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乙若
(私は、人だ)
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涙にぬれた顔を上げ、乙若は古い記憶を呼び覚ます。わけのわからぬままに山寺に入れられた乙若は、修行を積むよう命ぜられた。母や兄弟と引き離され、知らぬ大人の中に放り込まれて心細かった。薄墨の衣をまとった禿頭の男たちに囲まれるのは恐怖だった。どれほどおだやかな笑顔を向けられても、幼い乙若の気持ちは硬化するばかりだった。
母を求める気持ちが強いあまり、乙若は暗闇に沈む山に出た。子どもの足で山を下って母のもとへ行けるはずもない。そんな考えは幼い乙若のなかにはなかった。ただひたすらに母が恋しく、誰かに見とがめられてはならないと考えて、月のない夜に寺を飛び出したのだった。
どのくらい山を下ったのか。
いくら進んでも景色は変わらず、闇に沈んだ木々の影はひたすらに濃いままで、疲れに足をもつれさせた乙若はうずくまった。
戻るという考えはかけらも浮かばず、ただひたすらに母を求めて涙をこぼした。
そうしていると背後から呼ぶ声が聞こえてきた。
見つかれば寺に連れ戻されるとわかっていながら、乙若は動けなかった。くたくたの上に空腹で、漆黒の闇に心がすっかり弱っていた。
(もう、いい)
どうでもいいと、乙若は己を投げ出した。母がいないのならば、どうでもいい。己などいらないと、乙若は心を虚空に投げだした。
乙若を呼ぶ声は近づき、やがて乙若を見つけた。乙若はそれが誰であっても――鬼であってもかまわないと目を閉じていた。
ふわりと体が浮かんで、抱き上げられたのだとわかった。身を預けると相手は乙若を運んだ。
じわりじわりと布越しに伝わってくる体温と、ゆったりとした歩みの揺れに乙若はいつしか眠りに落ちた。
気がつくと敷物の上に寝かされていた。ぼんやりとした灯りの中に、座してなにかを記している人の背が見える。
身を起こした乙若に気づいた相手は振り返り、とろける笑みで乙若を手招いた。寝ぼけと疲れで重たくなった体を動かし、近づいた乙若は水あめを差し出された。きょとんとした乙若は相手を見上げた。笑うと目がうずもれるほどシワの深い顔に、自分と同等のいたずらめいた気色を見つけた乙若の警戒は薄れた。
水あめは甘く、乙若の胸に凝っていたさまざまな感情を包み溶かした。
堰を切ったように泣きだした乙若を、相手はにこにことながめていた。泣き止むまでずっと、ひと言も発さずに。
やがて泣き疲れて眠った乙若は、目覚めて誰もいないことに首をかしげた。そして僧侶たちの中にあの顔を求めたが出会えなかった。
(あれは、仏が私を受け止めてくれたのではないか)
そう判じた幼い乙若は、あのように人と接して救えるものになろうと決意した。
(そうだ……私はただ、心の中に溜まった澱を吐き出して、己に気づかせることのできるものになりたいと望んだのだった)
涙をぬぐった乙若は、あのときの僧侶はこの屋の主とおなじものではないかと考えた。
あのとき、乙若は己の中に押し込めていた母を求める気持ちやさみしさ、受け止めきれぬほどの大きな不安を涙に変えた。そしてそれを笑顔で静かに見守ってくれる相手がいたからこそ、孤独に落ち込まずにいられたのだった。
想いをありのまま受け止めてくれる相手がいる。
そのことの幸福を噛みしめた乙若は、そうなりたいと望んだのだ。それなのに――。
(私は私の望みを忘れ、だからこそ迷いの中に踏み入れていたのか)
霧の中に迷い、この屋に引き入れられたのは偶然ではないと乙若は顔を上げた。
「屋の主殿。どうか私の話を聞いていただけないでしょうか。私の望みを――私の願いを!」
声は壁に吸い込まれた。
耳を澄まして乙若は返事を待った。
だが、物音ひとつ聞こえない。
「屋の主よ」
ふたたび呼びかけてみても、なんの気振りもなかった。
乙若は敷物を見て、ふとほほえむとその上に横になった。新しい木綿の着物を体にかぶせて目を閉じる。
(この屋の主は私が休むことを望んでいる)
ではまずは、与えられたものをありがたく頂戴し、それから話をするのが道理だと乙若は目を閉じた。
思い出した乙若は目じりを細めた。水面に映る顔が、禿頭の老人から長髪の青年となる。
来客のない間に、乙若はこうして己の望みを噛みしめて、自分が何者なのかを思い出していた。
(私は、私の望みのために甲に頼んで置いてもらっている)
決してこの屋の主ではないのだと己を戒めるためにも、はじまりを繰り返し味わわなければならない。ふたたび自分を見失ってはならないと、乙若は水面の自分に語りかける。
鯉が尾で水を揺らして、池面の乙若を乱した。
顔を上げた乙若は池の奥に目を止めた。あの場所はいつだったか――登山が趣味という男が訪れたときに増設されたものだった。それがそのまま残っているのは、彼が去った後でも必要になると甲が判断したからだ。
(実際、あれは役に立っている)
あの道を行くことで己の心を見つけられたものがいた。幾人かの顔が雰囲気として、ぼんやりと乙若の脳裏に浮かぶ。それは乙若が人の寿命を持ったままでは、知りえなかった環境に身を置く人々だった。
(私が甲に頼み、甲とともにありたいと願ってから、どのくらいの年月が経ったのだろう)
木々に囲まれた小道に踏み込んで、乙若はつらつらと思っても意味もないことを考える。しかしそれは人である証だと、乙若は好んでやくたいもない思考をめぐらせる。
(私は、人だ)
御仏に仕え、解脱を望んだ乙若は人でありつづけることを選んだ。
甲と共にあり、人では生きることのできない時間を過ごしていても、己は人であると乙若は思っている。
「さまざまな人々と触れ合うたなぁ」
ひとりごとにしては大きな声で、乙若は屋敷をながめつつしみじみとこぼした。
はじめ長者の屋に似た造りであったものが、いまは囲炉裏のない旅館のような形になっている。
旅館というものを乙若は見たことがない。訪れる人々の触れてきたもののなかから、そういうものを知っただけだ。
訪れる誰かが不審に思わず屋の中に入り、心身ともにくつろげるよう甲は己の形を変えていく。それに合わせて乙若も変化した。これからも変化し続けていくだろう。
(人の世が続く限り)
わずかに目を伏せ、乙若は訪れた人々の変節を確かめる。
乙若の生まれ育った時代といまとは、あらゆるものが大きく違っていた。
(だが、人の心は変わりない)
悩みもまた時代に添って外面は変化しているが、核となる部分はおなじままだと乙若は感じていた。
ふわりと乙若の頬が愉快そうに膨らむ。
(まったく予想もしなかった来客もあった)
来客をもてなすのは乙若の役目だが、あれこれと世話をするわけではない。ただそっと方向性を示すだけだ。その役を訪れたものに寄り添ってきた誰かの心がおこなったときは、このようなこともあるのかと目を開いた。
あのときの軽く甘い衝撃に、乙若の心がふっくらと蒸される。湿っぽい話というのは、えてして陰気臭いものだが、それが転じて想いの湯気となり心をあたためることがあろうとは。
(いくら生きても、新たな発見はあるものだ)
あの夫婦は――人の世に戻った男は、どのような心で亡き妻を想っているのかと、乙若は甘露の余韻を舌の上で転がすように想像した。
それはきっと彼を取り巻く環境にとっても、いい影響を及ぼしていることだろう。
(思いは……気持ちは残るのだ)
それをあの婦人は示してくれた。
小言を言ってすっきりとし、成仏したいがために夫を呼び寄せたのかとの予測は外れていた。それを乙若はうれしく思う。
(ともに生きてきたものの言葉は、なによりも深く強い)
あのような関係もあるのだと、乙若はあらためて感心させられた。
視線を屋敷から空へと移す。
必要がなければ曇ることも雨が降ることもない空は、不要であれば暮れることもない。
木の葉に遮られて細くなった陽光はまぶしく、透ける緑が目に沁みた。
細めた乙若の目の奥のさらに奥へと進んだ光は、乙若のほろ苦い記憶を刺激した。
眠りから覚めた乙若の手は、肌がピンと張り詰めた若々しいものに変化していた。
「これは」
呆然とつぶやいた乙若は起き上がり、体がとても軽いことに気がついた。あちこち体を叩いてから顔をなでてみる。つるりとしたシワのない頬におどろき、乙若は姿を見られるものはないかと首を巡らせた。
食欲をそそる香りが鼻孔に触れる。
匂いに導かれていくと、鍋をかき回している女性と出会った。
「あ」
「あ」
お互いに短い声を発して、首だけの会釈をする。彼女がこの屋の主なのかと、乙若は視線を女性に定めたまま囲炉裏端に腰を下ろした。
「勝手に上がり込んでしまって、申し訳ありません」
「え。ああいや……それは私もおなじこと」
「は?」
きょとんとした女性に、乙若は霧が深くなってきたので休ませてもらっていたのだと説明した。すると女性は目も口もまるくして、しばらく乙若を見つめてからクスクスと笑いだした。
「おなじ迷い込んだ者同士だったんですね」
「はあ、そのようです」
ほがらかな彼女の笑顔に、乙若の心がかすかにくすぐられた。むずがゆい心地になった乙若は、後頭部に手を当てた。たっぷりとした豊かな髪が指に触れる。
怪訝な顔で、乙若は己の髪を指で梳いた。
(なぜ私の頭に髪があるのだ)
「どうぞ」
椀を差し出されて、乙若は受け取った。味噌に濁った汁物をのぞいても、自分の顔は映らない。いったいどんな姿になっているのかと気にしながら、乙若は口をつけた。女性も己の椀を手にして汁をすすっている。
「あの……あなたは、どうしてここに」
「山菜を摘みに入りましたら、霧に包まれてしまって」
はずかしそうに目を伏せる女性のまつ毛の長さに目を奪われつつ、乙若はうなずいた。女性の脇には山菜の入った籠がある。
「市に売りに行くのですか」
ええと女性は控えめにうなずいて、口角をわずかに持ち上げた。つつましやかな態度に乙若の体がふんわりと熱くなる。
(私は、彼女に惹かれているのか)
長い人生の中で、異性に心を動かされなかったと言えばうそになる。これはそのときの感情に似ていると、乙若は分析した。
「市に行くのならのんびりとしてもいられないでしょうが、霧があると山道は危ない」
「ええ。ですから、どうしようかと」
乞う目で女性に掬い見られた乙若の心臓が跳ねた。ゴクリと喉を鳴らして、乙若は口を開く。
(私が市までともに行きましょうか)
生まれた言葉は、喉に引っかかって音にはならなかった。乙若のうしろ髪がなにかに引かれる。彼女とともに行ってはならないと、乙若の体を止めるなにかがあった。
女性は愛らしく小首をかしげて、乙若の喉から出るはずの声を待っている。
「ああ、いえ……それは、困りましたね」
乙若が元の体勢に落ち着くと、女性はそっと落胆をこぼした。
「あなたさまは、この屋がどのようなものであると思われますか」
「え」
「屋の主が見えない。けれど求めるもてなしをしてくださる。そんな家をどう思われながら、休んでいらしたのです?」
女性の質問に、乙若は視線を手元に落とした。
母を求める気持ちが強いあまり、乙若は暗闇に沈む山に出た。子どもの足で山を下って母のもとへ行けるはずもない。そんな考えは幼い乙若のなかにはなかった。ただひたすらに母が恋しく、誰かに見とがめられてはならないと考えて、月のない夜に寺を飛び出したのだった。
どのくらい山を下ったのか。
いくら進んでも景色は変わらず、闇に沈んだ木々の影はひたすらに濃いままで、疲れに足をもつれさせた乙若はうずくまった。
戻るという考えはかけらも浮かばず、ただひたすらに母を求めて涙をこぼした。
そうしていると背後から呼ぶ声が聞こえてきた。
見つかれば寺に連れ戻されるとわかっていながら、乙若は動けなかった。くたくたの上に空腹で、漆黒の闇に心がすっかり弱っていた。
(もう、いい)
どうでもいいと、乙若は己を投げ出した。母がいないのならば、どうでもいい。己などいらないと、乙若は心を虚空に投げだした。
乙若を呼ぶ声は近づき、やがて乙若を見つけた。乙若はそれが誰であっても――鬼であってもかまわないと目を閉じていた。
ふわりと体が浮かんで、抱き上げられたのだとわかった。身を預けると相手は乙若を運んだ。
じわりじわりと布越しに伝わってくる体温と、ゆったりとした歩みの揺れに乙若はいつしか眠りに落ちた。
気がつくと敷物の上に寝かされていた。ぼんやりとした灯りの中に、座してなにかを記している人の背が見える。
身を起こした乙若に気づいた相手は振り返り、とろける笑みで乙若を手招いた。寝ぼけと疲れで重たくなった体を動かし、近づいた乙若は水あめを差し出された。きょとんとした乙若は相手を見上げた。笑うと目がうずもれるほどシワの深い顔に、自分と同等のいたずらめいた気色を見つけた乙若の警戒は薄れた。
水あめは甘く、乙若の胸に凝っていたさまざまな感情を包み溶かした。
堰を切ったように泣きだした乙若を、相手はにこにことながめていた。泣き止むまでずっと、ひと言も発さずに。
やがて泣き疲れて眠った乙若は、目覚めて誰もいないことに首をかしげた。そして僧侶たちの中にあの顔を求めたが出会えなかった。
(あれは、仏が私を受け止めてくれたのではないか)
そう判じた幼い乙若は、あのように人と接して救えるものになろうと決意した。
(そうだ……私はただ、心の中に溜まった澱を吐き出して、己に気づかせることのできるものになりたいと望んだのだった)
涙をぬぐった乙若は、あのときの僧侶はこの屋の主とおなじものではないかと考えた。
あのとき、乙若は己の中に押し込めていた母を求める気持ちやさみしさ、受け止めきれぬほどの大きな不安を涙に変えた。そしてそれを笑顔で静かに見守ってくれる相手がいたからこそ、孤独に落ち込まずにいられたのだった。
想いをありのまま受け止めてくれる相手がいる。
そのことの幸福を噛みしめた乙若は、そうなりたいと望んだのだ。それなのに――。
(私は私の望みを忘れ、だからこそ迷いの中に踏み入れていたのか)
霧の中に迷い、この屋に引き入れられたのは偶然ではないと乙若は顔を上げた。
「屋の主殿。どうか私の話を聞いていただけないでしょうか。私の望みを――私の願いを!」
声は壁に吸い込まれた。
耳を澄まして乙若は返事を待った。
だが、物音ひとつ聞こえない。
「屋の主よ」
ふたたび呼びかけてみても、なんの気振りもなかった。
乙若は敷物を見て、ふとほほえむとその上に横になった。新しい木綿の着物を体にかぶせて目を閉じる。
(この屋の主は私が休むことを望んでいる)
ではまずは、与えられたものをありがたく頂戴し、それから話をするのが道理だと乙若は目を閉じた。
思い出した乙若は目じりを細めた。水面に映る顔が、禿頭の老人から長髪の青年となる。
来客のない間に、乙若はこうして己の望みを噛みしめて、自分が何者なのかを思い出していた。
(私は、私の望みのために甲に頼んで置いてもらっている)
決してこの屋の主ではないのだと己を戒めるためにも、はじまりを繰り返し味わわなければならない。ふたたび自分を見失ってはならないと、乙若は水面の自分に語りかける。
鯉が尾で水を揺らして、池面の乙若を乱した。
顔を上げた乙若は池の奥に目を止めた。あの場所はいつだったか――登山が趣味という男が訪れたときに増設されたものだった。それがそのまま残っているのは、彼が去った後でも必要になると甲が判断したからだ。
(実際、あれは役に立っている)
あの道を行くことで己の心を見つけられたものがいた。幾人かの顔が雰囲気として、ぼんやりと乙若の脳裏に浮かぶ。それは乙若が人の寿命を持ったままでは、知りえなかった環境に身を置く人々だった。
(私が甲に頼み、甲とともにありたいと願ってから、どのくらいの年月が経ったのだろう)
木々に囲まれた小道に踏み込んで、乙若はつらつらと思っても意味もないことを考える。しかしそれは人である証だと、乙若は好んでやくたいもない思考をめぐらせる。
(私は、人だ)
御仏に仕え、解脱を望んだ乙若は人でありつづけることを選んだ。
甲と共にあり、人では生きることのできない時間を過ごしていても、己は人であると乙若は思っている。
「さまざまな人々と触れ合うたなぁ」
ひとりごとにしては大きな声で、乙若は屋敷をながめつつしみじみとこぼした。
はじめ長者の屋に似た造りであったものが、いまは囲炉裏のない旅館のような形になっている。
旅館というものを乙若は見たことがない。訪れる人々の触れてきたもののなかから、そういうものを知っただけだ。
訪れる誰かが不審に思わず屋の中に入り、心身ともにくつろげるよう甲は己の形を変えていく。それに合わせて乙若も変化した。これからも変化し続けていくだろう。
(人の世が続く限り)
わずかに目を伏せ、乙若は訪れた人々の変節を確かめる。
乙若の生まれ育った時代といまとは、あらゆるものが大きく違っていた。
(だが、人の心は変わりない)
悩みもまた時代に添って外面は変化しているが、核となる部分はおなじままだと乙若は感じていた。
ふわりと乙若の頬が愉快そうに膨らむ。
(まったく予想もしなかった来客もあった)
来客をもてなすのは乙若の役目だが、あれこれと世話をするわけではない。ただそっと方向性を示すだけだ。その役を訪れたものに寄り添ってきた誰かの心がおこなったときは、このようなこともあるのかと目を開いた。
あのときの軽く甘い衝撃に、乙若の心がふっくらと蒸される。湿っぽい話というのは、えてして陰気臭いものだが、それが転じて想いの湯気となり心をあたためることがあろうとは。
(いくら生きても、新たな発見はあるものだ)
あの夫婦は――人の世に戻った男は、どのような心で亡き妻を想っているのかと、乙若は甘露の余韻を舌の上で転がすように想像した。
それはきっと彼を取り巻く環境にとっても、いい影響を及ぼしていることだろう。
(思いは……気持ちは残るのだ)
それをあの婦人は示してくれた。
小言を言ってすっきりとし、成仏したいがために夫を呼び寄せたのかとの予測は外れていた。それを乙若はうれしく思う。
(ともに生きてきたものの言葉は、なによりも深く強い)
あのような関係もあるのだと、乙若はあらためて感心させられた。
視線を屋敷から空へと移す。
必要がなければ曇ることも雨が降ることもない空は、不要であれば暮れることもない。
木の葉に遮られて細くなった陽光はまぶしく、透ける緑が目に沁みた。
細めた乙若の目の奥のさらに奥へと進んだ光は、乙若のほろ苦い記憶を刺激した。
眠りから覚めた乙若の手は、肌がピンと張り詰めた若々しいものに変化していた。
「これは」
呆然とつぶやいた乙若は起き上がり、体がとても軽いことに気がついた。あちこち体を叩いてから顔をなでてみる。つるりとしたシワのない頬におどろき、乙若は姿を見られるものはないかと首を巡らせた。
食欲をそそる香りが鼻孔に触れる。
匂いに導かれていくと、鍋をかき回している女性と出会った。
「あ」
「あ」
お互いに短い声を発して、首だけの会釈をする。彼女がこの屋の主なのかと、乙若は視線を女性に定めたまま囲炉裏端に腰を下ろした。
「勝手に上がり込んでしまって、申し訳ありません」
「え。ああいや……それは私もおなじこと」
「は?」
きょとんとした女性に、乙若は霧が深くなってきたので休ませてもらっていたのだと説明した。すると女性は目も口もまるくして、しばらく乙若を見つめてからクスクスと笑いだした。
「おなじ迷い込んだ者同士だったんですね」
「はあ、そのようです」
ほがらかな彼女の笑顔に、乙若の心がかすかにくすぐられた。むずがゆい心地になった乙若は、後頭部に手を当てた。たっぷりとした豊かな髪が指に触れる。
怪訝な顔で、乙若は己の髪を指で梳いた。
(なぜ私の頭に髪があるのだ)
「どうぞ」
椀を差し出されて、乙若は受け取った。味噌に濁った汁物をのぞいても、自分の顔は映らない。いったいどんな姿になっているのかと気にしながら、乙若は口をつけた。女性も己の椀を手にして汁をすすっている。
「あの……あなたは、どうしてここに」
「山菜を摘みに入りましたら、霧に包まれてしまって」
はずかしそうに目を伏せる女性のまつ毛の長さに目を奪われつつ、乙若はうなずいた。女性の脇には山菜の入った籠がある。
「市に売りに行くのですか」
ええと女性は控えめにうなずいて、口角をわずかに持ち上げた。つつましやかな態度に乙若の体がふんわりと熱くなる。
(私は、彼女に惹かれているのか)
長い人生の中で、異性に心を動かされなかったと言えばうそになる。これはそのときの感情に似ていると、乙若は分析した。
「市に行くのならのんびりとしてもいられないでしょうが、霧があると山道は危ない」
「ええ。ですから、どうしようかと」
乞う目で女性に掬い見られた乙若の心臓が跳ねた。ゴクリと喉を鳴らして、乙若は口を開く。
(私が市までともに行きましょうか)
生まれた言葉は、喉に引っかかって音にはならなかった。乙若のうしろ髪がなにかに引かれる。彼女とともに行ってはならないと、乙若の体を止めるなにかがあった。
女性は愛らしく小首をかしげて、乙若の喉から出るはずの声を待っている。
「ああ、いえ……それは、困りましたね」
乙若が元の体勢に落ち着くと、女性はそっと落胆をこぼした。
「あなたさまは、この屋がどのようなものであると思われますか」
「え」
「屋の主が見えない。けれど求めるもてなしをしてくださる。そんな家をどう思われながら、休んでいらしたのです?」
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