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体育館で行われた吹奏楽部のコンサートを撮り終えて、崇史は写真部の展示が行われているコンピューター室へと急ぐ。今から戻れば係の時間に間に合うだろう。去年の文化祭の時には自分が「写真部」という腕章を着け、カメラを持って校内を歩き回るなんて想像していなかった。最後の一年を最高の一年に。春に小谷野が告げた通りの一年を送れそうだ。
昇降口横の写真部の展示スペースには大きく引き伸ばされた写真が貼られている。
黄色のレインコートを着た幼い男の子が、海から上がったばかりのように濡れたシロナガスクジラ像に触れようと、一生懸命に柵から手を伸ばしている。男の子の溌剌とした表情がまぶしく、低い視線から上手く捕らえている。
その横には新聞の切り抜きと、A4サイズの紙に大きく印字された文字。
「写真部三年生・三好舞衣さんの作品が、全国コンテスト高校生の部にて佳作に選ばれました!」
新聞記事に載ったのは校名と名前だけだったが、誇らしげに蛍光マーカーが引かれている。
この結果に同じモチーフを撮っていた椎野は勿論悔しがったが、それ以上に悔しさを爆発させていたのは当の三好だった。これは彼女の思い描く「私らしい写真」じゃないからだそうだ。なので受賞するまで山井以外の写真部員誰一人として、この写真の存在を知らなかった。高校生らしさなんてどうでもいい、山井をモデルにしたポップでキュートな写真で評価されたい。というのが三好の主張なのだが。そもそもこの作品を賞に応募しようと薦めたのは、山井だった。雨の日の上野恩賜公園の撮影会の帰り道。愛らしいね、と何気なく撮った写真を山井はとても気に入って、これこそ評価されるべきと押し切ったのだという。
「あれでも本当は凄く喜んでいるんだよ。泣いちゃうくらい」
と山井はこっそり皆に教えてくれた。
庭を突っ切れば直接新校舎へ行けるのだけど、敢えて遠回りして旧校舎から渡り廊下を使う。螺旋階段を登りきった後、ふと思いついてカメラを向ける。暗いから露出を上げた方がいいんだっけ。ぎこちない手つきで、小谷野から借りた一眼レフカメラを操作する。階段の渦を覗き込むと、こちらを見上げながら登ってくる人影が見えて、シャッターを切った。そのたびに変わる表情を切り取るように、何度も、何度も。それから崇史の目の前まで辿り着くと、こちらに向けて写真を撮る。小谷野とファインダー越しに目が合って、笑いあう。まるでキスするみたいに、何度も互いを撮り合った。
小谷野はおやつがあるよ、と手に下げたビニール袋を見せる。
「さっき一年の教室の前通ったらさ、うちの部員たちに顧問なんだから買えって、強制的にドーナツ買わされてさ。何種類か味あるから好きなのどうぞ」
ちょうどお腹空いてた、と崇史は抹茶ドーナツを取り出し、歩きながら食べる。ちょっとデートっぽいのが嬉しい。
「あ、雑誌買ったよ。椎野も」
「椎野は親が定期購読してるって言ってたじゃん」
「俺も投稿する! って言ってた。もうゆるくない本気の部活になってしまう……」
「いいじゃん。おかげ様で来年の新歓でアピールすることが出来て良かった。もう運動部には負けてられない」
小谷野は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
今月発売された写真雑誌に「下校チャイム」と題された、放課後の校内の風景を撮った作品が、組み写真部門の一位として見開きページに大きく掲載された。……そう、五月の教室で崇史も撮られたあの写真たちだ。
三好は「こっちが佳作なのに先生が一位なんて、生徒より目立ってどうする」と言い、負けじと新しいアイデアを山井と練っていた。
「ようやくね、教師としてみんなに手本を見せられたなと思っているよ」
「世界史の先生じゃないですか。写真じゃなくて」
「いや、ほら、人間いくつになってもチャレンジできるんだよっていう……」
崇史の苦笑いに、小谷野は少し拗ねたような顔をする。何もかもが遠い大人だと思っていたけれど、近づいてみれば子供っぽいところもたくさんあるんだと気付いた。
渡り廊下につながる踊り場の壁に据えられた姿見の前で、崇史は立ち止まった。
「先生、ちょっとそこに立って」
崇史の命令通りに鏡を背にして立つと、崇史は自分も鏡に並んで写り込むようにして、写真を撮る。
「ああ、ツーショットで撮りたいのか。じゃあ、今度俺が撮るよ」
立ち位置を変えてまた同じ構図で撮り合った。
「撮られたり撮ったりするばかりだと、二人で写ってる写真ってないじゃん」
「あー、そうだね。なかなかないね。今度なんか考えて撮ろうか」
騒がしい飾り付けとけたたましい声の群れの中を撮影しながら通り抜け、写真部の展示が行われている、廊下の一番突き当たりの多目的教室へ向かう。
二年男子二人組と係員を交代し、小谷野は彼らにもご苦労さまとドーナツを配った。客が来ない、来ても無言で見て帰ってしまう教室はしんとして、ここだけ切り離された世界のようだ。
恒例のプリントとプロジェクターを利用した投影での写真展示の他に、今年はイベント的な企画があった。女子部員たちによって発案された、記念写真のフォトブース。背景布や可愛い小道具を揃えて、お客さんの記念写真を撮り、その場でプリントしてポストカードにするというものだ。設営の力仕事は男子に任されたが、三好が中心となってデザインした二種類のフォトブースは、かわいいと女の子のお客さんたちから評判のようだ。
額縁を模したパネルや、シフォンやリボンで作ったカーテン。造花やガーランドで飾られ、ピンク色のフラミンゴやティアラなどの小道具が並ぶ。そのどれもが、三好が山井を撮った作品で使われていたもの。二人だけの世界は煌めいていたけれど、他の場所へと続くドアを開けた世界も悪くない。
ちょうどお客さんがやってきた。自校と他校の制服を着た女の子三人組。一枚二百円ですと言うと、これで撮ってくださいとスマホを差し出された。
「形に残る写真にすれば、部屋に飾れるよ。想い出ってそうやって時々見返せると嬉しいよね」
と小谷野がセールストークをすると、どうする? と相談し始める。結果、人数分のプリント注文が入った。お客さんたちは並べられた小道具を、あれもこれも可愛いと迷いながら選び、色々なポーズを試している。
今日は年に一度の特別な日だから、他の人たちには負けないとびきり最高の思い出を作らなきゃいけない。そんな熱意とある種の義務感が伝わって来る。今までそういう人たちをどこか冷めて見ていたんだな、と崇史は気付かされた。レンズを通して、少しだけ違う世界が見られるようになった気がしている。
「じゃあ、三回撮ります。はい、チーズ」
小谷野がシャッターボタンを押し、撮った写真をパソコンでその場で見せて選んでもらう。プリントしたものを、カメラのイラストのスタンプが押された封筒に入れて渡した。ついでに展示も見ていってください、と呼びかけたものの素通りされて、なんだか悔しい。
設営の時に一通り見たのだけれど、サクラを装いながら展示作品をもう一度ゆっくり見て回る。崇史の撮った写真の中では、空を泳ぐこいのぼりの写真を一番大きく引き伸ばした。
展示スペースの一番隅に、写真雑誌のコピーと共に小谷野の作品も飾られている。俺のはいいよ、と小谷野は遠慮したのだが、部員全員で展示すべきと押し切った。小谷野の世界の一部として、自身の写真が飾られて鑑賞されている。それを誇らしく思う。もっといい写真がたくさんあるんですよ、と大声で言いたいのだけれど。二人だけの秘密にしたい気持ちもあるのだ。
「本当に進路希望、あれで良かったの?」
「とりあえず教職課程を取っておこうかと思って。だって社会人になったらデートする時間なくなるとかいうじゃないですか。僕がこの学校で働けば良くないですか」
「おまえなあ。理由より目的が先走るのはだめだって言ってるだろうが」
話している間に生徒の父母と思われるお客さんが来て、二人ともいらっしゃいませと、咄嗟によそ行きの笑顔を作る。
「そろそろ椎野が来るはずの時間なんだけど、遅いね」
連絡を取ろうと崇史がスマホを見ると、部活のグループチャットにメッセージが入っている。
「部長、クイ研のクイズ大会の撮影に行ったら参加させられてます。今準決勝!」
「とりあえず今、わたしが撮影してます」
「部長より、光村センパイに遅れるって連絡してだって」
一年女子からの報告を見て思わず、えっ! と声を上げてしまった。壇上で早押しボタンを押している写真付きだ。小谷野に画面を見せると、何やってんだよと笑い転げた。
「さっき先生が様子見に来てくれた。椎野が来るまでいてくれるって。大丈夫!」
と返信した。
「椎野、優勝するまで来なければいいのに」
「おまえなあ。でも、俺もちょっと見に行きたい」
「先生はここにいなきゃ」
受付係の机に二人で並んで座る。誰もいない隙に手を繋ごうと、小谷野の手に自身の手を伸ばしたら、叩くように払われた。
「だめだって。学校ではちゃんと先生と生徒の関係を守るって約束しただろ」
すみませんでした、と生返事をして少し拗ねながら、崇史は余っていた最後のドーナツに手を伸ばす。食べ始めてから、食べる前に写真を撮った方が良かったかなと気付く。
ねえ、とでも言うように小谷野が肘で軽く突いてきたので、機嫌を直して顔を見る。
「年明けは入試とかで俺忙しくなっちゃうからさ。どっかのタイミングで出かけようか。車でも借りて。日帰り出来るとこになっちゃうけど」
「うーん……写真撮れるとこがいいなあ。なんか問題になった時にさ、部活の指導の一環とか言い訳が立つじゃん」
「そうだね、考えといて」
そんな風に過ごしている内にまたお客さんが来たので、フォトブース撮影を売り込む。もうすぐ終わってしまう十代の、今この瞬間の楽しい気持ちを保存しようと、誰もがレンズに向かって笑顔を振りまく。大人になっても忘れないように。
「崇史、あとでさ」
「あっ、下の名前で呼んだ。学校では呼ばないって約束したじゃん」
「ちょっと間違えたんだよ」
「……間違っていいよ」
もっと間違えたらいいよ。
あれから何度も二人だけの時間を過ごして写真を撮ったけれども、崇史が望むような一線を越えてはくれない。あと何ヶ月かで卒業なんだから、それまでの我慢だ。先生と生徒じゃなくなれば自由だ、と思いながらも、もう小谷野のことを「先生」と呼べなくなるのも寂しいのだ。次の春が来るまで、教壇の上の先生を眺める生徒の立場を大事に過ごしたい。
校庭から突然、わーっと大きな歓声が上がる。何があったのかな、と小谷野は窓から様子を伺う。
どの瞬間も運命で、未来のための分岐点だったように思える。昨日持っていた未来と今日から先の未来は、違う未来だ。いつもと違う何かのせいで、未来なんて簡単に変わる。螺旋階段で目が合った瞬間、確かに運命だった。でもその運命をあのまま何もせずに放っておいていたら、枯れて無くなっていた。崇史が小谷野に写真を貰いに行かなければ、二人の未来は変わらず、ただの先生と生徒のままで卒業してしまっていた。運命が消えてしまわないように掴み取ったのだ。
この日々を彼をいつか失ってしまうとしても、忘れたくない一瞬一秒を彼がすべて記録してくれている。だから大丈夫。
「先生」
崇史の呼びかけに、何? と小谷野が振り向く。
「先生、好きです」
告白に笑顔で答える彼の愛しい瞬間を、写真に撮った。
昇降口横の写真部の展示スペースには大きく引き伸ばされた写真が貼られている。
黄色のレインコートを着た幼い男の子が、海から上がったばかりのように濡れたシロナガスクジラ像に触れようと、一生懸命に柵から手を伸ばしている。男の子の溌剌とした表情がまぶしく、低い視線から上手く捕らえている。
その横には新聞の切り抜きと、A4サイズの紙に大きく印字された文字。
「写真部三年生・三好舞衣さんの作品が、全国コンテスト高校生の部にて佳作に選ばれました!」
新聞記事に載ったのは校名と名前だけだったが、誇らしげに蛍光マーカーが引かれている。
この結果に同じモチーフを撮っていた椎野は勿論悔しがったが、それ以上に悔しさを爆発させていたのは当の三好だった。これは彼女の思い描く「私らしい写真」じゃないからだそうだ。なので受賞するまで山井以外の写真部員誰一人として、この写真の存在を知らなかった。高校生らしさなんてどうでもいい、山井をモデルにしたポップでキュートな写真で評価されたい。というのが三好の主張なのだが。そもそもこの作品を賞に応募しようと薦めたのは、山井だった。雨の日の上野恩賜公園の撮影会の帰り道。愛らしいね、と何気なく撮った写真を山井はとても気に入って、これこそ評価されるべきと押し切ったのだという。
「あれでも本当は凄く喜んでいるんだよ。泣いちゃうくらい」
と山井はこっそり皆に教えてくれた。
庭を突っ切れば直接新校舎へ行けるのだけど、敢えて遠回りして旧校舎から渡り廊下を使う。螺旋階段を登りきった後、ふと思いついてカメラを向ける。暗いから露出を上げた方がいいんだっけ。ぎこちない手つきで、小谷野から借りた一眼レフカメラを操作する。階段の渦を覗き込むと、こちらを見上げながら登ってくる人影が見えて、シャッターを切った。そのたびに変わる表情を切り取るように、何度も、何度も。それから崇史の目の前まで辿り着くと、こちらに向けて写真を撮る。小谷野とファインダー越しに目が合って、笑いあう。まるでキスするみたいに、何度も互いを撮り合った。
小谷野はおやつがあるよ、と手に下げたビニール袋を見せる。
「さっき一年の教室の前通ったらさ、うちの部員たちに顧問なんだから買えって、強制的にドーナツ買わされてさ。何種類か味あるから好きなのどうぞ」
ちょうどお腹空いてた、と崇史は抹茶ドーナツを取り出し、歩きながら食べる。ちょっとデートっぽいのが嬉しい。
「あ、雑誌買ったよ。椎野も」
「椎野は親が定期購読してるって言ってたじゃん」
「俺も投稿する! って言ってた。もうゆるくない本気の部活になってしまう……」
「いいじゃん。おかげ様で来年の新歓でアピールすることが出来て良かった。もう運動部には負けてられない」
小谷野は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
今月発売された写真雑誌に「下校チャイム」と題された、放課後の校内の風景を撮った作品が、組み写真部門の一位として見開きページに大きく掲載された。……そう、五月の教室で崇史も撮られたあの写真たちだ。
三好は「こっちが佳作なのに先生が一位なんて、生徒より目立ってどうする」と言い、負けじと新しいアイデアを山井と練っていた。
「ようやくね、教師としてみんなに手本を見せられたなと思っているよ」
「世界史の先生じゃないですか。写真じゃなくて」
「いや、ほら、人間いくつになってもチャレンジできるんだよっていう……」
崇史の苦笑いに、小谷野は少し拗ねたような顔をする。何もかもが遠い大人だと思っていたけれど、近づいてみれば子供っぽいところもたくさんあるんだと気付いた。
渡り廊下につながる踊り場の壁に据えられた姿見の前で、崇史は立ち止まった。
「先生、ちょっとそこに立って」
崇史の命令通りに鏡を背にして立つと、崇史は自分も鏡に並んで写り込むようにして、写真を撮る。
「ああ、ツーショットで撮りたいのか。じゃあ、今度俺が撮るよ」
立ち位置を変えてまた同じ構図で撮り合った。
「撮られたり撮ったりするばかりだと、二人で写ってる写真ってないじゃん」
「あー、そうだね。なかなかないね。今度なんか考えて撮ろうか」
騒がしい飾り付けとけたたましい声の群れの中を撮影しながら通り抜け、写真部の展示が行われている、廊下の一番突き当たりの多目的教室へ向かう。
二年男子二人組と係員を交代し、小谷野は彼らにもご苦労さまとドーナツを配った。客が来ない、来ても無言で見て帰ってしまう教室はしんとして、ここだけ切り離された世界のようだ。
恒例のプリントとプロジェクターを利用した投影での写真展示の他に、今年はイベント的な企画があった。女子部員たちによって発案された、記念写真のフォトブース。背景布や可愛い小道具を揃えて、お客さんの記念写真を撮り、その場でプリントしてポストカードにするというものだ。設営の力仕事は男子に任されたが、三好が中心となってデザインした二種類のフォトブースは、かわいいと女の子のお客さんたちから評判のようだ。
額縁を模したパネルや、シフォンやリボンで作ったカーテン。造花やガーランドで飾られ、ピンク色のフラミンゴやティアラなどの小道具が並ぶ。そのどれもが、三好が山井を撮った作品で使われていたもの。二人だけの世界は煌めいていたけれど、他の場所へと続くドアを開けた世界も悪くない。
ちょうどお客さんがやってきた。自校と他校の制服を着た女の子三人組。一枚二百円ですと言うと、これで撮ってくださいとスマホを差し出された。
「形に残る写真にすれば、部屋に飾れるよ。想い出ってそうやって時々見返せると嬉しいよね」
と小谷野がセールストークをすると、どうする? と相談し始める。結果、人数分のプリント注文が入った。お客さんたちは並べられた小道具を、あれもこれも可愛いと迷いながら選び、色々なポーズを試している。
今日は年に一度の特別な日だから、他の人たちには負けないとびきり最高の思い出を作らなきゃいけない。そんな熱意とある種の義務感が伝わって来る。今までそういう人たちをどこか冷めて見ていたんだな、と崇史は気付かされた。レンズを通して、少しだけ違う世界が見られるようになった気がしている。
「じゃあ、三回撮ります。はい、チーズ」
小谷野がシャッターボタンを押し、撮った写真をパソコンでその場で見せて選んでもらう。プリントしたものを、カメラのイラストのスタンプが押された封筒に入れて渡した。ついでに展示も見ていってください、と呼びかけたものの素通りされて、なんだか悔しい。
設営の時に一通り見たのだけれど、サクラを装いながら展示作品をもう一度ゆっくり見て回る。崇史の撮った写真の中では、空を泳ぐこいのぼりの写真を一番大きく引き伸ばした。
展示スペースの一番隅に、写真雑誌のコピーと共に小谷野の作品も飾られている。俺のはいいよ、と小谷野は遠慮したのだが、部員全員で展示すべきと押し切った。小谷野の世界の一部として、自身の写真が飾られて鑑賞されている。それを誇らしく思う。もっといい写真がたくさんあるんですよ、と大声で言いたいのだけれど。二人だけの秘密にしたい気持ちもあるのだ。
「本当に進路希望、あれで良かったの?」
「とりあえず教職課程を取っておこうかと思って。だって社会人になったらデートする時間なくなるとかいうじゃないですか。僕がこの学校で働けば良くないですか」
「おまえなあ。理由より目的が先走るのはだめだって言ってるだろうが」
話している間に生徒の父母と思われるお客さんが来て、二人ともいらっしゃいませと、咄嗟によそ行きの笑顔を作る。
「そろそろ椎野が来るはずの時間なんだけど、遅いね」
連絡を取ろうと崇史がスマホを見ると、部活のグループチャットにメッセージが入っている。
「部長、クイ研のクイズ大会の撮影に行ったら参加させられてます。今準決勝!」
「とりあえず今、わたしが撮影してます」
「部長より、光村センパイに遅れるって連絡してだって」
一年女子からの報告を見て思わず、えっ! と声を上げてしまった。壇上で早押しボタンを押している写真付きだ。小谷野に画面を見せると、何やってんだよと笑い転げた。
「さっき先生が様子見に来てくれた。椎野が来るまでいてくれるって。大丈夫!」
と返信した。
「椎野、優勝するまで来なければいいのに」
「おまえなあ。でも、俺もちょっと見に行きたい」
「先生はここにいなきゃ」
受付係の机に二人で並んで座る。誰もいない隙に手を繋ごうと、小谷野の手に自身の手を伸ばしたら、叩くように払われた。
「だめだって。学校ではちゃんと先生と生徒の関係を守るって約束しただろ」
すみませんでした、と生返事をして少し拗ねながら、崇史は余っていた最後のドーナツに手を伸ばす。食べ始めてから、食べる前に写真を撮った方が良かったかなと気付く。
ねえ、とでも言うように小谷野が肘で軽く突いてきたので、機嫌を直して顔を見る。
「年明けは入試とかで俺忙しくなっちゃうからさ。どっかのタイミングで出かけようか。車でも借りて。日帰り出来るとこになっちゃうけど」
「うーん……写真撮れるとこがいいなあ。なんか問題になった時にさ、部活の指導の一環とか言い訳が立つじゃん」
「そうだね、考えといて」
そんな風に過ごしている内にまたお客さんが来たので、フォトブース撮影を売り込む。もうすぐ終わってしまう十代の、今この瞬間の楽しい気持ちを保存しようと、誰もがレンズに向かって笑顔を振りまく。大人になっても忘れないように。
「崇史、あとでさ」
「あっ、下の名前で呼んだ。学校では呼ばないって約束したじゃん」
「ちょっと間違えたんだよ」
「……間違っていいよ」
もっと間違えたらいいよ。
あれから何度も二人だけの時間を過ごして写真を撮ったけれども、崇史が望むような一線を越えてはくれない。あと何ヶ月かで卒業なんだから、それまでの我慢だ。先生と生徒じゃなくなれば自由だ、と思いながらも、もう小谷野のことを「先生」と呼べなくなるのも寂しいのだ。次の春が来るまで、教壇の上の先生を眺める生徒の立場を大事に過ごしたい。
校庭から突然、わーっと大きな歓声が上がる。何があったのかな、と小谷野は窓から様子を伺う。
どの瞬間も運命で、未来のための分岐点だったように思える。昨日持っていた未来と今日から先の未来は、違う未来だ。いつもと違う何かのせいで、未来なんて簡単に変わる。螺旋階段で目が合った瞬間、確かに運命だった。でもその運命をあのまま何もせずに放っておいていたら、枯れて無くなっていた。崇史が小谷野に写真を貰いに行かなければ、二人の未来は変わらず、ただの先生と生徒のままで卒業してしまっていた。運命が消えてしまわないように掴み取ったのだ。
この日々を彼をいつか失ってしまうとしても、忘れたくない一瞬一秒を彼がすべて記録してくれている。だから大丈夫。
「先生」
崇史の呼びかけに、何? と小谷野が振り向く。
「先生、好きです」
告白に笑顔で答える彼の愛しい瞬間を、写真に撮った。
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