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蝉の声が聞こえる。開け放たれたベランダの窓から。台所の窓から。ルーバー式の部屋窓からも。
聞こえるなんて生易しいものじゃない。迫ってくる。襲ってくる。そんな感じで部屋の中に飛び込んできては、そのまま溜まって居座っている。ワンルームに、申し訳程度の台所がついているマンションで、小松誠治は床に転がっていた。
何もする気が起きない。何もする事が無い。何もする事が思いつかない。ごろりと寝返りをうって外を見上げる。雲は小さな塊で整然と並び、少し高くなった青の上を進んでいる。硬く薄い布団から床に転がってみるのに、少しも冷たくはなかった。
ごろごろと転がり、ベランダの前に移動する。まったく風を感じないが、少しはマシなように思えた。じわりとにじみ出た汗の膜が身体を覆い、身体の熱を閉じ込めているような気になってくる。口を開けるとカサカサとして、空気のほうがずっと潤っているような気がした。
少し迷ってから、身体を起こす。鎧をまとっているような気がする。ひどく重く、やはり起き上がるのは止めてしまおうかと床に戻る。
少ししてから、のろのろと立ち上がり、右に左に揺れながら台所に立った。流しの横に置いてあったグラスに、乱暴に水を注いで一気に飲み干す。ぬるく鉄くさい匂いが鼻の奥から外に抜けると同時に、渇きを自覚してもう一杯飲み干した。
「ふぅ」
グラスを置きながら、真後ろの食器棚に背中を預けてずるずると滑り、座る。何もする気が起きない。何もすることが思いつかない。口をあけたまま、斜め上を見上げる。白い壁紙が、上のほうから黄ばんできている。継ぎ目がハッキリと見える。一部だけ、ひどく変色しているところがあった。以前の住人が、其の場所でタバコでも吸っていたのだろうか。そんなことを思いながら、誠治は床に転がった。部屋よりも少し、涼しい気がする。
ガチャガチャと鉤を開ける音がして、甲高い声を上げて扉が来客者を迎え入れた。鍵を閉める音。ガサガサというビニール袋の音。靴を脱ぐ音。あるかなしかの足音は、全てビニール袋の音が消してしまっている。
「ひやっ。あぁもう、ビックリさせんといてぇ」
頭上から声がした。目の前にあるのは、くるぶしまでの靴下。そこから伸びる白い、血管の透けて見える足。膝を隠す落ち着いた色のタイトスカート。少し大きめのTシャツに、薄手のカーディガンを羽織っている。其の上に、頬の肉がすっかり落ちてしまった丸い顔が乗っていた。
「綾子さん」
「綾子さん、やないよ。そんなとこ転がって。邪魔やし、向こうにおり」
誠治がおっくうそうに身体を起こす。這うように布団に戻る誠治を見送り、兵頭綾子は台所に入った。
「すぐに昼ごはん、できるから」
ガチャガチャと、金属の立てる音がする。水の流れる音。軽快な包丁のリズム。それらが蝉の声と混ざって、誠治を包む。目を閉じて、聞くともなしに聞いていると睡魔がやってきた。する事がなく眠ってばかりいると、睡魔は常に横に居てスキを狙っているらしい。
それに抗うこともせず、身をゆだねることもせず、記憶の中を旅し始める。暇をもてあますと、どうにも昔のことばかりを考えて思い出そうとしてしまう。何度も繰り返し反芻すると、意外なことも思い出す。忘れていたこと、忘れていたと思っていたことも甦る。まるで自分は過去にしか生きていないような気になってくる。実際、そんな状態じゃないかと誠治はほんのり口の端に笑みを乗せた。
聞こえてくる音の中に、子どもの歓声が混じった。高い子どもの声はよく響く。建物の壁に反響して、より強く響くのだろう。生命力と同じくらいに。そうだとしたら、自分の声はどれほどの響きを持っているのだろう。
子どもの声で、ふと思い出したことがあった。夏休み、宿題、読書感想文。それらの単語が誠治の記憶の中に道を作る。誠治はそれを進んでいく。色々な本を読まされた。課題図書の中から選んで、読んだものの感想を書かなければいけない。どうして好きな本ではダメなんだろうかと、誰かに質問をした気がした。そうすると、漫画でもいいことになるんじゃないかと、その相手が答えた。質問の相手は、誰だったろうか。どうして大人は、課題図書を難しい本ばかりにしたのだろうか。もっと、冒険ものとかファンタジーものもあったら、兄も楽しんで読めたのに。
兄は本を読むのが苦手で、この宿題が一番苦手だった。算数も国語も社会もぜんぶ、机に向かってする科目は美術と理科以外は苦手だったけれど、読書感想文が一番の苦手だった。だからいつも、学年は違っていても同じ課題図書があった場合、誠治の感想文を真似て書いていた。一度、それがバレてひどく怒られていたことがあった。あれは、何時の頃だっただろう。
子どもの頃の思い出は、遠い物語のような色で見える。その時は悲しくても、苦しくても、思い出になれば、思い出に出来れば、過去になれば自分だけの本を読んでいるような気分になった。誠治は本を読むことが嫌いじゃなかった。むしろ、好きな部類だった。国語の授業も好きだった。感想文や作文は少し苦手だったけれど、嫌じゃなかった。
そういえば、ずいぶんと本を読んでいないな、と思う。社会人になり、必死に働いて、同僚と遊び、上司との付き合いもして、話題づくりのためにテレビを観て――。もちろん、話題づくりのためだけではなく、楽しんで観てはいた。それの時間が長くなるにつれて、本を読む時間も減ってきた。優等生ぶって、というふうにからかわれたのも本から離れた原因かもしれない。
どのくらい、本を読んでいなかったのか。どんな作風の話が好きだったろうか。子どもの頃は、どんな本が好きだっただろうか。
思い出そうとして、記憶の道をろうそくの明かりで照らし、探す。そういえば、読書感想文の中で、ひどく感想に困り、兄が特別嫌った本があった。あれは、なんという本だったろうか。
「寝てしまったんか。お昼、でけたで」
声をかけられて、目を開ける。首を動かし、綾子を見て誠治は立ち上がった。壁に立てかけてあるオモチャのような折りたたみ式の卓袱台を広げると、綾子が昼食を運んできた。そうめんと、焼き茄子や錦糸卵が並んだ。
「そうめんか」
「そうめんや。まだまだ暑いしな、つるつるっと食べられて、丁度えぇ」
手を合わせて箸をつける。食べることも億劫に感じている誠治に与えるには、そうめんは丁度いいのかもしれない。しかし――。
「なんで、夏にはそうめんなんやろな」
ちゅるっとそうめんのシッポをすすって言うと、綾子は焼き茄子を麺つゆに浸しながら答えた。
「そんなん、知らんけど。昔からそやったなぁ」
「何日もそうめんやったら、子どもは飽きるで」
「ほな、誠ちゃんは飽きたんか」
「まだ、飽きてへんよ。なんでやろなぁて思ただけや」
くすりと笑う綾子に、子ども扱いをされた気がして尻の座りが悪くなる。
「アニキが、小さい頃に文句言っとったから」
言い訳じみた言葉が出てきた。
「いっつもいっつも、そうめんやって。子どもは飽きるで。そうめん好きていう子ども、見たことあらへんし」
「おばちゃんは、好きやで。そうめん」
「子どもの頃からか」
「子どもの頃からや」
ふうんと頷いて綾子を見る。綾子の子どもの頃というものが、想像できなかった。はじめて会ったときから綾子は綾子で、ずっと昔から綾子で居るような気がしている。そんなことはないとわかっていても、やはり綾子はずっと昔からこのままだったのではないか。これから先も、ずっとこのままなのではないか。そう、思った。
「不思議や」
「何が」
「綾子さんの子どもの頃が、想像でけへん」
「なんやの、それ。私かて、昔は若かったんやで」
「頭ではわかるんやけどな。子どものとき、まわりの大人が全部最初から大人やったって思ってたような、そんな感じや」
「あぁ」
納得した顔で、綾子がそっと焼き野菜を乗せた皿を誠治に押して寄越した。
「野菜も食べや」
返事の変わりにピーマンを掴んで、そうめんと一緒に口へ運ぶ。そうめんの味は、どこまでいってもそうめんのままで、変わらない。
「アニキは、そうめんよりラーメンのがえぇ言うてた」
「孝ちゃんらしいわ」
ふふっと笑う綾子に、誠治も目を細める。綾子は時折、静かに笑う。それが時折、寂しそうに見えた。その理由を誠治は聞けずにいる。気のせいかもしれないと思いつつ、何かが必ずあるという確信に似たものも感じていた。
この部屋に引越しをし、綾子と会ってからまだ半年ほどしか経っていない。綾子のことは何も知らない。何も聞いたことが無い。一人暮らしで、隣に住んでいて、兄に頼まれて自分の世話をしてくれているということくらいしか、知らなかった。どうして一人なのか、どうしてここに住んでいるのか。気になってはいる。が、聞くのが憚られる。
誠治が兄の孝治と引っ越してきたこのマンションは『国宅』と言う。
福祉事業の一環として、低所得者層が安価で住まいを手に入れ、社会とのつながりを保ち、仕事が出来るようにという配慮のもと、築年数の古い建物を国が買い取り、貸し出しているというシロモノだ。『国宅』に住むには、ある一定の基準がいる。審査もある。それが面倒で入らない人も居れば、プライドが邪魔をして入ろうとしない人も居る。社会福祉団体の用意している施設のほうが、様々な相談を受け付けてくれる人もいるからと、そちらに行く人もいた。
『国宅』はある一定の所得以下で、他人の手を借りることもなく生活できる、または世話をする人間のいる者たちが入居する場所だった。入居してしまえば、あとは普通のマンションやアパートと同じ。管理人が役所であること以外は、各自で近隣の住人との関係を築き、生活をするだけだ。
もっとも、最近はほとんどの人間が関わらない主義を持っているとしか思えない無関心さで、交流という気配は微塵も感じられなかったが。
時折回ってくる回覧板でさえ、回覧ではなくポストに入れっぱなし、という状況なので連絡が回ってこない場合も時折あるようだ。そんな中、隣の綾子が誠治の世話をしにやってくるのは、兄の孝治が引越しの日に綾子に誠治の世話を頼んだかららしい。引越しの日に挨拶をしてくると言って兄が出て行き、しばらくして嬉しそうな顔で戻ってくるなり「隣のばあさんが飯作ってくれるってさ。助かったな」と報告をしてきたのを覚えている。
引越しの片づけをしている兄を眺めていると、インターフォンが鳴ってむすっとした顔の綾子が現れた。壁に背を預けて青白い顔でぼんやりとしていた誠治を一瞥してから「病気なんか」と呟いたかと思うと「台所、使うで」と無言で料理を始めた。
ほとんど荷物と言うものがない状態だったので、綾子が夕食を作り終える頃には兄が片づけを終えており、三人で食事をすることになった。食事は何を食べたのか、よく覚えていない。バカに明るい兄と、疑うような顔をしながらも茶を入れたり、おかわりをよそったりと世話をしてくれる綾子の姿がまったく違う空間でおこっていることのように見えたことは、覚えている。食器くらいは洗うからと台所で洗い物を始めた兄を見送った後、ぽつりと「あんたの兄さんは、ずいぶんと変わっとるな」とかすかに口の端に綾子が笑みを浮かべたことも。
その日、綾子は帰り際に「どうせヒマやし、食事の面倒くらいは見たげるわ。そのかわり、食費は出しや」と言ったらしい。食後、部屋で転がっていた誠治は兄からその話を聞いてはいたが、翌朝、綾子が現れたときは正直、驚いた。本気だとは思わなかったからだ。
「綾子さんも、暇人よな」
食後の茶をすすりながら言うと、怪訝な顔をされた。
「アニキのいきなりの頼み事を聞く気になって、半年近くも俺らの世話しとる」
「せや、暇人や。この歳になると仕事もないしな。年金でつつましく、死ぬまでの時間つぶしをするだけや」
家族は、と言いかけて止める。その言葉は、綾子を傷つけてしまう気がした。
「友達とかは、おらへんのんか」
「おるよ。友達くらい。長いこと住んでるとな、暇な年寄りが集まって、しょうもないこと話しだすんや。昔の話をな、色々話すんねん。昔の話やのうてもな、顔合わせると声だけはかけるんや。名前も知らん人にも挨拶くらいはする。せんのは、若い人か偏屈なジジババだけや」
ニヤリと綾子が笑い、しかられているような気分になって目を彷徨わせる。
「まぁ、孝ちゃんは別やけどな。誰にでも元気いっぱいに声かけてきよる。偏屈なジジババにも、返事もらわれへんでも声かけて、リビエールの年寄りの中では、ちょっとした有名人やで」
リビエールというのは、ここのマンションについている名前だ。
「せやから、一歩も外に出とらんでも、誠ちゃんも有名人やで」
「えぇっ」
心底迷惑だという顔をすると、綾子がいたずらっ子のような顔で笑った。
いつの間にか、色々な顔をするようになったなと思う。最初のひと月くらいは、むすっとしたままで、綾子にすれば最低限の、誠治たちにとっては気の利いた食事の世話をしてすぐに帰っていった。短い返事しか返さない綾子や黙ったままの誠治に、兄が日々の出来事を大きな声で大げさに話をし、綾子や誠治に一日の出来事を聞いてくる。そんな日が、どのくらい続いただろうか。
ぽつぽつと投げた言葉に答えるようになった綾子に、兄は本当に嬉しそうに返事をし、いろんな表情をして聞いた。誠治も、部屋に篭っているだけで変化などない日々のはずが、昼食の話、窓から見える景色や届く声など、たわいないものの違いに気付くようになり、口を開くようになった。そうなると、会話など無いに等しかった兄のいない昼間でも、綾子は誠治に話しかけるようになり、誠治も口を開くようになった。綾子の顔には笑みが浮かび、警戒心をもって綾子を見ていた誠治も、昔から近所に住んでいる人に接するような心持になっていった。
「アニキは昔から、誰とでもすぐ仲良くなるし、知らんところで勝手に俺を知ってる奴ができるねんなぁ」
「なつこいからなぁ」
湯飲みを両手で包み込み、その中にため息をこぼすと綾子が目じりを柔らかくした。
「変な話に、なってへんやろな」
「変なて、何が」
「俺のうわさや」
ああ、という顔をして茶をすすり、綾子が言う。
「孝ちゃんとは違って、人見知りで大人しい子やいう話になってるわ」
本当にそれだけだろうか。その疑問が顔に出ていたらしい。綾子は「本当やで」と言って、コトリと湯飲みを置いた。
「ちょっとずつでも、お外出られそうなら出てみたらええ。出たらあかんことは、無いんやろ」
誠治も湯飲みを置く。外に出たくないわけではない。出る理由が見つからないのだ。別に理由など無くても出て行けばよいのだろうが、半年も篭っていると、理由が欲しくなる。もともと外出が苦手なので、目的や理由がないと出づらかった。外出先で倒れてしまったら、という不安もある。
職場で倒れたときは、誰も助け起こそうとしてくれなかった。床に這い蹲り、起きようと思っても身体が動かず、目玉を動かして助けを求めても返ってきたのは迷惑そうな顔と、哀れみの視線だけ。助けの手が伸びたのは、彼らにとっては倒れてから間もなくという時間経過だったのかもしれないが、誠治にとっては絶望を感じるに十分な時間だった。
もし、あれと同じ状況が外で起こったら――。
あれは職場だったから、助ける義務があったから、このまま倒れ続けられていては迷惑だったから、救いの手が伸ばされただけで、外ならば誰の手も差し伸べられないのではないか。
「誠ちゃん」
そっと手に、温かく柔らかいものが触れる。しっとりとした、シワだらけの手。そこではじめて、誠治は自分が震えていたことに気がついた。
「無理は、せんでえぇ」
まっすぐ目の奥を見つめて、静かに噛んで含めるように言う綾子を見返している自分は、どんな顔をしているのだろうかと頭の端で思う。どんなふうに、見えているのだろうか。
「すぐにじゃなくて、えぇねん。ゆっくりで、えぇから、な」
頷く。震えが収まる。なつかしく、温かいものが胸に湧いてくる。もしかしたら、綾子と一緒なら、大丈夫なのかもしれない。そんな気がした。
「ごめんな」
泣き出しそうな顔で綾子が笑う。綾子のせいではないのに、自分を責めているような笑顔に誠治は叫びだしたくなった。唇を引き結んで、深呼吸をしてから言う。
「あんな――――行きたいとこ、あんねん」
ふわりと綾子の顔に喜びが見えた。もっと、それが見たい。誠治は少しだけ身を乗り出して言葉を続けた。
「図書館な、近くにあったら行きたいねん」
「図書館。せやね、図書館。あそこやったら涼しいし、本借りたらえぇわ。そんな遠くないし、連れてったげるわ」
目じりをシワでいっぱいにして、綾子が言う。その顔が見られただけで、言ってよかったと思えた。
「どないする。いつ行く。なんやったら、今から行くか」
「せやな。思い立ったが吉日いう言葉あるし、綾子さんがえぇんやったら」
「えぇよえぇよ。ほな、すぐ片付け終わらすし。あぁ、日差し強いから帽子がいるな。誠ちゃん、帽子持ってんか」
首を振ると、食器を片付けながら二度ほど頷いて「ばあさんの帽子やけど、それ被って行こうな」と綾子が言う。平気だという言葉が出かけて、飲み込んだ。空は高く涼しげなのに、届く日差しは攻撃的だ。帽子がなければ、すぐに眩暈を起こしてしまう。
「図書館て、どの辺なん」
「そこのベランダから見えるで。平たくて、でっかい建物があるやろ。そん中に、あるわ」
ベランダに移動して、外を眺めてみる。このあたりで一番高い建物はここで、誠治たちが住んでいる部屋はわりと上階のほうだったので、平たくてでっかい建物はすぐにわかった。マンションの前の道路を隔てて向かいの区画の住宅の中にある。
「公民館の中に図書館あるねん。ヒマな年寄りが集まっとるんよ」
帽子を取ってくるからなと言い置いて、綾子が部屋を出て行った。隣の部屋からドアの開く音がした。壁が薄いので、大きな音を立てると聞こえてくるのだ。
「ばあさんの帽子しかないけど、ガマンしぃやぁ」
大きな声がかけられた。ベランダの窓だけを閉めてから、玄関へ向かう。靴を履いていると、綾子が玄関をあけた。自分は裏地に花柄のついた紺色の帽子を被り、真っ白いつばの広い帽子を誠治に差し出す。
「これが、一番マシやろう」
礼を言って受け取り、被る。少し窮屈だが、顔をしっかりとカバーしてくれるのでこれなら安心だと思えた。エレベーターに乗ってエントランスを通り過ぎ、外に出た瞬間クラリとした。上からの熱ではなく、コンクリートから発せられる熱が誠治を襲う。
「平気か」
「平気や」
「無理そうやったら、言いや」
頷き、歩き出す。目的の建物は見えている。足が震えたが、五分ほどでたどり着くだろう距離を断念して、綾子を悲しませたくなかった。
腰に、支えるように綾子の手が添えられる。それが心を支えてくれた。子どもが、ガボンガボンとランドセルを鳴らしながら走り抜けていく。低学年だろうか。車の通りはほとんど無い。
家々は静まり返っている。子どもとすれ違わなければ、誰も住んでいないのではと思えるほどに静かだった。ゆっくりと、時折塀に手をつきながら目的地を目指す。さっさと歩きたいのに、足が思うように動かない。――部屋の中では、なんの問題も無くスイスイと歩けるのに。
ずいぶんな時間をかけて、二人は公民館の入り口にたどり着いた。丸くて大きなガラス戸の取っ手を押して、十分に冷房の利いた空間に身を滑り込ませて息を吐く。
「少し、座ろか」
綾子に促され、入り口そばの長いすに腰をかけた。
「えらい熱気やったなぁ」
褒める響きの声に、胸のあたりがむずがゆくなる。
「図書館、二階やから少し休んでから階段登ろな」
頷く。たったこれだけの距離を歩くだけでも、身体がだるく重くなる自分が信じられなかった。綾子の気遣いが嬉しく、申し訳ない。
「ごめんな」
「アホ言いな」
綾子の声は温かい。帽子を脱いで壁に背を預けて、天井を仰ぐ。白い天井には、いくつも穴のような模様があった。
「兵頭さん」
「ああ、井上さん」
声がして視線を下ろすと、ひよこのように柔らかそうな髪を四角い頭に乗せている男が、子どものような笑みを浮かべて立っていた。ちらりと誠治を見て、綾子に話しかける。
「兵頭さんも、スミに置けんなぁ」
「ややわ、井上さん。ばあさんを相手にするような子ぉとちゃうで。孝ちゃんの弟さんや」
「ほ、そうかそうか。あんたさんがそうか。ほうほう」
無遠慮に誠治を見てくる井上と呼ばれた男は、「やっ」と短く言って驚いた顔をした。
「顔色悪いで。ちょい待ちや」
言うが早いか、どこかへ行ってしまう。問う視線を綾子に向けると、井上の背中を追いかけるように、まっすぐ前を向いたまま答えられた。
「井上さんな、ここの公民館のヌシみたいなもんやねん。公民館が開く時間から、閉まる時間まで、御飯のとき以外はずうっとおって、皆に声かけて回るんや。リビエールの住人でもあるんよ」
へぇ、と誠治も井上が消えた通路の先へ目を向ける。
「開いてから、閉まるまでずっとおるんか」
「せや。ずっとおる。ここに来る人で、井上さん知らん人は、おらへんよ」
にこにこと紙コップを手にした井上が戻ってきた。
「喉渇いてんちゃうか。これ飲み。ホレ」
「いただきます」
首だけで会釈をして受け取り、口をつける。よく冷えた麦茶が喉を通り、思わず安堵の息が洩れた。自覚している以上に、乾いていたらしい。同じように麦茶をもらった綾子が、自分の分も飲むようにと誠治に差し出してくるのを辞退して、井上に礼を言う。
「おいちゃんの趣味やから、気にせんでえぇ」
言いながらさりげなく誠治の手から空になった紙コップを取り、綾子からも受け取る。
「ここは、茶はタダやし冷暖房ちゃんとしてるし、ええとこやで。ちょくちょく来たらえぇ。これで飯もあれば、最高なんやけどなぁ」
冗談とも本気ともつかない口調で言いながら、井上は別の相手を見つけると、そちらに向かった。
「ほんまに、皆に声かけてんねんな」
「井上さんが声かけへん人、見たことあらへん」
「アニキみたいや」
「せやね」
くすり、と同じ笑みを交し合い、そろそろ図書館へ上がろうかと腰を浮かせる。手すりをつかみ、一歩一歩気をつけながら階段を上がった。入ってすぐに特集のコーナーがあり、その横に雑誌のコーナーもあった。主婦と思しき若い女性が、子どもを膝に乗せて雑誌を読んでいる。
聞こえるなんて生易しいものじゃない。迫ってくる。襲ってくる。そんな感じで部屋の中に飛び込んできては、そのまま溜まって居座っている。ワンルームに、申し訳程度の台所がついているマンションで、小松誠治は床に転がっていた。
何もする気が起きない。何もする事が無い。何もする事が思いつかない。ごろりと寝返りをうって外を見上げる。雲は小さな塊で整然と並び、少し高くなった青の上を進んでいる。硬く薄い布団から床に転がってみるのに、少しも冷たくはなかった。
ごろごろと転がり、ベランダの前に移動する。まったく風を感じないが、少しはマシなように思えた。じわりとにじみ出た汗の膜が身体を覆い、身体の熱を閉じ込めているような気になってくる。口を開けるとカサカサとして、空気のほうがずっと潤っているような気がした。
少し迷ってから、身体を起こす。鎧をまとっているような気がする。ひどく重く、やはり起き上がるのは止めてしまおうかと床に戻る。
少ししてから、のろのろと立ち上がり、右に左に揺れながら台所に立った。流しの横に置いてあったグラスに、乱暴に水を注いで一気に飲み干す。ぬるく鉄くさい匂いが鼻の奥から外に抜けると同時に、渇きを自覚してもう一杯飲み干した。
「ふぅ」
グラスを置きながら、真後ろの食器棚に背中を預けてずるずると滑り、座る。何もする気が起きない。何もすることが思いつかない。口をあけたまま、斜め上を見上げる。白い壁紙が、上のほうから黄ばんできている。継ぎ目がハッキリと見える。一部だけ、ひどく変色しているところがあった。以前の住人が、其の場所でタバコでも吸っていたのだろうか。そんなことを思いながら、誠治は床に転がった。部屋よりも少し、涼しい気がする。
ガチャガチャと鉤を開ける音がして、甲高い声を上げて扉が来客者を迎え入れた。鍵を閉める音。ガサガサというビニール袋の音。靴を脱ぐ音。あるかなしかの足音は、全てビニール袋の音が消してしまっている。
「ひやっ。あぁもう、ビックリさせんといてぇ」
頭上から声がした。目の前にあるのは、くるぶしまでの靴下。そこから伸びる白い、血管の透けて見える足。膝を隠す落ち着いた色のタイトスカート。少し大きめのTシャツに、薄手のカーディガンを羽織っている。其の上に、頬の肉がすっかり落ちてしまった丸い顔が乗っていた。
「綾子さん」
「綾子さん、やないよ。そんなとこ転がって。邪魔やし、向こうにおり」
誠治がおっくうそうに身体を起こす。這うように布団に戻る誠治を見送り、兵頭綾子は台所に入った。
「すぐに昼ごはん、できるから」
ガチャガチャと、金属の立てる音がする。水の流れる音。軽快な包丁のリズム。それらが蝉の声と混ざって、誠治を包む。目を閉じて、聞くともなしに聞いていると睡魔がやってきた。する事がなく眠ってばかりいると、睡魔は常に横に居てスキを狙っているらしい。
それに抗うこともせず、身をゆだねることもせず、記憶の中を旅し始める。暇をもてあますと、どうにも昔のことばかりを考えて思い出そうとしてしまう。何度も繰り返し反芻すると、意外なことも思い出す。忘れていたこと、忘れていたと思っていたことも甦る。まるで自分は過去にしか生きていないような気になってくる。実際、そんな状態じゃないかと誠治はほんのり口の端に笑みを乗せた。
聞こえてくる音の中に、子どもの歓声が混じった。高い子どもの声はよく響く。建物の壁に反響して、より強く響くのだろう。生命力と同じくらいに。そうだとしたら、自分の声はどれほどの響きを持っているのだろう。
子どもの声で、ふと思い出したことがあった。夏休み、宿題、読書感想文。それらの単語が誠治の記憶の中に道を作る。誠治はそれを進んでいく。色々な本を読まされた。課題図書の中から選んで、読んだものの感想を書かなければいけない。どうして好きな本ではダメなんだろうかと、誰かに質問をした気がした。そうすると、漫画でもいいことになるんじゃないかと、その相手が答えた。質問の相手は、誰だったろうか。どうして大人は、課題図書を難しい本ばかりにしたのだろうか。もっと、冒険ものとかファンタジーものもあったら、兄も楽しんで読めたのに。
兄は本を読むのが苦手で、この宿題が一番苦手だった。算数も国語も社会もぜんぶ、机に向かってする科目は美術と理科以外は苦手だったけれど、読書感想文が一番の苦手だった。だからいつも、学年は違っていても同じ課題図書があった場合、誠治の感想文を真似て書いていた。一度、それがバレてひどく怒られていたことがあった。あれは、何時の頃だっただろう。
子どもの頃の思い出は、遠い物語のような色で見える。その時は悲しくても、苦しくても、思い出になれば、思い出に出来れば、過去になれば自分だけの本を読んでいるような気分になった。誠治は本を読むことが嫌いじゃなかった。むしろ、好きな部類だった。国語の授業も好きだった。感想文や作文は少し苦手だったけれど、嫌じゃなかった。
そういえば、ずいぶんと本を読んでいないな、と思う。社会人になり、必死に働いて、同僚と遊び、上司との付き合いもして、話題づくりのためにテレビを観て――。もちろん、話題づくりのためだけではなく、楽しんで観てはいた。それの時間が長くなるにつれて、本を読む時間も減ってきた。優等生ぶって、というふうにからかわれたのも本から離れた原因かもしれない。
どのくらい、本を読んでいなかったのか。どんな作風の話が好きだったろうか。子どもの頃は、どんな本が好きだっただろうか。
思い出そうとして、記憶の道をろうそくの明かりで照らし、探す。そういえば、読書感想文の中で、ひどく感想に困り、兄が特別嫌った本があった。あれは、なんという本だったろうか。
「寝てしまったんか。お昼、でけたで」
声をかけられて、目を開ける。首を動かし、綾子を見て誠治は立ち上がった。壁に立てかけてあるオモチャのような折りたたみ式の卓袱台を広げると、綾子が昼食を運んできた。そうめんと、焼き茄子や錦糸卵が並んだ。
「そうめんか」
「そうめんや。まだまだ暑いしな、つるつるっと食べられて、丁度えぇ」
手を合わせて箸をつける。食べることも億劫に感じている誠治に与えるには、そうめんは丁度いいのかもしれない。しかし――。
「なんで、夏にはそうめんなんやろな」
ちゅるっとそうめんのシッポをすすって言うと、綾子は焼き茄子を麺つゆに浸しながら答えた。
「そんなん、知らんけど。昔からそやったなぁ」
「何日もそうめんやったら、子どもは飽きるで」
「ほな、誠ちゃんは飽きたんか」
「まだ、飽きてへんよ。なんでやろなぁて思ただけや」
くすりと笑う綾子に、子ども扱いをされた気がして尻の座りが悪くなる。
「アニキが、小さい頃に文句言っとったから」
言い訳じみた言葉が出てきた。
「いっつもいっつも、そうめんやって。子どもは飽きるで。そうめん好きていう子ども、見たことあらへんし」
「おばちゃんは、好きやで。そうめん」
「子どもの頃からか」
「子どもの頃からや」
ふうんと頷いて綾子を見る。綾子の子どもの頃というものが、想像できなかった。はじめて会ったときから綾子は綾子で、ずっと昔から綾子で居るような気がしている。そんなことはないとわかっていても、やはり綾子はずっと昔からこのままだったのではないか。これから先も、ずっとこのままなのではないか。そう、思った。
「不思議や」
「何が」
「綾子さんの子どもの頃が、想像でけへん」
「なんやの、それ。私かて、昔は若かったんやで」
「頭ではわかるんやけどな。子どものとき、まわりの大人が全部最初から大人やったって思ってたような、そんな感じや」
「あぁ」
納得した顔で、綾子がそっと焼き野菜を乗せた皿を誠治に押して寄越した。
「野菜も食べや」
返事の変わりにピーマンを掴んで、そうめんと一緒に口へ運ぶ。そうめんの味は、どこまでいってもそうめんのままで、変わらない。
「アニキは、そうめんよりラーメンのがえぇ言うてた」
「孝ちゃんらしいわ」
ふふっと笑う綾子に、誠治も目を細める。綾子は時折、静かに笑う。それが時折、寂しそうに見えた。その理由を誠治は聞けずにいる。気のせいかもしれないと思いつつ、何かが必ずあるという確信に似たものも感じていた。
この部屋に引越しをし、綾子と会ってからまだ半年ほどしか経っていない。綾子のことは何も知らない。何も聞いたことが無い。一人暮らしで、隣に住んでいて、兄に頼まれて自分の世話をしてくれているということくらいしか、知らなかった。どうして一人なのか、どうしてここに住んでいるのか。気になってはいる。が、聞くのが憚られる。
誠治が兄の孝治と引っ越してきたこのマンションは『国宅』と言う。
福祉事業の一環として、低所得者層が安価で住まいを手に入れ、社会とのつながりを保ち、仕事が出来るようにという配慮のもと、築年数の古い建物を国が買い取り、貸し出しているというシロモノだ。『国宅』に住むには、ある一定の基準がいる。審査もある。それが面倒で入らない人も居れば、プライドが邪魔をして入ろうとしない人も居る。社会福祉団体の用意している施設のほうが、様々な相談を受け付けてくれる人もいるからと、そちらに行く人もいた。
『国宅』はある一定の所得以下で、他人の手を借りることもなく生活できる、または世話をする人間のいる者たちが入居する場所だった。入居してしまえば、あとは普通のマンションやアパートと同じ。管理人が役所であること以外は、各自で近隣の住人との関係を築き、生活をするだけだ。
もっとも、最近はほとんどの人間が関わらない主義を持っているとしか思えない無関心さで、交流という気配は微塵も感じられなかったが。
時折回ってくる回覧板でさえ、回覧ではなくポストに入れっぱなし、という状況なので連絡が回ってこない場合も時折あるようだ。そんな中、隣の綾子が誠治の世話をしにやってくるのは、兄の孝治が引越しの日に綾子に誠治の世話を頼んだかららしい。引越しの日に挨拶をしてくると言って兄が出て行き、しばらくして嬉しそうな顔で戻ってくるなり「隣のばあさんが飯作ってくれるってさ。助かったな」と報告をしてきたのを覚えている。
引越しの片づけをしている兄を眺めていると、インターフォンが鳴ってむすっとした顔の綾子が現れた。壁に背を預けて青白い顔でぼんやりとしていた誠治を一瞥してから「病気なんか」と呟いたかと思うと「台所、使うで」と無言で料理を始めた。
ほとんど荷物と言うものがない状態だったので、綾子が夕食を作り終える頃には兄が片づけを終えており、三人で食事をすることになった。食事は何を食べたのか、よく覚えていない。バカに明るい兄と、疑うような顔をしながらも茶を入れたり、おかわりをよそったりと世話をしてくれる綾子の姿がまったく違う空間でおこっていることのように見えたことは、覚えている。食器くらいは洗うからと台所で洗い物を始めた兄を見送った後、ぽつりと「あんたの兄さんは、ずいぶんと変わっとるな」とかすかに口の端に綾子が笑みを浮かべたことも。
その日、綾子は帰り際に「どうせヒマやし、食事の面倒くらいは見たげるわ。そのかわり、食費は出しや」と言ったらしい。食後、部屋で転がっていた誠治は兄からその話を聞いてはいたが、翌朝、綾子が現れたときは正直、驚いた。本気だとは思わなかったからだ。
「綾子さんも、暇人よな」
食後の茶をすすりながら言うと、怪訝な顔をされた。
「アニキのいきなりの頼み事を聞く気になって、半年近くも俺らの世話しとる」
「せや、暇人や。この歳になると仕事もないしな。年金でつつましく、死ぬまでの時間つぶしをするだけや」
家族は、と言いかけて止める。その言葉は、綾子を傷つけてしまう気がした。
「友達とかは、おらへんのんか」
「おるよ。友達くらい。長いこと住んでるとな、暇な年寄りが集まって、しょうもないこと話しだすんや。昔の話をな、色々話すんねん。昔の話やのうてもな、顔合わせると声だけはかけるんや。名前も知らん人にも挨拶くらいはする。せんのは、若い人か偏屈なジジババだけや」
ニヤリと綾子が笑い、しかられているような気分になって目を彷徨わせる。
「まぁ、孝ちゃんは別やけどな。誰にでも元気いっぱいに声かけてきよる。偏屈なジジババにも、返事もらわれへんでも声かけて、リビエールの年寄りの中では、ちょっとした有名人やで」
リビエールというのは、ここのマンションについている名前だ。
「せやから、一歩も外に出とらんでも、誠ちゃんも有名人やで」
「えぇっ」
心底迷惑だという顔をすると、綾子がいたずらっ子のような顔で笑った。
いつの間にか、色々な顔をするようになったなと思う。最初のひと月くらいは、むすっとしたままで、綾子にすれば最低限の、誠治たちにとっては気の利いた食事の世話をしてすぐに帰っていった。短い返事しか返さない綾子や黙ったままの誠治に、兄が日々の出来事を大きな声で大げさに話をし、綾子や誠治に一日の出来事を聞いてくる。そんな日が、どのくらい続いただろうか。
ぽつぽつと投げた言葉に答えるようになった綾子に、兄は本当に嬉しそうに返事をし、いろんな表情をして聞いた。誠治も、部屋に篭っているだけで変化などない日々のはずが、昼食の話、窓から見える景色や届く声など、たわいないものの違いに気付くようになり、口を開くようになった。そうなると、会話など無いに等しかった兄のいない昼間でも、綾子は誠治に話しかけるようになり、誠治も口を開くようになった。綾子の顔には笑みが浮かび、警戒心をもって綾子を見ていた誠治も、昔から近所に住んでいる人に接するような心持になっていった。
「アニキは昔から、誰とでもすぐ仲良くなるし、知らんところで勝手に俺を知ってる奴ができるねんなぁ」
「なつこいからなぁ」
湯飲みを両手で包み込み、その中にため息をこぼすと綾子が目じりを柔らかくした。
「変な話に、なってへんやろな」
「変なて、何が」
「俺のうわさや」
ああ、という顔をして茶をすすり、綾子が言う。
「孝ちゃんとは違って、人見知りで大人しい子やいう話になってるわ」
本当にそれだけだろうか。その疑問が顔に出ていたらしい。綾子は「本当やで」と言って、コトリと湯飲みを置いた。
「ちょっとずつでも、お外出られそうなら出てみたらええ。出たらあかんことは、無いんやろ」
誠治も湯飲みを置く。外に出たくないわけではない。出る理由が見つからないのだ。別に理由など無くても出て行けばよいのだろうが、半年も篭っていると、理由が欲しくなる。もともと外出が苦手なので、目的や理由がないと出づらかった。外出先で倒れてしまったら、という不安もある。
職場で倒れたときは、誰も助け起こそうとしてくれなかった。床に這い蹲り、起きようと思っても身体が動かず、目玉を動かして助けを求めても返ってきたのは迷惑そうな顔と、哀れみの視線だけ。助けの手が伸びたのは、彼らにとっては倒れてから間もなくという時間経過だったのかもしれないが、誠治にとっては絶望を感じるに十分な時間だった。
もし、あれと同じ状況が外で起こったら――。
あれは職場だったから、助ける義務があったから、このまま倒れ続けられていては迷惑だったから、救いの手が伸ばされただけで、外ならば誰の手も差し伸べられないのではないか。
「誠ちゃん」
そっと手に、温かく柔らかいものが触れる。しっとりとした、シワだらけの手。そこではじめて、誠治は自分が震えていたことに気がついた。
「無理は、せんでえぇ」
まっすぐ目の奥を見つめて、静かに噛んで含めるように言う綾子を見返している自分は、どんな顔をしているのだろうかと頭の端で思う。どんなふうに、見えているのだろうか。
「すぐにじゃなくて、えぇねん。ゆっくりで、えぇから、な」
頷く。震えが収まる。なつかしく、温かいものが胸に湧いてくる。もしかしたら、綾子と一緒なら、大丈夫なのかもしれない。そんな気がした。
「ごめんな」
泣き出しそうな顔で綾子が笑う。綾子のせいではないのに、自分を責めているような笑顔に誠治は叫びだしたくなった。唇を引き結んで、深呼吸をしてから言う。
「あんな――――行きたいとこ、あんねん」
ふわりと綾子の顔に喜びが見えた。もっと、それが見たい。誠治は少しだけ身を乗り出して言葉を続けた。
「図書館な、近くにあったら行きたいねん」
「図書館。せやね、図書館。あそこやったら涼しいし、本借りたらえぇわ。そんな遠くないし、連れてったげるわ」
目じりをシワでいっぱいにして、綾子が言う。その顔が見られただけで、言ってよかったと思えた。
「どないする。いつ行く。なんやったら、今から行くか」
「せやな。思い立ったが吉日いう言葉あるし、綾子さんがえぇんやったら」
「えぇよえぇよ。ほな、すぐ片付け終わらすし。あぁ、日差し強いから帽子がいるな。誠ちゃん、帽子持ってんか」
首を振ると、食器を片付けながら二度ほど頷いて「ばあさんの帽子やけど、それ被って行こうな」と綾子が言う。平気だという言葉が出かけて、飲み込んだ。空は高く涼しげなのに、届く日差しは攻撃的だ。帽子がなければ、すぐに眩暈を起こしてしまう。
「図書館て、どの辺なん」
「そこのベランダから見えるで。平たくて、でっかい建物があるやろ。そん中に、あるわ」
ベランダに移動して、外を眺めてみる。このあたりで一番高い建物はここで、誠治たちが住んでいる部屋はわりと上階のほうだったので、平たくてでっかい建物はすぐにわかった。マンションの前の道路を隔てて向かいの区画の住宅の中にある。
「公民館の中に図書館あるねん。ヒマな年寄りが集まっとるんよ」
帽子を取ってくるからなと言い置いて、綾子が部屋を出て行った。隣の部屋からドアの開く音がした。壁が薄いので、大きな音を立てると聞こえてくるのだ。
「ばあさんの帽子しかないけど、ガマンしぃやぁ」
大きな声がかけられた。ベランダの窓だけを閉めてから、玄関へ向かう。靴を履いていると、綾子が玄関をあけた。自分は裏地に花柄のついた紺色の帽子を被り、真っ白いつばの広い帽子を誠治に差し出す。
「これが、一番マシやろう」
礼を言って受け取り、被る。少し窮屈だが、顔をしっかりとカバーしてくれるのでこれなら安心だと思えた。エレベーターに乗ってエントランスを通り過ぎ、外に出た瞬間クラリとした。上からの熱ではなく、コンクリートから発せられる熱が誠治を襲う。
「平気か」
「平気や」
「無理そうやったら、言いや」
頷き、歩き出す。目的の建物は見えている。足が震えたが、五分ほどでたどり着くだろう距離を断念して、綾子を悲しませたくなかった。
腰に、支えるように綾子の手が添えられる。それが心を支えてくれた。子どもが、ガボンガボンとランドセルを鳴らしながら走り抜けていく。低学年だろうか。車の通りはほとんど無い。
家々は静まり返っている。子どもとすれ違わなければ、誰も住んでいないのではと思えるほどに静かだった。ゆっくりと、時折塀に手をつきながら目的地を目指す。さっさと歩きたいのに、足が思うように動かない。――部屋の中では、なんの問題も無くスイスイと歩けるのに。
ずいぶんな時間をかけて、二人は公民館の入り口にたどり着いた。丸くて大きなガラス戸の取っ手を押して、十分に冷房の利いた空間に身を滑り込ませて息を吐く。
「少し、座ろか」
綾子に促され、入り口そばの長いすに腰をかけた。
「えらい熱気やったなぁ」
褒める響きの声に、胸のあたりがむずがゆくなる。
「図書館、二階やから少し休んでから階段登ろな」
頷く。たったこれだけの距離を歩くだけでも、身体がだるく重くなる自分が信じられなかった。綾子の気遣いが嬉しく、申し訳ない。
「ごめんな」
「アホ言いな」
綾子の声は温かい。帽子を脱いで壁に背を預けて、天井を仰ぐ。白い天井には、いくつも穴のような模様があった。
「兵頭さん」
「ああ、井上さん」
声がして視線を下ろすと、ひよこのように柔らかそうな髪を四角い頭に乗せている男が、子どものような笑みを浮かべて立っていた。ちらりと誠治を見て、綾子に話しかける。
「兵頭さんも、スミに置けんなぁ」
「ややわ、井上さん。ばあさんを相手にするような子ぉとちゃうで。孝ちゃんの弟さんや」
「ほ、そうかそうか。あんたさんがそうか。ほうほう」
無遠慮に誠治を見てくる井上と呼ばれた男は、「やっ」と短く言って驚いた顔をした。
「顔色悪いで。ちょい待ちや」
言うが早いか、どこかへ行ってしまう。問う視線を綾子に向けると、井上の背中を追いかけるように、まっすぐ前を向いたまま答えられた。
「井上さんな、ここの公民館のヌシみたいなもんやねん。公民館が開く時間から、閉まる時間まで、御飯のとき以外はずうっとおって、皆に声かけて回るんや。リビエールの住人でもあるんよ」
へぇ、と誠治も井上が消えた通路の先へ目を向ける。
「開いてから、閉まるまでずっとおるんか」
「せや。ずっとおる。ここに来る人で、井上さん知らん人は、おらへんよ」
にこにこと紙コップを手にした井上が戻ってきた。
「喉渇いてんちゃうか。これ飲み。ホレ」
「いただきます」
首だけで会釈をして受け取り、口をつける。よく冷えた麦茶が喉を通り、思わず安堵の息が洩れた。自覚している以上に、乾いていたらしい。同じように麦茶をもらった綾子が、自分の分も飲むようにと誠治に差し出してくるのを辞退して、井上に礼を言う。
「おいちゃんの趣味やから、気にせんでえぇ」
言いながらさりげなく誠治の手から空になった紙コップを取り、綾子からも受け取る。
「ここは、茶はタダやし冷暖房ちゃんとしてるし、ええとこやで。ちょくちょく来たらえぇ。これで飯もあれば、最高なんやけどなぁ」
冗談とも本気ともつかない口調で言いながら、井上は別の相手を見つけると、そちらに向かった。
「ほんまに、皆に声かけてんねんな」
「井上さんが声かけへん人、見たことあらへん」
「アニキみたいや」
「せやね」
くすり、と同じ笑みを交し合い、そろそろ図書館へ上がろうかと腰を浮かせる。手すりをつかみ、一歩一歩気をつけながら階段を上がった。入ってすぐに特集のコーナーがあり、その横に雑誌のコーナーもあった。主婦と思しき若い女性が、子どもを膝に乗せて雑誌を読んでいる。
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