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「綾子さんは、時々来るんか」
「せやね。時々、本借りに来るよ。お裁縫の本とかな、暇やから役にたたへんようなもん作っては、人に配るんや」
「ほな俺、適当に見たい本探すし」
「せやね。ほな、後で。気分悪くなったら、すぐ言いや」
頷き、綾子を見送る。どこに何があるのかがわからず、館内案内の前に立った。何を読もうかと思った瞬間、無性に兄が嫌悪した課題図書が読みたくなった。あれは、なんというタイトルだったか。
とりあえず児童書の棚へ行こうと、足を向ける。絵本のコーナーには靴を脱いで上がるスペースがあり、幼児が母親と絵本を楽しんだり積み木遊びをしていた。その横に小学生向けの棚が並んでいて、誠治は本を眺めながらぐるりとまわり、それっぽいタイトルの本を見つけては手に取り、戻していく。
一周しても見当たらず、もう一周する。
タイトルも作者も覚えていない本を図書館で探すなど無謀に等しく、こんなことで見つかるはずもない。
どうしようかと少し考え、貸し出しカウンターへ向かった。エプロンをつけた、髪を後ろで一つに束ねている女性がパソコン画面に何かを打ち込んでいる。パソコンの横には積み上げられた本。返却図書だろうか。声をかけられずにいる誠治に気付くと、女性はにこりと微笑んだ。
「貸し出しですか。返却ですか」
「あ、や――、本を探しとるんです。せやけど、作者名もタイトルもわからんくて」
言ってから、後悔する。これだけ大量の本があるのだ。作者名もタイトルもわからない本を探そうなど、無謀にもほどがある。問われても迷惑をするだけだろう。
「有名な本、でしょうか」
首をかしげて女性は言い、誠治は目を丸くする。
「え、ああ。小学生の課題図書になっとったから、有名やと思います」
深く頷いて見せてから、女性が言った。
「どんな内容か、教えていただけますか」
「え、あぁ。えぇと――江戸時代かそれくらいの話やと思うんです。舟で罪人を運んでいる間に、いろんな話をするっていう……なんやったかな。舟に乗る時、お金をもらって、どうやらこうやら言うて、なんで罪人になったんやって、船頭さんが聞いて、なんや色々と考えるっていう話なんですけど」
少し考えるそぶりをしてから、女性はパソコンに何かを打ち込んでいく。しばらくして、にっこりと誠治に言った。
「多分、それ、森鴎外の高瀬舟だと思います。ここからまっすぐ行って突き当たりの棚右側の、作者名がマ行のところにありますよ」
「あ、えっと、すんません」
「いいえぇ」
ぺこりと頭を下げて、誠治は言われた場所へ向かった。
言われたタイトルの本は、すぐに見つかった。他にも短編がいくつか収録されている。本を手にして、近くにあったイスに腰掛けて広げる。兄が特別嫌った本。本を読む事が嫌いではなかった自分が、感想文を書くのにひどく困った作品だ。
舞台は京都の夜の川。小さな小舟の中で行われる罪人の男と護送人の対話のみの内容。嘆き悲しむことの多い罪人が多い中、登場する罪人は少しも悲しみや悔しさを見せず、役人である護送人に取り入ろうとする態度も見せない。見送りの人間もいない。不思議に思った護送人が、男に質問をして答えを聞く。さらに疑問がわき、質問をして自分の生活と照らし合わせる。さらに疑問が深まり、答えの出ないまま話は終わる。
すぐに読み終わった。誠治は次の短編を読もうとせずに、もう一度読み返した。護送人の思い、罪人の思いよりも、誠治は罪人の弟のことが気にかかった。
病気の弟は自殺を計ったが、失敗する。そこに兄が帰ってくる。医者を呼ぼうとする兄に、どうせ助からないから止めを刺してくれと求め、兄がそれを行った時に、時折世話を焼きに来てくれていた人が現れて通報する。兄は弟殺しの罪人になり、牢に入れられる。今まで、やっとのことで口にしていた食事を、牢内では何もせぬまま与えられ、刑が確定すれば温情として金を渡された。護送先では住居と仕事もあるらしい。送られた先でどのようなことになるのかはわからないが、この男は罪人になったことで生活が好転している。
もし、自分が同じ立場なら。
誠治は本の、弟の話をしているページを見つめながら思う。
もし、自分が同じ立場ならどうするのだろう。
もし、この自殺を計った弟が、自分さえいなれば兄の生活は楽になると知っていたとしたら。
いや。いなくなれば、働けない弟を養う負担が減るから楽になるのは明白で、それ以上の生活を望むのであれば、兄が罪人になれば――なまなかな罪人ではなく、死刑にもならない程度の罪人になれば、今よりもずっといい生活が送れると知っていたとしたら。
仕事があり、住む場所もある。食事も与えられる。日々の糧をやっとの思いで手にし続けていた事を思えば、罪人になることくらいどうということはない、と思える生活なのだとしたら。そしてそれを、自分が兄に与えることができると知ったならば。その末の行動ならば――。
軽く頭を振ってから細く長い息を吐く。一体何を考えているのか。読書感想文なら、間違いなく落第点だろう。そういうことを書いている話ではないはずだ。パラパラとページをめくり、巻末にある書評を読む。安楽死や人の欲についてが、難しい言葉で書かれていた。子どもの課題図書にしてはテーマが重く、またわかりやすい話でもあると思う。兄が嫌い、幼い自分が感想文に困ったのもうなずける。
しかしなぜ、自分はあの時、数冊ある課題図書の中でこれを選んだのか思い出せない。何か理由があったのか、単に最初に目に付いたからなのか。
読み終えて、目を閉じる。あの頃とはまったく違う感想を持っていると、誠治は自分の心に目を向ける。小学生の頃の自分は、罪人の弟の気持ちなんて少しも考えなかった。むしろ、それを思っていたのは兄のほうではなかったか。自殺なんて身勝手だと、怒ってはいなかっただろうか。
「誠ちゃん、平気か」
いつのまにか、記憶の道を深く辿っていたらしい。声に顔を上げると、心配そうな綾子の顔があった。
「大丈夫や。ちょっとな、思い出しとってん」
「何、思い出しとったん」
「小学生んとき、夏休みに必ず読書感想文を書かなあかんくってな。そんとき、読んだことある話やってん」
「へぇ」
本を見せてみたが、反応は薄い。綾子は読んだことがないのだろうか。
「そろそろ戻らな。夕ご飯の支度、あるしな。いくつか本みつくろって、借りて帰ろ」
「せやな」
他の本を読む気にはなれなかったが、心配をかけたくなかったので目の前の棚から適当に二冊ほど取り出した。高瀬舟と一緒に綾子に渡して、貸し出しカウンターに向かう。カウンターには先ほどの女性が居る。誠治を見て微笑み、誠治もそれに応えた。
「あら、誠ちゃんもスミに置けんねぇ」
「そんなん、ちゃう」
クスクスと笑いながら、女性が綾子の貸し出しカードで誠治の本も貸し出し処理を行う。綾子はカバンから手提げを取り出し、それに本を入れた。
階段を下りてドアをあけると、むわっとした空気が迫ってきた。帽子を被り、歩き出す。ピーク時を過ぎているとはいえ、冷房の部屋になれた身体には堪える。部屋に帰り着く頃にはくたびれきって、部屋に入ったとたん壁に背を預けて座り込んだ。
綾子が冷蔵庫から出してくれた麦茶を飲み干す。グラスを床に置き、手についた水滴をズボンで拭いて、借りてきた本を取り出した。高瀬舟を広げて、読み返す。罪人の言葉を繰り返し、繰り返し読んだ。
弟を殺したいきさつを語る口調は、どんな調子だったのだろう。どんな声音だったのだろうか。
誠治は罪人に感情の起伏がないように思えた。淡々と、何もかもあるがままを受け入れているだけで、意思というものがないような――。そうしなければ、堪えられなかったのだろうか。今までの生活も、弟の死も。牢に入っている間、どんなことを思っていたのだろう。何度思い出したのだろう。止めを刺して欲しいと願った弟の目。弟の喉に刺さった刃物を引き抜いたときの感覚。弟の最後の嬉しそうな顔。もし、自分が同じことをすれば、兄はどんな気持ちになるのだろう。
「ご飯、出来たで」
はっとして顔を上げる。部屋に差し込む日差しは茜色が混じっていた。しばらくすれば、あっという間に空は藍色になってしまうだろう。
本を置いて、卓袱台を広げる。そういえば、この家に来てから食事の時間はずいぶん健康的なものになっているなと、誠治は顔を上げた。朝は兄が出かける前に綾子が作った御飯に味噌汁、一品もののおかず。昼も時間通りに食べて、夕方も日の暮れるころに食べている。
仕事をしているときは、朝食を抜くこともしばしばで昼はコンビニ弁当。夜も遅く帰ってから食べるので、腹が膨れればいいというような大雑把な状態だった。カロリーだけは摂取しているというような食事から、きちんと時間を守った温かい食事に変化している。
いつだったか、兄がこういう食事は久しぶりで有難いと言っていたことがある。仕事先で誠治が倒れるまで別に生活をしていた兄の秀治も、食生活は乱雑だったらしい。引っ越してきて、隣が綾子でよかったと笑っていた。
誠治が広げた卓袱台に、綾子が料理を並べていく。今夜のオカズは茄子とそぼろの味噌炒め。そういえば、家庭菜園をしている誰かから、たくさん茄子をもらったのだと綾子が言っていた。
「これから、調子えぇときは時々出かけようか」
「せやな。俺、全然出てへんから、このへんのこと、ようわからんしな」
半年近くも住んでいるのに、誠治は窓から見える景色や、綾子や秀治の話の中でしか、このあたりのことを知らない。さすがに何も知らないままでいるというのは、問題があるだろう。そう思いながら、知ってどうするんだという気持ちもあった。
自分はこのまま、この部屋で兄の世話になり続けるしかないのではないか。そういう不安が、ずっとつきまとっていた。世話をしてくれている綾子にも、負担をかけている。
「綾子さん」
「うん」
「いつも、ごめん」
綾子の表情を見たくなくて、味噌汁を飲む。急に申し訳ない気持ちがこみ上げてきて、目を合わせられなくなった。
「ごめんやのうて、ありがとうて言い。悪いこと、なんにもしてへんねんから」
「うん」
味噌汁を置いて、御飯に箸を伸ばす。温かい御飯と味噌汁。これが当たり前だった生活が、過去にはあった。ないことが当たり前になったのは、いつだっただろう。家族といることが当たり前じゃなくなった日は、いつだったか。いまの生活は、いつ終わってしまうのだろう。
「綾子さん」
「うん」
「兄さんが結婚して、出て行ったらどうする」
「なんや。秀ちゃん、そんな人おるんか」
「今はおらんみたいやけど、いつかは出来るやろ」
「おめでたいけど、さみしいな」
「そうやのうて、俺一人になるねんで」
「それまでに、はよ元気にならんといかんな」
答えられずに、誠治は俯いた。
無言のまま食事を終えて、食器を片付けた綾子が茶を淹れて来る。それを飲みながら、誰かに貰ったと言って綾子が剥いたリンゴをかじる。かじりながら、自分はここにいていいのだろうかと、誠治は震えた。
綾子も、秀治も、昼間に出会った井上という男も、生きている。生きようとしているように見えた。
低所得者層を支援するための国営のマンションと言っても、無料ではない。それを支払い、生活するだけの収入がある。一人で社会生活を築ける力がある。だが、自分はどうだ。
職場で倒れて、解雇になり、会社の寮を追い出されることになった。そのことをどこで知ったのか、突然兄がやってきて、引越しの準備は出来ているからと大きなダンボール箱二つに政治の荷物を手際よくまとめた。
倒れてから、思考が止まってしまって、身動きすらもできなくなっていた誠治に笑いかけ、これからは一緒だ、心配するなと言った。自分の存在すらもあやふやになりかけていた誠治は、兄に運ばれるままに、会社の寮からここに運ばれた。
誠治は、兄がどんな仕事をしているのかを知らない。聞いたことがないどころか、気にしたことすら――気にする余裕すら、持てなかった。ぶわぶわと広がっていく、あやふやになりたがる自分の輪郭をなんとか留めるだけで、せいっっぱいだった。
兄は朝の7時ごろに出かけて、夜9時すぎに帰ってくる。会社の同僚と、どんな話をしたのか。どんな出来事があったのかを兄は話すが、仕事に関係する内容は、ひと言もしゃべらない。どこにある会社なのか、いつから勤務しているのか、誠治は知らない。
大学を出て就職をし、会社の寮に住みだしてから血縁者との連絡は希薄になった。兄のことも気にも留めないでいた。それなのに兄はなぜ、自分を引き取ってくれたのか。
会社が調べて、連絡でもしたのだろう。それで仕方なく引き取ったのかもしれない。それなのに兄は迷惑そうな顔もしないし、誠治を邪険に扱ったこともない。働きに出ようとしないことを責めない。早く元気になれとも言わない。それが不思議で、誠治は聞いてみたことがあった。何故、働けといわないのかと。すると兄は笑って答えた。
「働けるようになったら、働くやろ。無理して働いて、身体を壊すほうが難儀や」
医者には通っていない。安静にしていれば治るだろうと、誠治は思っていた。何より医療費が問題だった。兄はそれについても何も言わなかった。過労だから医者にいかずとも安静にして栄養を摂りさえすれば治ると思っているのか、医者に行けといえるほど兄に収入がないのか。
誠治に収入はない。退寮してから退職金と、消化していない有給分の給与は受け取った。それを兄は、使っていない。通帳の番号を聞かれたことがないし、持ち出した形跡もない。兄は自分の収入だけで自分と誠治を養い、綾子に食費を渡している。生活費を出せと言われれば、ここまで申し訳なく思うことはなかっただろう。
そう思いながらも、生活費を出すと兄に言うことは出来なかった。いつか訪れるはずの、兄が離れていく日が怖かった。何も言われないことをいいことに、兄に甘えている。綾子にも甘えている。誰も文句は言わない。日がな一日寝転がり、何もせず、食べるだけはしっかりと食べる自分に何も言わない。だからこそ余計に誠治は現状に焦燥し、具体的な対策が何も浮かばない自分に絶望し、結局また同じ日々を繰り返し、温い生活を続けている。
いっそのこと、なじってくれればいいのにと思うときもある。だが、そう言うことも出来なかった。見捨てられることが怖かった。だから、ずっと何もしないままで過ごしていた。何も言わないままで過ごしていた。変わることが、怖かった。
「綾子さん」
「はぁい」
食器を洗い終えた綾子が、エプロンで手を拭き部屋の電気をつけてやってくる。
「高瀬舟って話、読んだことあるか」
「さあ。わからんねぇ。借りてきた本なんか」
本を差し出すと、綾子はすぐに開いた。誠治は窓に近づいて、外を眺めた。空はすっかり藍色に変わっていた。流れてくる風がヒンヤリとしている。どこからか、おいしそうな香りがほんのりと漂ってくる。耳を済ませると、かすかな虫の音が聞こえてきた。昼間は、蝉が鳴いていたというのに――。
ため息が聞こえて、綾子が読み終えたことを知った誠治は空から視線を離した。
「なんや、難しい話やねぇ」
綾子は、いろんな感情がありすぎて、どれを出していいのかわからない顔になっていた。
「俺な、小学生んとき宿題で読んだんや。本読むんは嫌いやなかったし、感想文は苦手やったけど、宿題で本読むんは嫌やなかってん。アニキは本を読むんが苦手で、俺が読んだんを聞いたり感想文を写したりしててん。そんとき、アニキこの本の感想文だけは嫌いやって写さんかった。キモチワルイて、勝手やって言って、嫌がってん」
「勝手て、誰が」
「わからへん。多分、罪人の弟のことやと思う。もしかしたら、全員のことかもしれへんけど」
誠治が視線を本に落とすと、綾子も視線を落とした。
「俺な、読み直して、弟は自分が死んだらアニキが楽になるて思って、自殺したんちゃうんかなって、思ってん。それ以上に、アニキが罪人になったら、今よりもずっとえぇ生活できるんちゃうかって思って、わざと自殺に失敗してみたんちゃうんかなって」
綾子の表情が硬くなる。これ以上は言ってはいけない気がしながらも、誠治は全てを口に出したかった。綾子に甘えて、自分の弱音を含んで吐き出したかった。
「賭けやったんちゃうかなって思う。噂話とかで、罪人がどうなるんか聞いたことがあったんかもしれん。アニキが帰ってくる時間を見計らって、わざと失敗して。様子を見に来てアニキを通報したばあさんも、もし仲間やったとしたら。捕まって裁かれるときに証言して、情状酌量訴えて、死刑にはならんようにしてくれ、島流しにして今よりもえぇ生活させてやりたいんやて弟が頼んでたんを承知して、二人して計画したことやったらって、思ったんや」
綾子の白い手が、強く拳を握りしめてさらに白くなる。
「俺は――」
「死んだらあかん」
鋭い声が誠治の言葉を遮った。今まで聞いたことのない厳しい声音に、はっとして顔を上げる。
「死んだら、終わりや。賭けやなんて、そんなん身勝手や。自分がいなくなればえぇなんて、勝手すぎるわ。残されたモンがどんな気持ちになるんか、ちっとも考えてへん。自己満足で、自分勝手で、下らんわ」
綾子の身体が小刻みに震えている。声が硬い。俯いているせいで、綾子の表情は見えなかった。
「綾子さん――」
呼びかけた誠治を振り払うように、綾子は本を置いて立ち上がり、背を向けた。
「冷蔵庫ん中に孝ちゃんの分、入れてあるからな。っためて食べるよう言うて」
「綾子さん」
立ち去る綾子を見送り、誠治は上げた腰を再び下ろした。
本を手に取る。
何度読んでも、弟の話をしている箇所が気になった。兄は、本当に喜んでいるのだろうか。ありがたいと、自分に言い聞かせていたのではないだろうか。屋根のある場所で働かずとも食事を――今までよりもずっと良い食事を与えられ、金まで与えられて喜ばなければいけないと思っていたのではないだろうか。弟が事切れた後、罪人となり投獄されている間に、弟の意図を知ったのではないか。
そういう疑念が、誠治の中に凝り固まってゆく。
ただ治る見込みがないからと、絶望して命を絶とうとしたのかもしれない。失敗して、止めをためらう兄を恨み、望みをかなえると兄が決心した瞬間に喜んだのは、先の見えないやわらかな恐怖や不安から逃れられると思っただけなのかもしれない。
しかし誠治には、それが自分の望みが叶うと同時に、兄の今後が今以上に良くなるであろうという希望が、最後のときに喜びを浮かばせたのではないかと思えてならない。
誠治は物語の弟に、気持ちを寄り添わせた。
このまま自分の世話をしていては、仕事で得たものを右から左へ流すだけでは足りなくなるだろう。兄は自分の世話を優先し、己のことを後回しにしていると、弟は感じていたのではないだろうか。そうだとすれば、兄が思っていなくとも、思っていないからこそ、自分の存在が重石なのだと感じてしまう。
文句を言われるほうが、ずっといいと思うくらいに、優しさに追い込まれていたのなら。
もし、自分の死が兄の生活を楽にすると知っていたら。楽にするどころか良い方向に変えることが出来るのであれば。自分が兄にできることがあると、思ってしまったら――。
弟は、喜んでそれを実行したのではないだろうか。
兄はずっと弟と共に過ごしてきたと言った。苦楽を共にしてきたと言った。それならば、互いのことを知り、お互いの考え方などを十分に理解しうる間柄であったのならば、兄が弟の気持ちに気がついて、だからこそ穏やかな顔をして護送人に話をしたのではないだろうか。自分に言い聞かせるつもりで、有難いと口にしたのではないのだろうか。弟を助けることが出来ず、弟を追い詰めてしまったという気持ちが、あったのではないだろうか。だからこそ、弟が作った道を受け入れようと思ったのではないだろうか。
自分は、兄はどうなのだろう。
誠治は本に目を落としながら考える。罪人の弟が、何の病かはわからない。助かる見込みはないという。自分は医者には通っていない。正式な病名はわからない。身体のどこかが痛いとか、そういうことはない。時折呼吸が苦しくなり、身体が震える。ろれつが回らなくなり、急に何かに追い立てられるような心持になる。叫びたくなる。どこかの片隅でうずくまっていたいと思う。消えてしまいたいと思う。それとともに、消えることへの恐怖も湧き上がる。
兄がいるところで、そのような症状を見せたことはない。綾子は、薄い壁の向こうで誠治の叫びを聞いたことがある。駆けつけて、抱きしめてくれたこともある。兄には言わないでくれと、泣きながら頼んだ。兄は自分が過労だと思っているだろう。いつかは治ると、思っている。だからこそ自分の世話をしてくれているのだと、誠治は思っていた。だがもしこれが、一生治らないものだとしたら――。
ぞくり、と背中が震えた。誠治自身、治るとも治らないとも思っていなかった。ただ、静かに無気力な自分を自覚しているだけだった。時々起こる発作を、なんとなく受け入れているだけだった。考えないようにしていたのかもしれない。だが、思ってしまった。――治らないかもしれない。
「ッ…………ァ――――――――――――」
声にならない叫びが、喉から搾り出される。身体を抱きしめ、うずくまった。額を床にすりつける。耳がやけに鮮明に音を拾う。秋の虫の音が、昼間の蝉よりもうるさく頭に響いた。
何かに駆り立てられる。
それが何かはわからない。
視界の端に、本が見えた。
あの、本が。
もし、自分が作中のようなことをしたら、兄は――。
コンクリートと靴が砂を擂り潰す音が聞こえる。
玄関の鍵穴に鍵が入る。
回す音。
誠治は顔をあげる。
目の前には台所。
走り出せば、兄が玄関をくぐるのと同じ速度でコトを済ませることができる。
息が荒くなる。
目が乾く。
玄関のドアが、開く――――――――。
「せやね。時々、本借りに来るよ。お裁縫の本とかな、暇やから役にたたへんようなもん作っては、人に配るんや」
「ほな俺、適当に見たい本探すし」
「せやね。ほな、後で。気分悪くなったら、すぐ言いや」
頷き、綾子を見送る。どこに何があるのかがわからず、館内案内の前に立った。何を読もうかと思った瞬間、無性に兄が嫌悪した課題図書が読みたくなった。あれは、なんというタイトルだったか。
とりあえず児童書の棚へ行こうと、足を向ける。絵本のコーナーには靴を脱いで上がるスペースがあり、幼児が母親と絵本を楽しんだり積み木遊びをしていた。その横に小学生向けの棚が並んでいて、誠治は本を眺めながらぐるりとまわり、それっぽいタイトルの本を見つけては手に取り、戻していく。
一周しても見当たらず、もう一周する。
タイトルも作者も覚えていない本を図書館で探すなど無謀に等しく、こんなことで見つかるはずもない。
どうしようかと少し考え、貸し出しカウンターへ向かった。エプロンをつけた、髪を後ろで一つに束ねている女性がパソコン画面に何かを打ち込んでいる。パソコンの横には積み上げられた本。返却図書だろうか。声をかけられずにいる誠治に気付くと、女性はにこりと微笑んだ。
「貸し出しですか。返却ですか」
「あ、や――、本を探しとるんです。せやけど、作者名もタイトルもわからんくて」
言ってから、後悔する。これだけ大量の本があるのだ。作者名もタイトルもわからない本を探そうなど、無謀にもほどがある。問われても迷惑をするだけだろう。
「有名な本、でしょうか」
首をかしげて女性は言い、誠治は目を丸くする。
「え、ああ。小学生の課題図書になっとったから、有名やと思います」
深く頷いて見せてから、女性が言った。
「どんな内容か、教えていただけますか」
「え、あぁ。えぇと――江戸時代かそれくらいの話やと思うんです。舟で罪人を運んでいる間に、いろんな話をするっていう……なんやったかな。舟に乗る時、お金をもらって、どうやらこうやら言うて、なんで罪人になったんやって、船頭さんが聞いて、なんや色々と考えるっていう話なんですけど」
少し考えるそぶりをしてから、女性はパソコンに何かを打ち込んでいく。しばらくして、にっこりと誠治に言った。
「多分、それ、森鴎外の高瀬舟だと思います。ここからまっすぐ行って突き当たりの棚右側の、作者名がマ行のところにありますよ」
「あ、えっと、すんません」
「いいえぇ」
ぺこりと頭を下げて、誠治は言われた場所へ向かった。
言われたタイトルの本は、すぐに見つかった。他にも短編がいくつか収録されている。本を手にして、近くにあったイスに腰掛けて広げる。兄が特別嫌った本。本を読む事が嫌いではなかった自分が、感想文を書くのにひどく困った作品だ。
舞台は京都の夜の川。小さな小舟の中で行われる罪人の男と護送人の対話のみの内容。嘆き悲しむことの多い罪人が多い中、登場する罪人は少しも悲しみや悔しさを見せず、役人である護送人に取り入ろうとする態度も見せない。見送りの人間もいない。不思議に思った護送人が、男に質問をして答えを聞く。さらに疑問がわき、質問をして自分の生活と照らし合わせる。さらに疑問が深まり、答えの出ないまま話は終わる。
すぐに読み終わった。誠治は次の短編を読もうとせずに、もう一度読み返した。護送人の思い、罪人の思いよりも、誠治は罪人の弟のことが気にかかった。
病気の弟は自殺を計ったが、失敗する。そこに兄が帰ってくる。医者を呼ぼうとする兄に、どうせ助からないから止めを刺してくれと求め、兄がそれを行った時に、時折世話を焼きに来てくれていた人が現れて通報する。兄は弟殺しの罪人になり、牢に入れられる。今まで、やっとのことで口にしていた食事を、牢内では何もせぬまま与えられ、刑が確定すれば温情として金を渡された。護送先では住居と仕事もあるらしい。送られた先でどのようなことになるのかはわからないが、この男は罪人になったことで生活が好転している。
もし、自分が同じ立場なら。
誠治は本の、弟の話をしているページを見つめながら思う。
もし、自分が同じ立場ならどうするのだろう。
もし、この自殺を計った弟が、自分さえいなれば兄の生活は楽になると知っていたとしたら。
いや。いなくなれば、働けない弟を養う負担が減るから楽になるのは明白で、それ以上の生活を望むのであれば、兄が罪人になれば――なまなかな罪人ではなく、死刑にもならない程度の罪人になれば、今よりもずっといい生活が送れると知っていたとしたら。
仕事があり、住む場所もある。食事も与えられる。日々の糧をやっとの思いで手にし続けていた事を思えば、罪人になることくらいどうということはない、と思える生活なのだとしたら。そしてそれを、自分が兄に与えることができると知ったならば。その末の行動ならば――。
軽く頭を振ってから細く長い息を吐く。一体何を考えているのか。読書感想文なら、間違いなく落第点だろう。そういうことを書いている話ではないはずだ。パラパラとページをめくり、巻末にある書評を読む。安楽死や人の欲についてが、難しい言葉で書かれていた。子どもの課題図書にしてはテーマが重く、またわかりやすい話でもあると思う。兄が嫌い、幼い自分が感想文に困ったのもうなずける。
しかしなぜ、自分はあの時、数冊ある課題図書の中でこれを選んだのか思い出せない。何か理由があったのか、単に最初に目に付いたからなのか。
読み終えて、目を閉じる。あの頃とはまったく違う感想を持っていると、誠治は自分の心に目を向ける。小学生の頃の自分は、罪人の弟の気持ちなんて少しも考えなかった。むしろ、それを思っていたのは兄のほうではなかったか。自殺なんて身勝手だと、怒ってはいなかっただろうか。
「誠ちゃん、平気か」
いつのまにか、記憶の道を深く辿っていたらしい。声に顔を上げると、心配そうな綾子の顔があった。
「大丈夫や。ちょっとな、思い出しとってん」
「何、思い出しとったん」
「小学生んとき、夏休みに必ず読書感想文を書かなあかんくってな。そんとき、読んだことある話やってん」
「へぇ」
本を見せてみたが、反応は薄い。綾子は読んだことがないのだろうか。
「そろそろ戻らな。夕ご飯の支度、あるしな。いくつか本みつくろって、借りて帰ろ」
「せやな」
他の本を読む気にはなれなかったが、心配をかけたくなかったので目の前の棚から適当に二冊ほど取り出した。高瀬舟と一緒に綾子に渡して、貸し出しカウンターに向かう。カウンターには先ほどの女性が居る。誠治を見て微笑み、誠治もそれに応えた。
「あら、誠ちゃんもスミに置けんねぇ」
「そんなん、ちゃう」
クスクスと笑いながら、女性が綾子の貸し出しカードで誠治の本も貸し出し処理を行う。綾子はカバンから手提げを取り出し、それに本を入れた。
階段を下りてドアをあけると、むわっとした空気が迫ってきた。帽子を被り、歩き出す。ピーク時を過ぎているとはいえ、冷房の部屋になれた身体には堪える。部屋に帰り着く頃にはくたびれきって、部屋に入ったとたん壁に背を預けて座り込んだ。
綾子が冷蔵庫から出してくれた麦茶を飲み干す。グラスを床に置き、手についた水滴をズボンで拭いて、借りてきた本を取り出した。高瀬舟を広げて、読み返す。罪人の言葉を繰り返し、繰り返し読んだ。
弟を殺したいきさつを語る口調は、どんな調子だったのだろう。どんな声音だったのだろうか。
誠治は罪人に感情の起伏がないように思えた。淡々と、何もかもあるがままを受け入れているだけで、意思というものがないような――。そうしなければ、堪えられなかったのだろうか。今までの生活も、弟の死も。牢に入っている間、どんなことを思っていたのだろう。何度思い出したのだろう。止めを刺して欲しいと願った弟の目。弟の喉に刺さった刃物を引き抜いたときの感覚。弟の最後の嬉しそうな顔。もし、自分が同じことをすれば、兄はどんな気持ちになるのだろう。
「ご飯、出来たで」
はっとして顔を上げる。部屋に差し込む日差しは茜色が混じっていた。しばらくすれば、あっという間に空は藍色になってしまうだろう。
本を置いて、卓袱台を広げる。そういえば、この家に来てから食事の時間はずいぶん健康的なものになっているなと、誠治は顔を上げた。朝は兄が出かける前に綾子が作った御飯に味噌汁、一品もののおかず。昼も時間通りに食べて、夕方も日の暮れるころに食べている。
仕事をしているときは、朝食を抜くこともしばしばで昼はコンビニ弁当。夜も遅く帰ってから食べるので、腹が膨れればいいというような大雑把な状態だった。カロリーだけは摂取しているというような食事から、きちんと時間を守った温かい食事に変化している。
いつだったか、兄がこういう食事は久しぶりで有難いと言っていたことがある。仕事先で誠治が倒れるまで別に生活をしていた兄の秀治も、食生活は乱雑だったらしい。引っ越してきて、隣が綾子でよかったと笑っていた。
誠治が広げた卓袱台に、綾子が料理を並べていく。今夜のオカズは茄子とそぼろの味噌炒め。そういえば、家庭菜園をしている誰かから、たくさん茄子をもらったのだと綾子が言っていた。
「これから、調子えぇときは時々出かけようか」
「せやな。俺、全然出てへんから、このへんのこと、ようわからんしな」
半年近くも住んでいるのに、誠治は窓から見える景色や、綾子や秀治の話の中でしか、このあたりのことを知らない。さすがに何も知らないままでいるというのは、問題があるだろう。そう思いながら、知ってどうするんだという気持ちもあった。
自分はこのまま、この部屋で兄の世話になり続けるしかないのではないか。そういう不安が、ずっとつきまとっていた。世話をしてくれている綾子にも、負担をかけている。
「綾子さん」
「うん」
「いつも、ごめん」
綾子の表情を見たくなくて、味噌汁を飲む。急に申し訳ない気持ちがこみ上げてきて、目を合わせられなくなった。
「ごめんやのうて、ありがとうて言い。悪いこと、なんにもしてへんねんから」
「うん」
味噌汁を置いて、御飯に箸を伸ばす。温かい御飯と味噌汁。これが当たり前だった生活が、過去にはあった。ないことが当たり前になったのは、いつだっただろう。家族といることが当たり前じゃなくなった日は、いつだったか。いまの生活は、いつ終わってしまうのだろう。
「綾子さん」
「うん」
「兄さんが結婚して、出て行ったらどうする」
「なんや。秀ちゃん、そんな人おるんか」
「今はおらんみたいやけど、いつかは出来るやろ」
「おめでたいけど、さみしいな」
「そうやのうて、俺一人になるねんで」
「それまでに、はよ元気にならんといかんな」
答えられずに、誠治は俯いた。
無言のまま食事を終えて、食器を片付けた綾子が茶を淹れて来る。それを飲みながら、誰かに貰ったと言って綾子が剥いたリンゴをかじる。かじりながら、自分はここにいていいのだろうかと、誠治は震えた。
綾子も、秀治も、昼間に出会った井上という男も、生きている。生きようとしているように見えた。
低所得者層を支援するための国営のマンションと言っても、無料ではない。それを支払い、生活するだけの収入がある。一人で社会生活を築ける力がある。だが、自分はどうだ。
職場で倒れて、解雇になり、会社の寮を追い出されることになった。そのことをどこで知ったのか、突然兄がやってきて、引越しの準備は出来ているからと大きなダンボール箱二つに政治の荷物を手際よくまとめた。
倒れてから、思考が止まってしまって、身動きすらもできなくなっていた誠治に笑いかけ、これからは一緒だ、心配するなと言った。自分の存在すらもあやふやになりかけていた誠治は、兄に運ばれるままに、会社の寮からここに運ばれた。
誠治は、兄がどんな仕事をしているのかを知らない。聞いたことがないどころか、気にしたことすら――気にする余裕すら、持てなかった。ぶわぶわと広がっていく、あやふやになりたがる自分の輪郭をなんとか留めるだけで、せいっっぱいだった。
兄は朝の7時ごろに出かけて、夜9時すぎに帰ってくる。会社の同僚と、どんな話をしたのか。どんな出来事があったのかを兄は話すが、仕事に関係する内容は、ひと言もしゃべらない。どこにある会社なのか、いつから勤務しているのか、誠治は知らない。
大学を出て就職をし、会社の寮に住みだしてから血縁者との連絡は希薄になった。兄のことも気にも留めないでいた。それなのに兄はなぜ、自分を引き取ってくれたのか。
会社が調べて、連絡でもしたのだろう。それで仕方なく引き取ったのかもしれない。それなのに兄は迷惑そうな顔もしないし、誠治を邪険に扱ったこともない。働きに出ようとしないことを責めない。早く元気になれとも言わない。それが不思議で、誠治は聞いてみたことがあった。何故、働けといわないのかと。すると兄は笑って答えた。
「働けるようになったら、働くやろ。無理して働いて、身体を壊すほうが難儀や」
医者には通っていない。安静にしていれば治るだろうと、誠治は思っていた。何より医療費が問題だった。兄はそれについても何も言わなかった。過労だから医者にいかずとも安静にして栄養を摂りさえすれば治ると思っているのか、医者に行けといえるほど兄に収入がないのか。
誠治に収入はない。退寮してから退職金と、消化していない有給分の給与は受け取った。それを兄は、使っていない。通帳の番号を聞かれたことがないし、持ち出した形跡もない。兄は自分の収入だけで自分と誠治を養い、綾子に食費を渡している。生活費を出せと言われれば、ここまで申し訳なく思うことはなかっただろう。
そう思いながらも、生活費を出すと兄に言うことは出来なかった。いつか訪れるはずの、兄が離れていく日が怖かった。何も言われないことをいいことに、兄に甘えている。綾子にも甘えている。誰も文句は言わない。日がな一日寝転がり、何もせず、食べるだけはしっかりと食べる自分に何も言わない。だからこそ余計に誠治は現状に焦燥し、具体的な対策が何も浮かばない自分に絶望し、結局また同じ日々を繰り返し、温い生活を続けている。
いっそのこと、なじってくれればいいのにと思うときもある。だが、そう言うことも出来なかった。見捨てられることが怖かった。だから、ずっと何もしないままで過ごしていた。何も言わないままで過ごしていた。変わることが、怖かった。
「綾子さん」
「はぁい」
食器を洗い終えた綾子が、エプロンで手を拭き部屋の電気をつけてやってくる。
「高瀬舟って話、読んだことあるか」
「さあ。わからんねぇ。借りてきた本なんか」
本を差し出すと、綾子はすぐに開いた。誠治は窓に近づいて、外を眺めた。空はすっかり藍色に変わっていた。流れてくる風がヒンヤリとしている。どこからか、おいしそうな香りがほんのりと漂ってくる。耳を済ませると、かすかな虫の音が聞こえてきた。昼間は、蝉が鳴いていたというのに――。
ため息が聞こえて、綾子が読み終えたことを知った誠治は空から視線を離した。
「なんや、難しい話やねぇ」
綾子は、いろんな感情がありすぎて、どれを出していいのかわからない顔になっていた。
「俺な、小学生んとき宿題で読んだんや。本読むんは嫌いやなかったし、感想文は苦手やったけど、宿題で本読むんは嫌やなかってん。アニキは本を読むんが苦手で、俺が読んだんを聞いたり感想文を写したりしててん。そんとき、アニキこの本の感想文だけは嫌いやって写さんかった。キモチワルイて、勝手やって言って、嫌がってん」
「勝手て、誰が」
「わからへん。多分、罪人の弟のことやと思う。もしかしたら、全員のことかもしれへんけど」
誠治が視線を本に落とすと、綾子も視線を落とした。
「俺な、読み直して、弟は自分が死んだらアニキが楽になるて思って、自殺したんちゃうんかなって、思ってん。それ以上に、アニキが罪人になったら、今よりもずっとえぇ生活できるんちゃうかって思って、わざと自殺に失敗してみたんちゃうんかなって」
綾子の表情が硬くなる。これ以上は言ってはいけない気がしながらも、誠治は全てを口に出したかった。綾子に甘えて、自分の弱音を含んで吐き出したかった。
「賭けやったんちゃうかなって思う。噂話とかで、罪人がどうなるんか聞いたことがあったんかもしれん。アニキが帰ってくる時間を見計らって、わざと失敗して。様子を見に来てアニキを通報したばあさんも、もし仲間やったとしたら。捕まって裁かれるときに証言して、情状酌量訴えて、死刑にはならんようにしてくれ、島流しにして今よりもえぇ生活させてやりたいんやて弟が頼んでたんを承知して、二人して計画したことやったらって、思ったんや」
綾子の白い手が、強く拳を握りしめてさらに白くなる。
「俺は――」
「死んだらあかん」
鋭い声が誠治の言葉を遮った。今まで聞いたことのない厳しい声音に、はっとして顔を上げる。
「死んだら、終わりや。賭けやなんて、そんなん身勝手や。自分がいなくなればえぇなんて、勝手すぎるわ。残されたモンがどんな気持ちになるんか、ちっとも考えてへん。自己満足で、自分勝手で、下らんわ」
綾子の身体が小刻みに震えている。声が硬い。俯いているせいで、綾子の表情は見えなかった。
「綾子さん――」
呼びかけた誠治を振り払うように、綾子は本を置いて立ち上がり、背を向けた。
「冷蔵庫ん中に孝ちゃんの分、入れてあるからな。っためて食べるよう言うて」
「綾子さん」
立ち去る綾子を見送り、誠治は上げた腰を再び下ろした。
本を手に取る。
何度読んでも、弟の話をしている箇所が気になった。兄は、本当に喜んでいるのだろうか。ありがたいと、自分に言い聞かせていたのではないだろうか。屋根のある場所で働かずとも食事を――今までよりもずっと良い食事を与えられ、金まで与えられて喜ばなければいけないと思っていたのではないだろうか。弟が事切れた後、罪人となり投獄されている間に、弟の意図を知ったのではないか。
そういう疑念が、誠治の中に凝り固まってゆく。
ただ治る見込みがないからと、絶望して命を絶とうとしたのかもしれない。失敗して、止めをためらう兄を恨み、望みをかなえると兄が決心した瞬間に喜んだのは、先の見えないやわらかな恐怖や不安から逃れられると思っただけなのかもしれない。
しかし誠治には、それが自分の望みが叶うと同時に、兄の今後が今以上に良くなるであろうという希望が、最後のときに喜びを浮かばせたのではないかと思えてならない。
誠治は物語の弟に、気持ちを寄り添わせた。
このまま自分の世話をしていては、仕事で得たものを右から左へ流すだけでは足りなくなるだろう。兄は自分の世話を優先し、己のことを後回しにしていると、弟は感じていたのではないだろうか。そうだとすれば、兄が思っていなくとも、思っていないからこそ、自分の存在が重石なのだと感じてしまう。
文句を言われるほうが、ずっといいと思うくらいに、優しさに追い込まれていたのなら。
もし、自分の死が兄の生活を楽にすると知っていたら。楽にするどころか良い方向に変えることが出来るのであれば。自分が兄にできることがあると、思ってしまったら――。
弟は、喜んでそれを実行したのではないだろうか。
兄はずっと弟と共に過ごしてきたと言った。苦楽を共にしてきたと言った。それならば、互いのことを知り、お互いの考え方などを十分に理解しうる間柄であったのならば、兄が弟の気持ちに気がついて、だからこそ穏やかな顔をして護送人に話をしたのではないだろうか。自分に言い聞かせるつもりで、有難いと口にしたのではないのだろうか。弟を助けることが出来ず、弟を追い詰めてしまったという気持ちが、あったのではないだろうか。だからこそ、弟が作った道を受け入れようと思ったのではないだろうか。
自分は、兄はどうなのだろう。
誠治は本に目を落としながら考える。罪人の弟が、何の病かはわからない。助かる見込みはないという。自分は医者には通っていない。正式な病名はわからない。身体のどこかが痛いとか、そういうことはない。時折呼吸が苦しくなり、身体が震える。ろれつが回らなくなり、急に何かに追い立てられるような心持になる。叫びたくなる。どこかの片隅でうずくまっていたいと思う。消えてしまいたいと思う。それとともに、消えることへの恐怖も湧き上がる。
兄がいるところで、そのような症状を見せたことはない。綾子は、薄い壁の向こうで誠治の叫びを聞いたことがある。駆けつけて、抱きしめてくれたこともある。兄には言わないでくれと、泣きながら頼んだ。兄は自分が過労だと思っているだろう。いつかは治ると、思っている。だからこそ自分の世話をしてくれているのだと、誠治は思っていた。だがもしこれが、一生治らないものだとしたら――。
ぞくり、と背中が震えた。誠治自身、治るとも治らないとも思っていなかった。ただ、静かに無気力な自分を自覚しているだけだった。時々起こる発作を、なんとなく受け入れているだけだった。考えないようにしていたのかもしれない。だが、思ってしまった。――治らないかもしれない。
「ッ…………ァ――――――――――――」
声にならない叫びが、喉から搾り出される。身体を抱きしめ、うずくまった。額を床にすりつける。耳がやけに鮮明に音を拾う。秋の虫の音が、昼間の蝉よりもうるさく頭に響いた。
何かに駆り立てられる。
それが何かはわからない。
視界の端に、本が見えた。
あの、本が。
もし、自分が作中のようなことをしたら、兄は――。
コンクリートと靴が砂を擂り潰す音が聞こえる。
玄関の鍵穴に鍵が入る。
回す音。
誠治は顔をあげる。
目の前には台所。
走り出せば、兄が玄関をくぐるのと同じ速度でコトを済ませることができる。
息が荒くなる。
目が乾く。
玄関のドアが、開く――――――――。
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