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#03
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そろそろ梅雨入りの時期のはずだが晴れの続く日曜日。写真部一同は撮影会のために上野駅のパンダ橋口に集合した。駅構内の賑わいとは変わり、少し落ち着いた人の流れを見守るように、巨大なパンダ像がそびえ立っている。
「かなり離れないとジャイアントパンダが全部入らないんだけど」
「無理に全身入れなくてもアップで撮ればいいじゃん」
せっかく来たんだから全身撮りたいのに、とカメラを構えた崇史は構図に悩んでいる。近寄ってアップで撮ろうとしても、ガラスケースに自分の姿が映りこんでしまって思うように撮れない。色の濃い服を着ると防げるよ、とアドバイスしてくれた三好も椎野も黒に近い色の服を着ている。
「反射を抑える偏光フィルターもあるんだよ」
と、三好がレンズに付けたフィルターを外して見せてくれた。試し撮りしたパンダをモニタで見せてもらうと、崇史が撮ったものとは違ってくっきりと写っている。
「俺、シロナガスクジラ撮るつもりで来たんだけど、どの角度から入れようかな」
「なにそれ」
「科学博物館に実物大の模型があるんだよ。モノクロで重厚感ある感じに撮りたくってさ」
椎野が言うには博物館は十八歳未満は無料なので何度も来ているらしく、無料の内に通ってたくさん撮っておきたいということだった。
スポーツ特待生の人たちだけが特別な人種だと思っていた。彼らもまた、写真という競技の選手なのだ。崇史には見えていないだけで、こんな風に未来をまっすぐ見れている人たちがもっといるのだろう。今まで何やってたんだろう、と少しだけ恥ずかしくなる。違う世界の話だと切り離してしまうのではなく、少し挑戦してみようという気になった。彼らのようになれば、小谷野がどんな気持ちで崇史にレンズを向けたのかを知れそうだから。霧の向こうにあるぼんやりした言葉ばかりの未来は、待っていれば時が経って必ず訪れるものだと思っていた。今は、見えなくても進まなくてはいけない気がしている。
待ち合わせ時間の十時になっても小谷野は来ない。とりあえず一年女子と三年女子は動物園、二年生は上野検車区、椎野は建物が撮りたいと各々撮影計画を話し合う。来る途中で考えておけば良かったな、と崇史がスマホで上野恩賜公園と検索し始めると、椎野が駅で貰ってきたパンフレットをくれた。それから十分ほど遅れてようやく小谷野がやってきた。
「先生遅いよ! 顧問でしょ!」
怒る三好に、申し訳ないと手を合わせる。
「ごめん、悪かった。ちょうど出かけようとしたら宅配便が来てさあ。で、みんなどの辺回るか決まった?」
「グループに分かれてこの辺を散策しながら撮影ということで。例年通り昼過ぎに一旦集合で良いですよね」
椎野は部長らしく皆をまとめて、じゃあ行きましょうと歩き出す。他の部員たちが抱えているカメラは立派で重たそうだ。崇史は自分の手の中のコンパクトカメラと見比べる。先生のカメラも立派だったよな、と横を歩く小谷野を見遣る。ポロシャツとパンツで教壇に立つ姿ではなく、ボーダーのTシャツにジーンズ。いつもより緩んだ雰囲気で、先生のはずなのに先生じゃないようだ。小谷野は崇史の視線に気付き、目が合ってはにかんだ。
「先生もボーダーとか着るんだって思って」
「そら着るよ。先生にもね、学校じゃない場所で君らの先生ではない時間がありますからね」
小谷野はなぜか得意げに言う。
「今は先生率は何パーセントくらいですか」
「えー? 半分くらい?」
急いで来たのだろう、こめかみに汗が滲んでいる。先生が先生らしくない、普段着の部分をもっと見てみたい。
公園に到着し、各自決めていた場所へ移動を始めた。
「一緒に回る? それとも自分で考える?」
椎野にそう尋ねられ、崇史は公園の地図を広げて、もうちょっと考えると返した。椎野と回ればきっと同じ場所で同じものを撮ってしまうだろう。それは出来を比べられそうなので避けたかった。いつもその場しのぎで決めてきたけれど、自分の意思でこういう理由で決めました、と答えられるようにしたい。そうでないといつまでも一回り下の甥姪たちと同列に子供扱いされてしまう。
一人残された崇史は、もう目を瞑って指差した場所に行こうという気になりかけていたのだが。それを見かねたのか、小谷野は一緒に回ろうかと助け船を出してくれた。
「とりあえず上野東照宮のぼたん園に行ってみようか」
小谷野に誘われ、大きな石灯籠がいくつも立ち並ぶ参道を歩く。薄暗い中に木漏れ日が差して、重厚な石灯籠に淡く煌めく光がハイライトのように当たっている。
「三脚持って来れば良かったな。失敗した」
と独り言ちながら、小谷野はカメラを構えて露出を調整し始める。へえ、と最初は完全に傍観してしまっていて、途中で気付いて慌てて崇史もカメラを出した。
それからぼたん園へ向かったのだが。残念ながらぼたんの旬は過ぎていて閉園していた。ごめんね、と謝られるのも逆に申し訳ないくらいだ。別のところ行きましょうと、たっぷりの新緑に囲まれた中を歩く。薄曇りで蒸し暑いが、やや強い風が吹いていて気持ちが良い。小谷野が立ち止まって木漏れ日を撮影しているので、崇史もそれに倣って撮った。日曜日だからか、同じようにカメラを抱えた人たちと何人もすれ違う。カメラをやってる人がいっぱいいるのだと、崇史は自分が写真を撮るようになってから初めて気が付いた。本格的に三脚を立てて撮影している中高年や、ちょこまかと走る子供を撮影する若い父親。僕らの関係性はどう映るんだろうと、崇史は小谷野の顔を見上げる。不意にまた目が合って、なに? と笑いかけられる。
不忍池に着くと、大きな池一面を隙間なく蓮の葉が覆っていた。つぼみらしきものは見えるけれども、咲くまでにはもう少しかかりそうだ。
「蓮の花の見頃は来月だから、まだ早かったね」
海のように広がる緑の葉の向こうに銀色に鈍く光るビル群が見えて、少し面白いなと思い崇史はシャッターを切った。思ったようにはうまく撮れないけれど、撮りたいというものを見つけて撮ったという達成感はある。まるで探していたものを捕まえたような。
せっかく来たんだからと弁天堂でお参りをして、おみくじをひいた。
「先生なんだった?」
と崇史が尋ねても、小谷野は無言で首を振って結び所に結び付けていたので、おそらく凶だったのだろう。ほら、ほら、と崇史が自分の大吉のおみくじを自慢げに見せる。
「学問は、『安心して勉学せよ』だって。おみくじもこう言ってるんだから、しっかり勉強しないと」
「してますよ。それなりに。争事は『思いのまヽに勝つ』って書いてあるし」
恋愛の項を見ると「一線を越えるな」と書かれている。越えなきゃしょうがないじゃん、と崇史は口を尖らせた。教師と教え子という境界線を飛び越えなければ、この人は手に入らない。おみくじに書かれている運勢よりも、螺旋階段で感じた運命を信じる。
ボート池の端には手漕ぎボートたちが整列して静かに出番を待ち構えている。白だけではなく黄色やピンクのカラフルな白鳥のボートたちが優雅に池を泳ぐ。
「代金くらい出してやるよ。乗る?」
「先生ボート漕げるの?」
「漕いだことないからスワンボートだよ」
絶対嫌だ、と半笑いで受け流す。風に揺れる柳の葉、陽の光が当たってきらめく水面。結構絵になるね、と池の周りを歩きながら何枚も撮れた。崇史がスワンボートにズームインさせると、若いカップルが笑い合いながらボートを漕いでいる。デートだろうか。乗りたいって言えば良かったかな、と今更ながら思う。
弁天池の対岸まで来ると、弁天堂の六角形のお堂が良く見える。ベンチで休憩がてら、次はどこへ行こうかと地図を広げた。見せて、と崇史の手の中の地図を小谷野が覗き込む。髪が頬に触れそうな近さで、少し緊張してしまう。教室の一番前の席よりもずっと近い。その気になればこんな距離も手に入れられるし、偶然を装って触れることも出来る。そう思ったら心拍数が上がるのを感じた。
「公園の反対側になっちゃうけど東京国立博物館に行ってみようか。ここなら色んな建物があるし屋外展示もあるから……」
「えっ、ああ、それで良いと思います」
うわの空だったことをごまかすように、ペットボトルの炭酸水を一気に飲んだ。飲んでも飲んでも喉が乾くのは、蒸し暑さのせいだけではない。ふと気付くとさっきよりも重い雲がかかっている。
「なんとなく降りそうですね」
ぽつぽつと雨粒が当たった気がして崇史が空を見上げると、雨が目に入った。途端、大きな雨粒がばらばらと音を立てて降り始めた。
「やばい、カメラ濡れた。早く戻ろう」
急かされるように、小谷野に腕を引かれる。周囲に雨宿りできるような建物を見つけられず、二人は慌てて弁天堂まで走り階段を駆け上った。一息つく間もなく小谷野は急いでカメラからバッテリーとメモリーカードを抜き、レンズを取り外し、タオルでカメラを細い溝まで必死に拭いている。先生濡れたままだよ、と崇史が自分のタオルで小谷野の頭や腕を拭いてやると、ハッとしたように顔を上げた。
「眼鏡までびしょ濡れですよ」
その指摘に小谷野は照れ隠しのように変な笑い方をしながら、眼鏡を外した。濡れたTシャツを乾かそうと気休めに扇いだり、髪から垂れる雨しずくを拭いたり。見え隠れする素の部分を、生徒の前では先生であろうとする部分が押し殺そうとしていて、崇史にはそれがもどかしい。
椎野に連絡すると、折りたたみ傘を持っているからここまで来てくれるとのことだった。女子たちもカフェで雨宿り中、二年男子も無事らしい。とりあえず今日は解散して、後日部活で作品発表するということになった。
「みんな大丈夫かな」
「まあ、もう大人だから大丈夫だろ。そう信じてなきゃ生徒に自由行動なんか任せられませんよ」
私服で二人きりで学校じゃなくても。生徒と先生であるのは何だか寂しい。先生、と呼びかけるのは心地好いが、そう呼んでいるうちはそれ以外の関係はありえないのだろう。
「空から雨が降ってくるところって撮れないんですかね。カメラが濡れちゃうからダメかな」
「なかなか難しいね。背景が暗くないと雨は写らないから、空に向けるのは……逆に高いところから雨が落ちていく様子を撮るとか。あとは何かが雨に濡れて雫が垂れている様子とか、道や水面に雨が当たって飛沫が跳ねてる様子を撮るのも、雨の表現としてわかりやすいかな」
「あー、なるほど。直接そのものを撮るんじゃなくてもいいんですね」
あれもいいんじゃない、と小谷野が指した先には、軒先から滴る雨粒が見える。崇史が自分のカメラで撮ろうとすると、シャッター速度を遅くしたほうがいいよと設定してくれた。
カメラのことになると少し前のめりになる。教室の教壇に立っている時とは違う顔。さらにもう少し先の顔を見たい。そのためのタイミングを、シャッターチャンスを崇史は待ち構えている。
しばらくして、売店で買ったビニール傘を手にした椎野がやってきた。すっかり濡れた崇史たちの姿を見て、着替えも必要だったねと。
「売り切れちゃってて、一本しか買えなかった。今朝の天気予報で、ゲリラ豪雨に注意って言ってたのに」
少し呆れたような顔をする椎野に、悪いね、と小谷野は傘代を払う。少し多かったようで、椎野が返そうとすると、お駄賃にとっておきなさいと制した。
「おつかいしてくれたからね。ジュースでも買いなさい。他の生徒には内緒だよ」
そのやりとりを見て崇史の胸は雲で陰った。自分だけをえこひいきして欲しいのではなく、他の生徒にも同じように優しい先生でいて欲しいのだけど。嫉妬するようなことでもないのに感情を抑えられない自分に腹が立つ。
椎野はもう少し博物館を見て回りたいらしく、そこで別れた。
「光村って家どこだっけ?」
小谷野に訊かれて駅名を答えると、結構遠いねと難しい顔をされた。こんなに濡れててタクシーもなあ……、と小谷野は頭を捻る。
「とりあえずうちに来なさい。着替え貸してあげるから。そのままじゃ風邪ひくだろ」
駅までビニール傘に身を寄せあって歩く。片手でカメラバッグを抱きかかえ、片手で傘を持つ小谷野の手から、僕が持ちますと崇史は傘を奪う。俺の方が年上だからと傘を取ろうとする小谷野の手をかわし、傘の柄をぎゅっと握った。庇護されるだけの立場ではなく、背伸びをしてでも対等になりたい。先生にとってはたくさんいる受け持ちの生徒の内の一人に過ぎないとわかっている。でも今は生徒じゃなくて、ただ一人の人間として見て欲しいのだ。
崇史が電車のドアにもたれかかり、雨粒が打ちつける窓の外をぼんやり眺めていると、視線を感じた。こっち見てるって、ガラスに映ってますよ。そう言って振り返るのは容易いが、今はこの瞬間を楽しみたかった。見てる。撮りたがってる。その視線を感じるのが心地好い。
「残念だったね。写真、あんまり撮れなくて」
「また来ます。次は蓮の季節にでも」
「蓮の花は朝早くじゃないと撮れないよ。光村に早起きが出来るかなあ」
「出来ますよ。僕、遅刻したことなんか一度もないですよ」
そうだったね、と小谷野が笑う。電車の冷房が寒くて崇史はくしゃみをした。
乗り換え駅のホームでちょっと待ってて、と小谷野が売店へ向かう。買ってきたのは折り畳み傘と温かいお茶。払います、と言ったがやはりお金は受け取ってもらえなかった。大人ってずるい。早く大人になりたい。崇史は手渡されたペットボトルをぎゅっと握りしめた。
最寄駅についてもまだ雨足は強いままだった。電車に乗る前のような斜め降りではないのだが、ざあざあと音を立てていることには変わりない。横断歩道に大きな水たまりができていて、一歩踏むごとにキャンバス地のスニーカーに雨が染み込んでくるのがわかる。
ようやく小谷野の自宅アパートに辿り着いた。
「今、足拭く雑巾用意するから」
と慌てる小谷野を、大丈夫ですよと制して、崇史は自分のタオルを取り出して濡れた足を拭く。
一人暮らしの人の家って、初めて来た。姉二人が同居しているアパートへ遊びに行ったことはあるが、雰囲気が違う。華やかさがなく簡素な、大人の男の人の一人暮らしの部屋。崇史が部屋を見回していると、
「風邪ひいちゃうから早くシャワー浴びて着替えなさい。さっきくしゃみしてただろ」
と小谷野に促される。冷えた身体には熱く感じるシャワーを浴びながら、他の生徒をこの部屋に上げたことがあるんだろうか? という疑問が頭をもたげた。崇史が入学する前から小谷野は教師をやっていたのだ。写真部員や他のクラスの生徒を連れてきたことがあってもおかしくない。今のこの扱いは特別でも何でもなく、教え子の面倒を見るのは当たり前という前提で成り立っているのかもしれない。少し気を落としつつ、バスルームのドアを開けると着替えが用意されていたが、タオルがない。
「先生、バスタオル貸してください」
「待って待って、今用意するから」
風呂場の扉の向こうにばたばたと動く影が見える。それが何だか愛おしい。崇史がTシャツとハーフパンツに着替えて部屋の中を見渡すと、小谷野は玄関で靴の中に詰める新聞紙を丸めていた。かいがいしく世話を焼いてくれるのは、きっと生徒だからだろう。
「それくらい僕がやっておきます。先生もシャワー浴びてきてください。風邪ひきますから」
崇史は肩にかけていたバスタオルを小谷野に差し出した。
小谷野がシャワーを浴びている間、こっそり部屋の隅々を覗いてみる。いけないことをしているのだが、少し楽しい。ダイニングの小さなテーブルの上に置かれたチャック付きポリ袋の中には、カメラと乾燥剤が入れられている。濡れたカメラを乾かしているのだろう。奥のリビングの本棚は受け持ちの授業、世界史に関する本が多いのだが。下段にはぎっしりと写真集が詰め込まれている。小谷野先生と先生じゃない時の小谷野がきっとここには全部ある。
部屋の隅のパソコンデスクには、アクリル板で挟む形式の写真立てが置かれていた。アーチ状の柱と天球型の天井を見上げた写真。青と白を基調とした細かい模様が入った壁と、建物内に差し込む光が美しい。派手な置物がないシックな部屋の中で、これだけが明るい色を放っている。写真立てを裏返してみるとポストカードになっており、切手が貼られているので誰かから送られてきたものだろう。しかし小谷野の住所と名前だけで、何のメッセージも書かれていない。
「写真、気に入った?」
背後からいきなり声をかけられ、崇史は驚き慌てて写真立てを元に戻そうとしたが、デスクの上で倒してしまいそのまま落下してしまった。ごめんなさい、と謝りながら拾おうとすると、小谷野に先に拾われてしまった。
「これはイスタンブールのスルタンアフメット・ジャミィだよ。イスタンブールがどこの国かはさすがにわかるよね」
「トルコでしょう。オスマン帝国ですよね」
「そうそう、ちゃんと授業聞いてんじゃん。これが建てられたのもオスマン帝国時代で、世界で一番美しいモスクって言われてるんだって」
お腹空いちゃったね、そろそろお昼食べようか、と小谷野は何事もなかったように写真立てをそっとデスクに戻す。
「なんか買ってくれば良かったね」
「別に何でもいいですよ」
崇史は返事をしながらも、写真のことがまだ気になっていた。送り主であろう人物のサインもあったが、ローマ字で荒々しく書かれたそれは、一瞬では読み取れなかった。わざわざ飾るということは、よっぽど親しい間柄なのだろうか。プロになった知り合いがいると以前話していたのは、この人なのかもしれない。先生じゃない素の部分の、さらに知らない部分。容易には触れされてもらえないことはわかっている。近づくための方法よりも、授業の問答の方がよっぽど簡単かもしれない。
窓の外からさあさあと雨音が聞こえる。二人が外にいた時より雨足はだいぶ弱まったようで、少しだけ空が明るくなってきた。日曜日なのに静かで、窓から漏れる弱い光は時間の感覚を失わせる。
「まだ雨止まないですね」
崇史が窓際に置かれたベッドの上に乗って外の様子を眺めてると、背後に気配と視線を感じた。見ている、見られている。何度も感じたこの視線の先にある感情が、一体何か知っている。このまま放っておいたらいけない。
「……撮っていいですよ」
驚くほどなめらかに、舌の上からこぼれた。
「撮らずにはいられない瞬間なら、いくらでも撮って構わないですから。僕はそういう先生の写真が見たいんです」
放課後の教室で好きだと言ってしまった時とは違う、はっきりと自覚した言葉を吐いた。これこそが彼の、そして自分自身の望みなのだ。互いに隠してきたものに光を当てる時が来た。
少しの沈黙の後、小谷野はゆっくりと口を開いた。
「今カメラ用意するから、そのままでいて」
あっちのカメラのレンズ方が、と乾燥中のカメラを気にしつつも。ぐずぐずしていたらこの瞬間を逃してしまう。小谷野はベッド下に仕舞ったケースからサブのカメラを急いで取り出し、撮影機材の準備を始めた。
それを待つ間、崇史の身体は緊張のせいか突然強張り始めた。なんでもないふりしないと。恥ずかしいとか怖いとか、そんなそぶりを見せちゃ駄目だ。落ち着こうと思い息を整えたいのだけれど、上手く出来ない。今までどうやって自然に呼吸をしてたのか思い出せない。首の後ろにじわりと汗が滲む。
カメラのセッティングが終わったのか、小谷野が近づいてきて思わず息を止めた。身体を覆うレースのカーテンを少し直して、撮影が始まった。シャッターの音がする度に、緊張の糸はするすると解れていく。意識がだんだんと平坦になって、身体から離れていくような感じがした。写真を撮られて、魂を抜かれている。なのに感覚だけが研ぎ澄まされていく。視線が身体のどこを這っているのかわかる。
「身体、もうちょっとだけこっち向けて。そう、そのくらい」
小谷野は感情を察せない声で、指示を出してくる。もう少し伏し目がちにして。首を四十五度くらい傾けて。授業の時みたいに淡々と、こうしてああしてと言うから、崇史はそれに従ってしまう。縛られてもいないのに、身体が締め付けられる感じがする。触れられてもいないのに、柔らかく撫でられているような気がする。体験したことのない感覚。必要以上の言葉は何も交わさないまま、シャッターボタンだけが押されていく。一枚一枚、写真におさまる度に感情が溶けていく。
雨の音も外を走る車の音も、もう何も聞こえない。シャッターの音以外は。この身体は、彼に撮られるために存在している。
何でもいい誰でもいい、じゃない。この人がいい。この人のためにこれをしたい。それがはっきりとわかった瞬間に、さっきまでの自分とは違う生き物に変化したように思えた。放っておいたらだらだらとどこかへ流れ出してしまうような、形の定まらなかったものが、この一瞬であるべき形に固まった。そんな気がした。
「もうお昼にしよう」
不意に終わりを告げられ、なんだか物足りない。置いてけぼりにされて行き場を失った感情を、どこにぶつけたら良いのかわからず、崇史は不貞腐れた。本棚に並んだ写真集が目について、台所に立つ小谷野に見てもいいか呼びかけると、こちらを振り向かずに返事をされた。さっきまで上がっていた体温が、ゆっくりと下がっていく。
ハードカバーの写真集は手に重く、ページをめくる度に指紋がつかないように慎重にならざるをえない。いわゆる写真家の作品集というものを初めて見る崇史にとっては、名前やタイトルだけを見ても全くピンとこない。だが、その中に広がる世界には引力を感じる。自分の家族にポーズをとらせて作り上げた写真。モデルの妻との日常を閉じ込めた写真。亡き妻と愛猫との最後の日々を追った写真。どれも被写体への惜しみない愛情が伝わって来る。女性のヌードを、性を感じる肉体ではなくオブジェのように撮る作品には、芸術としての美しさとはこういうものだと教えられる。
そして、パートナーのヌードを撮った作品が何作もあり、崇史は驚く。恋人や妻とはいえ、カメラの前に裸体を晒し、それを作品として公開されるのはどんな気分なのだろうか。それとも写真家を愛したからにはどんな姿でも撮られて構わない、という覚悟の上で成り立つ信頼関係か。……さっきまでの自分の感情は、どういうものだっただろうか。それこそどんな姿でも、と感じていた。あの感覚を、と頭の奥の方から引き摺り出そうとするのだけれど、一人ではうまくいかない。
ふと、棚の一番端に目立たぬように背表紙を棚の奥に向けて差し込まれた写真集があるのに気づいた。一体なんだ? と引き抜くと、表紙の写真に一瞬にして目と心を奪われた。ベッドの端に座り顔を背ける白いワンピース姿の少女。それだけなのに強いインパクトを残す。中を開けると、不安定さと強さがないまぜになったような視線をこちらに投げかけてくる。何故だかいけないものを見てしまったような気がして、そっと元に戻した。
「光村、ご飯できたよ」
振り返って呼びかける声に驚いて、慌てて何も悪いことなどしていませんという顔を作った。
「コーヒー飲める?」
「カフェオレなら」
じゃあ牛乳入れてやろう、と小谷野は並んだマグカップに牛乳を注ぐ。本当のことを言わずにコーヒーが飲めると言えば良かったと、崇史は少し後悔した。なんだか自分をまだ子供だと認めてしまったような気がした。
小谷野が昼食に作ってくれたナポリタンは、てっぺんに目玉焼きがのっていた。母親が作るそれとは違う、少し出来の悪い黄身が固い目玉焼き。フォークで混ぜほぐしながら食べる。
「美味しいです」
「ありがとう。でも申し訳ないけど、これレトルトのソースだよ」
「作ってくれただけでもありがたいです」
テーブルひとつ分を挟んで向き合う。食べながら上目遣いで見ると目が合って、互いに少しはにかむ。春の面談の時のように逸らされるようなことはない。小谷野の瞳にはたしかに崇史が映っている。
食べ終わって二杯目のカフェオレを飲みながら、ベッドにもたれかかると視線を感じた。その瞬間を待っていた。準備はできている。
「……いい?」
「いいですよ。わざわざ訊かなくても」
ベッドの上に仰向けに寝転んで足を三角に立てる。カーテンの隙間から入り込んだ淡い光がちょうど顔当たって、目を細める。横を向いたり、腕を上げたり。撮られるほどに、頭の中も胸の奥も濾過したように透明になっていくようだ。気持ち良い。もっとこうしていたい。頭の奥から身体の隅々から、じわっと甘いシロップのようなものが滲み出ていく。そんな感じがする。
「足もう少しだけ開ける? ベッドの外の方に」
小谷野の指先がくるぶしに触れて、身体中がざわりと揺れた。恥ずかしくなって崇史は顔を壁際に向けたが、小谷野は気にせず撮り続ける。それから何カットか撮影した後、もう終わりにしようということになった。
デジタルのいいとこって撮ってすぐ見れるとこだよね、と小谷野はパソコンの画面に先程撮ったばかりの写真の一覧を出した。一枚ずつ表示して出来を確かめていく。カーテンレースの向こうに立つ横顔は、逆光で顔がわからない。自分の背中なんて初めて見た。見たことのない部分が白日に晒されていく。どの写真も映っているのは自分なのに自分ではないような気がした。ここに写っているのは周囲が知っている崇史ではない。崇史も知らない、小谷野の心の中だけにいる崇史なのだ。確かにあった現実を写しているはずなのに、そうではない特別なものに感じられた。こんな写真はきっと他の誰も撮れない。誰にも奪わせたくないものを持つのって、こういう気持ちなんだ。崇史はさっき触れられたくるぶしが熱くなるのを感じた。
「嫌だったらすぐ消すからね」
「先生が撮った写真ですから。消したい写真なんか一枚もないです」
もっと撮ってください。何度も言うタイミングを探ったが、その一言はなかなか口に出せずにいた。
いつの間にか雨は上がって、窓の外はまぶしいほどの夕陽が射している。あ、虹。と小谷野が指差した方を見ると、オレンジとピンクの混ざった空に、大きな虹が出ている。崇史は慌てて自分のカメラを取り出し写真を撮った。小谷野もまた、もう消えそうなその虹を真剣にカメラのモニタでチェックしながら撮る。崇史はどうしてもさっき見た写真集が気になって、その隙に本棚からそっと抜き取りリュックに隠した。
帰り道は小谷野が駅まで送ってくれた。裸足で履いたスニーカーはまだきもち湿っぽい。小谷野は時々立ち止まって、雲の端に紫が混ざったオレンジ色の空を撮っている。虹はもう消えちゃったのかな、なんて言いながら。ずっと上を向いたままカメラを構えて歩く小谷野に「先生、後ろから車来てます」と呼びかける。あぶなかった、と車を避けながら子供みたいな顔で照れ笑いをする。ふと目に止まった水たまりに夕暮れの空が映っているのに気付いて、また撮り始める。どの角度がいいか探ったり、崇史にそこに立ってと指示を出して影を写り込ませたり。オレンジ色に染まる横顔。崇史の方を向いてくれていなくても、夢中になっている小谷野を見るのは何だか楽しい。空を撮るふりをして、小谷野の写真を何枚も撮った。
駅の改札で、また明日学校でと別れる際に、崇史は立ち止まった。
「また先生の部屋に、写真集見に来てもいいですか」
崇史は小谷野の目ををじっと見る。
「……生徒と教師が親密になりすぎるのは問題があるよ。校外で私的に会うことは禁止って決まりがあるから」
小谷野は子供をあやすように崇史の頭をぽんと撫でる。さっきまでのカメラを通したやり取りが、まるで存在しなかったようなそぶりで。大人の言い訳で体よく断るなよ。悔しくなってリュックの肩紐をぎゅっと握る。
「先生の下の名前って何だっけ? 浩介だっけ? じゃあ、コウくんって呼んでいい?」
思いもよらない崇史の言葉に小谷野は目を丸くした。
「コウくん、友達になろうよ。先生と生徒じゃなくて、友達としてだったら部屋に上がってもいいでしょう」
崇史自身も酷いこじつけだと思ったのだが、ここで諦めたくない一心で、咄嗟に出たのがそれだった。
「学校ではちゃんと先生と生徒の関係を守ります。先生の部屋だけの秘密にするって約束します」
少しの沈黙の後、小谷野は根負けしたのか、いいよと頷いた。
「絶対に約束を守ること。遅くなる前に帰ること。あと成績は下げないこと。守れる?」
「大丈夫! 絶対守ります」
満足そうな笑顔に、小谷野は一瞬怯えた。すっかりと晴れ渡っているのに、嵐の種が潜んでいる予感がした。
「かなり離れないとジャイアントパンダが全部入らないんだけど」
「無理に全身入れなくてもアップで撮ればいいじゃん」
せっかく来たんだから全身撮りたいのに、とカメラを構えた崇史は構図に悩んでいる。近寄ってアップで撮ろうとしても、ガラスケースに自分の姿が映りこんでしまって思うように撮れない。色の濃い服を着ると防げるよ、とアドバイスしてくれた三好も椎野も黒に近い色の服を着ている。
「反射を抑える偏光フィルターもあるんだよ」
と、三好がレンズに付けたフィルターを外して見せてくれた。試し撮りしたパンダをモニタで見せてもらうと、崇史が撮ったものとは違ってくっきりと写っている。
「俺、シロナガスクジラ撮るつもりで来たんだけど、どの角度から入れようかな」
「なにそれ」
「科学博物館に実物大の模型があるんだよ。モノクロで重厚感ある感じに撮りたくってさ」
椎野が言うには博物館は十八歳未満は無料なので何度も来ているらしく、無料の内に通ってたくさん撮っておきたいということだった。
スポーツ特待生の人たちだけが特別な人種だと思っていた。彼らもまた、写真という競技の選手なのだ。崇史には見えていないだけで、こんな風に未来をまっすぐ見れている人たちがもっといるのだろう。今まで何やってたんだろう、と少しだけ恥ずかしくなる。違う世界の話だと切り離してしまうのではなく、少し挑戦してみようという気になった。彼らのようになれば、小谷野がどんな気持ちで崇史にレンズを向けたのかを知れそうだから。霧の向こうにあるぼんやりした言葉ばかりの未来は、待っていれば時が経って必ず訪れるものだと思っていた。今は、見えなくても進まなくてはいけない気がしている。
待ち合わせ時間の十時になっても小谷野は来ない。とりあえず一年女子と三年女子は動物園、二年生は上野検車区、椎野は建物が撮りたいと各々撮影計画を話し合う。来る途中で考えておけば良かったな、と崇史がスマホで上野恩賜公園と検索し始めると、椎野が駅で貰ってきたパンフレットをくれた。それから十分ほど遅れてようやく小谷野がやってきた。
「先生遅いよ! 顧問でしょ!」
怒る三好に、申し訳ないと手を合わせる。
「ごめん、悪かった。ちょうど出かけようとしたら宅配便が来てさあ。で、みんなどの辺回るか決まった?」
「グループに分かれてこの辺を散策しながら撮影ということで。例年通り昼過ぎに一旦集合で良いですよね」
椎野は部長らしく皆をまとめて、じゃあ行きましょうと歩き出す。他の部員たちが抱えているカメラは立派で重たそうだ。崇史は自分の手の中のコンパクトカメラと見比べる。先生のカメラも立派だったよな、と横を歩く小谷野を見遣る。ポロシャツとパンツで教壇に立つ姿ではなく、ボーダーのTシャツにジーンズ。いつもより緩んだ雰囲気で、先生のはずなのに先生じゃないようだ。小谷野は崇史の視線に気付き、目が合ってはにかんだ。
「先生もボーダーとか着るんだって思って」
「そら着るよ。先生にもね、学校じゃない場所で君らの先生ではない時間がありますからね」
小谷野はなぜか得意げに言う。
「今は先生率は何パーセントくらいですか」
「えー? 半分くらい?」
急いで来たのだろう、こめかみに汗が滲んでいる。先生が先生らしくない、普段着の部分をもっと見てみたい。
公園に到着し、各自決めていた場所へ移動を始めた。
「一緒に回る? それとも自分で考える?」
椎野にそう尋ねられ、崇史は公園の地図を広げて、もうちょっと考えると返した。椎野と回ればきっと同じ場所で同じものを撮ってしまうだろう。それは出来を比べられそうなので避けたかった。いつもその場しのぎで決めてきたけれど、自分の意思でこういう理由で決めました、と答えられるようにしたい。そうでないといつまでも一回り下の甥姪たちと同列に子供扱いされてしまう。
一人残された崇史は、もう目を瞑って指差した場所に行こうという気になりかけていたのだが。それを見かねたのか、小谷野は一緒に回ろうかと助け船を出してくれた。
「とりあえず上野東照宮のぼたん園に行ってみようか」
小谷野に誘われ、大きな石灯籠がいくつも立ち並ぶ参道を歩く。薄暗い中に木漏れ日が差して、重厚な石灯籠に淡く煌めく光がハイライトのように当たっている。
「三脚持って来れば良かったな。失敗した」
と独り言ちながら、小谷野はカメラを構えて露出を調整し始める。へえ、と最初は完全に傍観してしまっていて、途中で気付いて慌てて崇史もカメラを出した。
それからぼたん園へ向かったのだが。残念ながらぼたんの旬は過ぎていて閉園していた。ごめんね、と謝られるのも逆に申し訳ないくらいだ。別のところ行きましょうと、たっぷりの新緑に囲まれた中を歩く。薄曇りで蒸し暑いが、やや強い風が吹いていて気持ちが良い。小谷野が立ち止まって木漏れ日を撮影しているので、崇史もそれに倣って撮った。日曜日だからか、同じようにカメラを抱えた人たちと何人もすれ違う。カメラをやってる人がいっぱいいるのだと、崇史は自分が写真を撮るようになってから初めて気が付いた。本格的に三脚を立てて撮影している中高年や、ちょこまかと走る子供を撮影する若い父親。僕らの関係性はどう映るんだろうと、崇史は小谷野の顔を見上げる。不意にまた目が合って、なに? と笑いかけられる。
不忍池に着くと、大きな池一面を隙間なく蓮の葉が覆っていた。つぼみらしきものは見えるけれども、咲くまでにはもう少しかかりそうだ。
「蓮の花の見頃は来月だから、まだ早かったね」
海のように広がる緑の葉の向こうに銀色に鈍く光るビル群が見えて、少し面白いなと思い崇史はシャッターを切った。思ったようにはうまく撮れないけれど、撮りたいというものを見つけて撮ったという達成感はある。まるで探していたものを捕まえたような。
せっかく来たんだからと弁天堂でお参りをして、おみくじをひいた。
「先生なんだった?」
と崇史が尋ねても、小谷野は無言で首を振って結び所に結び付けていたので、おそらく凶だったのだろう。ほら、ほら、と崇史が自分の大吉のおみくじを自慢げに見せる。
「学問は、『安心して勉学せよ』だって。おみくじもこう言ってるんだから、しっかり勉強しないと」
「してますよ。それなりに。争事は『思いのまヽに勝つ』って書いてあるし」
恋愛の項を見ると「一線を越えるな」と書かれている。越えなきゃしょうがないじゃん、と崇史は口を尖らせた。教師と教え子という境界線を飛び越えなければ、この人は手に入らない。おみくじに書かれている運勢よりも、螺旋階段で感じた運命を信じる。
ボート池の端には手漕ぎボートたちが整列して静かに出番を待ち構えている。白だけではなく黄色やピンクのカラフルな白鳥のボートたちが優雅に池を泳ぐ。
「代金くらい出してやるよ。乗る?」
「先生ボート漕げるの?」
「漕いだことないからスワンボートだよ」
絶対嫌だ、と半笑いで受け流す。風に揺れる柳の葉、陽の光が当たってきらめく水面。結構絵になるね、と池の周りを歩きながら何枚も撮れた。崇史がスワンボートにズームインさせると、若いカップルが笑い合いながらボートを漕いでいる。デートだろうか。乗りたいって言えば良かったかな、と今更ながら思う。
弁天池の対岸まで来ると、弁天堂の六角形のお堂が良く見える。ベンチで休憩がてら、次はどこへ行こうかと地図を広げた。見せて、と崇史の手の中の地図を小谷野が覗き込む。髪が頬に触れそうな近さで、少し緊張してしまう。教室の一番前の席よりもずっと近い。その気になればこんな距離も手に入れられるし、偶然を装って触れることも出来る。そう思ったら心拍数が上がるのを感じた。
「公園の反対側になっちゃうけど東京国立博物館に行ってみようか。ここなら色んな建物があるし屋外展示もあるから……」
「えっ、ああ、それで良いと思います」
うわの空だったことをごまかすように、ペットボトルの炭酸水を一気に飲んだ。飲んでも飲んでも喉が乾くのは、蒸し暑さのせいだけではない。ふと気付くとさっきよりも重い雲がかかっている。
「なんとなく降りそうですね」
ぽつぽつと雨粒が当たった気がして崇史が空を見上げると、雨が目に入った。途端、大きな雨粒がばらばらと音を立てて降り始めた。
「やばい、カメラ濡れた。早く戻ろう」
急かされるように、小谷野に腕を引かれる。周囲に雨宿りできるような建物を見つけられず、二人は慌てて弁天堂まで走り階段を駆け上った。一息つく間もなく小谷野は急いでカメラからバッテリーとメモリーカードを抜き、レンズを取り外し、タオルでカメラを細い溝まで必死に拭いている。先生濡れたままだよ、と崇史が自分のタオルで小谷野の頭や腕を拭いてやると、ハッとしたように顔を上げた。
「眼鏡までびしょ濡れですよ」
その指摘に小谷野は照れ隠しのように変な笑い方をしながら、眼鏡を外した。濡れたTシャツを乾かそうと気休めに扇いだり、髪から垂れる雨しずくを拭いたり。見え隠れする素の部分を、生徒の前では先生であろうとする部分が押し殺そうとしていて、崇史にはそれがもどかしい。
椎野に連絡すると、折りたたみ傘を持っているからここまで来てくれるとのことだった。女子たちもカフェで雨宿り中、二年男子も無事らしい。とりあえず今日は解散して、後日部活で作品発表するということになった。
「みんな大丈夫かな」
「まあ、もう大人だから大丈夫だろ。そう信じてなきゃ生徒に自由行動なんか任せられませんよ」
私服で二人きりで学校じゃなくても。生徒と先生であるのは何だか寂しい。先生、と呼びかけるのは心地好いが、そう呼んでいるうちはそれ以外の関係はありえないのだろう。
「空から雨が降ってくるところって撮れないんですかね。カメラが濡れちゃうからダメかな」
「なかなか難しいね。背景が暗くないと雨は写らないから、空に向けるのは……逆に高いところから雨が落ちていく様子を撮るとか。あとは何かが雨に濡れて雫が垂れている様子とか、道や水面に雨が当たって飛沫が跳ねてる様子を撮るのも、雨の表現としてわかりやすいかな」
「あー、なるほど。直接そのものを撮るんじゃなくてもいいんですね」
あれもいいんじゃない、と小谷野が指した先には、軒先から滴る雨粒が見える。崇史が自分のカメラで撮ろうとすると、シャッター速度を遅くしたほうがいいよと設定してくれた。
カメラのことになると少し前のめりになる。教室の教壇に立っている時とは違う顔。さらにもう少し先の顔を見たい。そのためのタイミングを、シャッターチャンスを崇史は待ち構えている。
しばらくして、売店で買ったビニール傘を手にした椎野がやってきた。すっかり濡れた崇史たちの姿を見て、着替えも必要だったねと。
「売り切れちゃってて、一本しか買えなかった。今朝の天気予報で、ゲリラ豪雨に注意って言ってたのに」
少し呆れたような顔をする椎野に、悪いね、と小谷野は傘代を払う。少し多かったようで、椎野が返そうとすると、お駄賃にとっておきなさいと制した。
「おつかいしてくれたからね。ジュースでも買いなさい。他の生徒には内緒だよ」
そのやりとりを見て崇史の胸は雲で陰った。自分だけをえこひいきして欲しいのではなく、他の生徒にも同じように優しい先生でいて欲しいのだけど。嫉妬するようなことでもないのに感情を抑えられない自分に腹が立つ。
椎野はもう少し博物館を見て回りたいらしく、そこで別れた。
「光村って家どこだっけ?」
小谷野に訊かれて駅名を答えると、結構遠いねと難しい顔をされた。こんなに濡れててタクシーもなあ……、と小谷野は頭を捻る。
「とりあえずうちに来なさい。着替え貸してあげるから。そのままじゃ風邪ひくだろ」
駅までビニール傘に身を寄せあって歩く。片手でカメラバッグを抱きかかえ、片手で傘を持つ小谷野の手から、僕が持ちますと崇史は傘を奪う。俺の方が年上だからと傘を取ろうとする小谷野の手をかわし、傘の柄をぎゅっと握った。庇護されるだけの立場ではなく、背伸びをしてでも対等になりたい。先生にとってはたくさんいる受け持ちの生徒の内の一人に過ぎないとわかっている。でも今は生徒じゃなくて、ただ一人の人間として見て欲しいのだ。
崇史が電車のドアにもたれかかり、雨粒が打ちつける窓の外をぼんやり眺めていると、視線を感じた。こっち見てるって、ガラスに映ってますよ。そう言って振り返るのは容易いが、今はこの瞬間を楽しみたかった。見てる。撮りたがってる。その視線を感じるのが心地好い。
「残念だったね。写真、あんまり撮れなくて」
「また来ます。次は蓮の季節にでも」
「蓮の花は朝早くじゃないと撮れないよ。光村に早起きが出来るかなあ」
「出来ますよ。僕、遅刻したことなんか一度もないですよ」
そうだったね、と小谷野が笑う。電車の冷房が寒くて崇史はくしゃみをした。
乗り換え駅のホームでちょっと待ってて、と小谷野が売店へ向かう。買ってきたのは折り畳み傘と温かいお茶。払います、と言ったがやはりお金は受け取ってもらえなかった。大人ってずるい。早く大人になりたい。崇史は手渡されたペットボトルをぎゅっと握りしめた。
最寄駅についてもまだ雨足は強いままだった。電車に乗る前のような斜め降りではないのだが、ざあざあと音を立てていることには変わりない。横断歩道に大きな水たまりができていて、一歩踏むごとにキャンバス地のスニーカーに雨が染み込んでくるのがわかる。
ようやく小谷野の自宅アパートに辿り着いた。
「今、足拭く雑巾用意するから」
と慌てる小谷野を、大丈夫ですよと制して、崇史は自分のタオルを取り出して濡れた足を拭く。
一人暮らしの人の家って、初めて来た。姉二人が同居しているアパートへ遊びに行ったことはあるが、雰囲気が違う。華やかさがなく簡素な、大人の男の人の一人暮らしの部屋。崇史が部屋を見回していると、
「風邪ひいちゃうから早くシャワー浴びて着替えなさい。さっきくしゃみしてただろ」
と小谷野に促される。冷えた身体には熱く感じるシャワーを浴びながら、他の生徒をこの部屋に上げたことがあるんだろうか? という疑問が頭をもたげた。崇史が入学する前から小谷野は教師をやっていたのだ。写真部員や他のクラスの生徒を連れてきたことがあってもおかしくない。今のこの扱いは特別でも何でもなく、教え子の面倒を見るのは当たり前という前提で成り立っているのかもしれない。少し気を落としつつ、バスルームのドアを開けると着替えが用意されていたが、タオルがない。
「先生、バスタオル貸してください」
「待って待って、今用意するから」
風呂場の扉の向こうにばたばたと動く影が見える。それが何だか愛おしい。崇史がTシャツとハーフパンツに着替えて部屋の中を見渡すと、小谷野は玄関で靴の中に詰める新聞紙を丸めていた。かいがいしく世話を焼いてくれるのは、きっと生徒だからだろう。
「それくらい僕がやっておきます。先生もシャワー浴びてきてください。風邪ひきますから」
崇史は肩にかけていたバスタオルを小谷野に差し出した。
小谷野がシャワーを浴びている間、こっそり部屋の隅々を覗いてみる。いけないことをしているのだが、少し楽しい。ダイニングの小さなテーブルの上に置かれたチャック付きポリ袋の中には、カメラと乾燥剤が入れられている。濡れたカメラを乾かしているのだろう。奥のリビングの本棚は受け持ちの授業、世界史に関する本が多いのだが。下段にはぎっしりと写真集が詰め込まれている。小谷野先生と先生じゃない時の小谷野がきっとここには全部ある。
部屋の隅のパソコンデスクには、アクリル板で挟む形式の写真立てが置かれていた。アーチ状の柱と天球型の天井を見上げた写真。青と白を基調とした細かい模様が入った壁と、建物内に差し込む光が美しい。派手な置物がないシックな部屋の中で、これだけが明るい色を放っている。写真立てを裏返してみるとポストカードになっており、切手が貼られているので誰かから送られてきたものだろう。しかし小谷野の住所と名前だけで、何のメッセージも書かれていない。
「写真、気に入った?」
背後からいきなり声をかけられ、崇史は驚き慌てて写真立てを元に戻そうとしたが、デスクの上で倒してしまいそのまま落下してしまった。ごめんなさい、と謝りながら拾おうとすると、小谷野に先に拾われてしまった。
「これはイスタンブールのスルタンアフメット・ジャミィだよ。イスタンブールがどこの国かはさすがにわかるよね」
「トルコでしょう。オスマン帝国ですよね」
「そうそう、ちゃんと授業聞いてんじゃん。これが建てられたのもオスマン帝国時代で、世界で一番美しいモスクって言われてるんだって」
お腹空いちゃったね、そろそろお昼食べようか、と小谷野は何事もなかったように写真立てをそっとデスクに戻す。
「なんか買ってくれば良かったね」
「別に何でもいいですよ」
崇史は返事をしながらも、写真のことがまだ気になっていた。送り主であろう人物のサインもあったが、ローマ字で荒々しく書かれたそれは、一瞬では読み取れなかった。わざわざ飾るということは、よっぽど親しい間柄なのだろうか。プロになった知り合いがいると以前話していたのは、この人なのかもしれない。先生じゃない素の部分の、さらに知らない部分。容易には触れされてもらえないことはわかっている。近づくための方法よりも、授業の問答の方がよっぽど簡単かもしれない。
窓の外からさあさあと雨音が聞こえる。二人が外にいた時より雨足はだいぶ弱まったようで、少しだけ空が明るくなってきた。日曜日なのに静かで、窓から漏れる弱い光は時間の感覚を失わせる。
「まだ雨止まないですね」
崇史が窓際に置かれたベッドの上に乗って外の様子を眺めてると、背後に気配と視線を感じた。見ている、見られている。何度も感じたこの視線の先にある感情が、一体何か知っている。このまま放っておいたらいけない。
「……撮っていいですよ」
驚くほどなめらかに、舌の上からこぼれた。
「撮らずにはいられない瞬間なら、いくらでも撮って構わないですから。僕はそういう先生の写真が見たいんです」
放課後の教室で好きだと言ってしまった時とは違う、はっきりと自覚した言葉を吐いた。これこそが彼の、そして自分自身の望みなのだ。互いに隠してきたものに光を当てる時が来た。
少しの沈黙の後、小谷野はゆっくりと口を開いた。
「今カメラ用意するから、そのままでいて」
あっちのカメラのレンズ方が、と乾燥中のカメラを気にしつつも。ぐずぐずしていたらこの瞬間を逃してしまう。小谷野はベッド下に仕舞ったケースからサブのカメラを急いで取り出し、撮影機材の準備を始めた。
それを待つ間、崇史の身体は緊張のせいか突然強張り始めた。なんでもないふりしないと。恥ずかしいとか怖いとか、そんなそぶりを見せちゃ駄目だ。落ち着こうと思い息を整えたいのだけれど、上手く出来ない。今までどうやって自然に呼吸をしてたのか思い出せない。首の後ろにじわりと汗が滲む。
カメラのセッティングが終わったのか、小谷野が近づいてきて思わず息を止めた。身体を覆うレースのカーテンを少し直して、撮影が始まった。シャッターの音がする度に、緊張の糸はするすると解れていく。意識がだんだんと平坦になって、身体から離れていくような感じがした。写真を撮られて、魂を抜かれている。なのに感覚だけが研ぎ澄まされていく。視線が身体のどこを這っているのかわかる。
「身体、もうちょっとだけこっち向けて。そう、そのくらい」
小谷野は感情を察せない声で、指示を出してくる。もう少し伏し目がちにして。首を四十五度くらい傾けて。授業の時みたいに淡々と、こうしてああしてと言うから、崇史はそれに従ってしまう。縛られてもいないのに、身体が締め付けられる感じがする。触れられてもいないのに、柔らかく撫でられているような気がする。体験したことのない感覚。必要以上の言葉は何も交わさないまま、シャッターボタンだけが押されていく。一枚一枚、写真におさまる度に感情が溶けていく。
雨の音も外を走る車の音も、もう何も聞こえない。シャッターの音以外は。この身体は、彼に撮られるために存在している。
何でもいい誰でもいい、じゃない。この人がいい。この人のためにこれをしたい。それがはっきりとわかった瞬間に、さっきまでの自分とは違う生き物に変化したように思えた。放っておいたらだらだらとどこかへ流れ出してしまうような、形の定まらなかったものが、この一瞬であるべき形に固まった。そんな気がした。
「もうお昼にしよう」
不意に終わりを告げられ、なんだか物足りない。置いてけぼりにされて行き場を失った感情を、どこにぶつけたら良いのかわからず、崇史は不貞腐れた。本棚に並んだ写真集が目について、台所に立つ小谷野に見てもいいか呼びかけると、こちらを振り向かずに返事をされた。さっきまで上がっていた体温が、ゆっくりと下がっていく。
ハードカバーの写真集は手に重く、ページをめくる度に指紋がつかないように慎重にならざるをえない。いわゆる写真家の作品集というものを初めて見る崇史にとっては、名前やタイトルだけを見ても全くピンとこない。だが、その中に広がる世界には引力を感じる。自分の家族にポーズをとらせて作り上げた写真。モデルの妻との日常を閉じ込めた写真。亡き妻と愛猫との最後の日々を追った写真。どれも被写体への惜しみない愛情が伝わって来る。女性のヌードを、性を感じる肉体ではなくオブジェのように撮る作品には、芸術としての美しさとはこういうものだと教えられる。
そして、パートナーのヌードを撮った作品が何作もあり、崇史は驚く。恋人や妻とはいえ、カメラの前に裸体を晒し、それを作品として公開されるのはどんな気分なのだろうか。それとも写真家を愛したからにはどんな姿でも撮られて構わない、という覚悟の上で成り立つ信頼関係か。……さっきまでの自分の感情は、どういうものだっただろうか。それこそどんな姿でも、と感じていた。あの感覚を、と頭の奥の方から引き摺り出そうとするのだけれど、一人ではうまくいかない。
ふと、棚の一番端に目立たぬように背表紙を棚の奥に向けて差し込まれた写真集があるのに気づいた。一体なんだ? と引き抜くと、表紙の写真に一瞬にして目と心を奪われた。ベッドの端に座り顔を背ける白いワンピース姿の少女。それだけなのに強いインパクトを残す。中を開けると、不安定さと強さがないまぜになったような視線をこちらに投げかけてくる。何故だかいけないものを見てしまったような気がして、そっと元に戻した。
「光村、ご飯できたよ」
振り返って呼びかける声に驚いて、慌てて何も悪いことなどしていませんという顔を作った。
「コーヒー飲める?」
「カフェオレなら」
じゃあ牛乳入れてやろう、と小谷野は並んだマグカップに牛乳を注ぐ。本当のことを言わずにコーヒーが飲めると言えば良かったと、崇史は少し後悔した。なんだか自分をまだ子供だと認めてしまったような気がした。
小谷野が昼食に作ってくれたナポリタンは、てっぺんに目玉焼きがのっていた。母親が作るそれとは違う、少し出来の悪い黄身が固い目玉焼き。フォークで混ぜほぐしながら食べる。
「美味しいです」
「ありがとう。でも申し訳ないけど、これレトルトのソースだよ」
「作ってくれただけでもありがたいです」
テーブルひとつ分を挟んで向き合う。食べながら上目遣いで見ると目が合って、互いに少しはにかむ。春の面談の時のように逸らされるようなことはない。小谷野の瞳にはたしかに崇史が映っている。
食べ終わって二杯目のカフェオレを飲みながら、ベッドにもたれかかると視線を感じた。その瞬間を待っていた。準備はできている。
「……いい?」
「いいですよ。わざわざ訊かなくても」
ベッドの上に仰向けに寝転んで足を三角に立てる。カーテンの隙間から入り込んだ淡い光がちょうど顔当たって、目を細める。横を向いたり、腕を上げたり。撮られるほどに、頭の中も胸の奥も濾過したように透明になっていくようだ。気持ち良い。もっとこうしていたい。頭の奥から身体の隅々から、じわっと甘いシロップのようなものが滲み出ていく。そんな感じがする。
「足もう少しだけ開ける? ベッドの外の方に」
小谷野の指先がくるぶしに触れて、身体中がざわりと揺れた。恥ずかしくなって崇史は顔を壁際に向けたが、小谷野は気にせず撮り続ける。それから何カットか撮影した後、もう終わりにしようということになった。
デジタルのいいとこって撮ってすぐ見れるとこだよね、と小谷野はパソコンの画面に先程撮ったばかりの写真の一覧を出した。一枚ずつ表示して出来を確かめていく。カーテンレースの向こうに立つ横顔は、逆光で顔がわからない。自分の背中なんて初めて見た。見たことのない部分が白日に晒されていく。どの写真も映っているのは自分なのに自分ではないような気がした。ここに写っているのは周囲が知っている崇史ではない。崇史も知らない、小谷野の心の中だけにいる崇史なのだ。確かにあった現実を写しているはずなのに、そうではない特別なものに感じられた。こんな写真はきっと他の誰も撮れない。誰にも奪わせたくないものを持つのって、こういう気持ちなんだ。崇史はさっき触れられたくるぶしが熱くなるのを感じた。
「嫌だったらすぐ消すからね」
「先生が撮った写真ですから。消したい写真なんか一枚もないです」
もっと撮ってください。何度も言うタイミングを探ったが、その一言はなかなか口に出せずにいた。
いつの間にか雨は上がって、窓の外はまぶしいほどの夕陽が射している。あ、虹。と小谷野が指差した方を見ると、オレンジとピンクの混ざった空に、大きな虹が出ている。崇史は慌てて自分のカメラを取り出し写真を撮った。小谷野もまた、もう消えそうなその虹を真剣にカメラのモニタでチェックしながら撮る。崇史はどうしてもさっき見た写真集が気になって、その隙に本棚からそっと抜き取りリュックに隠した。
帰り道は小谷野が駅まで送ってくれた。裸足で履いたスニーカーはまだきもち湿っぽい。小谷野は時々立ち止まって、雲の端に紫が混ざったオレンジ色の空を撮っている。虹はもう消えちゃったのかな、なんて言いながら。ずっと上を向いたままカメラを構えて歩く小谷野に「先生、後ろから車来てます」と呼びかける。あぶなかった、と車を避けながら子供みたいな顔で照れ笑いをする。ふと目に止まった水たまりに夕暮れの空が映っているのに気付いて、また撮り始める。どの角度がいいか探ったり、崇史にそこに立ってと指示を出して影を写り込ませたり。オレンジ色に染まる横顔。崇史の方を向いてくれていなくても、夢中になっている小谷野を見るのは何だか楽しい。空を撮るふりをして、小谷野の写真を何枚も撮った。
駅の改札で、また明日学校でと別れる際に、崇史は立ち止まった。
「また先生の部屋に、写真集見に来てもいいですか」
崇史は小谷野の目ををじっと見る。
「……生徒と教師が親密になりすぎるのは問題があるよ。校外で私的に会うことは禁止って決まりがあるから」
小谷野は子供をあやすように崇史の頭をぽんと撫でる。さっきまでのカメラを通したやり取りが、まるで存在しなかったようなそぶりで。大人の言い訳で体よく断るなよ。悔しくなってリュックの肩紐をぎゅっと握る。
「先生の下の名前って何だっけ? 浩介だっけ? じゃあ、コウくんって呼んでいい?」
思いもよらない崇史の言葉に小谷野は目を丸くした。
「コウくん、友達になろうよ。先生と生徒じゃなくて、友達としてだったら部屋に上がってもいいでしょう」
崇史自身も酷いこじつけだと思ったのだが、ここで諦めたくない一心で、咄嗟に出たのがそれだった。
「学校ではちゃんと先生と生徒の関係を守ります。先生の部屋だけの秘密にするって約束します」
少しの沈黙の後、小谷野は根負けしたのか、いいよと頷いた。
「絶対に約束を守ること。遅くなる前に帰ること。あと成績は下げないこと。守れる?」
「大丈夫! 絶対守ります」
満足そうな笑顔に、小谷野は一瞬怯えた。すっかりと晴れ渡っているのに、嵐の種が潜んでいる予感がした。
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