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13.反省してるの、王子様

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 腫れぼったい目で出勤した頼子を、気にしない施設利用者はいなかった。察するもののある昌代や千代はとくに、頼子の様子を気にしている。しかし大勢がいる中で聞くのはよくないだろうと、口をつぐんで普段通りにすごしている。彼女たちの視線を感じつつ、頼子は気まずくなりながら、普段通りを心掛けて働いていた。

 散歩の時間。

 千代のパートナーとして公園に出た頼子に、昌代が近づいてきた。千代に目配せをして、小道の木陰で立ち止まる。

「なにか、あったのね」

 唐突に切り出した昌代に、聞くタイミングをうかがっていた千代が、わずかにホッとしながら憂い顔を頼子に向けた。

「失敗しちゃいました」

 わざと、おどけた調子で答えた頼子の目に涙がにじむ。

「無理をしなくていいのよ」

 千代に背中を撫でられて、頼子は喉を震わせた。

「私……そんな資格なんてないのに、嫉妬して、ひどいことをしちゃったんです」

 声を詰まらせながら続ければ、千代と昌代が顔を見合わせた。

「嫉妬をするのに、資格なんていらないわよ。いるとすれば、恋心だわ」

 とは、昌代。

「なにがあったのか、よかったら話をしてくれる?」

 それに、千代が続いた。

 ふたりのやさしいまなざしに、心細くなっていた頼子はおずおずと後悔を広げて見せた。

「確かめたかったんです。私の王子様が、ちゃんと王子様なのかって。ええと……その、あこがれの人を、ちゃんと現実の相手として、好きになっているのかなって。あこがれのまま、勘違いして迫っちゃったのかなって」

 静かな瞳が、頼子の気持ちをスルスルと言葉に変えさせてくれる。頼子は迷いながら、ゆっくりと自分の気持ちと向き合って音にした。

「私……ずっと、ずっと好きだったんです。再会するまでずっと、心の王子様にしていたんです。それまでに、付き合った人とか、いいなぁって思った人とか、何人かいました。でも、ずっとあの人が心の中にいて、再会した時に、やっぱり好きだなって思って。ちょっと運命かもなんて思って。だって、長く会わなかったら、色あせるっていうか、違う感じになっていて、過去の思い出っていうか」

 うまく言葉にできない頼子の手を、わかるわよと言いたげに千代がそっと叩く。頼子はすこし口の端を持ち上げて、軽く首を動かすと続きを話した。

「向こうは、ぜんぜん、私のことをどう思っているのかわからなくて。それで、だから私、恋は下心って昌代さんから聞いて、行動してみようって思って」

「してみたのね」

 昌代が言って、頼子がうなずく。

「そうしたら、その……反応してくれて」

 真っ赤になった頼子は、具体的な説明を避けた。きっとそれで、人生の先輩たちには伝わるはずだ。

「私にも望みはあるのかなって、考えたんです。だって、反応してくれたから。でも、ちゃんとはシてもらえなくて。だから本能的なもので、べつに私に興味があるってことじゃないのかもとも思って。よく、わからなくなっちゃって。それで、だけど、あきらめるなんてできなくて」

「あこがれが、本物だって気づいたのね」

 しみじみと言った昌代に、頼子は弱々しい笑みで肯定した。

「それで、なんというか、いろいろあって。キスをしてほしいって言って、迫って、いい雰囲気になったのに途中でやめられてしまって。あしらわれているだけなのかなって思って。それで、その人の部屋にポスターがあるんですけど。それがすごく憎らしくなって、破ろうとしてしまったんです」

「女の子のポスターなの?」

「美少女のイラストなんです。その人が描いた」

 まあ、と無言で昌代と千代が顔を見合わせる。

「だから、現実の女には興味がないのかもとも思って。わからないんですけど……でも、反応はしてくれたから、望みはないわけじゃないって思いたいけど、本能的に興奮してくれただけで、気持ちはぜんぜん動いていなかったらどうしようっていうか。そんなふうに思ってポスターに嫉妬して。そうしたら怒らせてしまって」

 だんだんと、ごちゃごちゃとした気持ちに呑まれて頼子は説明ができなくなった。うなだれて黙り込んだ頼子の背中に千代の手が乗せられる。やさしい感触に、頼子は下唇を噛んだ。

 ここでゆっくり、のんびりと気持ちを落ち着かせなさいと言われてきたのに、心の中はグチャグチャだ。

(なんで、こんなことになっちゃったんだろう)

 泣いてばかりいる。感情が抑えられない。

(私、こんなに弱かったっけ)

 そんなはずはない。歯を食いしばってがんばって、働いてきた。泣きたいときもあったけれど、笑顔を浮かべて働いていた。そうしているうちに、おかしくなって退社した。

(働いている間に、気力とかをぜんぶ、使い果たしちゃったのかな)

 そうかもしれない。使いすぎてすり減って、がんばることができなくなっているのだ。そしてここでは、がんばらなくてもいいよと、だれもが無言で伝えてくれる。そのやさしさが、頼子の弱った心を真綿でくるむようにあたためてくれている。

(だから私、こんなに泣き虫になっちゃってるんだ)

 情けない。こんなんじゃいけないと、深呼吸をして気持ちを抑え込み、頼子は無理やり笑顔を作って顔を上げた。

「ほんと、バカですよね。自分の気持ちに振り回されて、相手のことをちっとも考えられなくなって。子どもとおなじ……ううん、子どものほうが、もっと相手のことを考えているのかも」

 肩をすくめて笑い飛ばそうとした頼子を、心配顔がふたつ見ている。心の底から案じてくれているのだと伝わってきた。鼻の奥がツンとして、頼子はグッと腹の底に力を入れた。

(泣かない)

 ここには仕事できているのだから。自分のことにかまけて、ふたりに甘えるわけにはいかない。

「さあ、お散歩しましょう。おしゃべりしているだけじゃ、リハビリになりませんから」

 頼子は、千代に手を差し出した。

「昌代さんも、いっしょに行きましょう」

 ふたりは顔を見合わせて、そうねと笑顔を浮かべると歩きはじめた。

 ゲートボールをしている人たちに背を向けて、いつもの散歩道を進んでいく。草々が目にやさしくて、頼子はそれらをぼんやりとながめつつ、千代の手を取って歩いた。昌代がすこし遅れて続く。背の高い草に隠れて、ほかの面々の姿が見えなくなってから、千代が不意に立ち止まった。

「あやまったの?」

「え」

「ポスターのこと。悪いことをしたって、頼子ちゃんは反省しているのよね」

「それは、まあ……」

「だったら、なるべくはやく、ごめんなさいをしちゃいなさい」

「そうね。このまま気まずいまま、距離が離れてしまうのは悲しいものね」

 昌代が後押しをして、頼子は「でも」とうつむいた。

「このまま、王子様と気まずいままで、ずっと過ごすの? やさしくて大好きな王子様なんだったら、きちんとあやまれば許してくれるんじゃないかしら」

「でも、昌代さん。私、ポスターに爪をたてちゃったんです」

 声を落とした頼子の腕を「なぁんだ」と昌代が握った。

「破ってしまったわけじゃないのね」

「でも、傷をつけてしまったんです」

「ポスターなら、また買えるんじゃないの? ほら、インターネットで探して、新しいものを返したらいいじゃない。そうしたら、きっと許してくれるわよ」

「わかりません……もう、売ってないかもしれない。いつのものかもわからないし、探すにしても、どういう名前で検索すればいいのかもわからなくて」

 唇を尖らせた昌代を、千代が無言でやんわりとたしなめる。

「とりあえず、謝罪は大事よ。頼子ちゃんが悪いと思っていることを、相手に伝えないとね」

 千代の言葉に、頼子は肯定とも否定ともとれる動きで首を動かした。

「怖いんです」

「でも、このままじゃ、ずっと気まずいままよ」

「……私、逃げて来たんです」

「え」

「逃げて、ここに来たんです」

 昌代と千代が顔を見合わせる。頼子はギュッと胸の前で手を握った。

「私、逃げて来たんです。がんばったけど、がんばりきれなくて。だから、弱虫なんです。頼子なんて名前なのに、ちっとも頼りなくって、役立たずで弱くて……だから、それで、ダメになっちゃって、ここに逃げて来たんです」

「頼子ちゃん」

「勇気なんて、ちっともないんです……怖いです……怖いのに、なのに、とんでもないことをして……私、やっぱり」

「私が、けしかけちゃったからなのね」

 嘆息した昌代に、頼子はハッとした。ごめんなさいねと瞳の奥に痛みをたたえた昌代に、胸の前で握っている手を両手で包まれて、頼子はあわてた。

「そんな! 昌代さんのせいじゃないです」

「でも、私が恋は下心なんて言ったから」

 まあっと千代が手で口をおおう。

「私は、そうやっていまの夫と結ばれたのよ」

 照れくさそうに、バツの悪い顔で昌代が言うと、そうだったわねと千代は頭を揺らした。

「だけど、恋が下心だなんて」

「あら。下心でしょう? 自分を好きになってもらいたい。いっしょになりたいって気持ちは、いくらキレイに言い換えても下心だわ」

「それは……まあ、そうかもしれないけれど」

 昌代の堂々とした姿は威厳すら感じられた。気圧された千代が視線を左右に揺らして小首をかしげる。

「それで、頼子ちゃんは王子様に迫ってみたってことなのね。それが、失敗しちゃったと」

「そのかわり、王子様への気持ちがあこがれじゃなくて、本当の恋心だったって気がついたわけ」

 なるほどと千代が頼子にほほえみかける。

「頼子ちゃんは、ちっとも弱虫なんかじゃないわ。がんばってがんばって、それでダメだったから、ここに来たんでしょう? それって、弱虫っていうこととは違うのよ。弱虫は、ダメになる前に、がんばることをやめてしまうもの。ううん、その前に、がんばることすらしないんだもの。だから、頼子ちゃんは、弱虫じゃない」

「でも」

「頼子ちゃんが弱虫なら、私だって弱虫だわ」

「千代さんが?」

 人に迷惑をかけないようにと、家族にすらも気を使い、ひとりですべてを抱えようとしていた千代が弱虫だなんて信じられない。顔中でそう告げた頼子に、千代は困った顔をした。

「人に頼るって、勇気がいるわ。相手への信頼と、自信がないとできないの。頼ってもいいんだっていう、確信も含めてね。無意識にしている人は気がつかないかもしれないし、そういう人を、頼ってばかりで弱いっていう人もいるけれど。私からすれば、とても強い人に見えるわ」

 ふっと息を抜いた千代が「だからね」と続ける。

「私に、そう思わせてくれた頼子ちゃんは、弱虫なんかじゃないわよ」

「千代さん」

「そうそう。いくら恋は下心なんて言われて、背中を押されたって、なかなかできることじゃないわ。それだけ、王子様のことが大好きなんだったら、ごめんなさいもきっとできる。大丈夫よ、頼子ちゃん」

「昌代さん」

 ふたりに励まされて、頼子の心が震えた。

「私、なんか……ここに来てから、すごく涙もろくなったみたいで」

 目を潤ませる頼子に、あらあらとふたりがほがらかな声を出す。

「感情を出すって、とてもいいことよ」

「だけど、変な心配をかけちゃいます」

「かけちゃえばいいのよ。甘えられる相手がいるって、いいことだわ。それを出せる強さと信頼って、とても大事なことなのよ」

「それは、自分にも言っていることなのかしらねぇ」

 昌代がからかい、千代がいたずらっぽく肩をすくめた。このふたりは、とてもいい友達になるだろうと頼子は予感する。

「おもいっきり泣きはらした顔で、反省していますってあやまればいいのよ。そういうものも、場合によっては有効よ」

「まあ、昌代さんったら」

 おだやかな笑いが生まれる。頼子は帰ったらきちんと弘毅にあやまろうと決めて、空を見上げた。

 雲ひとつない空は、こんなふうに心も晴れるよと、応援してくれているように見えた。
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