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#05

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「これから行ってもいい?」
「いいけどお昼食べた? まだなら用意するよ」
 電話の向こうの声は崇史とは対照的に、とても落ち着いていた。何度も迷って緊張しながらかけたのに。余裕を見せられて少し悔しい。課題のプリント提出した? と言うのと同じような調子。そうだ、もうすぐ期末テストだった。休日の電車では、崇史と同じ年頃の子たちが制服姿で参考書に見入っている。おそらく模擬試験があるのだろう。受験がないからこんなことしてられるのかな。少々の罪悪感を抱きつつ、顔を寄せ合って一つの参考書を覗く男女が羨ましくも思える。誰にも見つからないように陰に隠れてでしか逢えない。この関係を誰かに知られてはならない。良い写真なのに、誰にも見せられない。校則にはない禁止事項の数々。これから好きな人に逢いに行くというのに、どこか切ない気分になる。だがその気持ちも、アパートのドアを開けられた途端に薄らいだ。
「ごめん、うどん茹でようと思ったんだけど、麺つゆ切れてた。コンビニ行ってくるから待ってて」
 裸足にサンダル姿で財布をポケットに突っ込んで、小谷野は崇史と入れ替わりに出て行ってしまった。
 あまりの慌しさに呆気にとられたが、今この部屋を独占していると思うと嬉しくなる。クーラーが弱く効いた部屋で大の字に寝転がると、ベッドの下にプラスチックのケースがいくつか置かれているのが見えた。這いつくばって覗いてみると、フィルムや現像された写真が入っているようだ。帰ってくるまでの間だけと、覗き見の気分でその中の一つを開けたことを、崇史はすぐに後悔した。
 中に入っていた写真はおそらく、小谷野ではない別の誰かが撮ったものだろう。そこに写っていたのは、若き日の小谷野の姿だったからだ。カメラを向ける誰かに対して微笑み、拗ねたような顔を見せ、物思いに耽るような繊細さも隠さない。その相手にベッドに放り出した裸体を撮影することを許している。そして同じようにカメラを相手に向け、その相手の彼も小谷野に向かって全てを曝していた。
 明らかに見るべきものではないものを見てしまった罪悪感が、崇史の首をゆっくりと絞めてくる。汗で濡れたTシャツが急速に冷えていく。すぐにケースを閉めたいと思っているのに閉められない。写真の中の小谷野から、相手の男から目が離せない。苦しいのに、何故だか食い入るように見てしまう。眼球が乾いていく。玄関から鍵を回す音がして我に返り、慌ててケースを元の場所へ押し込んだ。
「遅くなってごめんね、ついでだからスーパーまで行って天ぷら買ってきた」
 うどんを茹で始める小谷野の明るい声に、後ろめたさが増す。崇史はただ黙って座っていることが苦痛で、テーブルを拭いたりお茶を用意したり。手伝ってくれていると思っているのだろうが、本当は気を紛らわしたいだけなのだ。
 テーブルを挟んで向かい合う、その距離にも困惑する。もっと近づきたかったはずなのに。どうしてもさっき見た写真が頭の中にちらついてしまう。
「こんなにしていただいて、ありがとうございます……」
「どうしたの、急に改まって。モデル代だと思ってたくさん食べなさい。育ち盛りなんだから」
 小谷野はいつもの調子で、崇史が過去を開けてしまったなんて全く想像もしていないだろう。それがかえって辛かった。現場を発見されて怒られた方がよっぽどマシだったかもしれない。箸を持つ手のひらに、じんわりと汗が染み出してくる。
 あれがきっと、いや絶対に。昔の恋人だ。先生だってもういい歳なんだからそういう人が過去に何人かいてもおかしくない。でもあの写真の相手はおそらく、元恋人だとかそんな簡単な言葉で片付けられる存在ではない。知らなければ自分が特別なままで入られた。撮らずにはいられない運命の瞬間を与えられるのは自分だけだと、崇史は信じていた。自分にはあんな風に先生を撮れない。あんな表情を向けてくれるとは思えない。自分は運命を感じても、相手はそうじゃなかったら。彼こそが正に運命の人だったのではないか。
 他の生徒よりも先生を、先生という殻を脱いだ小谷野浩介のことを、よく知っているつもりだった。でもその皮膚の下に隠れる部分にまだ触れられていない。互いの間にそびえるフェンスは想像より高い。向こう側は見えるけれど、触れたら電流が走る。
 何も知らない小谷野は、いつも通り崇史にカメラを向ける。休日の午後に食卓を囲む穏やかな時間。そのはずなのに、シャッターを切られるたびに目線を逸らした。食べてるとこ撮られるのは恥ずかしい、と笑ってはいたが。その瞬間もさっき見た写真が脳裏に焼きついていた。
 少し食休みをした後、今日はちょっと場所を変えてみようとバスルームで撮影をすることになった。洗面台の鏡を使ったり、顔を洗ってみたり。浴槽の中に半分ほど水を張って足を浸したりと、指示されるままにポーズをとるのだが。不安と焦りのせいか小谷野のイメージが上手く受け取れず、「光」のようにやろうと思っても、頭の中に彼女が入り込む隙がない。今までどうやって撮られていたのかが思い出せない。
「どうしたの。今日は調子良くない?」
「そういうわけじゃないけど……」
 小谷野はカメラを置いて、崇史のそばに寄り添う。前髪の分け目を直してくれるその指が、今は触れられるだけで怖い。良い表情を出せないと撮ってもらえなくなるのでは。被写体として用がなくなってしまうのでは。崇史の不安は一層色濃くなる。大事な場所が奪われてしまう。この動揺を隠し通さないと。なのにどうしても、さっき見た写真が頭の中から離れない。あんな風に愛されたいのに。目を閉じて深呼吸する。自分は、どんな姿を撮ってもらいたい?
 本能にのみ従って、水の中に身体を沈める。すると崇史の意思に応えるように、水の中を漂う髪や濡れた身体にレンズが向けられる。ぬるい水と身体が一体になるような快感。鼓動と体温がゆっくりと上がっていく。狭い水槽の中で飼われる魚のように身を曲げくねらせる度に、その姿が写真に収められた。
 小谷野は満足そうな顔で、崇史の頭を撫でる。その手の温度に溶かされて、何度も吐き出しそうになりながら飲み込んだ言葉が流れ落ちた。
「……ヌードを撮ってください」
 何言ってんだ、と小谷野は笑って受け流そうとしたが。黙り込む崇史の表情を見て、それが冗談ではないと察した。
「おまえ、自分が何言ってるかわかってる?」
「わかってます。服の下も、全部撮ってもらいたいんです。僕の全部を見てもらいたいんです」
 これこそが紛れもない純真だというように崇史は顔を上げ、真っ直ぐ小谷野の顔を見つめた。小谷野の瞳の中に自分の顔が確かに写っているのに、見てもらえていない。見られるためにあるはずのこの身体を、何も。
「光村、もうここに来るな」
 いつもよりもずっと低い声で、うまく聞き取れなかった。聞き取れなかった、というのは間違いで、耳に入れることを拒否していた。
「俺が間違ってた。おまえはまだ子供だから、守らなきゃいけない立場だった」
「もう高三ですよ。子供じゃないです。自分で自分のこと決められます」
「駄目だって。俺とお前は、友達にはなれない。教師と教え子であるべきだった。おまえにこんなこと言わせたのは、俺のせいだ」
「そんな……コウくんのせいなはずないじゃないですか。二人の間だけで撮ってる写真だし、誰にも見せないって約束します」
 崇史は必死に食い下がる。
「無理だよ。まだ子供だろ。俺の立場や気持ちも考えられないようじゃ、まだ子供って言われても仕方ないと思うよ。大体、おまえがいくら何もないって主張しても、十八歳未満の子供を裸にして同じ部屋にいたら、俺が捕まるんだよ。たとえおまえが自ら望んでそうしたとしても」
 そういう法律があると頭ではわかってる。でも崇史にはどうしても納得出来ない。
「もし誰かが悪いのだとしたら、最初に僕の写真を撮った瞬間から、共犯でしょう。二人でしたことなのに、僕だけが責められないのはおかしい……。自分の都合良く、もう大人だからまだ子供だからって使い分けてるだけじゃないですか。そんなのずるいです」
 顔を濡らすのが、涙なのか水滴なのか、もうわからない。頬を顎を伝って、はたはたと水滴が落ちていく。
「もう辞めよう、こういうの」
 小谷野はひりついた声で言う。
「写真を撮ったことが間違いだったなんて、絶対言わないで下さい。今この瞬間しかないって思ったから撮ったんでしょう。写真ってそういうものだって言ってましたよね。カメラは永遠にしたい一瞬を捕まえる為の機械だって。そういう瞬間は、理性とか道徳とか考えてたら逃げちゃいます。僕は、大人になる前の僕を撮って欲しいんです。それはコウくんの目で見ている世界じゃなきゃダメなんです」
 崇史は強い口調で半分怒鳴るように言い、濡れた手で小谷野の腕を掴んだ。さっきと同じ体温のはずなのに、何かに隔たれたように伝わってこない。それだけが唯一の真実だと信じていたはずの視線は、もう二度とこちらを見ない。
「……じゃあ、大人になったら、ヌードを撮ってくれますか?」
「その時にお互いそうしたいって思ってたらな」
「僕はそう思ってます」
「人なんてものはね、簡単に変わるよ。今これが楽しいって思っていても、いずれ飽きるし捨てる日が来る。大人と付き合うとかこういう写真とか……物珍しさから惹かれてるだけじゃないのか」
「そういう話聞くの、二回目ですよ。僕は違います。コウくんを好きな気持ちは大人になるまでずっと変わらないし、撮ってもらいたいって思います。絶対に。シャッター押さずにはいられない写真、僕が絶対撮らせますから。ちゃんと撮って欲しいんです」
「みんな自分だけは違うって思うんだ」
 もうこれ以上話しても無駄だ。何を言っても堂々巡りだ。それを受け入れざるをえなくて、涙が滲んできた。いっそ嫌だと駄々をこねて暴れまわれる子供なら良かったのかもしれない。大人じゃないと認めてもらえないから、我慢するしかない。崇史は唇をぐっと噛み締める。
 舌からこぼれ落ちるのは、いつでも今言うべき言葉ではない。だけど心の底から望んでいることには間違いない。何もかもがもどかしく、だけど他に術を知らない。どうしたらわかってもらえるのか。
「大人とか先生だとかそういう立場を全部捨てた、小谷野浩介としてはどう思ってるんですか。それだけ教えてください」
 いくら待っても答えは返ってこなかった。あんなにも心地好かった静寂が、ゆっくりと首を絞めてくる。感情も願いも、皆粉々になっていく。静かな浴室では、ため息すらも反響する。涙はこみ上げてくるのに瞳から溢れることはなかった。
 小谷野の部屋を去る際に、振り返るような気力もなかった。
「今まで撮った写真、捨てないでください」
 崇史の願いに、わかった、と小谷野は小さく返事をした。
 距離を置かれたことは絶望そのものだが、正直少し安堵した。今朝までの崇史なら、先生と会えなくなるなんてと不貞腐れただろう。だが、今は違う。学校でなら学校用の自分を見せていればいいので誤魔化せる。被写体としては、カメラの前に立ちたくない。
 家に着くまでの間ずっと、地面を足で踏んでいる感覚がなかった。濡れた衣服が入ったスーパーのビニール袋の重さが、崇史を酷く惨めにさせる。帰りの電車の中、余計な情報を入れたくなくて目を瞑った。このまま家を通り越して、どこか遠くへ運ばれてしまいたい。そう願った。
「暑いから夕飯は冷たいうどんでいいよね?」
 帰宅すると台所から母親に呼びかけられる。昼もうどんだったんだけど、と崇史は言いかけて止めた。何処で食べてきただの、親に根掘り葉掘り聞かれたくないし、上手い嘘も思いつかない。なすとピーマンの肉味噌炒め、祖母が作ったぬか漬け、オクラと納豆が居間の座卓に広げられている。天ぷらじゃなくて良かった。見慣れたいつもの風景が、この家の中で崇史が振舞うべき姿を思い出させてくれる。せめて家族の前だけは、何事もなかったように。暑さのせいだけではなく、頭が重い気がする。絶望というには軽く、でも充分に重い。
 ふと、アイスを食べ忘れたことを思い出した。アーモンドクランチがまぶしてあるチョコレートがかかったアイスクリーム。冷凍庫の中から出されずに、そのまま永遠に凍っていてほしい。



 期末テストは午前中だけで終わり、帰りに平井とファミレスに寄った。明日もあるテストの勉強をするための時間ではあるが、放課後も土日も部活ばかりで会えない友達と遊べる貴重な時間だ。
「何食べる?」
「うーん、なんでもいいかなあ……とりあえず平井と同じのでいい」
「じゃあ、ハンバーグセットを二つ」
「ハンバーグのソースはデミグラス、チーズ、トマト、和風おろしがございますが、どれになさいますか?」
 店員の業務用の笑顔につられて笑いながら、心の中では高速でルーレットを回して止められなくて放り投げていた。
「……同じのでいいです」
 こんなにたくさんあっても選べない。ドリンクバーの飲み物も選べなくて、機械の前で立ち往生する。小谷野の前にいる時のように、ああしたいこうしたいが上手く出てこない。好きなものを自分で決めるって、何て面倒なのだろう。これでは子供扱いされても仕方ないのか。ふと頭の中に小谷野とのことが雨雲のように立ち込めて、掻き消すために慌てていつもの自分を装う。
 写真見せてー、とせがまれ、この間上野に行った時の写真をまとめたアルバムを見せた。
「ちゃんとしてんじゃん。もう趣味は写真ですって言っていいよ」
 履歴書書く時困らないね、と平井は笑った。
 高校に入ったばかりの頃、放課後何もすることがないと言う崇史に、平井はアルバイトでもしたらいいと勧めてくれたのだが。履歴書の趣味・特技の欄に書くことが何も思いつかず、志望動機も一語も書けずにそのまま放り出してしまったのだった。書こうと思えばいくらでも相手が気にいるような嘘はつけるのだけど、その嘘を守る努力をするのが面倒なのだ。これからは写真と書けるな、と崇史も満足した。
「平井は趣味訊かれたら、トロンボーンって言ってんの?」
「そうだよー。だって他にないじゃん」
「大学入っても、社会人になっても続ける?」
「たぶん、ていうか出来ればそうしたいかなー」
 平井がそう話す言葉が簡単に出てきたものではないと、崇史は知っていた。
 ちょうど一年前の今頃、平井は吹奏楽部を辞めた。退部していく他の部員たちと同じような理由、毎日毎日休みなく練習漬けと競争の生活に、疲れてしまったのだという。数ヶ月間は崇史たちと一緒に放課後遊び歩いていたが、ある日突然やっぱり部活に戻ると言い出して坊主頭にした。反省の意を示すためなのだろう。正直、吹奏楽部に髪型は関係ないのではないかと崇史は思ったのだが。顧問と部長に頭を下げに行き、平井は再入部が許可された。その騒動もあって、おそらく卒業までコンクールメンバーには選んでもらえない、と平井は言う。辛いとわかっている場所にわざわざ戻るなんて、崇史には理解できなかった。でも今は少しわかる気がするのだ。どうしても諦められない「好き」のため。それだけが自分に呼吸をさせてくれる。一回手放したくらいで忘れられるものなんて、運命じゃない。諦めたくないから、自らの手で取り戻さなくてはならないのだ。
「テスト終わったら、甲子園の地区予選の応援だよ。出場決まったら夏休み返上」
「いいじゃん、晴れの舞台なんだから。テレビ映るかもしれないし。僕は暇な夏休みを過ごすよ」
「部活ないの?」
「ないよ。各自好きに写真を撮りましょう、みたいな感じで緩いから。みんな遠出して撮影したり、機材買うためにバイトするって」
「じゃあ、崇史もバイトでもすればいいんじゃね?」
 と平井が笑う。付け合わせのコーンが上手くフォークで拾えなくて苦戦しながら、そうしようかな、と条件反射のように返す。そうは言っても、やりたいバイトもどんなバイトが向いているのかもわからないのだ。自分は本当にただ漫然と生きてるだけなんだな、と崇史は項垂れる。
 写真部にいる目的はもうないのだから、辞めてもいいのかもしれない。だけどそれも違う気がした。その理由で辞めてしまうのは他の部員たちに対してあまりに不誠実だ。それに、あの閃光のような瞬間が手に入らなくても、それを探して写真を撮るのは楽しかった。小谷野に逢いたいからではなく、写真を撮りたいから写真部に残ろう。それでいいじゃん、と崇史は心の中で自分に頷いた。
 駅と商業施設を結ぶデッキを歩いていると、片側にだけ人が集まっていて、皆一様にスマホをかざしている。何かあるのか? とその方向を見ると、夕陽を浴びて赤く染まる見事な積乱雲があった。振り向いて反対側を見ると、もう日が落ちて紫から群青色になりつつある。なるほどな、と皆と同じようにデッキから、平井はスマホで崇史はデジカメで写真を撮る。普通に夕日が綺麗だなあと眺めていたら、何やってんのと笑われそうだけれど。写真に撮るという大義名分があれば、美しいものに美しいと素直に反応することが許されるのかもしれない。カメラがあって良かった。
 崇史が場所や角度を変えて何枚も撮っていると、本気だねと平井がからかう。
「本気だよ。だって写真部だからね」
 口にしたら、この気持ちは本物だと思えた。
 崇史が家へ帰ると、冷蔵庫にケーキがあるわよと母親が台所から呼びかけてくる。まだ玄関で靴を脱いでいるのに。
「さっきまで、おねえちゃんが来てたのよ。お友達とハワイに行くんだって、トランク借りに来てたの。お土産にケーキ買ってきてくれたんだけど、それがね……」
 目の前の崇史の動向も反応も一切気にしない様子で、母親はおしゃべりを続ける。トランクって、あのピンクのやつか。
 数ヶ月前の修学旅行で、崇史は次姉のお下がりのトランクを使うことに抵抗した。男なのにピンク色のトランクなんか使いたくないと必死で粘ったが、やはり新しいものは買ってはもらえなかった。弟がお下がりで使うとわかっているはずなのに、自分の好き勝手にサーモンピンクなんて選びやがって。この世の終わりかのように落胆し、旅行の間なるべく視界に入れないように努め、一生恨んでやるとすら思った。なのに、そんなことすっかり頭から抜け落ちていた。あんなに深刻に悩んでいたはずなのに、ゆで卵の殻をむくが如くつるんと忘れてしまっていた。過ぎ去ってしまえば、どうでもいいことになってしまう。こんな風に簡単に、先生を好きだったってことを半年一年もすれば忘れてしまう?
 嘘だ、忘れるわけがない。そう思いたいんだけど、でも。
 忘れないために写真に撮って残してるはずなのになあ。お土産のチーズケーキを手掴みで食べながら、母親の話など完全に上の空で考え込んでいた。これなら期末テストの問題のほうが簡単だ、と思ったところで小谷野との約束を思い出した。成績は落とさないこと、というあの約束は、部屋に入れなくなった今でもまだ有効だろうか。とりあえず、やるしかないのだ。小谷野に自分を認めさせるためには。明日は世界史のテストだ。文句を言わせない点数を出してやる。
 居間を覗くと、三きょうだいが一枚のタオルケットに身を寄せて昼寝をしている。その横で祖父も居眠りをしている。畳に広げられた読みかけの新聞。首を振る扇風機。庭の百日紅の花。疎ましかったはずの日常が、今ではどれもが写真に撮りたいモチーフだ。簡単に見逃してしまっていた空の色も、街路樹も車窓の景色も、縁側に映る影も。以前よりも世界が輝いて見える。どのように光が差して、物が配置されているかを気に留めるようになった。同じような一日を繰り返しているだけと思えた日々も、空に浮かぶ雲のように一日として同じものがない。その目に映る一つ一つを、採集するような気持ちでそっと写真に撮る。何ヶ月か前の崇史には考えられなかったことで、それまでの自分はもうどこかへ置いてきてしまった。
 でもある日突然変わったわけではないと思う。螺旋階段で目が合ったあの瞬間から、ドミノが倒れていくように今に繋がっているのだ。
 先生のせいですよ。声に出さずに、そうつぶやいた。
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