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野球部・爆ぜるガラス

7月27日(2)

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「校長が言った通り、熊元の席の真向かいにの街路樹には巣箱を掛けたときに使われたと思われる針金の痕跡があったな」

 しばらくの後、ようやく落ち着いた優里先輩は僕を従えて再び校長室のソファーに座っていた。

「加えて、同じ木の幹に、ごく最近加えられたと思われる傷がいくつかあった」

 先輩の言葉にあわせ、僕はカメラの液晶真面を校長に向けてテーブルに出す。画面に映し出されたのは、先輩に言われるまま撮った幹のクローズアップ写真だ。

「ここを見てくれ。約一センチの幅で水平に並んだ釘あとのようなふたつの穴。巣箱のあたりから地面に近い場所まで、これがおよそ二十センチの間隔でずっと続いていた。遊歩道側から見るとちょうど裏側にあたる位置だ」
「何だね?」
「あくまで推測だけど、平行コード……電気製品に使われている電源ケーブルを木の幹に固定していた跡じゃないかと思う。念のため付近の地面を探したらこれが落ちていた」

 先輩はポケットに手を突っ込み、ステープラーの針を太くしたようなコの字型の針金を二つほど取り出してテーブルに放った。特に目立つ錆もなく、屋外に長い時間放置されたとは思えない。

「電気工事で配線を壁や柱に固定する〝ステップル〟と呼ばれる釘の一種だ」

 校長は話が良く飲み込めていないようで、不可解そうに眉を寄せる。

「……つまり?」
「あの街路樹から数メートル離れた場所に街路灯があるよな。その柱のメンテナンスカバーが外された形跡があった。カバーの四隅のネジ頭の錆が削れているんだ」

 話に合わせ、僕は液晶画面の写真を次々と送りながら校長に見せる。

「推測ばかりになって申し訳ないが、街灯から電気を盗んで、巣箱の中に隠された何らかの装置に送っていた、とすると、一応の辻褄が合う」
「装置? 正体はわかるかね?」
「ボクは神様じゃない。ただ、想像できる物がないわけじゃない」
「それは?」

 思わず身を乗り出す校長に、先輩は身体をのけぞらせ、露骨に不機嫌そうな顔をする。

「恐らく、大型のスピーカーと発振器、そして増幅器アンプ。低周波……いや、超音波だろうな」
「超音波? どういうことだ?」
「向かいの窓に焦点を合わせて、人間の耳には聞こえない高音を大音量でぶつけるんだ。連日の猛烈な暑さとエアコンとの温度差で熱的なダメージを溜め込んでいる窓ガラスに、最後の一押しを加えるくらいの効果はあったかもな」
「ああ、前に先輩が持ち歩いていたようなパラボラのついたやつですか?」

 不意に思い出して口を挟むが、先輩はゆるゆると首を振った。

「あれはスピーカーではなくて集音マイクだ。だが、原理的には同じだな。音の出入りする方向を真逆にすればいいだけだ」
「ふむ……」

 校長はあごを親指と人差し指でしごくような仕草で考えこんだ。

「比楽坂君、もう少し詳しく調べてもらうことは……」
「断る。もう充分過ぎるほど情報提供はしただろう? 今は夏休みだ、ボクらにだって休みを享受する権利がある。この先はどっちかというと警察の仕事だろう?」
「そう……確かにそうかも知れないな。いや、暑い中ご苦労だった」

 校長はそれきり黙り込み、席を立つ僕たちをそれ以上引き留めようとはしなかった。

◆◆

 お互い無言のまま、気がつくと僕たちは炎天下、桜木町の駅近くまで黙々と歩いた。
 何となく声をかけづらく、かといってこのまま帰宅するのもためらわれて先輩についてきてしまった。だが、どうやら彼女も似たような心持ちだったらしい。彼女は不意に振り向いてそう提案した。

「四持、ちょっとウチに寄っていくか? 話したいこともあるし。お茶くらいは出すが」

 言われて急にのどの渇きを覚えた。
 考えてみたら朝から動きづめで、僕たちはコップ一杯の水すら飲んでいなかった。

「だったら、お邪魔していいですか?」
「ああ」

 そのまま再び無言で歩き、かけっぱなしのエアコンがキンキンに効いた先輩の自宅にたどり着いたときには二人とも汗だくだった。

「四持、良かったらシャワーを使っていくか?」
「えぇ?」

 いきなり思いがけない提案をされて目が丸くなる。さすがに異性の一人住まいでそれはどうなんだろうと思った。思ったのだが、

「いや、君、今ちょっと汗臭いしな」

 そう言われてそれ以上遠慮する気力が失せた。とはいえ、汗だくなのは先輩も同じだ。暑さのためか頬は赤く染まり、額にはびっしりと汗がにじんでいる。

「わかりました。でも先輩がお先にどうぞ。先輩だって汗をかいたでしょ?」
「ボクが臭いって言うのか?」

 先輩は慌てて二の腕あたりの匂いを嗅ぐ仕草を見せた。

「そんなこと言ってないでしょ。さすがに部屋のあるじを差し置いて自分だけさっぱりするのは気が引けます」
「……ああ、なるほど」

 僕の言い訳に先輩はあっさり頷くと、

「麦茶のボトルが冷蔵庫にある。勝手に出して飲んでくれ」

 そう言い残して廊下に消えた。
 すぐにかすかな水音が聞こえはじめた。
 僕は麦茶をコップに注ぐと心を無にしてソファに戻り、決してそこから動くまいと決心して先輩が戻ってくるのを待つ。
 だが、水音が止まり、ドライヤーを使っているらしきゴーッという音が途絶えても、一向に先輩の戻る気配はない。それどころか、突然何かが倒れるドタンという物音を耳にして僕は飛び上がった。

「先輩! 大丈夫ですか? 先輩!!」

 脱衣所に通じるドアからは何の返事もない。僕の中で不吉な予感が急速に膨れ上がる。

「先輩! せめて何か羽織って下さい! 開けますからね!!」

 これがもし僕の思い過ごしだったとしたら、僕はとんだスケベ野郎だ。先輩は二度と僕を自宅に入れてくれない……それどころか口も聞いてくれなくなるだろう。
 そんな幻想に怯えながらも、ためらう気持ちはなかった。僕は大きく息を吸い込んで、勢いよくドアを開けた。
 脱衣所の中では、優里先輩が洗面台にすがるような姿勢で崩れ落ちていた。

「先輩! 大丈夫ですか? しっかりして下さい!!」

 呼びかけてもほとんど反応がない。かろうじて意識はあるみたいだけど、僕の声に答えるだけの余裕はないらしい。

「ごめ……力が」
「喋らないで。いいですか、抱えますよ」

 必死だった。彼女が下着姿でいることも、その時はまったく意識する余裕がなかった。
 僕は両腕で彼女を抱え上げ、寝室のドアを蹴破るように開く。彼女をベッドに横たえ、すぐ台所に取って返すと、冷蔵庫から氷を調達しようとして愕然とした。

「ないな、氷」

 製氷皿は一度も使ったことがないらしく空だった。
 一瞬、外のコンビニに必要な物資を買い出しに行こうかと考えた。だがこの部屋はオートロックで、外からの開錠は先輩の手のひらの掌紋認証だ。鍵はない。
 今の意識朦朧とした先輩にインターフォンで中から鍵を開けてもらうのも百パーセント不可能だ。

「仕方ない、とりあえずここにあるもので……」

 ガサガサと物色すると、冷凍室にぎっしりと詰まっていたのは冷凍食品のレトルトパック。

「この際、代用できれば何でもいいか」

 再び脱衣所に取って返し、きちんとたたんで積まれたフェイスタオルをひとつかみ取ってくると、レトルトパウチを包んで即席の氷のうをいくつも作る。

「先輩、これで体を冷やしますよ」

 大の字でぐったり脱力している先輩の首すじと脇に氷のうをねじ込み、少しためらった末に足の根元にも挟み込む。

「あ、あとは水分!」

 バタバタと三たび台所に戻る。
 調味料ラックは空で、頭上の棚に未開封の塩と砂糖のパックだけがポツリと置かれていた。

「うわ、本当に料理しないんだな」

 棚にずらりと並べられている食器類はほとんど新品だし、これまでもずっとあのキットミールしか食べてないことが容易に想像できた。
 僕はスープカップに砂糖と塩をひとつまみ入れ、電気ポットでお湯を沸かして注ぎ、溶けるまでかき混ぜる。さらに冷蔵庫からミネラルウォーターをカップに足してお湯を冷まし、即席のイオン飲料を作った。

「先輩、飲めますか?」

 寝室に取って返す。左腕を枕の下に差し込むようにして頭を抱え上げ、スプーンで半開きの口に即席イオン飲料を運ぶが、うまく飲み込めないみたいでダラダラと口の端から流れ落ちてしまう。

「どうしよう……」

 先輩の症状はほぼ間違いなく熱中症だ。僕より体の小さな先輩は、脱水症状もより深刻なはず。

「先輩、救急車呼びますね!」

 だが、先輩はスマホを持つ僕の腕にすがるようにして必死に首をふる。

「……めて。救急車は呼ばないで」
「でも、このままじゃ……」
「……ませて。水を」
「でも先輩!」
「……ち移しでも構わないから、水」

 その言葉を聞いて僕の脳天に落雷のようなショックが走った。

「……やく、水、ちょうだい」

 うわ言のようにつぶやく先輩を僕はこれ以上見ていられなかった。
 僕はスープカップから直接自分の口に水を含み、先輩の唇を割るように舌を差し込むとゆっくりと流し込んだ。
 先輩の喉が鳴り、ようやく最初の一口が喉の奥に流し込まれた。
 僕は再びカップをすすり、用意した即席イオン飲料がすべてなくなるまで同じ動作を何度も繰り返した。

◆◆

 先輩の容態がようやく落ち着いたのはもう日が沈む頃だった。
 先輩は救急車を呼ぶことを頑なに嫌がり、かと言って僕が買い出しのために外出することはもっと嫌がった。
 仕方ないので即日宅配のオンラインスーパーで必要なものを見繕うことにして、僕が先輩のそばを離れたのはトイレと宅配の荷物を受け取る時だけだった。

「迷惑をかけてすまなかった」

 ようやくベッドから半身を起こせるようになった先輩は、珍しく神妙な顔つきで頭をさげた。

「これで貸し借りなしイーブンだな」
「イーブン?」
「ああ、ボクは今日、君に命を救われた」
「いや、そんなだいそれた話じゃありま――」
「熱中症で死亡例があることくらいボクも知ってる」

 笑いながら手をふる僕の言葉を、先輩は真剣な表情でさえぎった。

「これで、もう君はボクに恩義を感じる必要もなくなった」
「は?」
「ボクはこれまで、君の負い目を利用して色々面倒なことを押し付けてきたが、それももう終わりだ。今日限りで君を開放す――」
「先輩!!」

 僕は思わず大声を出した。
 自分で思ったよりはるかに大きな声になってしまい、先輩はびくりと身体をすくませた。

「僕が先輩に恩を感じているのは確かですが、だからといって僕が先輩に渋々従っていると思っていたんですか?」

 「え?」といった表情で口を半開きにしたままの先輩に僕はさらに畳みかける。

「僕は、先輩を本気で尊敬してるんですよ」
「……へ?」
「先輩は確かに自分勝手だし、平然と既読無視するし、学校にだって全然顔を見せないし、生活面でも色々ダメダメな感じですけど――」
「なっ!!」
「だからといって僕は先輩に構ってもらえることを心底嫌だと思ったことは一度もないですよ。むしろ先輩の知識の深さと広さを尊敬してるんです。羨ましくさえ思います」

 それは僕の偽らざる気持ちだった。

「それに、利用しているというなら僕だってそうです。延田や他のクラスメートに面倒な話を持ち込まれるたびに、僕は先輩を頼りました。先輩があまり人と関わりを持ちたくないのは承知の上で、無理やり巻き込んだんです」
「いや、別に、それくらいは……」

 先輩は僕の顔を上目遣いに見ながらモゴモゴと言葉をつむぎ、自分のむき出しの肩にはっと気づいてきっと唇を噛んだ。

「でも、君は、見ただろ?」

 毛布に隠れた胸や脇腹、そしてふとももに手を這わせながら、先輩は弱々しい口調で顔を伏せる。

「ボクは、醜い欠陥品だ」

 そのことには気付いていた。
 極力見ないつもりだった。でも、どうしても目に入ってしまい、その傷の異様さに疑問を感じずにいるのは無理だった。

「……はい、見ました。本当にごめんなさい」

 僕は素直に頭を下げた。

「いや、そのこと自体はいい。緊急時だったし気にしてない。感謝こそすれ、君を非難するつもりはまったくない」

 気にしていないと言った割に、先輩は自分の身体を毛布でくるむようにしながら、ひどく悲しそうな表情をした。

「事故でね。車から投げ出されて崖を転がり落ちた。鋭い岩で身体を切り裂かれ、肉をえぐられて、全身を百針近く縫った。目隠しと猿ぐつわを噛まされ、袋をかぶせられていたのが幸いして顔だけは無事だったが、あとは……」
「え?」

 僕は先輩の言葉の異様さに思わず声を上げた。

「もしかして先輩……」
「ああ、ボクは誘拐されたんだ」
 
 
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