凪の潮騒

9

　私が再び海に入れるようになると、幸正は自分が困るはずなのに、私の漁の時間を他のものと同じにしろと言って来た。誰よりも早く新鮮な海の幸を提供できるからと、私と取引を始めたくせにと笑えば、命の危険を冒してまでする必要は無いと、説得された。それに私が応じれば、幸正の主の朝の膳が提供される時間が遅れるか、今までよりも手間と時間を省いた料理を出さなければならなくなる。そうなれば、幸正がどうなるか――。

　幸正が、どのような位を与えられ、どのような仕事をしているのかを、詳しくは知らない。私が漁の時間を遅らせても、咎められることなくいられるのかもしれない。けれど、気遣われるのは有りがたいけれど、半ば意地のようなものもあって、好意からの説得に首を振った。

　無言で、真剣な顔で見つめ合い、先に目を逸らしたのは幸正で、諦めたような息を吐き、強情だなと笑われた。それに笑みを返した翌日から、幸正は買い付けを追えると、それを届けた後に戻ってくるようになった。そうして、一度きりだったはずの身を重ねる行為は、いつの間にか日課のようになり、抱きしめられる心地よさを味わうためにも、私は暗い海に身を沈めるようになった。

　投網は、海水が身を切るほどに冷たくなる前に、扱い方を覚えたほうが良いと、何度も言われていながら今のままの漁を続ける気でいる私に、意識を変えさせようとして置いて行ったものだろう。

　冬の海は、流れが速くなる。

　私が好んで身を沈める場所は、大きな岩などが取り囲み、他と比べれば時化などの影響を受けにくい穏やかな場所だ。しかし、あくまでも他と比べれば、でしかない。

「世話焼きだな」

　幸正のぬくもりを思い出し、私は午後の海へと足を向けた。明るくなった海に入り、翌朝に潜り獲物を捕まえる場所を確認するついでに、自分が食べるものを捕らえるためだ。

　腰に網を括り付け、カマを手にして手ぬぐいを肩にかけ、砂浜を歩き岩場へ向かう。村のものたちは私に同情をしているらしく、私の漁場には潜らない。私も、彼らの漁場は荒らさないし、よほどのことが無い限り手を貸したりはしない。村は私に深く関わらず、私も村にかかわらなかった。

　岩場に近づき、今朝の男を思い出す。宗也は、何を思ってあの場所に立ち、何を思って私に手を伸ばして唇を重ねたのだろう。

　宗也の立っていた場所に目を向けて、唇に指を乗せる。私の唇は幸正がさんざんに吸ったというのに、全く違う触れ方をした宗也の唇を覚えていた。

（あれは――、本当に物の怪では無いのよね）