13 / 21
13.反省してるの、王子様
しおりを挟む
腫れぼったい目で出勤した頼子を、気にしない施設利用者はいなかった。察するもののある昌代や千代はとくに、頼子の様子を気にしている。しかし大勢がいる中で聞くのはよくないだろうと、口をつぐんで普段通りにすごしている。彼女たちの視線を感じつつ、頼子は気まずくなりながら、普段通りを心掛けて働いていた。
散歩の時間。
千代のパートナーとして公園に出た頼子に、昌代が近づいてきた。千代に目配せをして、小道の木陰で立ち止まる。
「なにか、あったのね」
唐突に切り出した昌代に、聞くタイミングをうかがっていた千代が、わずかにホッとしながら憂い顔を頼子に向けた。
「失敗しちゃいました」
わざと、おどけた調子で答えた頼子の目に涙がにじむ。
「無理をしなくていいのよ」
千代に背中を撫でられて、頼子は喉を震わせた。
「私……そんな資格なんてないのに、嫉妬して、ひどいことをしちゃったんです」
声を詰まらせながら続ければ、千代と昌代が顔を見合わせた。
「嫉妬をするのに、資格なんていらないわよ。いるとすれば、恋心だわ」
とは、昌代。
「なにがあったのか、よかったら話をしてくれる?」
それに、千代が続いた。
ふたりのやさしいまなざしに、心細くなっていた頼子はおずおずと後悔を広げて見せた。
「確かめたかったんです。私の王子様が、ちゃんと王子様なのかって。ええと……その、あこがれの人を、ちゃんと現実の相手として、好きになっているのかなって。あこがれのまま、勘違いして迫っちゃったのかなって」
静かな瞳が、頼子の気持ちをスルスルと言葉に変えさせてくれる。頼子は迷いながら、ゆっくりと自分の気持ちと向き合って音にした。
「私……ずっと、ずっと好きだったんです。再会するまでずっと、心の王子様にしていたんです。それまでに、付き合った人とか、いいなぁって思った人とか、何人かいました。でも、ずっとあの人が心の中にいて、再会した時に、やっぱり好きだなって思って。ちょっと運命かもなんて思って。だって、長く会わなかったら、色あせるっていうか、違う感じになっていて、過去の思い出っていうか」
うまく言葉にできない頼子の手を、わかるわよと言いたげに千代がそっと叩く。頼子はすこし口の端を持ち上げて、軽く首を動かすと続きを話した。
「向こうは、ぜんぜん、私のことをどう思っているのかわからなくて。それで、だから私、恋は下心って昌代さんから聞いて、行動してみようって思って」
「してみたのね」
昌代が言って、頼子がうなずく。
「そうしたら、その……反応してくれて」
真っ赤になった頼子は、具体的な説明を避けた。きっとそれで、人生の先輩たちには伝わるはずだ。
「私にも望みはあるのかなって、考えたんです。だって、反応してくれたから。でも、ちゃんとはシてもらえなくて。だから本能的なもので、べつに私に興味があるってことじゃないのかもとも思って。よく、わからなくなっちゃって。それで、だけど、あきらめるなんてできなくて」
「あこがれが、本物だって気づいたのね」
しみじみと言った昌代に、頼子は弱々しい笑みで肯定した。
「それで、なんというか、いろいろあって。キスをしてほしいって言って、迫って、いい雰囲気になったのに途中でやめられてしまって。あしらわれているだけなのかなって思って。それで、その人の部屋にポスターがあるんですけど。それがすごく憎らしくなって、破ろうとしてしまったんです」
「女の子のポスターなの?」
「美少女のイラストなんです。その人が描いた」
まあ、と無言で昌代と千代が顔を見合わせる。
「だから、現実の女には興味がないのかもとも思って。わからないんですけど……でも、反応はしてくれたから、望みはないわけじゃないって思いたいけど、本能的に興奮してくれただけで、気持ちはぜんぜん動いていなかったらどうしようっていうか。そんなふうに思ってポスターに嫉妬して。そうしたら怒らせてしまって」
だんだんと、ごちゃごちゃとした気持ちに呑まれて頼子は説明ができなくなった。うなだれて黙り込んだ頼子の背中に千代の手が乗せられる。やさしい感触に、頼子は下唇を噛んだ。
ここでゆっくり、のんびりと気持ちを落ち着かせなさいと言われてきたのに、心の中はグチャグチャだ。
(なんで、こんなことになっちゃったんだろう)
泣いてばかりいる。感情が抑えられない。
(私、こんなに弱かったっけ)
そんなはずはない。歯を食いしばってがんばって、働いてきた。泣きたいときもあったけれど、笑顔を浮かべて働いていた。そうしているうちに、おかしくなって退社した。
(働いている間に、気力とかをぜんぶ、使い果たしちゃったのかな)
そうかもしれない。使いすぎてすり減って、がんばることができなくなっているのだ。そしてここでは、がんばらなくてもいいよと、だれもが無言で伝えてくれる。そのやさしさが、頼子の弱った心を真綿でくるむようにあたためてくれている。
(だから私、こんなに泣き虫になっちゃってるんだ)
情けない。こんなんじゃいけないと、深呼吸をして気持ちを抑え込み、頼子は無理やり笑顔を作って顔を上げた。
「ほんと、バカですよね。自分の気持ちに振り回されて、相手のことをちっとも考えられなくなって。子どもとおなじ……ううん、子どものほうが、もっと相手のことを考えているのかも」
肩をすくめて笑い飛ばそうとした頼子を、心配顔がふたつ見ている。心の底から案じてくれているのだと伝わってきた。鼻の奥がツンとして、頼子はグッと腹の底に力を入れた。
(泣かない)
ここには仕事できているのだから。自分のことにかまけて、ふたりに甘えるわけにはいかない。
「さあ、お散歩しましょう。おしゃべりしているだけじゃ、リハビリになりませんから」
頼子は、千代に手を差し出した。
「昌代さんも、いっしょに行きましょう」
ふたりは顔を見合わせて、そうねと笑顔を浮かべると歩きはじめた。
ゲートボールをしている人たちに背を向けて、いつもの散歩道を進んでいく。草々が目にやさしくて、頼子はそれらをぼんやりとながめつつ、千代の手を取って歩いた。昌代がすこし遅れて続く。背の高い草に隠れて、ほかの面々の姿が見えなくなってから、千代が不意に立ち止まった。
「あやまったの?」
「え」
「ポスターのこと。悪いことをしたって、頼子ちゃんは反省しているのよね」
「それは、まあ……」
「だったら、なるべくはやく、ごめんなさいをしちゃいなさい」
「そうね。このまま気まずいまま、距離が離れてしまうのは悲しいものね」
昌代が後押しをして、頼子は「でも」とうつむいた。
「このまま、王子様と気まずいままで、ずっと過ごすの? やさしくて大好きな王子様なんだったら、きちんとあやまれば許してくれるんじゃないかしら」
「でも、昌代さん。私、ポスターに爪をたてちゃったんです」
声を落とした頼子の腕を「なぁんだ」と昌代が握った。
「破ってしまったわけじゃないのね」
「でも、傷をつけてしまったんです」
「ポスターなら、また買えるんじゃないの? ほら、インターネットで探して、新しいものを返したらいいじゃない。そうしたら、きっと許してくれるわよ」
「わかりません……もう、売ってないかもしれない。いつのものかもわからないし、探すにしても、どういう名前で検索すればいいのかもわからなくて」
唇を尖らせた昌代を、千代が無言でやんわりとたしなめる。
「とりあえず、謝罪は大事よ。頼子ちゃんが悪いと思っていることを、相手に伝えないとね」
千代の言葉に、頼子は肯定とも否定ともとれる動きで首を動かした。
「怖いんです」
「でも、このままじゃ、ずっと気まずいままよ」
「……私、逃げて来たんです」
「え」
「逃げて、ここに来たんです」
昌代と千代が顔を見合わせる。頼子はギュッと胸の前で手を握った。
「私、逃げて来たんです。がんばったけど、がんばりきれなくて。だから、弱虫なんです。頼子なんて名前なのに、ちっとも頼りなくって、役立たずで弱くて……だから、それで、ダメになっちゃって、ここに逃げて来たんです」
「頼子ちゃん」
「勇気なんて、ちっともないんです……怖いです……怖いのに、なのに、とんでもないことをして……私、やっぱり」
「私が、けしかけちゃったからなのね」
嘆息した昌代に、頼子はハッとした。ごめんなさいねと瞳の奥に痛みをたたえた昌代に、胸の前で握っている手を両手で包まれて、頼子はあわてた。
「そんな! 昌代さんのせいじゃないです」
「でも、私が恋は下心なんて言ったから」
まあっと千代が手で口をおおう。
「私は、そうやっていまの夫と結ばれたのよ」
照れくさそうに、バツの悪い顔で昌代が言うと、そうだったわねと千代は頭を揺らした。
「だけど、恋が下心だなんて」
「あら。下心でしょう? 自分を好きになってもらいたい。いっしょになりたいって気持ちは、いくらキレイに言い換えても下心だわ」
「それは……まあ、そうかもしれないけれど」
昌代の堂々とした姿は威厳すら感じられた。気圧された千代が視線を左右に揺らして小首をかしげる。
「それで、頼子ちゃんは王子様に迫ってみたってことなのね。それが、失敗しちゃったと」
「そのかわり、王子様への気持ちがあこがれじゃなくて、本当の恋心だったって気がついたわけ」
なるほどと千代が頼子にほほえみかける。
「頼子ちゃんは、ちっとも弱虫なんかじゃないわ。がんばってがんばって、それでダメだったから、ここに来たんでしょう? それって、弱虫っていうこととは違うのよ。弱虫は、ダメになる前に、がんばることをやめてしまうもの。ううん、その前に、がんばることすらしないんだもの。だから、頼子ちゃんは、弱虫じゃない」
「でも」
「頼子ちゃんが弱虫なら、私だって弱虫だわ」
「千代さんが?」
人に迷惑をかけないようにと、家族にすらも気を使い、ひとりですべてを抱えようとしていた千代が弱虫だなんて信じられない。顔中でそう告げた頼子に、千代は困った顔をした。
「人に頼るって、勇気がいるわ。相手への信頼と、自信がないとできないの。頼ってもいいんだっていう、確信も含めてね。無意識にしている人は気がつかないかもしれないし、そういう人を、頼ってばかりで弱いっていう人もいるけれど。私からすれば、とても強い人に見えるわ」
ふっと息を抜いた千代が「だからね」と続ける。
「私に、そう思わせてくれた頼子ちゃんは、弱虫なんかじゃないわよ」
「千代さん」
「そうそう。いくら恋は下心なんて言われて、背中を押されたって、なかなかできることじゃないわ。それだけ、王子様のことが大好きなんだったら、ごめんなさいもきっとできる。大丈夫よ、頼子ちゃん」
「昌代さん」
ふたりに励まされて、頼子の心が震えた。
「私、なんか……ここに来てから、すごく涙もろくなったみたいで」
目を潤ませる頼子に、あらあらとふたりがほがらかな声を出す。
「感情を出すって、とてもいいことよ」
「だけど、変な心配をかけちゃいます」
「かけちゃえばいいのよ。甘えられる相手がいるって、いいことだわ。それを出せる強さと信頼って、とても大事なことなのよ」
「それは、自分にも言っていることなのかしらねぇ」
昌代がからかい、千代がいたずらっぽく肩をすくめた。このふたりは、とてもいい友達になるだろうと頼子は予感する。
「おもいっきり泣きはらした顔で、反省していますってあやまればいいのよ。そういうものも、場合によっては有効よ」
「まあ、昌代さんったら」
おだやかな笑いが生まれる。頼子は帰ったらきちんと弘毅にあやまろうと決めて、空を見上げた。
雲ひとつない空は、こんなふうに心も晴れるよと、応援してくれているように見えた。
散歩の時間。
千代のパートナーとして公園に出た頼子に、昌代が近づいてきた。千代に目配せをして、小道の木陰で立ち止まる。
「なにか、あったのね」
唐突に切り出した昌代に、聞くタイミングをうかがっていた千代が、わずかにホッとしながら憂い顔を頼子に向けた。
「失敗しちゃいました」
わざと、おどけた調子で答えた頼子の目に涙がにじむ。
「無理をしなくていいのよ」
千代に背中を撫でられて、頼子は喉を震わせた。
「私……そんな資格なんてないのに、嫉妬して、ひどいことをしちゃったんです」
声を詰まらせながら続ければ、千代と昌代が顔を見合わせた。
「嫉妬をするのに、資格なんていらないわよ。いるとすれば、恋心だわ」
とは、昌代。
「なにがあったのか、よかったら話をしてくれる?」
それに、千代が続いた。
ふたりのやさしいまなざしに、心細くなっていた頼子はおずおずと後悔を広げて見せた。
「確かめたかったんです。私の王子様が、ちゃんと王子様なのかって。ええと……その、あこがれの人を、ちゃんと現実の相手として、好きになっているのかなって。あこがれのまま、勘違いして迫っちゃったのかなって」
静かな瞳が、頼子の気持ちをスルスルと言葉に変えさせてくれる。頼子は迷いながら、ゆっくりと自分の気持ちと向き合って音にした。
「私……ずっと、ずっと好きだったんです。再会するまでずっと、心の王子様にしていたんです。それまでに、付き合った人とか、いいなぁって思った人とか、何人かいました。でも、ずっとあの人が心の中にいて、再会した時に、やっぱり好きだなって思って。ちょっと運命かもなんて思って。だって、長く会わなかったら、色あせるっていうか、違う感じになっていて、過去の思い出っていうか」
うまく言葉にできない頼子の手を、わかるわよと言いたげに千代がそっと叩く。頼子はすこし口の端を持ち上げて、軽く首を動かすと続きを話した。
「向こうは、ぜんぜん、私のことをどう思っているのかわからなくて。それで、だから私、恋は下心って昌代さんから聞いて、行動してみようって思って」
「してみたのね」
昌代が言って、頼子がうなずく。
「そうしたら、その……反応してくれて」
真っ赤になった頼子は、具体的な説明を避けた。きっとそれで、人生の先輩たちには伝わるはずだ。
「私にも望みはあるのかなって、考えたんです。だって、反応してくれたから。でも、ちゃんとはシてもらえなくて。だから本能的なもので、べつに私に興味があるってことじゃないのかもとも思って。よく、わからなくなっちゃって。それで、だけど、あきらめるなんてできなくて」
「あこがれが、本物だって気づいたのね」
しみじみと言った昌代に、頼子は弱々しい笑みで肯定した。
「それで、なんというか、いろいろあって。キスをしてほしいって言って、迫って、いい雰囲気になったのに途中でやめられてしまって。あしらわれているだけなのかなって思って。それで、その人の部屋にポスターがあるんですけど。それがすごく憎らしくなって、破ろうとしてしまったんです」
「女の子のポスターなの?」
「美少女のイラストなんです。その人が描いた」
まあ、と無言で昌代と千代が顔を見合わせる。
「だから、現実の女には興味がないのかもとも思って。わからないんですけど……でも、反応はしてくれたから、望みはないわけじゃないって思いたいけど、本能的に興奮してくれただけで、気持ちはぜんぜん動いていなかったらどうしようっていうか。そんなふうに思ってポスターに嫉妬して。そうしたら怒らせてしまって」
だんだんと、ごちゃごちゃとした気持ちに呑まれて頼子は説明ができなくなった。うなだれて黙り込んだ頼子の背中に千代の手が乗せられる。やさしい感触に、頼子は下唇を噛んだ。
ここでゆっくり、のんびりと気持ちを落ち着かせなさいと言われてきたのに、心の中はグチャグチャだ。
(なんで、こんなことになっちゃったんだろう)
泣いてばかりいる。感情が抑えられない。
(私、こんなに弱かったっけ)
そんなはずはない。歯を食いしばってがんばって、働いてきた。泣きたいときもあったけれど、笑顔を浮かべて働いていた。そうしているうちに、おかしくなって退社した。
(働いている間に、気力とかをぜんぶ、使い果たしちゃったのかな)
そうかもしれない。使いすぎてすり減って、がんばることができなくなっているのだ。そしてここでは、がんばらなくてもいいよと、だれもが無言で伝えてくれる。そのやさしさが、頼子の弱った心を真綿でくるむようにあたためてくれている。
(だから私、こんなに泣き虫になっちゃってるんだ)
情けない。こんなんじゃいけないと、深呼吸をして気持ちを抑え込み、頼子は無理やり笑顔を作って顔を上げた。
「ほんと、バカですよね。自分の気持ちに振り回されて、相手のことをちっとも考えられなくなって。子どもとおなじ……ううん、子どものほうが、もっと相手のことを考えているのかも」
肩をすくめて笑い飛ばそうとした頼子を、心配顔がふたつ見ている。心の底から案じてくれているのだと伝わってきた。鼻の奥がツンとして、頼子はグッと腹の底に力を入れた。
(泣かない)
ここには仕事できているのだから。自分のことにかまけて、ふたりに甘えるわけにはいかない。
「さあ、お散歩しましょう。おしゃべりしているだけじゃ、リハビリになりませんから」
頼子は、千代に手を差し出した。
「昌代さんも、いっしょに行きましょう」
ふたりは顔を見合わせて、そうねと笑顔を浮かべると歩きはじめた。
ゲートボールをしている人たちに背を向けて、いつもの散歩道を進んでいく。草々が目にやさしくて、頼子はそれらをぼんやりとながめつつ、千代の手を取って歩いた。昌代がすこし遅れて続く。背の高い草に隠れて、ほかの面々の姿が見えなくなってから、千代が不意に立ち止まった。
「あやまったの?」
「え」
「ポスターのこと。悪いことをしたって、頼子ちゃんは反省しているのよね」
「それは、まあ……」
「だったら、なるべくはやく、ごめんなさいをしちゃいなさい」
「そうね。このまま気まずいまま、距離が離れてしまうのは悲しいものね」
昌代が後押しをして、頼子は「でも」とうつむいた。
「このまま、王子様と気まずいままで、ずっと過ごすの? やさしくて大好きな王子様なんだったら、きちんとあやまれば許してくれるんじゃないかしら」
「でも、昌代さん。私、ポスターに爪をたてちゃったんです」
声を落とした頼子の腕を「なぁんだ」と昌代が握った。
「破ってしまったわけじゃないのね」
「でも、傷をつけてしまったんです」
「ポスターなら、また買えるんじゃないの? ほら、インターネットで探して、新しいものを返したらいいじゃない。そうしたら、きっと許してくれるわよ」
「わかりません……もう、売ってないかもしれない。いつのものかもわからないし、探すにしても、どういう名前で検索すればいいのかもわからなくて」
唇を尖らせた昌代を、千代が無言でやんわりとたしなめる。
「とりあえず、謝罪は大事よ。頼子ちゃんが悪いと思っていることを、相手に伝えないとね」
千代の言葉に、頼子は肯定とも否定ともとれる動きで首を動かした。
「怖いんです」
「でも、このままじゃ、ずっと気まずいままよ」
「……私、逃げて来たんです」
「え」
「逃げて、ここに来たんです」
昌代と千代が顔を見合わせる。頼子はギュッと胸の前で手を握った。
「私、逃げて来たんです。がんばったけど、がんばりきれなくて。だから、弱虫なんです。頼子なんて名前なのに、ちっとも頼りなくって、役立たずで弱くて……だから、それで、ダメになっちゃって、ここに逃げて来たんです」
「頼子ちゃん」
「勇気なんて、ちっともないんです……怖いです……怖いのに、なのに、とんでもないことをして……私、やっぱり」
「私が、けしかけちゃったからなのね」
嘆息した昌代に、頼子はハッとした。ごめんなさいねと瞳の奥に痛みをたたえた昌代に、胸の前で握っている手を両手で包まれて、頼子はあわてた。
「そんな! 昌代さんのせいじゃないです」
「でも、私が恋は下心なんて言ったから」
まあっと千代が手で口をおおう。
「私は、そうやっていまの夫と結ばれたのよ」
照れくさそうに、バツの悪い顔で昌代が言うと、そうだったわねと千代は頭を揺らした。
「だけど、恋が下心だなんて」
「あら。下心でしょう? 自分を好きになってもらいたい。いっしょになりたいって気持ちは、いくらキレイに言い換えても下心だわ」
「それは……まあ、そうかもしれないけれど」
昌代の堂々とした姿は威厳すら感じられた。気圧された千代が視線を左右に揺らして小首をかしげる。
「それで、頼子ちゃんは王子様に迫ってみたってことなのね。それが、失敗しちゃったと」
「そのかわり、王子様への気持ちがあこがれじゃなくて、本当の恋心だったって気がついたわけ」
なるほどと千代が頼子にほほえみかける。
「頼子ちゃんは、ちっとも弱虫なんかじゃないわ。がんばってがんばって、それでダメだったから、ここに来たんでしょう? それって、弱虫っていうこととは違うのよ。弱虫は、ダメになる前に、がんばることをやめてしまうもの。ううん、その前に、がんばることすらしないんだもの。だから、頼子ちゃんは、弱虫じゃない」
「でも」
「頼子ちゃんが弱虫なら、私だって弱虫だわ」
「千代さんが?」
人に迷惑をかけないようにと、家族にすらも気を使い、ひとりですべてを抱えようとしていた千代が弱虫だなんて信じられない。顔中でそう告げた頼子に、千代は困った顔をした。
「人に頼るって、勇気がいるわ。相手への信頼と、自信がないとできないの。頼ってもいいんだっていう、確信も含めてね。無意識にしている人は気がつかないかもしれないし、そういう人を、頼ってばかりで弱いっていう人もいるけれど。私からすれば、とても強い人に見えるわ」
ふっと息を抜いた千代が「だからね」と続ける。
「私に、そう思わせてくれた頼子ちゃんは、弱虫なんかじゃないわよ」
「千代さん」
「そうそう。いくら恋は下心なんて言われて、背中を押されたって、なかなかできることじゃないわ。それだけ、王子様のことが大好きなんだったら、ごめんなさいもきっとできる。大丈夫よ、頼子ちゃん」
「昌代さん」
ふたりに励まされて、頼子の心が震えた。
「私、なんか……ここに来てから、すごく涙もろくなったみたいで」
目を潤ませる頼子に、あらあらとふたりがほがらかな声を出す。
「感情を出すって、とてもいいことよ」
「だけど、変な心配をかけちゃいます」
「かけちゃえばいいのよ。甘えられる相手がいるって、いいことだわ。それを出せる強さと信頼って、とても大事なことなのよ」
「それは、自分にも言っていることなのかしらねぇ」
昌代がからかい、千代がいたずらっぽく肩をすくめた。このふたりは、とてもいい友達になるだろうと頼子は予感する。
「おもいっきり泣きはらした顔で、反省していますってあやまればいいのよ。そういうものも、場合によっては有効よ」
「まあ、昌代さんったら」
おだやかな笑いが生まれる。頼子は帰ったらきちんと弘毅にあやまろうと決めて、空を見上げた。
雲ひとつない空は、こんなふうに心も晴れるよと、応援してくれているように見えた。
0
お気に入りに追加
100
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる