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音楽室の幽霊

5月19日

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 僕と優里先輩との縁は、本当ならそれっきりのはずだった。

 彼女とは学年も違うし、高校に入学して間もなく二ヶ月になるが、校内で彼女の姿を見かけたことは一度もない。
 目ざといクラスメート達が大騒ぎしそうなほど整った容姿だったが、これまで優里先輩が彼らの話題に上ったこともない。
 つまり、絶滅危惧種なみに生態が不明なのだ。

「ねえ、四持よもつ

 昼休み、そんなことをぼんやり考えながら歩いていた僕に、延田のべたが声をかけてきた。

「あーしの友達つれがちょっと困ってるんだけど、話聞いてくんないかな?」

 明るいブラウンの髪をかきあげながら彼女は問う。
 延田は見た目こそ派手だが意外に人情派なところがあり、困っていたり悩んでいる人を見逃さない。そして、僕はそんな彼女に何かと便利に使われていた。
 見ず知らずの客にも気さくに声をかける彼女の姿をバイト先で何度も見かけていたし、クラスでも常に友人に囲まれている彼女だが、今は珍しく一人だった。

「あ、いーよ」

 同じ職場バイト先という気安さもあり、軽く応じると僕は教室の入り口で足を止める。

「四組の麻子がさ、あ、ピアノやってる子。知ってる?」
「いや、知らんが?」

 細かい説明を省いていきなり話し始める延田。一緒に学食から戻ってきた友人はそんな彼女を敬遠するようにそそくさと教室に入ってしまい、廊下には僕と延田が取り残される。

「あの子、ピアノにハマってて、昼休みとか放課後に音楽室でピアノ弾いてんのよ。でも、昨日……」

 急に芝居がかった口調になると彼女は僕に一歩近づく。僕は逆に半歩後ずさるが、彼女は気にする素振りもない。

「昨日の夕方、女のすすり泣く声を聞いたんだって」
「は?」

 彼女の説明によると、麻子は学校近くのピアノ講師に師事していて、昨日は週に一度のレッスン日だった。放課後ピアノ教室に向かう前に、課題曲を一通りおさらいしておこうと音楽室に寄り、女の泣き声を聞いたのだという。

「なんだか、音が聞こえた瞬間に人の気配も感じたっていうし……」
「ええ、なんだそれ? お化け?」
「多分ね。で、麻子すっかり怯えちゃって、朝から元気ないのよ。四持なんとかしてあげて」

 ちょうどそこまで聞いたところでチャイムが鳴った。
 僕は頷くと、放課後に音楽室を確かめるとだけ答え、背後に迫る数学教師のスリッパの音に追い立てられるように教室に戻った。

 結局、音楽室には僕一人で向かうことになった。自分で話を振っておきながら、延田はさっさとバイトに向かってしまったからだ。
 愛機であるソニーのデジタル一眼カメラを肩に下げ、鍵を借りようと職員室に寄る。だが、キーボックス管理担当の女性教師は首を横に振った。

「あー、もう誰かに持ち出されているわね。多分開いてると思うわ」
「はあ」

 麻子のように放課後ピアノを使いたい人間が他にもいるのだろう。
 僕はそれ以上は深く考えず、校舎最上階にある音楽室に向かうと、重くて分厚い防音扉を勢いよく引き開けた。

◆◆

 音楽室の真ん中では、ヘッドフォンをつけ、まるでパラボラアンテナのような器具を持った小柄な女生徒が驚いて硬直していた。

「あ、すいません。びっくりし――」
「ああ、驚いたとも! 普通ノックくらいはしないか!?」

 肩を怒らせて半ギレ気味に振り向いた彼女を見て、僕は意外な再会に目を丸くした。
 どうやら向こうも同じ気持ちだったらしく、驚いて口を半開きにしている。

「あれ? えーっと、比楽坂先輩?」
「あ、ああ、一昨日の盗撮魔か?」
「だから盗撮じゃありません! 僕は写真部の――」
「ウソをつけ! 写真部はたしか廃部になったはずだ」

 学校でちっとも姿を見かけない割に、たいした事情通だ。僕はため息をついて続ける。

「ええ確かに。僕が入部届を出しに行ったちょうどその日、目の前で廃部を知らされましたとも」
「じゃあ、ウソじゃないか!」
「だから、昨日も言ったじゃないですか。僕は今、写真部の復活を目指して実績を積み上げている最中なんですって」
「……ほう?」
「廃部の理由は活動不足だそうですから。先輩方は三年間一度もコンクールの出品履歴がなく、学校行事の撮影もほとんどしてなかったそうです」
「……それで盗撮を」
「違いますって。ブレませんね先輩」

 僕はため息をついた。

「盗撮じゃありません。生徒会に頼まれてテニス部の練習風景を取材した帰りだったんですよ。確認してもらえればわかります」
「ふむ」

 先輩は少し考えるような表情を浮かべると、ヘッドフォンを外して首にかける。

「そこまで弁明を重ねるなら一旦追求は保留にしよう。どうせ調べればわかることだ」
「……ええ、ぜひそうして下さい」

 僕はここまで言っても疑いを捨てない彼女の頑迷さにむっとしながら、いっそ話題を変えようと先輩の右手を指差す。

「ところで、先輩はこんなところで何を? それにそれ、何です?」
「ああ、これか」

 先輩はなぜか少し照れくさそうな表情を浮かべると、手元の器具を差し出して見せた。
 パラボラアンテナに銃のグリップがついたような、見たこともない道具だ。

「知らないか? 集音マイクだ。野鳥の鳴き声なんかを収録する時に使う」
「へえ、詳しく見せてもらっても?」

 先輩は無言で頷くと、僕に向かって器具を差し出した。

「この、真ん中の棒みたいなのは?」
「それがマイク本体」
「じゃ、周りのパラボラは?
「これがあると騒がしい場所でも一つの音に狙いが定められるんだ」
「へえ」

 感心するほかない。恐らく、その手のプロが使う専門機材なのだろう。一介の高校生には過ぎた代物のようにも思う。

「そんな物まで準備してるってことは、先輩もうわさを確かめに来たんですか?」
「ほう、君もなのか?」

 先輩は目を見開くと、少しだけ嬉しそうに口元をほころばせた。

◆◆

「あのうわさが出始めてまだ数日のはずだ。ずいぶん耳が早いな。それも〝写真部パパラッチ〟の活動なのかな?」

 なぜだかほんのり嬉しそうな表情とは裏腹に、優里先輩は皮肉のこもった口調で僕を当てこすった。〝写真部〟という単語に変なルビを振られたような気がして僕は眉をしかめる。

「やめときたまえ。好奇心だけで面倒事に関わると大怪我するよ」
「そんなのじゃありませんって」

 僕は少しむっとしながら返した。確かに、自分が進んで厄介ごとに首を突っ込んでいる自覚はある。でも。

「僕は報道カメラマンになりたいんです。そのために、今はとにかく写真絡みの経験を何でも積んでおきたいだけなんです。写真部の復活もその一環です。笑ってもいいですよ」

 延田のおせっかいに感化された部分も確かにある。でも、純粋な人助けというわけでもない。入学からたった二ヶ月で、校内にいくつものつてやコネを作れたのはこの活動のおかげでもあるのだ。

「でも、それを言うなら比楽坂先輩だって同じじゃないですか。そんなプロ機材まで持ち込んだのは――」
「私は友人に頼まれただけだ」

 彼女は僕から視線をそらしながらボソリと答えた。見れば耳の端が少し赤い。

「友達?」
「ああそうだ。数少ない友人から頼られたんだ。できれば役に立ちたい。いいだろ別に?」

 どうやら、ぶっきらぼうな口調は彼女なりの照れ隠しらしい。
 憎まれ口のようなことを言いながら、先輩も好奇心以上の思いでこの場に臨んでいる。僕はそれがなぜか少しうれしかった。

「で、その友達は?」
「すっかり怯えてしまってここには近寄ろうともしない。だが、彼女は近々地元のピアノコンクールに参加の予定なんだ。不安は一刻も早く早く解消すべきだ」
「そうですか。でも、目撃……というか、体験例が複数あるんじゃ単なる聞き間違えという感じじゃなさそうですね」
「ああ、麻子は……」
「えっ!!」
「今度は何だ? いきなり大声を出したりして」

 先輩はしかめっ面で僕を睨みつける。

「いえ、友達経由でしたが、僕が頼まれたのも麻子さんの件で……」
「……なんだ、相談したのは私だけじゃないのか」

 口を尖らせる先輩。なんだか微妙に悔しそうだ。

「麻子さんって一年じゃないんですか? 確か一年四組」
「違う! 麻子は二年だ。二年四組」
「なんと!」

 一方で僕も驚いた。延田のやつ、先輩まで友達タメ扱いなのか。気さくにも程があるだろう、と。

「まあいい、それより早く済ませよう。こっちにも都合がある」
「超常現象がこっちの都合を聞いてくれますかね?」
「うるさいな。君はまずその減らず口を封印したらどうだい?」

 先輩はズカズカとピアノのそばまで歩いていくと、演奏用の長椅子にちょこんと腰掛けた。
 かと思うと、こっちに向かって手招きし、自分の隣をパシパシと叩く。

「そんなところにいちゃ駄目だろ? こっちに来たまえ」
「……いや、でも」

 ピアノ用の長椅子は狭い。ほとんど身を寄せ合って座ることになる。だが先輩は気にする素振りもない。

「現象を再現したいんだ。演奏者と同じ目線で観測しなければ意味がない」
「ああ、なるほど」

 僕は身を固くしながら彼女の隣に腰掛けた。
 二の腕はほとんど密着し、なんだかほんのりいい匂いがする。
 僕は苦労して彼女の存在を頭から追いやり、カメラを構えてファインダーの中に意識を集中した。

◆◆

 しばらくは何も起きなかった。
 優里先輩も数分は無言でおとなしくしていたが、すぐにもぞもぞと身動きをはじめる。

「先輩、おとなしくしていて下さいよ」
「いや、でも……」

 顔を伏せた彼女の表情を盗み見ると、何だか顔色が良くなかった。

「え! 体調でも悪いんですか?」

 僕は慌てて向き直る。
 わずかなやり取りの間にも先輩の顔色は見る間に青ざめ、額にポツポツと汗がにじみはじめていた。

「いや別に……いや、そうだな。悪いが少し離れてくれ」
「ええ、僕、汗臭かったですか?」

 僕は慌てて肩の辺りを嗅いでみるが、自分では良くわからない。

「いや、そういう訳じゃない」
「……保健室に行きますか? でも、先輩が隣に座れって言ったんですよ」

 僕は立ち上がりながらグチる。体調を崩した女の子をいじめる趣味はないが、まあ、一言くらいは許されるだろう。

「いや、いい。すぐにおさまる。もう平気だと思ったんだが、やっぱりまだ……」
「まだ、何ですか?」
「いや、それは……」

 先輩はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、顔に押しあてて押し黙った。
 結局、答えが得られることはなかった。まるで悲鳴のような甲高い音が、二人の会話を強制的に遮ったからだ。

「先輩、何か聞こえませんか?」

 その瞬間、先輩はそれまでのうなだれ具合が嘘のようにガバリと顔を上げ、首にかけていたヘッドフォンを素早く装着すると集音器を構え直した。

「先輩。あっちの方から——」

 僕が指さすと、先輩はさっと黒板に向かって左手の壁にマイクを向け、次第に範囲を広げながら小刻みに振りはじめた。

「あの」
「黙って!」

 その間にも、女性のすすり泣きというか、長く続く悲鳴のような声は大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら延々と続き、窓の外がオレンジ色に染まる頃になって唐突に終わった。

「ふむ、結構長く続いたな」

 しんと静まりかえった音楽室内。優里先輩はヘッドフォンをむしり取るように外すとふうと大きなため息をついた。

「何なんでしょうね? あれ」
「あれ、君は麻子の言葉通りには取らないんだな」
「まあ、学校の怪談なんてほとんどが見間違えや勘違いだって言いますし、その手の物が実在するならむしろ見てみたいとさえ思ってます」
「……悪趣味だな」
「そういう訳じゃないんですが……たとえお化けでも会いたい人がいるんですよ」
「そっ!」

 先輩が小さく息を呑む気配がした。

「それよりももう出ましょう。今日はもう終わりみたいですし」
「あ、ああ、そうだね」

 先輩はまるで救われたようにホッとした顔つきになると、汚れてもいないスカートの裾をはたいて立ち上がる。

「先輩は声の原因、判ったんですか?」
「あ、ああ、だいたいな。ただ今日は日も暮れたしもう無理だ。明日もう一度来れるかい?」
「まあ、大丈夫ですが……え?」

 いつの間にか先輩がスマホを突き出しているのに気づいて首をひねる。

「察しが悪いな君は! 連絡先! LAIMのアドレス交換をしようと言っている」
「あ、ああ、はい!」

 僕は慌ててスマホを取り出すとメッセージアプリを立ち上げた。

「はい、これでいいですか?」
「ああ」

 先輩は画面を包み込むように両手でスマホを持ち直すと、小さくフンと鼻を鳴らす。

「珍しいな、これ、本名か?」
「ええ、四持よもつって読みます」
「これはまた……これも縁えにしと言うものなのかも知れないな」
「へ? どういう意味です?」
「いやいい。それよりも帰るぞ。あ、鍵、職員室に戻しておいてくれ」

 先輩はそう言ってまるでかまぼこ板のような巨大なキーホルダーをピアノの上から取り上げて僕に放り投げた。
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