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ドアロックをかけて、カーテンを閉めて、スマホの音量もお互いオフにした。
「逃げ回っても仕方ないから、彼のためにも一回どこかできちんとしないといけないんだろうけど。こっちに来てることだし」
松並はうまく寝付けない様子で、右を向いたり左を向いたり、毛布を抱き込んだりと落ち着かない。
「今日くらいはいいんじゃないんですか。そういうの全部、お休みにしても」
貝の中に潜り込むヤドカリみたいな仕草で身体を丸めながら、松並はじっと目を閉じている。澤野は同じベッドの上に横たわり、目は閉じないようにと思う。きっと簡単に眠れてしまうだろう。でも、まだもう少し。ヘッドボードの松並の眼鏡を、シャツの裾で丁寧に拭く。
子供の頃、ベッドの周りは全部海、なんて空想を時々していた。ベッドの外に出たらサメやクジラに一飲みにされてしまうから、ここから決して落ちないように。今もまた、二人で眠るベッドの上だけが、安全で守られているように感じる。
しばらくして、眠れないことに疲れたのか、松並は目を閉じたまま、シーツに這わせるようにそっと手を差し出す。起きてますよ、と合図するように、澤野は指先だけで触れる。
「これは本当に恋だったのかなって思ってね」
ゆっくりと、ため息のように、深呼吸のように言葉が吐き出される。
「事実婚をしようって、一緒に会社をやろうって言われて……そういう話はなんとなくしてたけど。急に現実を突きつけられたら、自信がなくなっちゃって」
澤野は相槌を打つ代わりに、指先を松並の手の甲へ乗せた。
「一緒に暮らしてたのにって思う? 家族になるのって、わけが違ってた。好きって言われて……鳥の雛が初めて見たものについて行くみたいなことだったのかな、あれは。恋じゃなくて、愛着とか執着とか、そういうものだったんじゃないかな。たぶん。寂しいのは嫌だったし、お互い納得してるんならそれで良いじゃないか、って思ったんだけど……」
「松並さんは、納得出来なかったんでしょう」
「……やっぱり誠実じゃない気がして」
他人の息をこんなに間近に感じたのは、いつ以来だろう。わずかに触れる部分ですら温かい。眠りの中にいるような温度だ。
眠りはいつも、いくら抗っても引き摺り込まれる深海だった。でも今は、浅瀬にいる。また目を閉じたら沈んでしまうかもしれないけれど。戻って来れるような予感もしている。
「その時はちゃんと、これが恋だと思ってたんです」
「きっとまた、そう思える相手が出来ますよ」
「また間違えるかもしれないし」
「間違えてても、その時は確かに恋だったんでしょう」
「……そうだね」
何度も何度も、きっと昨日の晩もずっとこのことを考えていたのだろう。眠れなくなるほどに。彼の途方もない寂しさに、このありあまる眠気を注ぎ込みたい。傘を差し出すように。
「上手くやれないのが怖いよ、僕は。上手くやれなくてもいいよって言われても、そういう問題じゃないんだよ」
さざなみのように弱く揺れる言葉。重ねた手と手。自分以外の肌の感触。まだ背中をさする勇気はないけれど、ここまでなら手を伸ばせるから。そっと、気づかれないくらいにそっと手を撫でる。もう空は青いのに、夜の終わりに光が溶け込むような時間が、ずっと続いているようだ。
寂しさに色があるなら、きっと夜明けのような色だと思う。暗い群青や瑠璃色や、かつて知っていた優しい珊瑚色や飴色が混ざった、寂しさに手を差し伸べてくれるような。それを振り払うことも許してくれるような。
何もかもが夢の中みたいに醒めていて、安心して目を閉じることが出来る。ここに一番いるべき人が、いる。
「眠っても、大丈夫ですよ。ここにいますから」
松並の手を握ると。彼も澤野の手をやわらかく握り返した。
(了)
「逃げ回っても仕方ないから、彼のためにも一回どこかできちんとしないといけないんだろうけど。こっちに来てることだし」
松並はうまく寝付けない様子で、右を向いたり左を向いたり、毛布を抱き込んだりと落ち着かない。
「今日くらいはいいんじゃないんですか。そういうの全部、お休みにしても」
貝の中に潜り込むヤドカリみたいな仕草で身体を丸めながら、松並はじっと目を閉じている。澤野は同じベッドの上に横たわり、目は閉じないようにと思う。きっと簡単に眠れてしまうだろう。でも、まだもう少し。ヘッドボードの松並の眼鏡を、シャツの裾で丁寧に拭く。
子供の頃、ベッドの周りは全部海、なんて空想を時々していた。ベッドの外に出たらサメやクジラに一飲みにされてしまうから、ここから決して落ちないように。今もまた、二人で眠るベッドの上だけが、安全で守られているように感じる。
しばらくして、眠れないことに疲れたのか、松並は目を閉じたまま、シーツに這わせるようにそっと手を差し出す。起きてますよ、と合図するように、澤野は指先だけで触れる。
「これは本当に恋だったのかなって思ってね」
ゆっくりと、ため息のように、深呼吸のように言葉が吐き出される。
「事実婚をしようって、一緒に会社をやろうって言われて……そういう話はなんとなくしてたけど。急に現実を突きつけられたら、自信がなくなっちゃって」
澤野は相槌を打つ代わりに、指先を松並の手の甲へ乗せた。
「一緒に暮らしてたのにって思う? 家族になるのって、わけが違ってた。好きって言われて……鳥の雛が初めて見たものについて行くみたいなことだったのかな、あれは。恋じゃなくて、愛着とか執着とか、そういうものだったんじゃないかな。たぶん。寂しいのは嫌だったし、お互い納得してるんならそれで良いじゃないか、って思ったんだけど……」
「松並さんは、納得出来なかったんでしょう」
「……やっぱり誠実じゃない気がして」
他人の息をこんなに間近に感じたのは、いつ以来だろう。わずかに触れる部分ですら温かい。眠りの中にいるような温度だ。
眠りはいつも、いくら抗っても引き摺り込まれる深海だった。でも今は、浅瀬にいる。また目を閉じたら沈んでしまうかもしれないけれど。戻って来れるような予感もしている。
「その時はちゃんと、これが恋だと思ってたんです」
「きっとまた、そう思える相手が出来ますよ」
「また間違えるかもしれないし」
「間違えてても、その時は確かに恋だったんでしょう」
「……そうだね」
何度も何度も、きっと昨日の晩もずっとこのことを考えていたのだろう。眠れなくなるほどに。彼の途方もない寂しさに、このありあまる眠気を注ぎ込みたい。傘を差し出すように。
「上手くやれないのが怖いよ、僕は。上手くやれなくてもいいよって言われても、そういう問題じゃないんだよ」
さざなみのように弱く揺れる言葉。重ねた手と手。自分以外の肌の感触。まだ背中をさする勇気はないけれど、ここまでなら手を伸ばせるから。そっと、気づかれないくらいにそっと手を撫でる。もう空は青いのに、夜の終わりに光が溶け込むような時間が、ずっと続いているようだ。
寂しさに色があるなら、きっと夜明けのような色だと思う。暗い群青や瑠璃色や、かつて知っていた優しい珊瑚色や飴色が混ざった、寂しさに手を差し伸べてくれるような。それを振り払うことも許してくれるような。
何もかもが夢の中みたいに醒めていて、安心して目を閉じることが出来る。ここに一番いるべき人が、いる。
「眠っても、大丈夫ですよ。ここにいますから」
松並の手を握ると。彼も澤野の手をやわらかく握り返した。
(了)
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