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第一章 俺のタイムリミット

2.ふた月遅れの高校生活

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 結局その週の金曜日、俺はひとみちゃんと伯母さんにつき添ってもらって、一年間を過ごした病室を、後にした。

「もう帰ってくるんじゃないわよー」
 すっかり顔なじみになった看護師さんたちは、口々にそう言って笑いながら見送ってくれたけど、俺だってできるなら本当にそう願いたいと、自分自身でも思ってた。
 退院したと思ったら、あっという間に逆戻りなんてシャレにならない。
 だからこそ今まで以上の細心の注意が必要だ。

(特別なことなんて何もなくていいから。ただ平凡な毎日が飽きるほど続いてく。それだけでいいから……)
 それは俺にとってささやかな、けれど切実な願いだった。
(普通に学校行って、伯母さんの手料理食べて、自分の部屋のベッドで眠って)
 たかがそんなことが夢だなんて自分でも笑ってしまうが、こうしてもう一度その中に帰ってこれた今だからこそ、笑えるんだってわかってる。
 (そんなことぐらい……なんて馬鹿にできない状況に陥る可能性だってある。でも大丈夫……俺は絶対に忘れない)
 誓うように、今出て来たばかりの病院をふり返った。
 
 真上に近い位置にある太陽の光が眩しくて、俺がさっきまでカンヅメされていた二階の西端の病室を仰ぎ見るのは難しい。
 目の上に手で庇を作りながら、俺は目を細めた。
 今は無人のあの部屋の窓から、どんな風景が見えていたのか。
 俺はこれから先どこに行ったって忘れないだろう。
 まるで目の前に広がっているかのように、いつだって描き表わせるだろう。
 
 白い敷石に濃い影を落とす街路樹。
 どこからか聞こえてくる鳥の声は、狭い病室に閉じこめられていた時とは比べものにならないほど、爽やかに耳に響く。
 どこにいるのか目には見えないが、瞼を閉じると、大空に向かって飛ぶ力強い姿が、頭のキャンバスにはくっきりと浮かんだ。
(絶対、忘れない)
 もう一度、心に誓った。


 
「海里ぃーお帰りー!」
 夕方、大学から飛んで帰ってきた五つ年上の兄貴は、まるで俺がまだ小学生の子供ででもあるかのように、ギュッと抱きしめて頬を寄せた。
 俺の顔が無理矢理に押しつけられた位置は兄貴の肩の若干下のあたりで、そのかなりの身長差に内心ではムッとする。
 けれど、
「良かったなー良かったよー」
 わりあい整った顔を俺のためにクシャクシャに歪めて、大袈裟なくらいに喜んでくれることは素直に嬉しかった。
 
「よくがんばったな」
 無理に休みを取って家にいてくれた父さんも、言葉は少ないながらも満面の笑みで石井先生のようにガシガシと俺の頭を撫でる。
 その力強さが本当に嬉しかった。
 
 一年前と何も変わっていない自分の部屋に、病院から持ち帰った荷物を運びこんで、机の上に載せたままずっと開かれることのなかった高校の教科書を、パラパラッとめくってみる。
(まあ、それなりに自分でがんばってたつもりだけど……ついていけるのかな……?)
 苦笑しながら教科書は閉じて、今度はまだビニールに入ってハンガーに掛かったままの真新しい制服をつまむ。
(ほぼ二ヶ月遅れの高校入学か……)
 多少のことには慣れっこになっている俺でも、さすがにこれは滅多にできない経験だ。
 
(いい思い出が、一個でいいから作れたらいいんだけどな……)
 始まる前から、後でふり返った時の心境を心配するのは、ずいぶんと本末転倒かもしれない。
 けれど、
(あんまりたくさん期待したら駄目だ。またそれを手放さなきゃならなくなった時に、未練なんて持ちたくない)
 俺にとってその考え方は、防衛本能みたいなものだった。
 


 だけど、やっと登校できた高校というところは、俺が病室で思っていた以上に、俺の現実とはかけ離れた場所だった。
 受験勉強や部活。
 アルバイトや恋愛。
 同級生のおもな感心事はどれも俺とは決定的に無関係で、どう考えてもこれからも縁が有るとは思えない。
 すんなりと話題に入っていけない上に、二ヶ月遅れのハンデもある。
 普通に友達なんて、とてもできそうにはなかった。
(半分ぐらいは学校に行ってた小学生の頃は、これでも友達、多いほうだったんだけどな……)
 考えると胸が痛くなるから、体調上もあまり良くない。
 俺はなるべく考えないようにする。
 
 いいことを見るなら、遠巻きに皆の話を聞いているのは面白かったし、たくさんの人間と同じ空間にいれるというのは、ただそれだけで嬉しかった。
 クラスのみんなも、ひとみちゃんがよく言っていたように、
「みんな自分のことばっかりで、全然つまらない」
 とは感じなかった。
 病気で長く休んでいたクラスメートには、みんなそれなりに親切で、気遣ってくれるからだろうか。
 ぼうっと席に座っている時に、なんの脈絡もなく、
「がんばれよ」
 とか
「無理するなよ」
 とか時々声をかけられるのは、嬉しかった。
 
 中学の時と同様、同じクラスで席まで隣のひとみちゃんは、
「やっと彼氏が登校してきて良かったなあ」
 と冗談半分の声がかけられて、
「そんなんじゃないわよ!」
 と常に怒り狂っている。
「これじゃ、小学生の頃から何も変わらないじゃないのよ!」
 と怒鳴られたけれども、そんなやり取りすら今の俺には楽しかった。
 
 目尻をほんのりと赤く染めて、少し頬っぺたを膨らましながら怒るひとみちゃんは、確かに小学生の頃から変わらない。
 口で言うよりはずっと親切に、常に俺を気遣ってくれる。
 でも高校生になってまでこんな調子でいいんだろうかと思う気持ちも、俺の中になくもなかった。
 
 俺が退院して学校に通いだしてから、ひとみちゃんは毎日、一緒にタクシーで通学するようになった。
 爽やかな初夏の風の中を自由に闊歩し、颯爽と前を向いていた横顔はあんなに彼女らしかったのに、
「別にいいわよ。このほうが楽だし。お金は叔父さん持ちだし」
 俺が気にしないようにだろう、わざとぶっきらぼうにそんなことを言う。
 
(本当は俺のためだよな……いつ具合が悪くなったってすかさずフォローできるように、いつも側にいてくれるんだよな……)
 それにはとうの昔に気づいていたし、そんな彼女には深く感謝していた。
 けれど意地っぱりなひとみちゃんが、素直に俺の謝辞を受け取るはずもない。
 だから、なんにも気づかないフリをして笑ってみせる。
「ひとみちゃんは、『楽』が好きだよね」
「どういう意味よ?」
 すぐにカチンと来て、瞳に炎が灯るところがまた彼女らしい。
 
(このひとみちゃんらしいところを可愛いと思ってくれる奴と、本当は恋愛一色の高校生活でもおかしくないんだよな……)
 また申し訳ない気持ちになった。
 
 俺の存在はひとみちゃんにとって迷惑なんじゃないかと考えたことなら、今までに数えきれないくらいある。
 ひとみちゃんは言い方はキツイけれど、それを補って余りあるほどの美人だし、なかなか素直には表に出さないけど本当は優しいし、今までだって相当の数の男が好意を示したのに、いつだってそんなことにはお構いなしだ。
「だって好きとか嫌いとかそんなの、面倒くさいじゃない!」
 およそ若者らしからぬセリフで崇拝者を一刀両断にするのは、俺がお荷物になっているからじゃないかと疑うのは考え過ぎだろうか。
 
(これだけどこに行っても俺との仲を誤解されるんじゃ、いくらひとみちゃんだって、そのうち言い寄ってくる相手がいなくなっちゃうんじゃないか?)
 俺は密かに責任を感じてもいた。
 とうの本人にそんなことを言おうものなら、
「余計なお世話よ!」
 とそれこそ大目玉を食らいそうだが、俺はこれでも本気で心配していた。
 
(俺のために自分の生活を犠牲にしてほしくないんだ。だって遅かれ早かれ俺はいつかはいなくなるんだからさ……)
 もしその時が来ても、必要以上にひとみちゃんが大きなダメージを受けないように、できるなら俺は彼女とはもっと距離を置きたかった。
 
 仲の良かった従兄妹が死んでしまっても、親身になって慰めてくれる恋人や友人たち。
 そんな存在を彼女にはできるだけ多く持ってほしかった。
 うぬぼれや責任逃れなんかじゃなく、本当に俺を大切にしてくれている人だからこそ、俺がいなくなった後も幸せでいて欲しかった。
 
(ずいぶんと自分勝手な願いだよな……)
 俺の思惑になど気づきもせず、机から身を乗り出して、今までの授業の流れを懸命に説明してくれるひとみちゃんの長くて艶やかな黒髪を、俺は頬杖をついたままただ静かに見下ろしていた。
 
 

 一緒に帰る都合上、俺はひとみちゃんの部活が終わるのを毎日待っていることになって、どこで待っていたらいいのかわからない所在なさと、
「面倒だから海里も入りなさいよ」
 というひとみちゃんのごり押しで、彼女が所属する美術部に、思いがけず入部することになった。
 
 絵を描くのは子供の頃から大好きだった。
 でもそれしかやることのなかった日々が、なんだか胸の奥に重く残っていて、退院したからとまた描く気持ちには、まだなれない。
 けれど窓から射しこむ暖かな陽だまりの中、大きなキャンパスに向かって悪戦苦闘しているひとみちゃんが本当は何を望んでいるのか、俺にはわかっていた。
 
『俺がまた絵筆を持つこと』
 
 わかっているけど今はまだ、日当たりのいい美術室で椅子にゆったりと座りながら、油絵の匂いに包まれて、ひとみちゃんや他の部員たちが絵を描いている様子をただ見ていたい。
 静かに流れていく穏やかな時間を、何をするでもなく体中で感じていたかった。
 まるで監督でもしているように、部活の間ずっと窓際の席に座って、じっとみんなを見ている俺を、咎めるような部員は、幸いここには一人もいない。
 「一生君は? 絵は描かないの?」
 決して詮索するような響きは含まず、なにげない世間話のように投げかけられる質問には、俺が口を開くより先にひとみちゃんがさっさと答えてしまう。
 
「……描かないの。すごく上手いくせに」
 小さく首をすくめるしかない俺に、右頬に青い絵の具をつけたその女の子が笑いかけた。
「そうなんだ。また描くようになったら見せてね」
 今彼女がキャンバスに広げている淡い黄色と同じくらい優しい笑顔が、俺に向けられる。
 温かい気持ちが伝染したかのように、
「ああ」
 思わず笑顔になってしまう俺なんかよりもっと、いつも『目がきつい』と形容されるひとみちゃんの表情がふわりと緩んだのを、俺は見逃さなかった。
 だから――
 
「いつか描きたいものが見つかったら、その時はまた描くよ」
 声をかけてくれた相手というよりは、ひとみちゃんに伝えた。
 自分のことなんかそっちのけでいつも俺の世話ばかり焼いてくれる彼女を、本当は喜ばせたいと、俺は心の中ではいつも思っていた。
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