様子が、私は心底うらやましくてたまらなかった。
 
「真実さん……じゃあまた……!」
 ニッコリ笑って遠ざかっていく彼に肩を貸して、一緒に帰って行ける彼女がねたましかった。
 
 そんな自分が嫌でたまらなくて、私は両腕で自分を抱きしめて、二人の姿から目を逸らす。
 あんなに会いたくて、一目見るだけでいいと願っていた背中から視線を逸らした。
 
(海君!)
 
 願いが叶うと、またすぐに新しい願いを作り出してしまう。
 どこまでも貪欲な自分が嫌だ。
 
(こんな私じゃ……やっぱり海君の力になんてなれるわけがない……!)
 
 唇を噛み締め俯いた時、パトカーのサイレンと、
「真実!」
 私を呼ぶ愛梨たちの声が聞こえた。
 
(助かった……!)
 
 そう思ったのは、この場からやっと帰れるからばかりではない。
 居たたまれないくらいの良心の呵責と、どうしようもない胸の痛みから、やっとのことで開放されると感じたからだ。
 
(こんな自分は、やっぱり嫌いだ……!)
 
 頬を伝って落ちていく涙の感触を感じながら、私は地面に突っ伏すようにゆっくりと倒れた。
 
「真実!」
 
 叫びながら駆け寄って来る三人の気配を感じながら、私の意識は薄れていった。
 
(海君、ゴメンね……迷惑かけてゴメン……なのにこんな嫌な私でゴメン……)
 
 ――その想いだけを胸に。
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