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第2章 雄飛の青少年期編
194 ファン感謝祭の結婚式
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「秀治郎君」
背後から名前を呼ばれ、ベンチ裏の通路を振り返る。
毎日のように聞いている声だ。
それだけに、当然ながら振り向く前から相手が誰かは分かっている。
「……ベンチ裏で会うと何だか不思議な感じがしますね。お義母さん」
そんな俺の言葉に、彼女は「そうね」と微苦笑を浮かべながら応じた。
声色にも表情にも実子に向けられるような親愛の情が溢れている。
くすぐったくも、不思議と心が穏やかになる。
血の繋がりこそないが、幼い頃からつき合いがあって尚且つ義理の母親。
俺も実母同然に思っている。
本当に頭が上がらない。
今朝もいつものように球場まで車で送ってくれたが、それに加えて今日は一旦家に戻って俺の両親を連れてきてくれた。
彼女の奥に目を向けると、父さんが杖を突いて遅れ気味に歩いてきている。
その傍には、父さんを気遣うようにペースを合わせている母さんの姿もあった。
「父さん。それに母さんも。来てくれてありがとう」
「息子の人生の、晴れ舞台だ。来ない、訳がない。だろう?」
「そうですよ。何をおいても参加しなければ」
とは言え、衆人環視の中での催しだ。
動画配信することもあって、遠い親戚は勿論、近親もほとんど招待していない。
精々、球団親会社の関係者ということで新婦側の祖父母を呼んでいる程度だ。
後は友人枠として幼馴染組+倉本さんというところ。
身内の出席人数だけで言えば、寂しい結婚式ということになるかもしれない。
「まあ、婚姻届はとっくに出してるので形だけですけどね」
「そうは言うけど、形というのはとても大事なものよ」
「ええ。結婚式というのは周知の意味合いも強いですからね」
母親2人から少し圧強めに言われて慌て気味に頷く。
勿論、それは分かっている。
そして、そういった意味で言うなら。
このファン感謝祭に来てくれたファンこそが、この結婚式の賓客になるだろう。
「列席者の皆様、グラウンドへどうぞ」
「じゃあ、秀治郎君。緊張しないようにね」
「はい」
スタッフに促されて、お義母さんと両親がグラウンドに向かう。
遅れて義理の祖父母もやってきて、内野に設置された椅子に両親共々座った。
マウンドには舞台が設けられ、本塁の辺りからそこまで赤絨毯が敷かれている。
その両脇にレースのチェアカバーを被せたバンケットチェアが並んでいる形だ。
幼馴染達も倉本さんも既に着席している。
しかし、そこにお義父さんの姿はない。
彼はあーちゃんと一緒に入場して、バージンロードに見立てた道を歩く予定だ。
『お集まりいただいた皆様。お待たせいたしました。
これより野村秀治郎選手、野村茜選手の結婚式を始めさせていただきます。
この度の結婚式は、お2人たっての希望により結婚の誓いをご列席の皆様に見届けていただく人前式の形式となります。
皆様のご祝福を賜ることができれば幸いでございます』
結婚式の司会進行役は仁科さん。
アルバイトのウグイス嬢として、球場内のアナウンスも担当してくれていた。
こちらも【滑舌がいい】のおかげか評判がいい。(動画コメント調べ)
今は放送室を出て、マウンドの舞台脇に立てられたマイクの前にいる。
『それでは皆様、1塁側ベンチにご注目下さい。新郎の野村秀治郎選手のご入場です。盛大な拍手でお迎え下さい』
ありがたくも、アナウンスの通りに拍手が鳴り響く。
来シーズンの1部リーグ公式戦用に選定した登場曲が背後で流れる中、スタンド全体に手を振りながら俺はマウンドまで進んでいった。
そして両親達から見て舞台の右側に立ち、背筋を伸ばして彼女を待つ。
『続いて、3塁側ベンチにご注目下さい。新婦の野村茜選手とお父様である鈴木明彦球団社長のご入場です。皆様、どうぞ盛大な拍手でお迎え下さい』
それを受け、俺も3塁側ベンチに視線を向ける。
すると、その奥から純白のウエディングドレスを身に纏ったあーちゃんが、彼女の選んだ登場曲と共に父親にエスコートされながらグラウンドに出てきた。
BGMは愛の力をテーマにした比較的落ち着いたもので、雰囲気に合っている。
彼女達はまずキャッチャースボックス付近まで進み、そこからマウンドの舞台で待つ俺のところまでゆったりとした足取りで近づいてきた。
その淑やかな姿に思わず目を奪われてしまった。
等身大パネルを作ったり、グッズのモチーフにしたりするために試着しているので実のところウエディングドレス姿のあーちゃんは既に目にしている。
しかし、本番メイクと場の雰囲気、絨緞の赤とのコントラストのおかげか、ヴェールの奥に透けて見える彼女は別人のように美しく見えた。
普段は可愛い系の顔立ちを無表情さで美人に矯正されている感じだが、今の彼女はバランスの取れた芸術品のようだ。
「野村君、見惚れて段取りを間違えないように気をつけて下さい」
「……っと、うん。大丈夫」
と、仁科さんがマイクを切って注意を促し、俺は慌てて表情を取り繕った。
球団のファンにも、お義父さんにも。
変なところは見られないようにしなければ。
そう自分に言い聞かせていると、やがて2人が目の前に来る。
そこでお義父さんは、いつになく真剣な顔を見せて口を開いた。
「秀治郎。改めて茜をよろしく頼む」
家で定番の「お嬢さんを下さい」をやった時には軽く流されてしまったが、やはり結婚式という場は特別なものがあるのだろう。
真っ直ぐ俺を見る彼にそう思いながら、こちらもまた真摯に返す。
「はい。2人で幸せに生きていけるように努力していきます」
「……ああ」
お義父さんが深く頷く。
合わせて、あーちゃんが歩みを進めて俺の隣に立った。
「お父さん、ありがとう」
「…………幸せになるんだぞ」
「もうずっと幸せ。でも、もっともっと幸せになれるようにしゅー君と頑張る」
彼女が当たり前の顔でそう返すと、お義父さんは「そうだな」と微笑んだ。
俺の頬も思わず緩む。
「コホン」
「おっと」
仁科さんに咳払いで促され、あーちゃんと共にバックスクリーンの方を向く。
スタッフによって目の前にマイクが用意される。
俺とあーちゃんは姿勢を正し、表情を引き締めた。
『それではまず、お2人よりご列席の皆様に対して誓いの言葉を述べていただきます。野村秀治郎選手、野村茜選手。お願いいたします』
『『はい』』
『私は、これまで常に傍にいてくれた茜への感謝を決して忘れることなく、これからの人生と夢を全て分かち合い、世界一幸せな夫婦になることをここに誓います』
『わたしは、この先どのような苦難が訪れようとも秀治郎と互いに支え合い、未来永劫、命の果てまで共に歩んでいくことを誓います。……そして――』
互いに視線を交わしてから、タイミングを合わせて再び口を開く。
『『こうして2人でこの日を迎えることができたのも、偏に村山マダーレッドサフフラワーズとその関係者、そしてファンの皆様のおかげでもあります。
ですから、その恩返しとして。この球団をファンの皆様が誇ることのできるような最高のプロ野球チームにすることを、この場を借りてお約束いたします』』
ピッタリ息の合った俺達の宣言に、球場が一瞬静けさに包まれる。
直後。誰に促されるでもなく拍手が鳴り始め……。
やがて万雷の如くスタンドを埋め尽くした。
人前式には列席者に結婚の承認を確認する件があるが、不要に思える程だ。
『――では、結婚誓約書に署名をお願いします』
誓いの言葉を全文記した紙に互いにサインを入れ、更に証人として友人代表の美海ちゃんと倉本さんが署名する。
ちなみに。この結婚誓約書はレプリカをグッズとして売るつもりらしい。
その関係で誓いの言葉に球団関係者やファンへの言及も含めている。
とは言え、当然ながら単なるリップサービスではない。本気も本気だ。
『続いて、お2人に指輪の交換のセレモニーを行っていただきます』
結婚式は大詰め。
互いに向かい合って結婚指輪の交換に臨む。
まずは俺の方から。
ガラス細工を扱うようにあーちゃんの左手を取り、その薬指に指輪をはめる。
次に彼女もまた同様に。
大切なものに触れるように俺の手を取り、左手薬指に指輪をはめた。
『誓いのキスを』
満員の来場者の前。
しかし、その事実に気後れすることなく、あーちゃんのヴェールを上げる。
少しの間、見詰め合う。
「しゅー君、愛してる」
「うん。俺も愛してるよ。あーちゃん」
マイクはオフ。
心底幸福そうに言う彼女にそう返し、キスを交わす。
しばらくして顔を離した俺達は、思わずはにかんで笑い合った。
場の雰囲気のせいか、何となく初めてのように照れ臭い。
『お集りの皆様。2人の門出を祝う拍手をいただければ幸いです』
再び球場に割れんばかりの拍手が鳴り響く。
バックスクリーンに据えつけられたモニターには生配信の画面がいつの間にか映し出されており、拍手を表す8888のコメントが大量に流れていっていた。
「皆、祝福してくれてる。画面の向こうも」
「そうだな」
「……わたし、この世に生まれてきて、しゅー君と出会えてよかった」
「…………そっか。あーちゃんにそう言って貰えると、俺も嬉しいよ」
あの時の選択が彼女の人生を決めたようなもの。
だからこそ、この子を幸せにしなければならない。
そう思ってやってきた。
勿論、ここからまだまだ人生は長い。
それでも彼女の心底幸福そうな笑顔と言葉を貰い、少し安堵することができた。
少しは神に感謝してもいいかもしれない。
今回。人前式を選んだのは、宗教色が強い行事には野球狂神がチラつくからだ。
アレが神の世界。
今生の宗教はフレーバーテキスト程度に思っておくしかない。
しかし、こうして大勢の人に祝福されて結婚できたのはアレのおかげでもある。
それは事実。
前世の自分からは考えられないような、恵まれた人生だ。
だからこそ尚のこと。
揺り戻しが来ないように、野球狂神の望みに適うような生き方をこれからもしていかなければならないと強く思う。
随分と前から、もはや自分1人だけの人生ではないのだから。
この充実した今を、そして共に歩む人々の幸せを失うことのないように。
野球であの神を楽しませることができるように懸命であろう。
そう俺は決意を新たにした。
『只今を持ちまして、新郎野村秀治郎選手と新婦野村茜選手の人前結婚式を閉式とさせていただきます。
それでは新郎、新婦の退場です。皆様、大きな拍手でお送り下さいませ。
…………尚、13時30分より野村夫妻との記念撮影を球場外周にて行います。
事前抽選の当選者の方々は特設コーナーまでお越し下さい』
その記念撮影を終えれば、再び控室に戻って衣装替え。
時間に合わせて、紋付袴と白無垢姿で再びグラウンドに出る。
『これより、選手による結婚ソング縛りのカラオケ大会を開始いたします。尾高監督と野村夫妻に採点いただき、順位に応じて景品が贈られます』
審査員席にあーちゃんと隣り合って座り、チームメイトの結婚ソングを聞く。
やけくそ気味に歌う皆の姿に、球場は和やかな雰囲気に包まれていた。
最後にドラフト新入団選手発表会が開催され、監督や俺もまた改めて来シーズンへの展望を語って全体の閉会式を迎える。
……こうして。
我らが村山マダーレッドサフフラワーズ初のファン感謝祭は、異例な結婚式を盛り込みつつも大盛況の内に幕を閉じたのだった。
背後から名前を呼ばれ、ベンチ裏の通路を振り返る。
毎日のように聞いている声だ。
それだけに、当然ながら振り向く前から相手が誰かは分かっている。
「……ベンチ裏で会うと何だか不思議な感じがしますね。お義母さん」
そんな俺の言葉に、彼女は「そうね」と微苦笑を浮かべながら応じた。
声色にも表情にも実子に向けられるような親愛の情が溢れている。
くすぐったくも、不思議と心が穏やかになる。
血の繋がりこそないが、幼い頃からつき合いがあって尚且つ義理の母親。
俺も実母同然に思っている。
本当に頭が上がらない。
今朝もいつものように球場まで車で送ってくれたが、それに加えて今日は一旦家に戻って俺の両親を連れてきてくれた。
彼女の奥に目を向けると、父さんが杖を突いて遅れ気味に歩いてきている。
その傍には、父さんを気遣うようにペースを合わせている母さんの姿もあった。
「父さん。それに母さんも。来てくれてありがとう」
「息子の人生の、晴れ舞台だ。来ない、訳がない。だろう?」
「そうですよ。何をおいても参加しなければ」
とは言え、衆人環視の中での催しだ。
動画配信することもあって、遠い親戚は勿論、近親もほとんど招待していない。
精々、球団親会社の関係者ということで新婦側の祖父母を呼んでいる程度だ。
後は友人枠として幼馴染組+倉本さんというところ。
身内の出席人数だけで言えば、寂しい結婚式ということになるかもしれない。
「まあ、婚姻届はとっくに出してるので形だけですけどね」
「そうは言うけど、形というのはとても大事なものよ」
「ええ。結婚式というのは周知の意味合いも強いですからね」
母親2人から少し圧強めに言われて慌て気味に頷く。
勿論、それは分かっている。
そして、そういった意味で言うなら。
このファン感謝祭に来てくれたファンこそが、この結婚式の賓客になるだろう。
「列席者の皆様、グラウンドへどうぞ」
「じゃあ、秀治郎君。緊張しないようにね」
「はい」
スタッフに促されて、お義母さんと両親がグラウンドに向かう。
遅れて義理の祖父母もやってきて、内野に設置された椅子に両親共々座った。
マウンドには舞台が設けられ、本塁の辺りからそこまで赤絨毯が敷かれている。
その両脇にレースのチェアカバーを被せたバンケットチェアが並んでいる形だ。
幼馴染達も倉本さんも既に着席している。
しかし、そこにお義父さんの姿はない。
彼はあーちゃんと一緒に入場して、バージンロードに見立てた道を歩く予定だ。
『お集まりいただいた皆様。お待たせいたしました。
これより野村秀治郎選手、野村茜選手の結婚式を始めさせていただきます。
この度の結婚式は、お2人たっての希望により結婚の誓いをご列席の皆様に見届けていただく人前式の形式となります。
皆様のご祝福を賜ることができれば幸いでございます』
結婚式の司会進行役は仁科さん。
アルバイトのウグイス嬢として、球場内のアナウンスも担当してくれていた。
こちらも【滑舌がいい】のおかげか評判がいい。(動画コメント調べ)
今は放送室を出て、マウンドの舞台脇に立てられたマイクの前にいる。
『それでは皆様、1塁側ベンチにご注目下さい。新郎の野村秀治郎選手のご入場です。盛大な拍手でお迎え下さい』
ありがたくも、アナウンスの通りに拍手が鳴り響く。
来シーズンの1部リーグ公式戦用に選定した登場曲が背後で流れる中、スタンド全体に手を振りながら俺はマウンドまで進んでいった。
そして両親達から見て舞台の右側に立ち、背筋を伸ばして彼女を待つ。
『続いて、3塁側ベンチにご注目下さい。新婦の野村茜選手とお父様である鈴木明彦球団社長のご入場です。皆様、どうぞ盛大な拍手でお迎え下さい』
それを受け、俺も3塁側ベンチに視線を向ける。
すると、その奥から純白のウエディングドレスを身に纏ったあーちゃんが、彼女の選んだ登場曲と共に父親にエスコートされながらグラウンドに出てきた。
BGMは愛の力をテーマにした比較的落ち着いたもので、雰囲気に合っている。
彼女達はまずキャッチャースボックス付近まで進み、そこからマウンドの舞台で待つ俺のところまでゆったりとした足取りで近づいてきた。
その淑やかな姿に思わず目を奪われてしまった。
等身大パネルを作ったり、グッズのモチーフにしたりするために試着しているので実のところウエディングドレス姿のあーちゃんは既に目にしている。
しかし、本番メイクと場の雰囲気、絨緞の赤とのコントラストのおかげか、ヴェールの奥に透けて見える彼女は別人のように美しく見えた。
普段は可愛い系の顔立ちを無表情さで美人に矯正されている感じだが、今の彼女はバランスの取れた芸術品のようだ。
「野村君、見惚れて段取りを間違えないように気をつけて下さい」
「……っと、うん。大丈夫」
と、仁科さんがマイクを切って注意を促し、俺は慌てて表情を取り繕った。
球団のファンにも、お義父さんにも。
変なところは見られないようにしなければ。
そう自分に言い聞かせていると、やがて2人が目の前に来る。
そこでお義父さんは、いつになく真剣な顔を見せて口を開いた。
「秀治郎。改めて茜をよろしく頼む」
家で定番の「お嬢さんを下さい」をやった時には軽く流されてしまったが、やはり結婚式という場は特別なものがあるのだろう。
真っ直ぐ俺を見る彼にそう思いながら、こちらもまた真摯に返す。
「はい。2人で幸せに生きていけるように努力していきます」
「……ああ」
お義父さんが深く頷く。
合わせて、あーちゃんが歩みを進めて俺の隣に立った。
「お父さん、ありがとう」
「…………幸せになるんだぞ」
「もうずっと幸せ。でも、もっともっと幸せになれるようにしゅー君と頑張る」
彼女が当たり前の顔でそう返すと、お義父さんは「そうだな」と微笑んだ。
俺の頬も思わず緩む。
「コホン」
「おっと」
仁科さんに咳払いで促され、あーちゃんと共にバックスクリーンの方を向く。
スタッフによって目の前にマイクが用意される。
俺とあーちゃんは姿勢を正し、表情を引き締めた。
『それではまず、お2人よりご列席の皆様に対して誓いの言葉を述べていただきます。野村秀治郎選手、野村茜選手。お願いいたします』
『『はい』』
『私は、これまで常に傍にいてくれた茜への感謝を決して忘れることなく、これからの人生と夢を全て分かち合い、世界一幸せな夫婦になることをここに誓います』
『わたしは、この先どのような苦難が訪れようとも秀治郎と互いに支え合い、未来永劫、命の果てまで共に歩んでいくことを誓います。……そして――』
互いに視線を交わしてから、タイミングを合わせて再び口を開く。
『『こうして2人でこの日を迎えることができたのも、偏に村山マダーレッドサフフラワーズとその関係者、そしてファンの皆様のおかげでもあります。
ですから、その恩返しとして。この球団をファンの皆様が誇ることのできるような最高のプロ野球チームにすることを、この場を借りてお約束いたします』』
ピッタリ息の合った俺達の宣言に、球場が一瞬静けさに包まれる。
直後。誰に促されるでもなく拍手が鳴り始め……。
やがて万雷の如くスタンドを埋め尽くした。
人前式には列席者に結婚の承認を確認する件があるが、不要に思える程だ。
『――では、結婚誓約書に署名をお願いします』
誓いの言葉を全文記した紙に互いにサインを入れ、更に証人として友人代表の美海ちゃんと倉本さんが署名する。
ちなみに。この結婚誓約書はレプリカをグッズとして売るつもりらしい。
その関係で誓いの言葉に球団関係者やファンへの言及も含めている。
とは言え、当然ながら単なるリップサービスではない。本気も本気だ。
『続いて、お2人に指輪の交換のセレモニーを行っていただきます』
結婚式は大詰め。
互いに向かい合って結婚指輪の交換に臨む。
まずは俺の方から。
ガラス細工を扱うようにあーちゃんの左手を取り、その薬指に指輪をはめる。
次に彼女もまた同様に。
大切なものに触れるように俺の手を取り、左手薬指に指輪をはめた。
『誓いのキスを』
満員の来場者の前。
しかし、その事実に気後れすることなく、あーちゃんのヴェールを上げる。
少しの間、見詰め合う。
「しゅー君、愛してる」
「うん。俺も愛してるよ。あーちゃん」
マイクはオフ。
心底幸福そうに言う彼女にそう返し、キスを交わす。
しばらくして顔を離した俺達は、思わずはにかんで笑い合った。
場の雰囲気のせいか、何となく初めてのように照れ臭い。
『お集りの皆様。2人の門出を祝う拍手をいただければ幸いです』
再び球場に割れんばかりの拍手が鳴り響く。
バックスクリーンに据えつけられたモニターには生配信の画面がいつの間にか映し出されており、拍手を表す8888のコメントが大量に流れていっていた。
「皆、祝福してくれてる。画面の向こうも」
「そうだな」
「……わたし、この世に生まれてきて、しゅー君と出会えてよかった」
「…………そっか。あーちゃんにそう言って貰えると、俺も嬉しいよ」
あの時の選択が彼女の人生を決めたようなもの。
だからこそ、この子を幸せにしなければならない。
そう思ってやってきた。
勿論、ここからまだまだ人生は長い。
それでも彼女の心底幸福そうな笑顔と言葉を貰い、少し安堵することができた。
少しは神に感謝してもいいかもしれない。
今回。人前式を選んだのは、宗教色が強い行事には野球狂神がチラつくからだ。
アレが神の世界。
今生の宗教はフレーバーテキスト程度に思っておくしかない。
しかし、こうして大勢の人に祝福されて結婚できたのはアレのおかげでもある。
それは事実。
前世の自分からは考えられないような、恵まれた人生だ。
だからこそ尚のこと。
揺り戻しが来ないように、野球狂神の望みに適うような生き方をこれからもしていかなければならないと強く思う。
随分と前から、もはや自分1人だけの人生ではないのだから。
この充実した今を、そして共に歩む人々の幸せを失うことのないように。
野球であの神を楽しませることができるように懸命であろう。
そう俺は決意を新たにした。
『只今を持ちまして、新郎野村秀治郎選手と新婦野村茜選手の人前結婚式を閉式とさせていただきます。
それでは新郎、新婦の退場です。皆様、大きな拍手でお送り下さいませ。
…………尚、13時30分より野村夫妻との記念撮影を球場外周にて行います。
事前抽選の当選者の方々は特設コーナーまでお越し下さい』
その記念撮影を終えれば、再び控室に戻って衣装替え。
時間に合わせて、紋付袴と白無垢姿で再びグラウンドに出る。
『これより、選手による結婚ソング縛りのカラオケ大会を開始いたします。尾高監督と野村夫妻に採点いただき、順位に応じて景品が贈られます』
審査員席にあーちゃんと隣り合って座り、チームメイトの結婚ソングを聞く。
やけくそ気味に歌う皆の姿に、球場は和やかな雰囲気に包まれていた。
最後にドラフト新入団選手発表会が開催され、監督や俺もまた改めて来シーズンへの展望を語って全体の閉会式を迎える。
……こうして。
我らが村山マダーレッドサフフラワーズ初のファン感謝祭は、異例な結婚式を盛り込みつつも大盛況の内に幕を閉じたのだった。
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