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環状線沿いのなだらかな坂を上がっていると、スウェットパンツの中でスマホが震えた気がした。気のせいだろう、と思ったが服の上から触れると確かに着信している。
「澤野さん、今どこにいるの」
松並の声は、いつもの落ち着いたそれとは少し違って聞こえる。
「え、今、歩道橋……環状線の、ガソリンスタンドとコンビニがあって、近くに神社がある……」
「行くから待っててください」
「えっ、大丈夫ですよ、今すぐ帰りますから」
「僕が行くまで、そこにいてください」
少しうわずった声でそう言って、電話は切れてしまった。松並の家から澤野が今いる場所までは、それなりの距離があるのに。心配してくれた? でもこっちももういい大人なのに。むしろ待ってる間に寝てしまったらどうしよう。こめかみの辺りを指で強く揉んで、眠気を覚ます。インクのような濃青に、花びらみたいなピンクや紫が少しずつ混ざっていく。歩道橋の下を急いでくぐり抜ける大型トラックたち。そういえば、松並の部屋に来るまではこの時間にこんな景色があることを知らなかった。
歩道に目をやると、松並が見えた。気付かないかもしれないな。そう思いながら手を振ると、向こうも大きく手を振り返す。澤野は階段を駆け下りて松並の元へ向かった。
「……なんか久しぶりにたくさん歩いた気がする。いい運動になるね」
そんなにポジティブな言葉を投げられても、返事に困る。そうですね、と素っ気ない澤野の言葉にも松並は拗ねる様子などない。
なんか動いたらお腹空いちゃった、と松並は機嫌の良い子供のように振る舞う。
「ファミレス入らない?」
「えー……今、思いきり寝間着なんで、ファミレスはちょっときついです……あと財布持ってないです」
「それくらいおごるよ。牛丼屋の朝定は? 今ならお客さん他に誰も居ないっぽいよ」
気にしなくていいから、と松並は笑う。
「お腹いっぱいになって眠くなっちゃったらどうしよう」
「そしたら僕がおぶって帰りますよ。大丈夫、大丈夫」
そう言って澤野の肩を叩く。なんでいつもこの人は、屈託なく笑えるんだろうな。なんとなく折れて頷いて、後をついていく。外食なんて、いつ以来だろう。少なくとも無職になってから初めてだ。
店に入るなり、いらっしゃいませと大きな声が飛んできて、怯んでしまう。今は一人で明るさや正しさを受け止める気力も体力もないから、松並が一緒で良かった。
サラダを頬張りながら小鉢の牛肉を白飯にかけ、ハムエッグを箸の先で割る。口の中ですり潰されていくキャベツの千切り。耳の奥にかすかに響く。生きてる、と思った。自分がもう死んでるのか生きてるのかわからないような、その狭間にあるような眠りの中にいるのではない。今この瞬間は確かに醒めて人間らしい営みをしている。卵の黄身が甘く感じる。
カウンター席の隣にいる松並は箸を止め、ふわあとあくびをして、はにかんだ。
「ありがとうございます」
「いいよ、安いもんですよこんなん」
自動ドアから鈍い光が忍び込む。一口一口を噛み締めながら、喉に込み上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
大きな交差点で信号を待つ間、始発の路面電車が通り抜けていく。湿気を含んだひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
「なんか目が覚めちゃって。そのうち帰ってくるかなって思ったんだけど、うまく眠れなくて」
信号が青に変わって、松並は左右を確認しながら横断歩道を渡る。
「自分以外誰もいない部屋で寝るのって、怖くない?」
ああ、そうですね。曖昧でありきたりな返事をしながら、澤野は歩幅を少し広げる。松並は自分にペースを合わせてくれているけれど、澤野にとってそれは少し早い。
「澤野さんが来る前、全然眠れなくなっちゃったから。また眠れなくなったらどうしようかと」
最初から誰もいないのと、誰かがいなくなったのでは、同じ一人きりでも違うのだろう。目の前に居なくても誰かいるってわかってれば安心して眠れる。
何にも脅かされなそうな人間の綻びは、甘い匂いがする。何層にも重なって弾力があるのに、真ん中にぽっかりと穴が空いている、バームクーヘンみたいな。
気のせいかと思ったけれどやっぱり雨で、髪が腕がスニーカーの爪先が、粉砂糖を振るったような柔らかな雨粒に覆われていく。
「コンビニで傘とか買います?」
「もう少しだからこのまま行こうよ。霧雨だから、濡れても平気」
「ていうか眼鏡見えてますか、それ」
澤野の指摘に笑いながら、松並は濡れた眼鏡をシャツの裾で拭いてかけ直すが、またすぐにレンズは水滴にまみれてしまう。
「どうせすぐにやむよ。薄日もさしてるし」
傘なんてささなくても平気。なんて贅沢なのだろう。
雨は正しい人にも正しくない人にも降り注ぐ。でも、屋根や傘に守られる人は限られている。松並は濡れずにいられそうなのに。自ら傘を閉じてしまっているような。
澤野にとっては、この程度の雨などなんでもない。ずっと、傘があっても役に立たないような嵐の中にいる気分だから。
それでも、なんとなく身体は軽い。松並の部屋を出た時は、スニーカーの重さを引き摺っていたはずなのに。
「澤野さん、今どこにいるの」
松並の声は、いつもの落ち着いたそれとは少し違って聞こえる。
「え、今、歩道橋……環状線の、ガソリンスタンドとコンビニがあって、近くに神社がある……」
「行くから待っててください」
「えっ、大丈夫ですよ、今すぐ帰りますから」
「僕が行くまで、そこにいてください」
少しうわずった声でそう言って、電話は切れてしまった。松並の家から澤野が今いる場所までは、それなりの距離があるのに。心配してくれた? でもこっちももういい大人なのに。むしろ待ってる間に寝てしまったらどうしよう。こめかみの辺りを指で強く揉んで、眠気を覚ます。インクのような濃青に、花びらみたいなピンクや紫が少しずつ混ざっていく。歩道橋の下を急いでくぐり抜ける大型トラックたち。そういえば、松並の部屋に来るまではこの時間にこんな景色があることを知らなかった。
歩道に目をやると、松並が見えた。気付かないかもしれないな。そう思いながら手を振ると、向こうも大きく手を振り返す。澤野は階段を駆け下りて松並の元へ向かった。
「……なんか久しぶりにたくさん歩いた気がする。いい運動になるね」
そんなにポジティブな言葉を投げられても、返事に困る。そうですね、と素っ気ない澤野の言葉にも松並は拗ねる様子などない。
なんか動いたらお腹空いちゃった、と松並は機嫌の良い子供のように振る舞う。
「ファミレス入らない?」
「えー……今、思いきり寝間着なんで、ファミレスはちょっときついです……あと財布持ってないです」
「それくらいおごるよ。牛丼屋の朝定は? 今ならお客さん他に誰も居ないっぽいよ」
気にしなくていいから、と松並は笑う。
「お腹いっぱいになって眠くなっちゃったらどうしよう」
「そしたら僕がおぶって帰りますよ。大丈夫、大丈夫」
そう言って澤野の肩を叩く。なんでいつもこの人は、屈託なく笑えるんだろうな。なんとなく折れて頷いて、後をついていく。外食なんて、いつ以来だろう。少なくとも無職になってから初めてだ。
店に入るなり、いらっしゃいませと大きな声が飛んできて、怯んでしまう。今は一人で明るさや正しさを受け止める気力も体力もないから、松並が一緒で良かった。
サラダを頬張りながら小鉢の牛肉を白飯にかけ、ハムエッグを箸の先で割る。口の中ですり潰されていくキャベツの千切り。耳の奥にかすかに響く。生きてる、と思った。自分がもう死んでるのか生きてるのかわからないような、その狭間にあるような眠りの中にいるのではない。今この瞬間は確かに醒めて人間らしい営みをしている。卵の黄身が甘く感じる。
カウンター席の隣にいる松並は箸を止め、ふわあとあくびをして、はにかんだ。
「ありがとうございます」
「いいよ、安いもんですよこんなん」
自動ドアから鈍い光が忍び込む。一口一口を噛み締めながら、喉に込み上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
大きな交差点で信号を待つ間、始発の路面電車が通り抜けていく。湿気を含んだひんやりとした空気が肌にまとわりつく。
「なんか目が覚めちゃって。そのうち帰ってくるかなって思ったんだけど、うまく眠れなくて」
信号が青に変わって、松並は左右を確認しながら横断歩道を渡る。
「自分以外誰もいない部屋で寝るのって、怖くない?」
ああ、そうですね。曖昧でありきたりな返事をしながら、澤野は歩幅を少し広げる。松並は自分にペースを合わせてくれているけれど、澤野にとってそれは少し早い。
「澤野さんが来る前、全然眠れなくなっちゃったから。また眠れなくなったらどうしようかと」
最初から誰もいないのと、誰かがいなくなったのでは、同じ一人きりでも違うのだろう。目の前に居なくても誰かいるってわかってれば安心して眠れる。
何にも脅かされなそうな人間の綻びは、甘い匂いがする。何層にも重なって弾力があるのに、真ん中にぽっかりと穴が空いている、バームクーヘンみたいな。
気のせいかと思ったけれどやっぱり雨で、髪が腕がスニーカーの爪先が、粉砂糖を振るったような柔らかな雨粒に覆われていく。
「コンビニで傘とか買います?」
「もう少しだからこのまま行こうよ。霧雨だから、濡れても平気」
「ていうか眼鏡見えてますか、それ」
澤野の指摘に笑いながら、松並は濡れた眼鏡をシャツの裾で拭いてかけ直すが、またすぐにレンズは水滴にまみれてしまう。
「どうせすぐにやむよ。薄日もさしてるし」
傘なんてささなくても平気。なんて贅沢なのだろう。
雨は正しい人にも正しくない人にも降り注ぐ。でも、屋根や傘に守られる人は限られている。松並は濡れずにいられそうなのに。自ら傘を閉じてしまっているような。
澤野にとっては、この程度の雨などなんでもない。ずっと、傘があっても役に立たないような嵐の中にいる気分だから。
それでも、なんとなく身体は軽い。松並の部屋を出た時は、スニーカーの重さを引き摺っていたはずなのに。
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