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中段
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「ですが近頃は、晴信様のお心が国主である事を受け入れ、民を導こうとなされているように見受けられます。これも、人の行う記憶の反芻が、晴信様のお気持ちに覚悟というものを与えたからと、この頼継、大変喜ばしく存じております」
記憶の反芻、と晴信は口の中でつぶやく。そういえば近頃、寝る前に色々な事を思い出し、あれはどういう意味だったのか、どういう意図だったのかなどと、深く考える事が多くなった。それが自分の覚悟を育てたというのだろうか。
そうかもしれないと、晴信は目を閉じる。脳裏に、父を追放すると決まった時から今までの、様々な事が渦巻いていた。それら一つ一つが、国主という立場への意識を築く礎となっている。
「晴信様のそれは、良い方に作用したのでしょう。先ほど申しましたように、記憶の反芻は哀しみや羨み、怒りなどというものを生み出す事もございます」
「俺は、何か不手際をしたのか」
「さにあらず。――先ほど、私は息子が重用されるのを、父としてうれしい限りと申しました。これを、晴信様はどうお考えになられますか」
「どう……」
晴信は妙な顔をして頼継を見た。彼の顔に書いてあるものを読み解こうと、体中の意識を向ける。頼継の姿に克頼の顔が透けて見えた気がして、晴信はまたたいた。
「何か、お気づきになられましたか」
「克頼は、とても頼りがいのある相手だ。今回の策も克頼の提案。そして栄殿の報告が無ければ、浮かばなかったものだ。隼人の存在も助けになっている。隼人がいなければ、里の巡察は思うように行かなかっただろう。それが、今回の策の下地になった」
考えながら喋る晴信を導くように、頼継は包む瞳で彼を見ていた。
「俺は、克頼ひとりを重用しているつもりでは……」
「つもりは無くとも、周りがどう受け止めるかを、お考え下さい」
「周りが?」
頼継が静かに頷く。晴信は口に手を当て、視線を落とした。頼継は何を気付かせようとしているのだろう。
晴信は馬を下りてからの頼継の言葉を探った。その中に手がかりがあるはずだ。
一人を重用するのは良くないと頼継は言った。晴信は克頼のみを重用しているわけではない。隼人を巡察の使者として使っている事は、誰もが知っている。栄がひそかに文を見せてくれた事は、克頼と頼継、隼人と義元、そして兵部の五人にしか話をしていない。
ん、と晴信はひっかかった。
今、自分は頭の中で何と言った?
「あ」
気付いたらしい晴信に、頼継が頷く。発見に驚く晴信に、どうなされますかと頼継が声をかけた。
「どうもこうも……。そうか、そういう事か」
隼人は民の代表として、晴信に仕えている。霧衣の臣下の中で晴信が相談し頼るのは、克頼ばかりだった。傍若無人な父が乱していた国を支えてきた者がいる。その者に、自分は一度でも相談をしただろうか。無知な部分を補って欲しいとは頼んだ。だが、考えを練りまとめ、行動を起こすとき傍に置いていたのは、克頼ただ一人。他の者には決定事項を告げるばかりだった。今回の策も彼らからすれば、克頼の意見を重用し実行するため、その父を利用して宿老に結果を告げたと思われる可能性がある。
義元や兵部も人の子であり、人の父だ。
「村杉の里は遠い。そして危険だ。若く腕の立つ者を連れて行こうと思う」
頼継が褒めるように目を細めた。
「義元の息子、義孝は父に似て勇猛。兵部の息子、信成は槍の遣い手とか」
「では、その二人を是非にと言おう」
成り行きを聞いていたのか、晴れやかな晴信の声に呼応するように、馬がブルルと満足そうに鼻を鳴らした。
女駕籠の用意に、晴信は首を傾げた。栄とその侍女である茜が乗るのだろうが、栄は馬を巧みに操る。茜も馬に乗れると聞いているので、狭い駕籠に押し込められるよりも、騎乗のほうが楽なのではと思いつつ、何か理由があるのだろうと、晴信は彼女が出てくるのを待った。村杉の里に向かう一行の前に、美しく着飾った栄が現れ、どよめきが起こる。
栄はいつもの落ち着いた色合いの小袖と袴ではなく、若葉の小袖に見事な刺繍のほどこされた打掛を羽織っていた。艶やかな黒髪を肩に零して、栄が頭を下げる。つられるように頭を下げる者が出た。栄は粛々と女駕籠に乗り、茜が続いた。着飾った栄の美しさに見惚れていない者は、克頼だけであった。
「栄姫殿がお乗りになられた。行くぞ」
いささかも興味を示さぬ克頼の様子に、ひそひそとしたささやきが飛ぶ。あれほど美しい姫を見ても無反応なのは、人とは違った美意識を持っているからだ。幾度も晴信様と共に対面をなされているので、見慣れてしまったのだろう。克頼様はご自身が美麗であるから、あの姫の美しさなど歯牙にもかけぬのではないか。
などという声が聞こえていないはずは無いのに、克頼は眉一つ動かさず、村杉の里へ向かう一行を指揮していた。先導は隼人。彼もいつものような軽装ではなく、きちんとした身なりをしていた。
記憶の反芻、と晴信は口の中でつぶやく。そういえば近頃、寝る前に色々な事を思い出し、あれはどういう意味だったのか、どういう意図だったのかなどと、深く考える事が多くなった。それが自分の覚悟を育てたというのだろうか。
そうかもしれないと、晴信は目を閉じる。脳裏に、父を追放すると決まった時から今までの、様々な事が渦巻いていた。それら一つ一つが、国主という立場への意識を築く礎となっている。
「晴信様のそれは、良い方に作用したのでしょう。先ほど申しましたように、記憶の反芻は哀しみや羨み、怒りなどというものを生み出す事もございます」
「俺は、何か不手際をしたのか」
「さにあらず。――先ほど、私は息子が重用されるのを、父としてうれしい限りと申しました。これを、晴信様はどうお考えになられますか」
「どう……」
晴信は妙な顔をして頼継を見た。彼の顔に書いてあるものを読み解こうと、体中の意識を向ける。頼継の姿に克頼の顔が透けて見えた気がして、晴信はまたたいた。
「何か、お気づきになられましたか」
「克頼は、とても頼りがいのある相手だ。今回の策も克頼の提案。そして栄殿の報告が無ければ、浮かばなかったものだ。隼人の存在も助けになっている。隼人がいなければ、里の巡察は思うように行かなかっただろう。それが、今回の策の下地になった」
考えながら喋る晴信を導くように、頼継は包む瞳で彼を見ていた。
「俺は、克頼ひとりを重用しているつもりでは……」
「つもりは無くとも、周りがどう受け止めるかを、お考え下さい」
「周りが?」
頼継が静かに頷く。晴信は口に手を当て、視線を落とした。頼継は何を気付かせようとしているのだろう。
晴信は馬を下りてからの頼継の言葉を探った。その中に手がかりがあるはずだ。
一人を重用するのは良くないと頼継は言った。晴信は克頼のみを重用しているわけではない。隼人を巡察の使者として使っている事は、誰もが知っている。栄がひそかに文を見せてくれた事は、克頼と頼継、隼人と義元、そして兵部の五人にしか話をしていない。
ん、と晴信はひっかかった。
今、自分は頭の中で何と言った?
「あ」
気付いたらしい晴信に、頼継が頷く。発見に驚く晴信に、どうなされますかと頼継が声をかけた。
「どうもこうも……。そうか、そういう事か」
隼人は民の代表として、晴信に仕えている。霧衣の臣下の中で晴信が相談し頼るのは、克頼ばかりだった。傍若無人な父が乱していた国を支えてきた者がいる。その者に、自分は一度でも相談をしただろうか。無知な部分を補って欲しいとは頼んだ。だが、考えを練りまとめ、行動を起こすとき傍に置いていたのは、克頼ただ一人。他の者には決定事項を告げるばかりだった。今回の策も彼らからすれば、克頼の意見を重用し実行するため、その父を利用して宿老に結果を告げたと思われる可能性がある。
義元や兵部も人の子であり、人の父だ。
「村杉の里は遠い。そして危険だ。若く腕の立つ者を連れて行こうと思う」
頼継が褒めるように目を細めた。
「義元の息子、義孝は父に似て勇猛。兵部の息子、信成は槍の遣い手とか」
「では、その二人を是非にと言おう」
成り行きを聞いていたのか、晴れやかな晴信の声に呼応するように、馬がブルルと満足そうに鼻を鳴らした。
女駕籠の用意に、晴信は首を傾げた。栄とその侍女である茜が乗るのだろうが、栄は馬を巧みに操る。茜も馬に乗れると聞いているので、狭い駕籠に押し込められるよりも、騎乗のほうが楽なのではと思いつつ、何か理由があるのだろうと、晴信は彼女が出てくるのを待った。村杉の里に向かう一行の前に、美しく着飾った栄が現れ、どよめきが起こる。
栄はいつもの落ち着いた色合いの小袖と袴ではなく、若葉の小袖に見事な刺繍のほどこされた打掛を羽織っていた。艶やかな黒髪を肩に零して、栄が頭を下げる。つられるように頭を下げる者が出た。栄は粛々と女駕籠に乗り、茜が続いた。着飾った栄の美しさに見惚れていない者は、克頼だけであった。
「栄姫殿がお乗りになられた。行くぞ」
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などという声が聞こえていないはずは無いのに、克頼は眉一つ動かさず、村杉の里へ向かう一行を指揮していた。先導は隼人。彼もいつものような軽装ではなく、きちんとした身なりをしていた。
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