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大学生編
2015.04.24(Fri) ブレーキ
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【大学生編 15 ブレーキ】
[2015年4月24日(金)]
「葛西さんっ!!!」
世界がスローになって、東丸の悲痛な叫び声が遠くで聞こえた。
――ああ、どうして忘れていたのか。
「辰真!!」
あつい。
「辰真、しっかりして!!」
目が開かない。
「救急車!早く!」
手が、首が、背中が痛い。
――誰かが笑ってる。
ーーー
ピリッ、と右目の下が引きつった。
「っつ…」
そこには古い傷跡がある。右腕と、肩甲骨のあたりと、右耳の裏にも。以前、東丸にコレは何だと聞かれた傷跡だ。小さい頃に酷い怪我をしたのだ。
あれは長い坂道だった。車も多く、危ないから絶対にブレーキを握りしめてと母親に何度も何度も言い聞かされていた。
何故忘れていたのか。坂道を見ると未だに少し恐怖を覚えるというのに。
「葛西さん?なんか言った?」
「いや、まぶたが痙攣して」
「疲れてんじゃない?」
「かもな」
図書館の自習室で軽く首を揉んで肩を回した。昼時だからか妙に空いている。イヤホンでシャカシャカと音楽を聴きながら勉強している女子大生と、やってきて早々に寝てしまった院生らしき無精髭の男しかいない。
先日の約束通り昼飯をたかりにきた東丸に少し待てと言い聞かせて、俺は履歴書を書いているところだった。
「長所ね…」
「何書いてんのそれ?」
「履歴書の下書き。就活だよ」
「うわーっ、社会人になりたくない!」
「こら、うるさい」
「ねーはらへったんだけど」
「何が食べたいんだよ」
もういい、と履歴書を片付けて立ち上がる。人が少ないとはいえ、騒いで目をつけられると今後の利用に響く。リクエストは大学の裏にあるフレンチだった。
「フレンチ?予算は800円だからな」
「太っ腹じゃん」
学生向けメニューがあるんだよ。らくしょーらくしょー、と笑って歩く背中を追って歩く。
「ほら、これ使って!」
「誰のだよ」
指差された先にあるのは自転車。そしてその手には二本の鍵。
「友達の!昼飯行くって言って貸してもらった!」
「…あ、そ」
許可が取れてるならまあいい、と大人しく鍵を借りる。類は友を呼ぶというのか、少しサドルが高いと感じたが一応170後半はある俺にも小さなプライドがあり、ガキくさくサドルを下げるのは我慢してしまった。
そして案内された先にはこのために用意されたかのように長い坂道があった。そう、ちょうどあの時のような…。
「どしたの?」
急に減速した俺の異変にすぐに気が付いた東丸がすかさず声をかけてきたが、首を振って答える。この時に強がらずに降りて歩けば良かったのだ。
「なんでもな…」
そして坂に差し掛かった瞬間、まだ握ってもいない左ブレーキがバツンと音を立てて切れた。
「は?」
慌てて右を握りしめると後輪が持ち上がりかけたが、転回してしまうより前に右ブレーキのワイヤーもブツリと千切れて、自転車は坂を下り始めた。
「は…?うそだろ」
咄嗟に足をつこうにも爪先しか届かない。飛び降りればいいのに、俺は完全にパニック状態になっていた。そうしてたった数秒の間に自転車はトップスピードに達してしまったのだ。
「葛西さんっ!!飛び降りて!!」
後ろからそう言われても、猛スピードの自転車から飛び降りるなんて、体がすくんでしまって到底出来ない。
そうだ、あの時もそうだった。こんな風に突然ブレーキが切れて…赤信号の交差点に突っ込んだ。
ーーー
「てめぇ笑ってんじゃねえ!!ぶっ殺すぞ!!」
央弥はペダルに全体重をかけて辰真を追った。遠くで、耳元で、耳障りな笑い声が響いていた。
「葛西さんっ!!」
央弥の方がロードバイクで、スピードが乗りやすい。周りの確認など一切せず、辰真の背中しか見ていなかった。もうすぐ交差点に差し掛かる。信号は赤だ。
央弥は辰真の乗っている自転車の荷台を右手で掴んで力の限りブレーキを握りしめた。タイヤの回転は止まっているがガリガリと派手な音を立てながらスリップして進んで行く。
――ダメだ、止まれない。
央弥は咄嗟に辰真の腰辺りを捕まえて、左側に倒れ込むようにして転がり落ちた。受け身すら取れずに猛スピードで地面に転がって、何かにぶつかってようやく止まった。
「う…う」
派手に揺さぶられて上も下もわからない。自分が今、一体どうなっているのか。
「か、さい…さ…ん」
グラグラと揺れる視界のまま辰真を探す。顔を上げようとすると首が痛んだ。
「大丈夫ですか!?」「やば…」
「救急車!」「おい、聞こえるか!」
何やらそんな言葉で周りが騒がしい。
地面に手をついて立とうとしたが、上下感覚が狂っていてうまくいかない。視界が揺れ続けている。しかしその中になんとか辰真を見つけた。
「かさ…い、さん」
腕が痛い。首も、足も、全身がドクドクと脈打つように痛い。辰真は目を閉じて倒れている。その体はピクリとも動かない。
「かさいさんっ…」
なんとか近くまで来たが、央弥も限界だった。
「おねが…目ぇ、開けて…」
ーーー
ふ、と意識が浮上して目を開けると白い天井に緑のカーテンが見えた。清潔な匂いがする。どうやらここは病院のようだった。
「……」
「葛西さん!!」
「わっ」
耳元で大声が響いて体がビクッと跳ねる。
「良かった…!痛いとこある?喉乾いてない?」
「…大丈夫だ。お前こそ」
「俺は大丈夫!ただの打撲と脱臼!」
それから軽い脳震盪、と言って央弥は自身の頭を突いた。その頬には大きなガーゼが貼られていて、手も首も包帯だらけだが、怪我自体はそこまで酷くないらしい。
「本当にごめん…俺が昼飯なんか誘ったから、自転車を用意したりしたから…」
央弥の手が伸びて、辰真の左腕に触れた。右腕はガッチリと固定されている感覚があり、どうやら骨折したようだ。
「…死んじゃうかと思った」
「泣くなよ」
情けなく下がった眉、弱々しく震える睫毛。少しおかしくなって辰真は笑った。そんな辰真を見て、央弥は掴んだ左手に衝動的にキスをした。
「…な、おま、なに…」
「好き」
ドクッと心臓が鳴った。いけない、聞いてはいけない。
「好き…葛西さん」
バッと掴まれた手を振り解いて辰真は目線を逸らした。
「…帰れ」
その態度を見て、央弥は冷静になって我に帰り、小さく「ごめん、こんな時に」と謝ると病室を後にした。
【ブレーキ 完】
[2015年4月24日(金)]
「葛西さんっ!!!」
世界がスローになって、東丸の悲痛な叫び声が遠くで聞こえた。
――ああ、どうして忘れていたのか。
「辰真!!」
あつい。
「辰真、しっかりして!!」
目が開かない。
「救急車!早く!」
手が、首が、背中が痛い。
――誰かが笑ってる。
ーーー
ピリッ、と右目の下が引きつった。
「っつ…」
そこには古い傷跡がある。右腕と、肩甲骨のあたりと、右耳の裏にも。以前、東丸にコレは何だと聞かれた傷跡だ。小さい頃に酷い怪我をしたのだ。
あれは長い坂道だった。車も多く、危ないから絶対にブレーキを握りしめてと母親に何度も何度も言い聞かされていた。
何故忘れていたのか。坂道を見ると未だに少し恐怖を覚えるというのに。
「葛西さん?なんか言った?」
「いや、まぶたが痙攣して」
「疲れてんじゃない?」
「かもな」
図書館の自習室で軽く首を揉んで肩を回した。昼時だからか妙に空いている。イヤホンでシャカシャカと音楽を聴きながら勉強している女子大生と、やってきて早々に寝てしまった院生らしき無精髭の男しかいない。
先日の約束通り昼飯をたかりにきた東丸に少し待てと言い聞かせて、俺は履歴書を書いているところだった。
「長所ね…」
「何書いてんのそれ?」
「履歴書の下書き。就活だよ」
「うわーっ、社会人になりたくない!」
「こら、うるさい」
「ねーはらへったんだけど」
「何が食べたいんだよ」
もういい、と履歴書を片付けて立ち上がる。人が少ないとはいえ、騒いで目をつけられると今後の利用に響く。リクエストは大学の裏にあるフレンチだった。
「フレンチ?予算は800円だからな」
「太っ腹じゃん」
学生向けメニューがあるんだよ。らくしょーらくしょー、と笑って歩く背中を追って歩く。
「ほら、これ使って!」
「誰のだよ」
指差された先にあるのは自転車。そしてその手には二本の鍵。
「友達の!昼飯行くって言って貸してもらった!」
「…あ、そ」
許可が取れてるならまあいい、と大人しく鍵を借りる。類は友を呼ぶというのか、少しサドルが高いと感じたが一応170後半はある俺にも小さなプライドがあり、ガキくさくサドルを下げるのは我慢してしまった。
そして案内された先にはこのために用意されたかのように長い坂道があった。そう、ちょうどあの時のような…。
「どしたの?」
急に減速した俺の異変にすぐに気が付いた東丸がすかさず声をかけてきたが、首を振って答える。この時に強がらずに降りて歩けば良かったのだ。
「なんでもな…」
そして坂に差し掛かった瞬間、まだ握ってもいない左ブレーキがバツンと音を立てて切れた。
「は?」
慌てて右を握りしめると後輪が持ち上がりかけたが、転回してしまうより前に右ブレーキのワイヤーもブツリと千切れて、自転車は坂を下り始めた。
「は…?うそだろ」
咄嗟に足をつこうにも爪先しか届かない。飛び降りればいいのに、俺は完全にパニック状態になっていた。そうしてたった数秒の間に自転車はトップスピードに達してしまったのだ。
「葛西さんっ!!飛び降りて!!」
後ろからそう言われても、猛スピードの自転車から飛び降りるなんて、体がすくんでしまって到底出来ない。
そうだ、あの時もそうだった。こんな風に突然ブレーキが切れて…赤信号の交差点に突っ込んだ。
ーーー
「てめぇ笑ってんじゃねえ!!ぶっ殺すぞ!!」
央弥はペダルに全体重をかけて辰真を追った。遠くで、耳元で、耳障りな笑い声が響いていた。
「葛西さんっ!!」
央弥の方がロードバイクで、スピードが乗りやすい。周りの確認など一切せず、辰真の背中しか見ていなかった。もうすぐ交差点に差し掛かる。信号は赤だ。
央弥は辰真の乗っている自転車の荷台を右手で掴んで力の限りブレーキを握りしめた。タイヤの回転は止まっているがガリガリと派手な音を立てながらスリップして進んで行く。
――ダメだ、止まれない。
央弥は咄嗟に辰真の腰辺りを捕まえて、左側に倒れ込むようにして転がり落ちた。受け身すら取れずに猛スピードで地面に転がって、何かにぶつかってようやく止まった。
「う…う」
派手に揺さぶられて上も下もわからない。自分が今、一体どうなっているのか。
「か、さい…さ…ん」
グラグラと揺れる視界のまま辰真を探す。顔を上げようとすると首が痛んだ。
「大丈夫ですか!?」「やば…」
「救急車!」「おい、聞こえるか!」
何やらそんな言葉で周りが騒がしい。
地面に手をついて立とうとしたが、上下感覚が狂っていてうまくいかない。視界が揺れ続けている。しかしその中になんとか辰真を見つけた。
「かさ…い、さん」
腕が痛い。首も、足も、全身がドクドクと脈打つように痛い。辰真は目を閉じて倒れている。その体はピクリとも動かない。
「かさいさんっ…」
なんとか近くまで来たが、央弥も限界だった。
「おねが…目ぇ、開けて…」
ーーー
ふ、と意識が浮上して目を開けると白い天井に緑のカーテンが見えた。清潔な匂いがする。どうやらここは病院のようだった。
「……」
「葛西さん!!」
「わっ」
耳元で大声が響いて体がビクッと跳ねる。
「良かった…!痛いとこある?喉乾いてない?」
「…大丈夫だ。お前こそ」
「俺は大丈夫!ただの打撲と脱臼!」
それから軽い脳震盪、と言って央弥は自身の頭を突いた。その頬には大きなガーゼが貼られていて、手も首も包帯だらけだが、怪我自体はそこまで酷くないらしい。
「本当にごめん…俺が昼飯なんか誘ったから、自転車を用意したりしたから…」
央弥の手が伸びて、辰真の左腕に触れた。右腕はガッチリと固定されている感覚があり、どうやら骨折したようだ。
「…死んじゃうかと思った」
「泣くなよ」
情けなく下がった眉、弱々しく震える睫毛。少しおかしくなって辰真は笑った。そんな辰真を見て、央弥は掴んだ左手に衝動的にキスをした。
「…な、おま、なに…」
「好き」
ドクッと心臓が鳴った。いけない、聞いてはいけない。
「好き…葛西さん」
バッと掴まれた手を振り解いて辰真は目線を逸らした。
「…帰れ」
その態度を見て、央弥は冷静になって我に帰り、小さく「ごめん、こんな時に」と謝ると病室を後にした。
【ブレーキ 完】
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