キミの秘密も愛してる

シェリンカ

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第六章 再生する日々

2.会いに来てくれた

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「いいかげん腹が減ったから……何か買いに行くか……」
 独り言のように呟きながらしぶしぶと重い腰を上げた貴子を、私も愛梨も花菜も、
「いってらっしゃーい」
「私たちにも何か買ってきてねー」
「気をつけて」
 それぞれの課題から顔も上げずに、声だけで送り出す。
 
 ようやく試験も半分以上の日程が過ぎ、私たち四人の期間限定の共同生活も、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
 
 私の試験の手ごたえは、バッチリだったり。
 心もとなかったり。
 さまざまではあったけど、一つ終わるごとに、
(これで海君と会える日がまた近づいた……!)
 と、それだけを楽しみに、とにかくがんばった。
 
 なんという不純な動機。
 それでもやる気が出たんだから、これでいいんじゃないだろうか。
 今までただなんとなく受けてきた試験よりも、内容だってずっと頭に残っている。
 
(だから……いいんだもん!)
 言い訳するかのように考えていた時、てっきりもう買い物に出かけたとばかり思っていた貴子が、突然私の前に歩いてきた。
 
「やっぱり真実が行ってこい」
 ぬっと差し出された財布に、思わず目が点になる。 
「えっ?」
 いったいどういうことだろうと、目の前に立つ貴子の顔を見上げた。
 
 これまで買いものはずっと、
「私は試験勉強する必要がない」
 と宣言している貴子が、引き受けてくれていた。
 口は悪いけれど、本当は優しくて頼りになる貴子が、めずらしく不満も言わず、毎日私たちのために食料調達に出かけてくれていたのだ。
 
 そのことを、
(貴子にばっかり迷惑かけて悪いな)
 と申し訳なく思っていたのは、きっと私ばかりではないだろう。
 でもまさかこんなふうに、ふいに自分にふられるとは思ってもいなかった。
 
「……私?」
 問いかけながら立ち上がると、貴子は大真面目な顔でうんうんと頷く。
「そう、真実。私は今日はもう出かけたくない。でもお腹は減ったから、真実が行ってこい」
 額面どおりに言葉だけを聞くと、ずいぶんと身勝手な内容だが、これまでがこれまでだったから、不思議と腹は立たなかった。
 
「う、うん。わかった」 
(明日のテストに持ちこむノートは一応まとめ終わったし……今ならまあ大丈夫かな?)
 
 私が貴子に差し出された財布を受け取った瞬間、愛梨がさっと手を上げた。
「それじゃあ、私も気分転換について行きまーす」
 
 貴子は足音もさせずにスススッと愛梨の前に移動して、すかさず頭上から無情な声をかけた。
「愛梨はダメだ。明日のテストはほとんど持ちこみ不可だろ。明日までに丸暗記しないといけないノートが、まだこんなに残ってる」
 他ならぬノートの提供主に、分厚いノートの束片手にズバリと痛いところを指摘されて、愛梨は「うっ!」とうめきながらテーブルの上に突っ伏した。
 
「いいよ。いいよ。私が一人で行ってくるから……」
 急いでドアに向かって歩きだすと、
「ゴメンね、真実ちゃん」
 花菜もすまなそうに声をかけてくる。
 
「うん、大丈夫。行ってくるね」
 ニッコリ笑ってふり返ると、貴子が少し離れた場所から私をじっと見ていた。
 何かを含んだような意味深な視線にどこか違和感を覚えたけれど、私は細かいことは気にせずに、そのままアパートの部屋を出た。
 
「気をつけろよ」
 背後からかけられた貴子のぶっきらぼうな声が、私を見送ってくれた。



 特に上着なんか着なくても、じゅうぶんに暖かい真夜中。
 夏の夜は、気が向いた時にフラッと出かけることもなんだか簡単だ。
 
 今夜の月も眩しいくらいに綺麗。
 けれどその月の光のせいなのか、それとも何時までも消えることを知らない街の灯りのせいなのか、降るように見えるはずの星は、夜空のどこにも見えない。
 
 目を閉じると瞼の裏に浮かんでくるのは、百八十度に広がる夜空を全て埋め尽くすように輝いていた無数の星々。
 ――故郷の星空。
 
(故郷に帰ったら、またあの星空を見上げよう……そしてきっと、海君にも見せてあげよう……!)
 また自然と彼のことを思った。
 
 心地良い夜風を頬に感じながら、夜空へと向けていた視線を何気なく地上へと戻したその時、
 ――道の向こうに信じられない光景を見た。
 
 目を閉じていったい何を思っているんだろう。
 壁に寄りかかるようにして立っている人影。
 
(どうして……!)
 
 心臓が跳ね上がる。
 驚きと同時に、またどうしようもない心配で胸が痛くなる。
 
 もともと白い頬が、また少し白くなったように見えた。
 でも私に気がついて、ちょっと驚いたように笑った顔は、やっぱり屈託がなくって、眩しい太陽のようで、いつも変わらない。
 ――私の大好きなあの笑顔だ。
 
「海君!」
 疑問も驚きも、難しいことは何もかも投げ捨てて、私は彼に駆け寄った。
 ひさしぶりに会う大好きな人に駆け寄った。



「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」
 年下のくせに余裕たっぷりで、いつも私をからかってばかりの海君は、そんなことを言って悪戯っ子のように笑う。
 言葉のわりには、私を見つめる目が、優しい、切ない色をしていると思ってもいいだろうか。
 
「そ、そんなこと……」
 と、かすかな抵抗を試みようとしても、
「あるでしょ?」
 と真顔のままやりこめられることは、もう嫌というほどわかっている。
 
 だからもう、そんなことはどうでもいい。
 それよりも、――夢にまで見そうに会いたかった人が本当に会いに来てくれた――それだけでいい。
 
「うん、会いたかった」
 私が素直に自分の気持ちを認めたなら、
「俺もだよ」
 海君だってきっと、私の欲しい言葉を聞かせてくれるのだから。
 
(いつだって「自分が」じゃなくって、「真実さんが」なんだから……!でもそれでもいい……会えただけでいい……)
 胸が張り裂けそうな思いで、そう結論づけ、私はいつになく彼の首に自分から腕をまわした。
 
「……真実さん?」
 ちょっと驚いたように。
 でも次の瞬間にはしっかりと私を抱き返してくれる腕が愛しい。
 
(「ずっと、ずっと会いたかった」って本当の気持ちを言ったら……やっぱり、「俺もだよ」って言ってくれるのかな?)
 その返事を聞くためになら、会えない間私がどれぐらい海君のことを思っていたのか、隠しごとなんてなんにも残らないぐらい、全て教えてしまってもいいと思った。
 
「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」
 しっかりと私を抱きしめて髪に顔を埋めていた海君が、しばらくたったら囁くように私の耳元でそう告げた。
 笑いをこらえたような、私をからかう時のような、独特の声。
 いぶかしげにその顔を見上げてみると、視線だけで、うしろを見てみろと示してくれる。
 
(やっと会えて本当にすっごく嬉しかったから……もう恥ずかしいなんて飛び越えちゃって……私だってずっとこのままでもいいかななんて思ってたのに……いったい何?)
 ちょっとムッとしながらふり返って見てみると、私の部屋の道路に面した小さな窓に、三つの顔が並んでいた。
(愛梨! 貴子! 花菜!)
 
 慌てて海君の首にまわしていた腕を下ろす。
 笑いをかみ殺しながらわざと私を放そうとしない海君の体も懸命に押しのけて、私は敢然と三人に向き直った。
 
「ど、ど、どうしてっ……!?」
 驚きと恥ずかしさのあまり、上手く言葉も出てこない。
 
 そんな私に向かって、貴子はニヤリと笑う。
「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」
 
 愛梨は笑顔でぶんぶんと両手を振る。
「海君! 真実はまだ一応試験中だから……! そこのところよろしくねー」
 海君はその言葉に、律儀にもちょっと頭を下げてみせる。
 
「真実ちゃん……よかったね……!」
 花菜だけはまともなことを言ってるようにも聞こえるが、しょせんやってることは愛梨と貴子と一緒なのだ。
 
「な……何を……? なんで……?」
 私はと言えば、どうしても言葉が上手く出てこない。
 真っ赤になって口をパクパク動かすしかない私と、その隣に立つ海君の顔を見比べながら、愛梨はニッコリ笑った。
「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」
 
(愛梨……)
 こんな状況下でも、その言葉だけはなんだか心にしみた。
 
「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」
 花菜も小首を傾げてニッコリと笑う。
 
(花菜……)
 
「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」
 意地悪く笑った貴子に、海君はふわりと笑った。
 
「はい。肝に銘じます」
 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げる。
 
「ちょっと、貴子!」
 非難の声だけは、無理やりしぼり出そうとしなくても、スラスラと口から出てくるから不思議だ。
 
 ハハハハッと大きな声で笑った貴子は、窓の向こうに消えた。
 愛梨も花菜もそれに続いて、私の部屋の小さな窓には、もう誰の影も映らなくなる。
 それでも私は、すぐには動きだすことができなかった。
 
(そっか……貴子は海君がいることに気がついたから、わざわざ私に買いものを頼んだんだ……!)
 そこまでは、簡単に想像がついた。
 私をビックリさせようと思って、それを敢えて教えてくれなかったことも。
 それだけだったら、貴子の友情に感謝してもいいくらいなのに――。
 
(でもどうして、三人並んで窓からのぞいてるのよっ!)
 もし私が逆の立場だったなら、迷わずにそうしたであろうことは、この際置いておく。
 
(そりゃあ……私がわき目もふらずに海君に飛びついたのがいけないんだけど……)
 そんなことはわかってる。
 だけど嬉しかったんだから仕方がない。
 夢じゃないだろうかって、泣きそうになるくらい――本当に嬉しかったんだから。



 でも、今、少し冷静になってきたら、さすがにさっき自分が取った行動が、ちょっと恥ずかしくなってきた。
 しかも変なふうに邪魔が入ったものだから、今さらさっきみたいな体勢にもう一度戻ることは、とてもできそうにはない。
 まだ体に残ってる私を抱きしめる海君の腕の感触が、少し寂しくて切なかった。
 
「じゃあとりあえず……貴子さんのご注文の品でも買いに行こっか?」
 迷うことなく私の右手を取った海君の左手は、ひんやりと冷たかった。
 
「……海君?」
 思わず呼びかけてしまってからハッとした。
 
(具合が悪いんじゃない? 体調が良くないんじゃないの?)
 そんなことはとても聞けないから、もう一つ心に浮かんだ疑問を、すぐさま問いかける。
 
「いつからあそこで待ってたの?」
 海君はちょっと困ったように、小さく首をすくめた。
 
「うーん……いつからかなあ……?」
 その返事に、妙に胸がザワザワした。
 
「もしかして……ずっと待ってたの?」
 肯定も否定もしない海君は、顔は前に向けたまま視線だけ私に投げて、うっとりしそうなほど艶やかに笑った。
 
(……やっぱりそうなんだ!)
 胸がぎゅっと痛んで、私は俯くことしかできなかった。
 
「ゴメンね……ありがとう」
 そんな私を見て、海君は実に満足そうに笑う。
 
 からかうように、そしてちょっと照れたように小さな声で、
「真実さんが寂しがってるような気がしたからさ……」
 もう一度さっきと同じセリフを、彼はくり返した。
 
「そんなに長い時間待ってたわけじゃないよ……真実さんが俺がいなくても楽しくやってるんなら、それはそれでいいからさ……」
 
 夜の町を手を繋いで歩きながら、海君はポツリポツリと話をしてくれる。
 
 こんなに暖かい夜に、こんなに冷たい彼の指先が気になる。
 月明かりの中、あまり顔色が良くないように見える横顔も、心配で胸が苦しくなる。
 
 だけどそれでも来てくれた。
「しばらく来れない」って言ってたのに来てくれた。
 これ以上の嬉しいことなんてあるだろうか。
 
 あんまり考えてると泣きだしてしまいそうだったので、私は顔を上げた。
 いつもの笑顔が私を見下ろしていた。
 だけど――。
 
「俺がいなくても真実さんが元気なら……本当はそれが一番いいからさ……」
 冗談っぽくそう言って笑った海君の瞳は、微笑む口元とは裏腹に決して笑ってなどいなかった。
 この上なく悲しそうな色をしていた。
 
 ドキリと胸が鳴って、繋いでいた手にも思わず力が入ってしまう。
(……海君?)
 
 それはいったいどういう意味だろう。
 言葉どおり、私が寂しがってないならそれでいいという意味だろうか。
 それとも、本当は自分なんかいないほうがいいという意味だろうか。
 それとも――。
 
 考えれば考えるだけ、胸が締めつけられるように痛くなってきて、
「海君……どうしたの?」
 聞かずにいられなかった。
 
 私を見つめる瞳はいつものように優しかったけど、でも確かに今までとは違う何かの色を帯びているような気がした。
 だから――。
 
「何かあったの?」
 尋ねずにはいられない。
 
「うん? 別に何もないよ……?」
 まるでずっと前から用意してあったような口先だけの返事は、とても彼の本心とは思えない。
 
 でも、
(本当は何かあったんでしょ?)
 と重ねて尋ねることは、私にはできなかった。
 私にはそんな権利がない。
 その事実が改めて心に刺さる。
 
(問いただせたらいいのに……!)
 そう思わずにはいられなかった。



 私が苦しい時、彼がいつも心を救ってくれるように。
 困った時、彼がいつも助けてくれるように。
 私も彼を救うことができたならどんなにいいだろう。
 
 私で役に立つことがあるのならば、どんなことでもやる。
 喜んでやるのに。
 
 悔しいけど私は、彼のために何かができるような、――そんな存在じゃない。
 
 だから溢れ出しそうになった想いは、胸の奥に無理やり封じこめた。 



 そっと見上げると、月明かり中、海君がまるで今にも消えてしまいそうに悲しい瞳で私のことを見つめていた。
 さっきの彼の言葉と相まって、その姿はまるで幻のよう――今にも私の前からいなくなってしまいそうだった。
 
 そう思うと、胸が苦しくてたまらなくて、思わずその頬にそっと手を伸ばす。
 
「急にいなくなったりしないよね?」
 心に浮かんだ不安をそのまま口に出してしまった私に、海君は目を奪われそうなくらい艶やかに笑った。
 
「そんなことはしないよ」
 私を腕の中にぎゅっと抱き寄せて、
「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」
 耳元で小さく囁いた。
 
 思いがけない言葉に、私の心臓は、確かに一瞬止まった。
 
 大慌てで見上げた海君の顔は、いつもの悪戯っぽい笑顔だった。
 大きな月を背に、ニッコリ笑って私を見下ろしている。
 
 はりつめていた緊張の糸が、私の中でプツンと切れる。
 全身から力が抜けて、今にも崩れ落ちてしまいそうになる。
 ドキドキともの凄い勢いで、今さらのように心臓が脈打ち始めた。
 
(いつもみたいに……私をからかったんだよね?)
 少しだけ唇をかみ締めた。
 
 こんなことぐらいで緊張に全身が震えるくらい、私は彼を想っている。
 もう会えなくなるなんて想像もしたくないと、私の体中が叫んでる。
 
(それなのに、こんな意地悪を言うなんて……!)
 いつものように、「海君!」と怒る気になれないどころか、悔しくて悲しくて、私は涙が浮かんできそうだった。
 
 黙ったまま俯いた私を、海君が慌てて抱きしめる。
「ゴメン、真美さん」
 
 涙が溢れ出す。
 そんな顔は絶対に見せたくなんかないから、私は顔を上げない。
 
「ゴメン」
 海君は何度も謝ってくれたけど、さっきの言葉を訂正してはくれなかった。
 
『嘘だよ。俺はいなくなったりしないよ』とだけは言ってくれなかった。
 
 そのことが何よりも悲しかった。
 
(海君は嘘を吐かない。私を安心させるための優しい嘘だって……絶対に吐かないんだ……)
 そう信じているから、私にはわかってしまった。
 
(そっか……あれはきっと本気の言葉なんだね……いつか、私にちゃんと「サヨナラ」を言って……それから本当に私の前からいなくなってしまうんだね……)
 
 それが遠い未来のことなのか、すぐ明日のことなのかはわからない。
 だけど、自分のことは自分で決める海君が、そうと決めた時に私達の恋は終わる。
 
 それはきっとまちがいない事実なんだということを、私はその時、確信した。
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