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第二章
戌歴九九八年・春(七)
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ラウラは平焼きパンと鶏のペーストを座卓に並べた。
「今、侍女がスープを温めてまいりますので」
「……けっこう用意してくれたんだね。食べきれるかな」
「食べてください」
ラウラはにべもなく言うと、見張るようにカイの前に座った。
カイは渋々パンをちぎる。
「スープはなくてもいいんじゃない?」
「だめです。それにスープこそ飲むべきです。身体にいい薬膳がたくさん入っていますからね。生姜にクコの実、松の実……他にもいろいろ」
それを聞いたカイは口元を引きつらせる。
「……それは精がつきそうだね?」
カイはちぎったパンにペーストをたっぷり塗りつけて、やけになったように頬張った。
「苦手なものがはいっていましたか?」
「そういうわけじゃないんだけど、薬膳スープはつい昨日食べた……食わされたばっかりでさ。それを思い出してね……」
「はあ……?」
「思い出したらやっぱり腹がたってきたな……あの野郎……。ねえ、弟のノヴァは毎日忙しそうにしてんのに、兄貴はなにもしてないのか?王子様なんだったら、いろいろやることあるんじゃないのか?」
「皇太子殿下も、以前はノヴァ様と同じように、その責務を全うするため奮闘しておられましたよ。ですが――――」
ラウラは言い淀む。
「――――私が知っているのは、あくまで噂話なので、事実とは異なるかもしれません。そんなものを大使閣下のお耳にいれていいものか……」
「それなら、おれもあくまで噂話だと思って聞くからさ。教えてよ」
促され、ラウラはなおも躊躇いつつ、頷いた。
「わかりました。――――私の知っている太子殿下は、品行方正で、君子不器、人当たりのいい方でした。お会いしたことは数えるほどしかありませんが、ノヴァ様と同じように、自分の責務に忠実な方でした。それが数年前、突然人が変わり、放蕩するようになったんです。ご公務は臣下に任せ、式典へは参加せず、外城を遊び歩いているとか……」
「なんでまた急に?」
「わかりません。春宿の女性に惑わされたから、と聞いたことはありますが……」
カイは納得していない様子で、またちぎったパンにペーストを塗りたくった。
「女に惑わされてるふうには見えなかったけどな。あの宿でだって、客として居座ってたわけじゃなかったし。むしろ女の子たちは、客そっちのけであいつに色めき立ってるような……ハーレム状態だったけどなあ」
カイはパンを咀嚼しながら考え込む。
そこにスープと白湯をもった二人の侍女がやってくる。カイは二人に尋ねる。
「あの、すみません。お二人は、皇太子のことって、知ってますか?」
「閣下!」
ラウラはカイに、ノヴァに口止めされたことを忘れたのか、と首を振る。
しかしカイは大丈夫だよ、と頷きを返す。
春宿で会ったことを教えるつもりはなく、ただシェルティの心変わりについて知っていることはないか聞き出そうとしたのだ。
侍女はカイが放蕩に耽る皇太子の噂を聞きたがっていると知った途端、目を輝かせて話し出した。
「情けない人なんですよ」
「あら、かわいそうな人の間違いじゃない?」
「まあ同情すべきところはあるけどね、でも結局逃げちゃったんでしょ、やっぱり情けないわよ」
二人の言い分を要約するとこうだった。
皇帝と名家の出身である正室の間に生まれたシェルティは、幼少の頃から次期皇帝として厳しく育てられた。
座学、霊操、弁論とそつなくこなし、公の場でも礼節を弁えた振る舞いをする、誰もが認める立派な皇太子で、その地位は盤石なものとされていた。
しかし、側室の子である弟のノヴァが頭角を現したことにより、状況は一変する。
ノヴァは優秀だった。
学問でも霊操でも、シェルティがノヴァに勝るものは何一つなかった。
最大の長所とされていた容姿でさえ、特に皇帝に近い現役の上級官吏たちは、ノヴァの方を支持した。
シェルティは側室である父親の美貌を強く受け継いでいた。物腰が柔らかく、愛想もよく、蠱惑的な魅力があった。
しかしそれは人びとの関心を惹きつけすぎた。
彼の美しさには毒があった。
対してノヴァの容姿は、整っているが、華はなかった。帝である母親似の、いかにも生真面目そうな面差しで、眉間にはよく齢に不相応なしわを寄せていた。
愛嬌はなく、どちらかといえば人を寄せ付けない彼の雰囲気は、人びとの求める理想の皇帝像にぴたりとあてはまった。
なにものにも靡くことのない、確乎不動の存在。
公明正大な、社会秩序の象徴。
ノヴァは成長と共にその色を濃くしていき、人びとの推挙を受けるようになる。
彼こそ皇帝にふさわしい。
美しいだけの兄より、実のある弟をとるべきだ。
ノヴァを推す声は官人たちの間で瞬く間に膨らんでいき、ついには、それまでシェルティを次期皇帝として育ててきた皇帝さえ、ノヴァの肩を持つようになった。
そして彼女が災嵐対策室の室長という重役をノヴァに与えたのが決定打となった。
それは次期皇帝としてノヴァが指名されたも同然の抜擢だった。
朝廷内の波紋は、避けようがない。
ただ当のシェルティは皇帝の地位にあまり執着がないのか、弟の立身をむしろ祝福している様子だった。
黙っていなかったのは彼の父親とその一族だ。
彼らはシェルティが皇帝になることで得られるはずだった利権を惜しんだ。
なにより自尊心が許さなかった。
この世界随一の歴史を持つ名家の血筋の者が、平民階級出身の技師の子どもに劣ると世間に喧伝されることを、彼らは許さなかった。
朝廷は以前から太子派と太弟派に二分し、水面下で対立していたが、ノヴァの室長就任を受け表面化した。
派閥争いは苛烈なものだった。
しかし長くは続かなかった。
担ぎ上げられたとはいえ、二大派閥の一翼を担っていたシェルティが、自ら椅子を蹴ってしまったからだ。
シェルティはある日突然公務を放り出し、放蕩に走った。
太子派はもちろん激怒した。
シェルティ本人はもちろん、正室であるシェルティの父親にも怒りの矛先は向いたが、それでもシェルティが自席に戻ることはなかった。
ここ一ヶ月は廷内に足を踏み入れることさえないという有様だった。
「ここひと月と言えば、閣下がいらっしゃった頃合いでしょう?廷内がバタついているときにいなくなったもんですから、追い打ちとばかりに太弟派の連中まで無責任だって追及をはじめて、皇太子殿下の評判はもう地の底ですよ」
「かわいそうにね、身内からもさんざん責めたてられた皇后様は、まだお若いのに皇帝を残して隠居まで考えられているほどだそうよ」
「でもやっぱり一番かわいそうなのは皇太子殿下よ!皇帝陛下のお考えが変わったと知ったときだってすぐに身を引いたのに、また無理やり前に立たされて、的にされるなんて」
「だからといって逃げるのはダメでしょう。しかも下賤な女の元になんて……」
「貴方まだそんな悪評真に受けているの?殿下は立場を捨てて、皇后様と同じように、どこかの田舎に隠居されようとしているんだわ」
「貴方の方こそ、そんな都合のいい美談あるわけないわ。まあ殿下にお熱だったものね。太子派の女性はみんな同じ夢を見てるって物笑いの種よ」
「まあ、失礼ね!」
ラウラはたまらず咳ばらいをする。
侍女たちははっとして居住まいを正し、話を再開させる。
「と、とにかく、おかわいそうな方なんです、皇太子殿下は。ご本人はなにもしていないのに、周りの都合で振り回されて……」
「同情の余地はあるけれど、でも結局、弟君より出来が悪かったご自分のせいでもあるわよね」
「貴方、いくらなんでも失礼よ!それに……やっぱり罪はないわ。たしかに皇太弟殿下はとても優秀な方だけど、だからといってシェルティ様が不出来ということにはならないでしょ」
「私は能力の話をしているわけじゃないのよ。責務の放棄を無責任だって言ってるの!」
二人はまた睨み合いを始めたので、ラウラはこれ以上は無駄だと思い、退席させた。
カイはしばらく黙ったまま、なぜか沈んだ表情を浮かべていたが、ふいに顔をあげて聞いた。
「今のってどこまでが本当の話?」
「どうでしょう……もちろんすべてではないでしょうが……言われてみれば確かに、と思うところはあります。すみません、私、廷内の出来事には疎くて」
「そっか……」
カイはそれきり言葉を発さず、なにか考え込みながら、ほとんど作業的に残りの食事を腹に収めた。
ラウラはカイの態度の変化に不安を覚えたが、理由がわからず、ただ側に控えていることしかできなかった。
〇
それから数日、ノヴァの口添えがあったためか、宴席への誘いはぴたりと止み、カイとラウラは霊操の修練に集中することができた。
ラウラはまずカイに霊を操るという感覚をつかませるため、照明霊具を用いた。
照明霊具とは、霊力を込めると光を発する角灯である。
特に修練を積んでいない一般市民、子どもでも簡単に扱えるものだが、カイはなかなか光を灯すことができなかった。
「おれもしかして才能ない……?やばいかもしれない……?」
「いいえ、むしろ、時間はかかって当然だと思います。閣下はこれまで霊そのものを知らずに生きてこられました。そんな方に霊操をやれと言うのは、突然身体に生えた三本目の腕を上手く扱ってみせろというようなものです」
「はは、いい例え……あ、今光った?!」
カイは汗を流しながら、角灯をラウラに向ける。
しかし角灯にはわずかな光も灯っていない。
「あれ、気のせいだったか……ねえ、もしかしてこれ壊れてない?」
カイは角灯を覗き込んだり、揺らしたりして、不具合がないか確かめようとする。
ラウラは角灯に手をかざし、部屋中の影を飲み込むほど強い光を放ってみせる。
「おわっ!?」
ラウラが手を降ろすと同時に、光は消える。
「壊れてはいないようです」
「ええ!?なんだいまの、すげえ!?」
「閣下の霊力をもってすれば、今の何十倍も強い光を灯すことができますよ」
「まったくできる気しないけど」
「すぐですよ。とにかく最初は回数をこなして慣れることが大事ですから、がんばってください。幸い閣下は霊力が尽きるということはありません。霊摂せずに一日中練習することができるなんて、ちょっとうらやましいくらいです」
苦笑するラウラに、カイもまた苦笑いを返す。
大気中に漂う霊は無秩序に分散しているが、動植物や人間に取り込まれた霊は配列をつくり、その内側を循環する。
配列は個体ごとに異なり、同じ人であっても他者と一致することはない。
霊の配列は指紋のようなもので、人の数だけ存在するのだ。
霊操の第一歩は配列を感覚としてつかむことだった。
それは新生児のハンドリガードのようなもので、認識を果たした人間は自らの霊力を身体機能の一部として行使することができる。
霊力は物質の外に放出されると、配列が崩れ、分散してしまう。一度放出した霊力をそのまま体内に戻すことは出来ず、霊力を補うためには、新たに霊を取り込む必要がある。
大気中に含まれる霊は配列を持たず、また火や水、植物に含まれる霊は、配列を持っているが、その並びは単純で、配列の組み換えは容易い。人はこれらのものから容易に霊力を得ることができる。
つまりただ呼吸をするだけで、食事をとるだけで、霊力を得ることができるのだ。
しかし霊操を行う場合、それだけでは足りない。
人間を含むすべての動物は、空気と同じように霊力を、吸収、循環、放出し続けている。
しかし霊操を行う場合、体外へ排出する霊力の量が桁違いとなる。
体内の霊が一定量を下回ると、生命の危機に陥ってしまうため、霊操をする場合、あらかじめ多量の霊力を体内に取り込んでおく必要がある。
そのため技師は、霊操の修練の第一歩としてまず霊の摂取を会得する。
食事や呼吸には限界があるので、それ以外から霊摂する方法、例えば水や風から霊を取り込むことを覚えなければならないのだ。
しかし異界の霊を自らの霊力として無制限に引き出すことのできるカイに、霊摂は必要ない。
だからこそ休憩など必要ないだろうと、ラウラは平然と言ってのけたのだ。
「君ってけっこう……脳筋なとこあるよね。実はスパルタ体育会系女子だった……?」
カイの発した言葉の意味をほとんど解さず、ラウラは笑顔のまま頷いた。
「はい?よくわかりませんが、閣下が仰るならそうなんでしょう。――――さて、ではもう一度やってみましょう!」
「……がんばります」
張り切る少女を前に、休みたいとも、できませんともいえないカイは、仕方なく汗を拭って、角灯と向き合うしかなかった。
そのようにしてカイとラウラは霊操の修練に励み、朝廷での日々を過ごした。
ラウラの言った通り、カイはすぐに角灯に光を灯すことができた。その他の基本的な霊具も問題なく使用でき、物を浮かせる、動かすと言った簡単な霊操もすぐに身につけた。
なにもかもが順調だった。あとはこのまま霊操の基礎を身につけさせ、準備が整ったら霊堂に移り、さらに本格的な修練に入ってもらおう。ラウラはそう思い、朝廷にきてからはじめて一息つけたような心地でいた。
だが、それもほんのひとときのことだった。
「今、侍女がスープを温めてまいりますので」
「……けっこう用意してくれたんだね。食べきれるかな」
「食べてください」
ラウラはにべもなく言うと、見張るようにカイの前に座った。
カイは渋々パンをちぎる。
「スープはなくてもいいんじゃない?」
「だめです。それにスープこそ飲むべきです。身体にいい薬膳がたくさん入っていますからね。生姜にクコの実、松の実……他にもいろいろ」
それを聞いたカイは口元を引きつらせる。
「……それは精がつきそうだね?」
カイはちぎったパンにペーストをたっぷり塗りつけて、やけになったように頬張った。
「苦手なものがはいっていましたか?」
「そういうわけじゃないんだけど、薬膳スープはつい昨日食べた……食わされたばっかりでさ。それを思い出してね……」
「はあ……?」
「思い出したらやっぱり腹がたってきたな……あの野郎……。ねえ、弟のノヴァは毎日忙しそうにしてんのに、兄貴はなにもしてないのか?王子様なんだったら、いろいろやることあるんじゃないのか?」
「皇太子殿下も、以前はノヴァ様と同じように、その責務を全うするため奮闘しておられましたよ。ですが――――」
ラウラは言い淀む。
「――――私が知っているのは、あくまで噂話なので、事実とは異なるかもしれません。そんなものを大使閣下のお耳にいれていいものか……」
「それなら、おれもあくまで噂話だと思って聞くからさ。教えてよ」
促され、ラウラはなおも躊躇いつつ、頷いた。
「わかりました。――――私の知っている太子殿下は、品行方正で、君子不器、人当たりのいい方でした。お会いしたことは数えるほどしかありませんが、ノヴァ様と同じように、自分の責務に忠実な方でした。それが数年前、突然人が変わり、放蕩するようになったんです。ご公務は臣下に任せ、式典へは参加せず、外城を遊び歩いているとか……」
「なんでまた急に?」
「わかりません。春宿の女性に惑わされたから、と聞いたことはありますが……」
カイは納得していない様子で、またちぎったパンにペーストを塗りたくった。
「女に惑わされてるふうには見えなかったけどな。あの宿でだって、客として居座ってたわけじゃなかったし。むしろ女の子たちは、客そっちのけであいつに色めき立ってるような……ハーレム状態だったけどなあ」
カイはパンを咀嚼しながら考え込む。
そこにスープと白湯をもった二人の侍女がやってくる。カイは二人に尋ねる。
「あの、すみません。お二人は、皇太子のことって、知ってますか?」
「閣下!」
ラウラはカイに、ノヴァに口止めされたことを忘れたのか、と首を振る。
しかしカイは大丈夫だよ、と頷きを返す。
春宿で会ったことを教えるつもりはなく、ただシェルティの心変わりについて知っていることはないか聞き出そうとしたのだ。
侍女はカイが放蕩に耽る皇太子の噂を聞きたがっていると知った途端、目を輝かせて話し出した。
「情けない人なんですよ」
「あら、かわいそうな人の間違いじゃない?」
「まあ同情すべきところはあるけどね、でも結局逃げちゃったんでしょ、やっぱり情けないわよ」
二人の言い分を要約するとこうだった。
皇帝と名家の出身である正室の間に生まれたシェルティは、幼少の頃から次期皇帝として厳しく育てられた。
座学、霊操、弁論とそつなくこなし、公の場でも礼節を弁えた振る舞いをする、誰もが認める立派な皇太子で、その地位は盤石なものとされていた。
しかし、側室の子である弟のノヴァが頭角を現したことにより、状況は一変する。
ノヴァは優秀だった。
学問でも霊操でも、シェルティがノヴァに勝るものは何一つなかった。
最大の長所とされていた容姿でさえ、特に皇帝に近い現役の上級官吏たちは、ノヴァの方を支持した。
シェルティは側室である父親の美貌を強く受け継いでいた。物腰が柔らかく、愛想もよく、蠱惑的な魅力があった。
しかしそれは人びとの関心を惹きつけすぎた。
彼の美しさには毒があった。
対してノヴァの容姿は、整っているが、華はなかった。帝である母親似の、いかにも生真面目そうな面差しで、眉間にはよく齢に不相応なしわを寄せていた。
愛嬌はなく、どちらかといえば人を寄せ付けない彼の雰囲気は、人びとの求める理想の皇帝像にぴたりとあてはまった。
なにものにも靡くことのない、確乎不動の存在。
公明正大な、社会秩序の象徴。
ノヴァは成長と共にその色を濃くしていき、人びとの推挙を受けるようになる。
彼こそ皇帝にふさわしい。
美しいだけの兄より、実のある弟をとるべきだ。
ノヴァを推す声は官人たちの間で瞬く間に膨らんでいき、ついには、それまでシェルティを次期皇帝として育ててきた皇帝さえ、ノヴァの肩を持つようになった。
そして彼女が災嵐対策室の室長という重役をノヴァに与えたのが決定打となった。
それは次期皇帝としてノヴァが指名されたも同然の抜擢だった。
朝廷内の波紋は、避けようがない。
ただ当のシェルティは皇帝の地位にあまり執着がないのか、弟の立身をむしろ祝福している様子だった。
黙っていなかったのは彼の父親とその一族だ。
彼らはシェルティが皇帝になることで得られるはずだった利権を惜しんだ。
なにより自尊心が許さなかった。
この世界随一の歴史を持つ名家の血筋の者が、平民階級出身の技師の子どもに劣ると世間に喧伝されることを、彼らは許さなかった。
朝廷は以前から太子派と太弟派に二分し、水面下で対立していたが、ノヴァの室長就任を受け表面化した。
派閥争いは苛烈なものだった。
しかし長くは続かなかった。
担ぎ上げられたとはいえ、二大派閥の一翼を担っていたシェルティが、自ら椅子を蹴ってしまったからだ。
シェルティはある日突然公務を放り出し、放蕩に走った。
太子派はもちろん激怒した。
シェルティ本人はもちろん、正室であるシェルティの父親にも怒りの矛先は向いたが、それでもシェルティが自席に戻ることはなかった。
ここ一ヶ月は廷内に足を踏み入れることさえないという有様だった。
「ここひと月と言えば、閣下がいらっしゃった頃合いでしょう?廷内がバタついているときにいなくなったもんですから、追い打ちとばかりに太弟派の連中まで無責任だって追及をはじめて、皇太子殿下の評判はもう地の底ですよ」
「かわいそうにね、身内からもさんざん責めたてられた皇后様は、まだお若いのに皇帝を残して隠居まで考えられているほどだそうよ」
「でもやっぱり一番かわいそうなのは皇太子殿下よ!皇帝陛下のお考えが変わったと知ったときだってすぐに身を引いたのに、また無理やり前に立たされて、的にされるなんて」
「だからといって逃げるのはダメでしょう。しかも下賤な女の元になんて……」
「貴方まだそんな悪評真に受けているの?殿下は立場を捨てて、皇后様と同じように、どこかの田舎に隠居されようとしているんだわ」
「貴方の方こそ、そんな都合のいい美談あるわけないわ。まあ殿下にお熱だったものね。太子派の女性はみんな同じ夢を見てるって物笑いの種よ」
「まあ、失礼ね!」
ラウラはたまらず咳ばらいをする。
侍女たちははっとして居住まいを正し、話を再開させる。
「と、とにかく、おかわいそうな方なんです、皇太子殿下は。ご本人はなにもしていないのに、周りの都合で振り回されて……」
「同情の余地はあるけれど、でも結局、弟君より出来が悪かったご自分のせいでもあるわよね」
「貴方、いくらなんでも失礼よ!それに……やっぱり罪はないわ。たしかに皇太弟殿下はとても優秀な方だけど、だからといってシェルティ様が不出来ということにはならないでしょ」
「私は能力の話をしているわけじゃないのよ。責務の放棄を無責任だって言ってるの!」
二人はまた睨み合いを始めたので、ラウラはこれ以上は無駄だと思い、退席させた。
カイはしばらく黙ったまま、なぜか沈んだ表情を浮かべていたが、ふいに顔をあげて聞いた。
「今のってどこまでが本当の話?」
「どうでしょう……もちろんすべてではないでしょうが……言われてみれば確かに、と思うところはあります。すみません、私、廷内の出来事には疎くて」
「そっか……」
カイはそれきり言葉を発さず、なにか考え込みながら、ほとんど作業的に残りの食事を腹に収めた。
ラウラはカイの態度の変化に不安を覚えたが、理由がわからず、ただ側に控えていることしかできなかった。
〇
それから数日、ノヴァの口添えがあったためか、宴席への誘いはぴたりと止み、カイとラウラは霊操の修練に集中することができた。
ラウラはまずカイに霊を操るという感覚をつかませるため、照明霊具を用いた。
照明霊具とは、霊力を込めると光を発する角灯である。
特に修練を積んでいない一般市民、子どもでも簡単に扱えるものだが、カイはなかなか光を灯すことができなかった。
「おれもしかして才能ない……?やばいかもしれない……?」
「いいえ、むしろ、時間はかかって当然だと思います。閣下はこれまで霊そのものを知らずに生きてこられました。そんな方に霊操をやれと言うのは、突然身体に生えた三本目の腕を上手く扱ってみせろというようなものです」
「はは、いい例え……あ、今光った?!」
カイは汗を流しながら、角灯をラウラに向ける。
しかし角灯にはわずかな光も灯っていない。
「あれ、気のせいだったか……ねえ、もしかしてこれ壊れてない?」
カイは角灯を覗き込んだり、揺らしたりして、不具合がないか確かめようとする。
ラウラは角灯に手をかざし、部屋中の影を飲み込むほど強い光を放ってみせる。
「おわっ!?」
ラウラが手を降ろすと同時に、光は消える。
「壊れてはいないようです」
「ええ!?なんだいまの、すげえ!?」
「閣下の霊力をもってすれば、今の何十倍も強い光を灯すことができますよ」
「まったくできる気しないけど」
「すぐですよ。とにかく最初は回数をこなして慣れることが大事ですから、がんばってください。幸い閣下は霊力が尽きるということはありません。霊摂せずに一日中練習することができるなんて、ちょっとうらやましいくらいです」
苦笑するラウラに、カイもまた苦笑いを返す。
大気中に漂う霊は無秩序に分散しているが、動植物や人間に取り込まれた霊は配列をつくり、その内側を循環する。
配列は個体ごとに異なり、同じ人であっても他者と一致することはない。
霊の配列は指紋のようなもので、人の数だけ存在するのだ。
霊操の第一歩は配列を感覚としてつかむことだった。
それは新生児のハンドリガードのようなもので、認識を果たした人間は自らの霊力を身体機能の一部として行使することができる。
霊力は物質の外に放出されると、配列が崩れ、分散してしまう。一度放出した霊力をそのまま体内に戻すことは出来ず、霊力を補うためには、新たに霊を取り込む必要がある。
大気中に含まれる霊は配列を持たず、また火や水、植物に含まれる霊は、配列を持っているが、その並びは単純で、配列の組み換えは容易い。人はこれらのものから容易に霊力を得ることができる。
つまりただ呼吸をするだけで、食事をとるだけで、霊力を得ることができるのだ。
しかし霊操を行う場合、それだけでは足りない。
人間を含むすべての動物は、空気と同じように霊力を、吸収、循環、放出し続けている。
しかし霊操を行う場合、体外へ排出する霊力の量が桁違いとなる。
体内の霊が一定量を下回ると、生命の危機に陥ってしまうため、霊操をする場合、あらかじめ多量の霊力を体内に取り込んでおく必要がある。
そのため技師は、霊操の修練の第一歩としてまず霊の摂取を会得する。
食事や呼吸には限界があるので、それ以外から霊摂する方法、例えば水や風から霊を取り込むことを覚えなければならないのだ。
しかし異界の霊を自らの霊力として無制限に引き出すことのできるカイに、霊摂は必要ない。
だからこそ休憩など必要ないだろうと、ラウラは平然と言ってのけたのだ。
「君ってけっこう……脳筋なとこあるよね。実はスパルタ体育会系女子だった……?」
カイの発した言葉の意味をほとんど解さず、ラウラは笑顔のまま頷いた。
「はい?よくわかりませんが、閣下が仰るならそうなんでしょう。――――さて、ではもう一度やってみましょう!」
「……がんばります」
張り切る少女を前に、休みたいとも、できませんともいえないカイは、仕方なく汗を拭って、角灯と向き合うしかなかった。
そのようにしてカイとラウラは霊操の修練に励み、朝廷での日々を過ごした。
ラウラの言った通り、カイはすぐに角灯に光を灯すことができた。その他の基本的な霊具も問題なく使用でき、物を浮かせる、動かすと言った簡単な霊操もすぐに身につけた。
なにもかもが順調だった。あとはこのまま霊操の基礎を身につけさせ、準備が整ったら霊堂に移り、さらに本格的な修練に入ってもらおう。ラウラはそう思い、朝廷にきてからはじめて一息つけたような心地でいた。
だが、それもほんのひとときのことだった。
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ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
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