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4.アリシアの恋(前)

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 侯爵閣下の……というよりハンナの強い意向で、しばらく療養することになった。

「大切なお嬢様が、こんな痛々しいお姿で外に出るなんてありえません」

 だそうだ。
 私のことをまだお嬢様って呼んでくれるのね。

「君は今までずっと頑張っていた。骨休めすることも大事だ」

 あれからずっと屋敷にいる侯爵閣下が、穏やかな声でおっしゃる。

 ご本人は「溜まっていた休暇の消化だ」とおっしゃっていたけれど、騎士団長なのに大丈夫なのだろうか。もしかして謹慎しているとか? と焦ったが、その可能性は「それはないよ~」と義兄のジョナス様おにい様が否定してくれた。なんでも王家のゴタゴタに巻き込まれた慰謝料代わりに陛下からもぎ取ったとか。

 侯爵家での閣下は、シャツとスラックスというくつろいだ格好をしている。装いがシンプルなせいか、逞しい体つきがはっきりと分かる。鍛え上げられた騎士そのものといった体格の閣下。今はその頬に生々しい傷がついているから、みるからに戦場の猛者といった雰囲気が増している。よく新人の騎士から怯えられているという。

 私も最初は侯爵の事が怖かった。
 エルドレッド殿下と出会って一気に変わった環境に怯えている時だったから、侯爵と顔を合わせた時は気絶しそうになった。
 養女になった頃にはさすがに慣れたけれど、それでも寡黙な侯爵は雲の上のお方で、気安く会話をするような相手ではなかった。むしろ、私が変なことをしでかさないかと睨みを効かせているのだと思って、あまり近づくことが出来なかった。

 でも、侯爵は私のことを認めてくださっていたと知った。
 どれだけ私が侯爵に対して偏った見方をしていたのだろう。この人は真摯に私を見てくださっていたというのに。
 だから今は、なるべく侯爵のことを真っ直ぐ見るようにしている。
 笑うと少し目尻が垂れて、皺が寄る。扉を潜る時に少し身を屈める癖がある。シャツの一番上のボタンを留めるのが苦手――ほんの少しずつだけれど、侯爵のことを知るようになってきたことが嬉しい。

 そんな私に、王家の使者と会っていた侯爵が尋ねてきた。

「エルドレッド殿下が謝罪したいと言っているが、会いたいか?」

 もちろん私は首を横に振る。
 だろうな、と侯爵が頷く。

「あの馬鹿王子は、本気で君を忘れていた。自分が贈った髪飾りを見て、青ざめていたよ」

 侯爵の言葉に、淡い恋の残滓のようなものがチクリと胸を刺す。

「やはり殿下は、私自身を見初めて婚約したのではなかったのですね。きっと貴族らしくない娘が目新しかっただけ……」

 侯爵家の養女になる前の私は、とても淑女とは言えないお転婆娘だった。大声で笑っていたし、スカート姿で走り回っていた。そんな姿を見て、新鮮に思ったのだろう。だから淑女としての立ち振る舞いが出来るようになってきた私に飽きて、しまいには忘れてしまったのだ。

 私だって、『王子様との恋』に恋していたようなものだ。私の幻に恋していた殿下ばかりを責められない。
 けれど、現実のあまりの忙しさに恋が吹き飛んでも、情は残っていた。
 ……あの婚約破棄騒動でその情も砕け散ったけれど。

 髪飾りは、殿下と出会った時に町で買っていただいた物。その時は、まさかこの美しい少年が王子様だなんて思ってもみなかった。そんなある意味平和な頃の、優しい思い出の品物だった。

「わたくし、思い切り踏み潰してしまいました。淑女失格ですね」

「到着が遅れて悪かった。私がいれば、殿下もあそこまで馬鹿なことをしなかっただろう」

「そうしたら別の機会にズレるだけですわ。早めに終えられて良かったのです……。すみません。こんな不出来な養女で……」

「私こそ本当にすまなかった。君を問答無用で殴ったりして」

「あの時は最善でした。衛兵が私を取り押さえようとしていましたから……」

 侯爵が私を殴らなければ、拘束されていただろう。殿下にはそれだけの権力がある。他人の人生を歪める力だ。

 私は感謝を込めて、侯爵を見つめた。
 私があまりに熱心に見つめたせいか、侯爵は居心地悪そうに咳払いをする。目元が微かに赤い。そのせいか、まだ生々しい傷痕が浮き上がってみえる。
 侯爵の顔の切り傷を見るたびに、罪悪感と同時に喜びのような感情が湧き上がってきて困る。
 私のためにここまでしてくださったと思うたびに、叫びだしたくなるような、侯爵の手を握り締めたくなるようなおかしな気分になってしまう。

「あと、これは陛下からだ。まずはこちらを、と」

 私に見つめられ過ぎた侯爵は、ぎくしゃくした動きで小さな箱を差し出してきた。王都でも有名な店のチョコだった。
 ハンナが心得顔で新しくお茶を淹れ、高級感溢れるチョコを頂くことにする。

「近いうちに本格的な慰謝料を準備するそうだ。欲しいものがあったら言うといい」

 国王陛下にお強請りなんて。恐ろしいことを平然と言う侯爵と違って、私はすっかり震え上がってしまった。

「畏れ多いことです。もう十分です。それより、閣下のお立場の方が気になります」

「……君は不思議な女性だ。王子相手にあんな啖呵を切ったくせに、酷く遠慮したりする」

「それは……閣下にはご迷惑しかお掛けしていませんもの」

 私のせいで、王家との繋がりがわずかに不安定になってしまった。
 国王陛下と侯爵閣下は気安い間柄みたいだけれど、今回のことのせいで横槍が入るかもしれない。
 何だそんなことかと侯爵は鼻を鳴らす。

「君が我が侯爵家に来て、何の迷惑もこうむっていない。……だが、帰りたいか?」

 侯爵の声に苦いものが混じっているように聞こえて、私は首を傾げた。

「え?」

「こうなっては、君がここで我慢する必要はなくなった。クローリン男爵家に戻りたいと思うか?」

 ドキリと胸が強く鳴った。
 それは、私の価値が完全になくなったということ?

「父上、それではまるで、アリシアを追い出したいみたいに聞こえますよ」

 絶句する私を、部屋に入ってきたジョナスおにい様フォローしてくれる。
 アルクスフォート侯爵家の嫡子であり唯一の実子であるジョナス様は、お父上である閣下とあまり似ていない。垂れ目がちの優しい顔立ちで、女性からとても人気がある。とても気配り上手の人で、私も侯爵家で戸惑った時など随分お世話になった。
 ジョナス様が「アリシア、可哀想~」と私の頭をグシャグシャ撫でてくる。侯爵が顔を真っ赤にして身を乗り出してきた。

「そんなことはない! 私としては、いつまでもここにいて欲しい。だが、君の希望を聞く前に我々の意見を押し付けてしまわないようにと思って言っているのだ」

 あたふたする侯爵閣下のお姿を、まさか可愛らしいと思う時がくるなんて。

「あ~まあ、とりあえずアリシアは、もう少しゆっくりしなよ。今まですっごく忙しかったんだから」

 ジョナス様がとりなし、私は素直に頷いた。

 実家に帰りたい。
 それはもちろん本音だ。
 だけど、それと同時に、侯爵家ここにもいたいと思ってしまうのは何故だろう。
 男爵家よりはるかに豊かな生活が出来るから?
 ジョナス様が優しいから?
 それとも……





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