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5.アユイ
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銛の手入れをしていると、マトリが来たと子どもが告げに来た。アユイが首を伸ばすと、布袋を下げたマトリが軽く手を振って近づいてくる。陽光に白銀の髪がかがやき、幻想的な雰囲気をかもしている。この世のものではないような不思議な雰囲気をまとうマトリに、集落のものたちの視線が吸い込まれている。それに慣れているらしいマトリは、気にするふうもなく視線の間を悠々と歩いてくる。
まぶしげに目を細めたアユイは、目の前で止まったマトリを見上げた。子どものような動作でしゃがんだマトリが、布袋をアユイに差し出す。受け取ったアユイが口を開けると、小袋がいくつも入っていた。さまざまな匂いが袋から立ち上ってくる。
「薬草か」
「そろそろ、必要かと思って」
ニッコリしたマトリは袋の中に手を入れて、小袋それぞれに名札を付けていると言った。
「なにに使うものか、わからなかったり忘れたりしたら、なんでも僕に聞いて」
上目遣いのマトリに、アユイは柔和に目じりをゆるめた。
「まえに聞いたものを書きつけてあるから大丈夫だ」
「そう」
マトリの笑みに落胆が混じった。胸をざわめかせたアユイは、それを面に出さないように下腹に力を込めた。
(子どものころの気安さで、マトリは言っているだけだ)
昔からの延長の態度でしかない。そこに自分への想いが混じっていると感じるのは、そうであってほしいという願望からだとアユイは自分を戒める。
(マトリはずっと、カブフリにあこがれ、追いかけていたのだから)
気安く親しい態度は、仲間意識からだ。時折ちょっと甘えたしぐさをしてみせるのも、ことあるごとに手助けをしてきたから。習慣的なものであって、それ以上でもそれ以下でもない。
「魚、獲りに行くの?」
手入れ途中の銛に目を止めたマトリに、そうだとアユイは研いだ切っ先を見せる。細長い切っ先は、大物と出会ったときに頭部を貫通させられる長さだ。だが、そこまでおおきな獲物を狙うのはまれで、ほとんどが岩場の奥に潜む獲物を捕らえるためになっている。
両手のひらを合わせたくらいの穂先を、マトリはまじまじと見つめた。
「これで猪は狩れるのかな」
「どうだろうな。試したことはないが、難しいんじゃないか」
「どうして」
「海中と地上は違う」
どういう意味か分からないマトリが、キョトンと小首をかしげる。愛らしいしぐさに、アユイの心がドキリと鳴った。
「猪を狩るのなら、これよりも太くて短い穂先のほうが合うんじゃないか」
「ふうん?」
どうして? とマトリの目が言っている。いつまでも無垢なマトリから、アユイは「動物を狩るのに、道具はいらない」と視線を外した。
「たしかに、動物を狩るときは牙があるからいいけど。でも、道具があれば僕でも猪を狩れるかもしれないよね」
やはりカブフリを目標にしているのだなと、アユイは心の中で嘆息した。対抗心があるから、マトリはカブフリの申し出を受け入れられない。だがいずれ、カブフリのツガイになりたいと望む。発情期がくれば、否が応でもオメガの習性を理解して、自分にふさわしい相手はカブフリだと納得をする。
(それまで、俺はだれともツガイにはならない)
ツガイの相手にどうだと、いくつもの声がアユイにかけられていた。カブフリほどではないが、アユイの能力も評価されている。希少優性種のアルファであり、眉目秀麗なアユイに想いを寄せるものはすくなくない。カブフリほど目立っているわけではないが、涼やかなたたずまいに胸をときめかせるものがいた。
そのどれにも、アユイは明瞭な返事をしなかった。それをカブフリに遠慮をしているからと、集落のものたちは勝手に納得していた。親友であり同期成人のなかで突出して優秀なカブフリが、まだツガイになっていないのだから遠慮をしているのだ。
こちらが断る理由を勝手に相手が作ってくれているのなら、ありがたい。否定も肯定もせずに、アユイは縁談や告白を断り続けていた。それらはすべてひっそりと申し込まれるので、だれがアユイに声をかけたのか知られていない。ウワサにすらもならないほど、控えめな相手ばかりだった。
(俺には、そういう相手がふさわしいということだろう)
太陽のように強いかがやきを放ち、自身の集落だけでなく、すべての人狼を率いるほどのカリスマと能力を持っているカブフリ。
しとやかでありながら芯の強さを持つ、薬草などの知識に長けた子どもや老人などに親しまれる、やわらかな月光のように美麗なマトリ。
そんなふたりが生み出す影が自分だと、アユイは思っている。ふたりが人狼の未来を切り開き、まとめていくのなら、自分は最後尾からこぼれ落ちそうなものたちを受け止める。
そんな気持ちで、アユイは過ごしている。
(だからこそ、この想いは捨てなければならない)
すこしでも知られてしまえば、マトリは怯えて逃げるはず。全幅の信頼を寄せてくれているからこそ、これほど無邪気な笑顔を向けてくれている。裏切るわけにはいかないと思うそばから、細く長い首にまとわりついた髪と、なだらかに伸びる首筋から肩のラインに魅惑される。
めまいを覚えて、アユイは首を振った。
「アユイ?」
「なんでもない。薬草の匂いに、やられたみたいだ」
「それじゃあ、アユイの小屋の軒先に吊るしておくよ。小袋ごとに吊るしておけば、匂いは分散するから」
言うがはやいか、立ち上がったマトリは背伸びをして軒下にある魚を干すためのフックに、薬草の小袋を吊るしはじめた。
「ここの集落の小屋は、どの軒も屋根がひろくてフックがあるから便利だよね」
「必要があるからそうなっているだけだ」
「それは知っているけどさ。僕もこんなふうに軒が長い小屋がいいな」
「いまの小屋は、不便なのか」
「不便っていうわけじゃないけど」
もの言いたげな視線のマトリが、ねだるようにアユイを見る。
「どうした」
「……べつに」
ふいっと顔を戻して、マトリは作業を続けた。
「軒が長ければ、雨が降っても吊るしているものが濡れなくていいよね」
「湿気はかかるぞ」
「それは、小屋の中でもおなじだよ。壁があるからすこしは違うかもしれないけど……僕、薬草くさくなってない?」
すべての小袋を吊るし終えたマトリが、スッとアユイに身を近づける。肌がぶつかりそうになるほどの距離で、ふわりとマトリの匂いがアユイの鼻を撫でた。森の草木の香りと薬草のほんのりとした匂い。その奥に、甘くかぐわしいものがひそんでいる。おそらくそれが、マトリ本来の匂いだろうと鼻をうごめかしたアユイの、体の一部がわずかに熱くなった。
「べつに、くさいというほどじゃない」
不自然にならないよう、気をつけながら顔をそらしたアユイの心音が高くなる。気づいていないマトリが、唇を尖らせて自分の腕をクンクン嗅いで、鼻をアユイの首筋に近づけた。
「アユイは、ちょっとだけ海の匂いがするよね」
マトリの息にアユイの首がくすぐられる。息を呑んだアユイは、落ち着けと自分に言い聞かせた。子どものころからの親しさを示しているだけで、マトリに他意はない。カブフリにあこがれ続けたマトイの眼中に、自分はいない。だからこその行動だ。
「俺の狩場は海だからな」
「それじゃあ、カブフリは山の匂いがするってこと?」
「さあ、どうだろうな。意識したことがない」
「僕も」
肩をすくめたマトリの姿に、カブフリの姿がかぶって見えた。アユイの手に力がこもる。遠くない未来に、マトリはいやというほどカブフリの匂いを感じることになる。そして彼の匂いがマトリに移る。
(冷静に迎えられるだろうか)
冷静でいなければと、自分に言い聞かせるアユイの喉は苦い。表面的にはつくろえても、心中はおだやかではいられない。マトリの白い肌に吸いつき、華奢な体を組み敷いて思うさまむさぼりたい。獰猛な欲望がアユイの裡に巣食っている。それを開放するわけにはいかないと、アユイは銛を手に立ち上がった。
「漁に出る。薬、助かった」
ぎこちない笑顔になってはいないだろうかと、アユイは案じた。しかしマトリはなにかに気づくそぶりもなく、ううんと自然な笑顔で首を振った。やわらかな髪が揺れて、アユイの指を誘う。それに抗うために、アユイは銛を強くにぎった。
「魚のお礼だよ。ありがとう。スープに入れるととてもおいしいし、歯が弱いものたちも食べやすいから、すごく助かるんだ」
それを見越してくれたんだよねと言いたげなマトリに、アユイは軽く首を振って「それじゃあ」と背を向けた。
(俺は、そんなにいいヤツじゃない)
背中越しに無言で語りかけたアユイのあとを、マトリがついてくる。アユイは振り向かなかった。そのまま海に向かい、自分の舟に銛を乗せる。ほかにも数艘、浜辺に並べられていた。その中でもいちばんおおきな、十人乗りの舟にマトリが近づく。
「ねえ、アユイ。この舟はだれのもの?」
「集落のものだ」
「集落の?」
「個人ではしとめられない大物を狙うときに使う」
「大物って」
「サメやシャチ、クジラだな」
「クジラ」
目をまるくしたマトリが、感心しながら舟の周囲をぐるりと回る。
「クジラって、サメよりもおおきいんだよね? それをしとめるのなら、この舟だけじゃ足りなさそう」
「クジラを見たことがあるのか」
「ないけど……猪よりもおおきな魚だって聞いたことはあるよ」
「そうだな。大人が十人ほど並んだくらいの体長がある」
「そんなに?」
「まだまだ。それでもクジラの中ではちいさな部類だ」
ポカンと口を開けたマトリに、クックと喉を鳴らしたアユイは自分の舟を波打ち際に押した。
「クジラ、見てみたいな」
「いずれ見ることもあるさ」
「アユイは見たことがあるの?」
「ああ」
「いつ」
「漁に出たときに」
あのときの光景を思い浮かべて、アユイは遠い視線を海に向けた。あれはアユイが漁をおそわりはじめた頃だ。だれもクジラを仕留める準備をしていなかった。ひさしぶりの大物の出現に、色めき立ったがなにもできなかった。いつかクジラをしとめてみたい。そんな気持ちを抱えたまま、アユイはまだクジラと格闘をしていない。サメやシャチを相手にクジラをしとめる訓練をしているが、その技をクジラ相手に振るったことはなかった。
「見てみたいな」
海に向かって、おなじ言葉をマトリがつぶやく。
「いずれ、見ることもあるさ」
アユイもおなじ言葉を返した。
(クジラか……そろそろ、姿を見せるころではあるな)
まえにクジラをしとめたことのあるものは、壮年になっている。クジラをしとめる技をアユイたちの年代が受け継ぐために、実践をおこなってもいい頃合いだった。
(クジラをしとめることができれば)
チラリとマトリを横目で見たアユイは、自分の欲心に苦笑した。
クジラをしとめる方法は、集落でいちばんおおきな舟に十人ほど、ほかはそれぞれの舟でクジラに近づき、次々に銛を打ち込み鼻先に鉤をかけて、大型ナイフで腹を切り裂く。そしてすべての舟で巨大なクジラを浜へと運び、集落のものたち全員で解体と運搬をおこなう。
重要なのは、最初にクジラに銛を打ち込む役だ。急所に深く刺さらなければ、クジラは暴れて銛ごと海中深くに沈んでしまう。そうなればもう手出しはできない。危険で重要な役割だった。
それをこなせれば、カブフリと匹敵するほどの力量があると、認められるのではないか。
胸に兆したものを、アユイは打ち払った。
(はじめから、あきらめると決めていたじゃないか)
未練がましいと目を閉じて、波に乗せた舟に飛び乗る。
「ここで、待っていてもいい?」
大声でマトリが言う。アユイは銛をにぎった手を上げて、返事をした。いいとも悪いとも言わないのは、ずるいとわかっている。
(待っていてもらいたい。だが、待ってもらったとして、どうするんだ)
森の集落には、乳離れがはじまった赤子がいる。乳児のための魚が欲しくて、マトリは待つと言っている。けっしてアユイを待ちたいからではない。集落のもののために、マトリは魚を求めている。そのために、漁に出たアユイが戻るのを待つだけだ。
(俺を待っているわけじゃない。俺の収穫を、マトリは待っているだけだ)
何度も自分に言い聞かせ、アユイは櫓をこいだ。
その胸には、恋しい人が浜で待つよろこびがほんのりと揺れている。
まぶしげに目を細めたアユイは、目の前で止まったマトリを見上げた。子どものような動作でしゃがんだマトリが、布袋をアユイに差し出す。受け取ったアユイが口を開けると、小袋がいくつも入っていた。さまざまな匂いが袋から立ち上ってくる。
「薬草か」
「そろそろ、必要かと思って」
ニッコリしたマトリは袋の中に手を入れて、小袋それぞれに名札を付けていると言った。
「なにに使うものか、わからなかったり忘れたりしたら、なんでも僕に聞いて」
上目遣いのマトリに、アユイは柔和に目じりをゆるめた。
「まえに聞いたものを書きつけてあるから大丈夫だ」
「そう」
マトリの笑みに落胆が混じった。胸をざわめかせたアユイは、それを面に出さないように下腹に力を込めた。
(子どものころの気安さで、マトリは言っているだけだ)
昔からの延長の態度でしかない。そこに自分への想いが混じっていると感じるのは、そうであってほしいという願望からだとアユイは自分を戒める。
(マトリはずっと、カブフリにあこがれ、追いかけていたのだから)
気安く親しい態度は、仲間意識からだ。時折ちょっと甘えたしぐさをしてみせるのも、ことあるごとに手助けをしてきたから。習慣的なものであって、それ以上でもそれ以下でもない。
「魚、獲りに行くの?」
手入れ途中の銛に目を止めたマトリに、そうだとアユイは研いだ切っ先を見せる。細長い切っ先は、大物と出会ったときに頭部を貫通させられる長さだ。だが、そこまでおおきな獲物を狙うのはまれで、ほとんどが岩場の奥に潜む獲物を捕らえるためになっている。
両手のひらを合わせたくらいの穂先を、マトリはまじまじと見つめた。
「これで猪は狩れるのかな」
「どうだろうな。試したことはないが、難しいんじゃないか」
「どうして」
「海中と地上は違う」
どういう意味か分からないマトリが、キョトンと小首をかしげる。愛らしいしぐさに、アユイの心がドキリと鳴った。
「猪を狩るのなら、これよりも太くて短い穂先のほうが合うんじゃないか」
「ふうん?」
どうして? とマトリの目が言っている。いつまでも無垢なマトリから、アユイは「動物を狩るのに、道具はいらない」と視線を外した。
「たしかに、動物を狩るときは牙があるからいいけど。でも、道具があれば僕でも猪を狩れるかもしれないよね」
やはりカブフリを目標にしているのだなと、アユイは心の中で嘆息した。対抗心があるから、マトリはカブフリの申し出を受け入れられない。だがいずれ、カブフリのツガイになりたいと望む。発情期がくれば、否が応でもオメガの習性を理解して、自分にふさわしい相手はカブフリだと納得をする。
(それまで、俺はだれともツガイにはならない)
ツガイの相手にどうだと、いくつもの声がアユイにかけられていた。カブフリほどではないが、アユイの能力も評価されている。希少優性種のアルファであり、眉目秀麗なアユイに想いを寄せるものはすくなくない。カブフリほど目立っているわけではないが、涼やかなたたずまいに胸をときめかせるものがいた。
そのどれにも、アユイは明瞭な返事をしなかった。それをカブフリに遠慮をしているからと、集落のものたちは勝手に納得していた。親友であり同期成人のなかで突出して優秀なカブフリが、まだツガイになっていないのだから遠慮をしているのだ。
こちらが断る理由を勝手に相手が作ってくれているのなら、ありがたい。否定も肯定もせずに、アユイは縁談や告白を断り続けていた。それらはすべてひっそりと申し込まれるので、だれがアユイに声をかけたのか知られていない。ウワサにすらもならないほど、控えめな相手ばかりだった。
(俺には、そういう相手がふさわしいということだろう)
太陽のように強いかがやきを放ち、自身の集落だけでなく、すべての人狼を率いるほどのカリスマと能力を持っているカブフリ。
しとやかでありながら芯の強さを持つ、薬草などの知識に長けた子どもや老人などに親しまれる、やわらかな月光のように美麗なマトリ。
そんなふたりが生み出す影が自分だと、アユイは思っている。ふたりが人狼の未来を切り開き、まとめていくのなら、自分は最後尾からこぼれ落ちそうなものたちを受け止める。
そんな気持ちで、アユイは過ごしている。
(だからこそ、この想いは捨てなければならない)
すこしでも知られてしまえば、マトリは怯えて逃げるはず。全幅の信頼を寄せてくれているからこそ、これほど無邪気な笑顔を向けてくれている。裏切るわけにはいかないと思うそばから、細く長い首にまとわりついた髪と、なだらかに伸びる首筋から肩のラインに魅惑される。
めまいを覚えて、アユイは首を振った。
「アユイ?」
「なんでもない。薬草の匂いに、やられたみたいだ」
「それじゃあ、アユイの小屋の軒先に吊るしておくよ。小袋ごとに吊るしておけば、匂いは分散するから」
言うがはやいか、立ち上がったマトリは背伸びをして軒下にある魚を干すためのフックに、薬草の小袋を吊るしはじめた。
「ここの集落の小屋は、どの軒も屋根がひろくてフックがあるから便利だよね」
「必要があるからそうなっているだけだ」
「それは知っているけどさ。僕もこんなふうに軒が長い小屋がいいな」
「いまの小屋は、不便なのか」
「不便っていうわけじゃないけど」
もの言いたげな視線のマトリが、ねだるようにアユイを見る。
「どうした」
「……べつに」
ふいっと顔を戻して、マトリは作業を続けた。
「軒が長ければ、雨が降っても吊るしているものが濡れなくていいよね」
「湿気はかかるぞ」
「それは、小屋の中でもおなじだよ。壁があるからすこしは違うかもしれないけど……僕、薬草くさくなってない?」
すべての小袋を吊るし終えたマトリが、スッとアユイに身を近づける。肌がぶつかりそうになるほどの距離で、ふわりとマトリの匂いがアユイの鼻を撫でた。森の草木の香りと薬草のほんのりとした匂い。その奥に、甘くかぐわしいものがひそんでいる。おそらくそれが、マトリ本来の匂いだろうと鼻をうごめかしたアユイの、体の一部がわずかに熱くなった。
「べつに、くさいというほどじゃない」
不自然にならないよう、気をつけながら顔をそらしたアユイの心音が高くなる。気づいていないマトリが、唇を尖らせて自分の腕をクンクン嗅いで、鼻をアユイの首筋に近づけた。
「アユイは、ちょっとだけ海の匂いがするよね」
マトリの息にアユイの首がくすぐられる。息を呑んだアユイは、落ち着けと自分に言い聞かせた。子どものころからの親しさを示しているだけで、マトリに他意はない。カブフリにあこがれ続けたマトイの眼中に、自分はいない。だからこその行動だ。
「俺の狩場は海だからな」
「それじゃあ、カブフリは山の匂いがするってこと?」
「さあ、どうだろうな。意識したことがない」
「僕も」
肩をすくめたマトリの姿に、カブフリの姿がかぶって見えた。アユイの手に力がこもる。遠くない未来に、マトリはいやというほどカブフリの匂いを感じることになる。そして彼の匂いがマトリに移る。
(冷静に迎えられるだろうか)
冷静でいなければと、自分に言い聞かせるアユイの喉は苦い。表面的にはつくろえても、心中はおだやかではいられない。マトリの白い肌に吸いつき、華奢な体を組み敷いて思うさまむさぼりたい。獰猛な欲望がアユイの裡に巣食っている。それを開放するわけにはいかないと、アユイは銛を手に立ち上がった。
「漁に出る。薬、助かった」
ぎこちない笑顔になってはいないだろうかと、アユイは案じた。しかしマトリはなにかに気づくそぶりもなく、ううんと自然な笑顔で首を振った。やわらかな髪が揺れて、アユイの指を誘う。それに抗うために、アユイは銛を強くにぎった。
「魚のお礼だよ。ありがとう。スープに入れるととてもおいしいし、歯が弱いものたちも食べやすいから、すごく助かるんだ」
それを見越してくれたんだよねと言いたげなマトリに、アユイは軽く首を振って「それじゃあ」と背を向けた。
(俺は、そんなにいいヤツじゃない)
背中越しに無言で語りかけたアユイのあとを、マトリがついてくる。アユイは振り向かなかった。そのまま海に向かい、自分の舟に銛を乗せる。ほかにも数艘、浜辺に並べられていた。その中でもいちばんおおきな、十人乗りの舟にマトリが近づく。
「ねえ、アユイ。この舟はだれのもの?」
「集落のものだ」
「集落の?」
「個人ではしとめられない大物を狙うときに使う」
「大物って」
「サメやシャチ、クジラだな」
「クジラ」
目をまるくしたマトリが、感心しながら舟の周囲をぐるりと回る。
「クジラって、サメよりもおおきいんだよね? それをしとめるのなら、この舟だけじゃ足りなさそう」
「クジラを見たことがあるのか」
「ないけど……猪よりもおおきな魚だって聞いたことはあるよ」
「そうだな。大人が十人ほど並んだくらいの体長がある」
「そんなに?」
「まだまだ。それでもクジラの中ではちいさな部類だ」
ポカンと口を開けたマトリに、クックと喉を鳴らしたアユイは自分の舟を波打ち際に押した。
「クジラ、見てみたいな」
「いずれ見ることもあるさ」
「アユイは見たことがあるの?」
「ああ」
「いつ」
「漁に出たときに」
あのときの光景を思い浮かべて、アユイは遠い視線を海に向けた。あれはアユイが漁をおそわりはじめた頃だ。だれもクジラを仕留める準備をしていなかった。ひさしぶりの大物の出現に、色めき立ったがなにもできなかった。いつかクジラをしとめてみたい。そんな気持ちを抱えたまま、アユイはまだクジラと格闘をしていない。サメやシャチを相手にクジラをしとめる訓練をしているが、その技をクジラ相手に振るったことはなかった。
「見てみたいな」
海に向かって、おなじ言葉をマトリがつぶやく。
「いずれ、見ることもあるさ」
アユイもおなじ言葉を返した。
(クジラか……そろそろ、姿を見せるころではあるな)
まえにクジラをしとめたことのあるものは、壮年になっている。クジラをしとめる技をアユイたちの年代が受け継ぐために、実践をおこなってもいい頃合いだった。
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クジラをしとめる方法は、集落でいちばんおおきな舟に十人ほど、ほかはそれぞれの舟でクジラに近づき、次々に銛を打ち込み鼻先に鉤をかけて、大型ナイフで腹を切り裂く。そしてすべての舟で巨大なクジラを浜へと運び、集落のものたち全員で解体と運搬をおこなう。
重要なのは、最初にクジラに銛を打ち込む役だ。急所に深く刺さらなければ、クジラは暴れて銛ごと海中深くに沈んでしまう。そうなればもう手出しはできない。危険で重要な役割だった。
それをこなせれば、カブフリと匹敵するほどの力量があると、認められるのではないか。
胸に兆したものを、アユイは打ち払った。
(はじめから、あきらめると決めていたじゃないか)
未練がましいと目を閉じて、波に乗せた舟に飛び乗る。
「ここで、待っていてもいい?」
大声でマトリが言う。アユイは銛をにぎった手を上げて、返事をした。いいとも悪いとも言わないのは、ずるいとわかっている。
(待っていてもらいたい。だが、待ってもらったとして、どうするんだ)
森の集落には、乳離れがはじまった赤子がいる。乳児のための魚が欲しくて、マトリは待つと言っている。けっしてアユイを待ちたいからではない。集落のもののために、マトリは魚を求めている。そのために、漁に出たアユイが戻るのを待つだけだ。
(俺を待っているわけじゃない。俺の収穫を、マトリは待っているだけだ)
何度も自分に言い聞かせ、アユイは櫓をこいだ。
その胸には、恋しい人が浜で待つよろこびがほんのりと揺れている。
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