3 / 11
#03
しおりを挟む少し風邪をひいたのかもしれない。朝から少し咳が出て、薄荷味の飴を舐め続けてる。日野は飴を最後まで上手く舐められず、つい噛み砕いてしまう。喉に詰まった物を吐き出すように咳をする。飴の味が、喉に詰まる。
期末テストの結果はさんざんだった。赤点は免れたものの、軒並み平均点を割ってしまい、日野の答案を見た水本は「かわいそうだね」と真顔で言った。水本は相変わらず五科目総合学年一位で、何があってもこれだけは揺るがない、といった感じだ。
海に行った日から、日野はなんだかよく眠れず何も手につかなくなった。だけど水本は何でもなかったように過ごしてる。おそらく、いや確実に何でもなくはない。日野にとっては突然だが、水本にとっては何年も抱えていたことだ。しかもこの先もそれが続いていく。東京の大学に進学して実家を出るまでは。いつも勉強ばかりしているのは、それが水本がこの場所から逃げるためだということに、日野は初めて気付かされた。
掃除当番の後、日野は購買の自動販売機で温かいお茶を二本買ってから生物室へ向かう。雪の季節が来てからは校庭が使えない為、旧校舎の廊下で練習をする運動部が多くやたら騒がしい。テストが終わっても水本はまた毎日生物室で勉強している。暖房があまりきいてないのにガラスが曇っている。また雪が降りそうだ。休憩しよう、と日野は机にお茶と持ってきたパンを並べる。
「これがうちの店で一番売れてるパン。白あんぱん」
「これ普通の白あんじゃないね。うまいな」
「カスタードクリームが半々で混ぜてあるんよ。生地も白パンにしてある」
水本に喜んでもらうと、自分で作ったパンじゃないのに嬉しい。いつかは自身が作ったものを食べてもらって、喜ばせたい。
以前と比べて水本は少しは笑うようになった、と日野は思う。はにかんだり驚いたり呆れたり、こういう表情もするのだと。でもいつも目は笑っていない。大きくて二重で黒目がちの瞳は、ぞっとするほど綺麗だけれど。それはとてもうつろで、日野が見ている世界と全然違う世界を見ているような気がする。水本の瞳を見ていると、星の光のない真っ暗で深い闇の底へ引き込まれるようだ。それでも日野にだけは笑いかけてくれるから、そんなことには気付かないふりをしている。
本当は少しだけ、気持ちが悪いと思ってしまった。日野がやっとの思いで触れているものを、他の誰かが簡単に欲望のまま汚している。あの口で誰かのものを咥えてる。誰かに犯されているのは、彼の意思ではない。頭ではわかっているのに、自分だってずっと水本の肌に身体の隅々に触れたいと願っていたのに。最低だ、とあれから何度も自己嫌悪に陥っている。
下校のチャイムが鳴る前にはすっかり日が落ちて、帰りに毎日星が見える。水本のプラネタリウムの方が光は弱いけれど、満天の星空だった。息を吸うと冷たい空気と薄荷の味が混ざって、舌の先と喉の奥がキンとする。
「冬の方が星がたくさん見えるような気がするね」
「空気が乾燥してるし澄んでるからな。冬の星の方が明るい星が多いし。今光ってる星は、本当は昼間だって光ってんだよ。陽の光が強すぎて隠れてるだけ。暗くなればこうしてちゃんときれいに光ってるのがわかるだろ」
闇が増すほどに美しく光る。水本が星みたいに光って見えるのは、内側に深い闇を持っているからだろうか。
「今見える星は、あのプラネタリウムと同じ?」
「うーん……あれは今の時期だと、もうちょっと夜遅い時間じゃないと見えない空」
北極星はどれだったかな。寒さに身を縮ませながら、日野が目を凝らして探していると、ゆっくりと流れていく光を見つけた。
「あの星、あっちの星を追い越した。流れ星ってあんなにゆっくり流れんの?」
「違う、あれは飛行機。どう見ても飛行機。おまえってたまにびっくりすること言うよな」
水本は白い息を吐きながら、呆れたように言う。
「そっか。流れ星見たことないからなあ。水本は見たことある?」
「ある。……じゃあ、見る?」
「え、流れ星って偶然観るもんじゃないん?」
「流星群なら、ちゃんと何月何日の何時頃って大体決まった時に見れるよ。これからならふたご座流星群だな。雲が晴れてばいいんだけど」
水本はスマホをいじって、来週末の深夜二時に放射点が天頂に昇ると調べてくれた。
「一緒に見ようよ。次の日学校ないなら、うちに泊まればいいさね」
「なんで?」
「……水本と一緒に見れたら嬉しいから。僕が」
日野がそう言うと、水本は目を逸らして黙り込む。水本のこと好きなの、知ってるって言ったくせに。日野がじっと水本を見下ろしていると根負けしたのか、わかった、とため息混じりに言った。
「じゃあその日は一緒に帰ってどっかで夕飯食べる?」
「無理。俺その日三者面談だわ。日野んちって東高のそばだっけ? バイパスの向こう?」
「うち遠いから駅からバスで来なね。東高行きのに乗ればいいから。バス停まで迎えにいく」
おまえはなんでそんなにはしゃいでるんだ、と水本は日野の自転車の泥よけを横から爪先でこつこつと蹴る。緩んだ日野の顔を見て、また呆れたように言う。
「日野といると飽きないよ」
最終の十九時三十五分着のバスで水本はやってきた。私服は初めて見る。いつものモッズコートとハイカットのスニーカーとジーンズ。緑と黒の細いボーダーのシャツと、グレーのカーディガン。今日はいつもよりずっと多くの星が見えている。雪降らなくて良かったな、と道路に転がっている小さな雪の塊を互いに蹴飛ばしあいながら、日野の家へ向かう。
水本は日野宅の一階にある店の「パンの店・ソレイユ」という看板を見上げて、日野だから太陽なのか、と日野の顔を見る。
「ソレイユってフランス語で太陽って意味だろ」
祖父の代からこの店名だけれど、それを説明せずにわかってくれた人は初めてだった。水本に言われて初めて、これは欲しかった言葉だと気付くことがたくさんある。どうして水本はいつもそれがわかるのか、不思議でならない。
水本が自分の親に挨拶してお土産の和菓子を渡しているのも、日野の部屋のこたつでテレビを見てるのも、こたつの中で足と足が触れるのも、全てが不思議に思える。
「おまえ、ひーちゃんって呼ばれてんだな。日野だから?」
「博久だから。ねーちゃんも幼なじみもみんなひーちゃんって呼んでるんさ」
水本はふざけて何度も、ひーちゃんと身近な人だけしか使わない呼び名で日野を呼ぶ。恥ずかしいからと止めさせたけれど、本当はずっとそう呼んでくれても構わない。でも水本のことを下の名前で呼ぶのは何だか恐れ多くて日野には出来ない。
七歳上の姉は東京で働いてると教えると、日野も東京の学校へ行くのかと聞かれた。
「地元の調理専門学校の製菓製パンコースに行くつもり。ねーちゃんが東京の大学行ってそのまま就職して帰って来ないから、親は僕が東京に行くのは反対なんよ。僕に継がせる気だから絶対帰って来ないと困るって」
「そんなに継がせたいほどの名店なの? ソレイユは」
「別にそこまでじゃないがね……東高の購買をやってるし、この辺他にパン屋ないから、たぶん僕の代までに潰れることはないと思う」
「なるほど。どこの家も色々あるな」
水本は東京に行き、日野は地元に残る。最初からわかってたことだが、卒業したら離ればなれだ。東京で暮らすのは怖いから自分には無理だと思っていたけれど、水本がいると思うと少し気持ちが揺らぐ。たとえ東京の専門学校へ行っても、いずれはこの町に帰ってこないわけにはいかないだろう。日野は親の期待を裏切れるような人間ではない。
水本と出会う前はずっと、田舎から出たくないと思っていた。小学校は一学年につき一クラスで全員が同じ中学校に通う、市の外れにある小さな町。この町では進学も就職も結婚も地元でするのが当たり前で、姉が東京の大学に行く時も親とかなり揉め、近所中が姉を悪く言っていたのは知っていた。女のくせに大学に、しかも東京へ行くなんてと。日野が同級生の大半が通う近所の東高ではなく、中心部に近い高校へ通うことも、近所の人たちは快く思ってなかったようだった。学力に見合った学校を選んだだけでも、みんなと同じものを選ばなかったために責められる。実際同じ地区から来ている生徒はほとんどいない。生まれた時から将来は店を継ぐのだと周りに言われ、自身もそれを当たり前に感じ、この町から出ることなど考えたこともなかった。
「水本の親は、東京の大学に行くこと賛成してるん?」
「……父親からはまだ何も言われてない。自分も東京の大学出てるしね。反対しても俺の成績で東京の大学に行かないのは不自然だろ。学校側も絶対後押ししてくれると思う。母親は大賛成。早く厄介払いしたいと思ってんだろ。自分の家の中で息子と夫がそういう関係持ってるのを無視し続けるのにも限界あるし、妹も来年から幼稚園だし。どっちにしろ、レベルが高い大学に合格すれば何の文句もないだろうから。就職も東京でして……ここには、もう二度と戻って来ないよ」
一緒にいられるのは、あと一年と少しだけ。成績や進路を考えると、来年はクラスが離れるだろう。近づいたつもりがどんどん遠ざかっていく。東京まで新幹線で何時間もかかるけれど、もう二度と逢えなくなるわけじゃない。なのに小さな絶望が日野の胸に宿る。
「おまえの部屋、あんま物がないな。本とか読まないの?」
「漫画はたまにあっちゃんに借りるけど、字の本は全然。水本はさ、いつも分厚い本読んでて凄いんね」
「ああ、あれは『海底二万里』。別に難しい本じゃないし。読む?」
「僕じゃたぶん読み切れない……」
ふうん、と何気ないいつもの返事に、日野は少し胸を痛める。水本みたいに強く好きだと言えるものを何一つ持っていない自分がなんだか恥ずかしくなった。一日中聴いていても飽きない音楽も、くたくたになるまで何度も読んだ本もない。テレビを見ている時間は長いけれど、語れるほど好きな番組はない。自分の一部だと胸を張れるほど好きなものなど何も持っていない。それで不自由したことなどなく、そのことに今まで気付かなかった。水本と自分を比較しても仕方がないのに。
ゲームでもやろうと対戦型のアクションゲームを始めたのだが。水本は小学生の頃以来ゲームをやってないらしく、意外と下手で、すぐにもういい向いてないとコントローラーを放って寝転がってしまった。水本にも苦手なものがあった。
「俺、人の家に泊まるの初めて」
水本がぽつりとつぶやく。なんで、と言いかけて日野は言葉を呑んだ。ずっと一人だったからだ。対戦ゲームも友達の家に泊まるのも、日野にとっての当たり前は水本にはそうじゃない。またその逆もある。みんなが当たり前にしてることが自分にだけ出来ない。そういう気持ちをよく知っている。水本がしたことがないことをたくさん一緒にしよう。こうしてそばにいられる内に。
二時まで寝てる? と日野が尋ねると水本は、寝ると勿体ない気がすると。
「なんで?」
「教えない」
「水本はいつも僕に、なんで? って聞くがね」
「教えたくない」
勿体ないと言ったくせに、しばらくして水本は眠ってしまった。こたつ布団を顔まで被り、ぎゅうと膝を抱えるように丸まって眠っている。やっぱり睫毛長いな。起こさないようにそうっと髪に触れる。水本をどうにかしたいなんて欲望を、日野は捨てたいのに捨てられない。
日野も少しうとうとして眠ってしまった。深夜二時に携帯のアラームが鳴り、そろそろ行こうと水本を起こす。寝起きの水本は一瞬どこにいるのか分からなかった様子でぼんやりしていて、なんだかいつもの凛とした雰囲気と違うのが可愛らしかった。
朝早い両親を起こさないようにそっと外へ出ると、ほんの数時間前よりもっとたくさんの星が暗闇を照らしてる。プラネタリウムか、それ以上の。こんなにたくさんの星を見るのは生まれて初めてだ。
「こっち引っ越してきたばかりの頃、あんまり星がいっぱい見えすぎるから、偽物みたいだなって思ってた」
真っ白な息を吐きながら水本は真っ直ぐ上を見上げていて、日野も同じように真上を見る。水本と出逢う前はこんな風に星を見る為に夜空を見上げるなんてことしなかった。カーテンを閉めた部屋の中で、何をしていたか思い出せない程ぼんやり過ごしてた。
「あ、シリウス」
と水本が振り返る。今の時間ならあのプラネタリウムと大体同じ星空だと。
「オリオン座はわかるだろ? 三つ星の。左上の赤い星がベテルギウス。その左側の明るいのがこいぬ座のプロキオン。で、オリオンの左下の方、あのすっごい明るいやつがおおいぬ座のシリウス。これが冬の大三角形」
夜空を指す方を見るとオリオン座がいつもより大きく見えて、その左下にひときわ明るく輝く星がある。
「シリウスは和名が青星って言うんだよ。青白い炎が燃えてるみたいに見えるだろ」
水本の言う通り、光るというより燃えるように輝いている。他のものを寄せ付けないような崇高な眩しさ。
「なんだかあの星だけ凄く特別な感じがするねえ」
「太陽以外で地球から見える一番明るい恒星なんだよ。次がカノープスだけど、こっちの地方じゃ観測出来ない」
「あっちにある黄色っぽい明るい星は?」
「あれは木星。斜め上の方に見えるのがカペラ。ぎょしゃ座の一等星」
水本に星の名前を教えてもらっている内にも、いくつもの流れ星がすうっと落ちては消えていく。「星降る」という言葉そのものだ。流れ星も惑星も、天体望遠鏡を使わなければ見れないものだと、自分の人生には関係のないことだと思っていた。水本の好きなもの、水本が抱えるもの全部。もう関係のないものにしたくない。言葉にならない気持ちが足元からわっと沸き上がって、胸が詰まる。
「普通の星と流れ星、どう違うん?」
「流れ星は星じゃない。ゴミだよ。宇宙のゴミが地球の引力に引き寄せられて、大気圏で燃えてんの」
引きつけられて、燃えて輝く。それは日野の胸の中で今まで何度も起きた現象だ。
「宇宙じゃゴミまできれいだなんて、ずるいな」
星空をじっと見上げながら、水本はそうつぶやいた。
流れ星はあまりにも早く消えてしまうので、願い事を三回も言えない。それでもどれか一つくらいは引っかかってくれないかと、日野は何度も何度も心の中で繰り返す。この先の君の人生が明るいものになりますように。神様が本当にいるかどうかなんてわからないけれど。でもとりあえずゴミでも何でもいいから、何かに祈っておかないと気が済まない。
水本のプラネタリウムはそれ自体が強く発光して、暗闇に淡い光を描いていた。天然のプラネタリウムは優しくこぼれ落ちるように、ダイヤモンドみたいに目映い光が降ってくる。闇の中でも不思議と怖さがない。
どれくらいの時間が経ったのだろう。すっかり冷えきってしまったので、部屋に戻る前に店の前の自販機で温かい飲み物を買う。温かい紅茶のペットボトルを握ると、冷えた指先がぴりぴりと痛む。コーヒーを飲む水本は、今飲んだら眠れなくなるかも、失敗したなんて言う。
子供の頃、苦くて飲めないコーヒーも大人になったら自然と飲めるようになると信じていたように。いつかその時期が来たら自然と誰かと恋をして付き合って結婚するのだろうと、日野は何の疑いもなく信じてた。だから告白してくれた相手と付き合ったのに上手くいかず、想像していたレールを外れてしまったように思えた。それが簡単なことではないと誰か教えてくれても良かったのに。子供の頃に描いていたような大人にはなれない、でもどうすべきかわからない。想像していた大人に着々とレールを外れず向かっている人達が羨ましかった。コーヒーは苦くてまだ飲めない。でも水本がいる。水本がみんな教えてくれる。星の名前も、誰かを愛おしく想う気持ちも。
寒かったと笑い合いながらそれぞれ布団に潜り込む。床は冷えるので水本にベッドを使ってもらい、日野は床の布団で寝る。しばらくして、まだ起きてる? と小さく日野を呼ぶ声がした。
「起きてるよ。なんかドキドキして眠れんね」
「……ねえ、触っていいよ」
突然のことにちょっと疑問を持ちながらも、日野は起き上がってゆっくりと頭を撫でてやると、水本はふふっと表情を緩めた。頬から首筋へ柔らかな肌に手を滑らす。みずみずしい桃のような、想像通りの柔らかさ。とても自分と同じ成分で出来ているとは思えないほどなめらかで透き通っている。
「ずいぶんそうっと触るんだね」
もっと乱暴にしても構わないと水本は言う。友達に絡んで腕をつかんだり背中を叩いたりするようにはとても出来ず、少しでも余計な力を加えたら壊れてしまうようで、猫を撫でるようにそっと触っていると現実味がなく変な感じがした。
「こっちも、触っていいよ」
そう言って水本は布団を剥いでルームパンツと下着を脱ぎ始めたので、日野は慌てて手首を掴み、ほとんど股下まで下ろされた下着を引っぱり上げた。
「こんな……こんなこと、人前でしちゃ駄目だがね」
「なんで?」
「なんでって……」
「お礼だよ。日野はいつも俺に色々良くしてくれてるから。それにこういうこと、したかったんだろ」
違うよ、そんなつもりじゃない。日野が慌てて否定すると、水本は怪訝そうにした。
「じゃあ、なんで泊めたんだよ」
「それは、深夜に一人で自転車で遠くまで帰るのが危ないからだいね。ただ僕が水本と一緒に遊びたかっただけだから、お礼なんて要らないし。するにしても、別のもっと他のやり方があるがね」
「だって、俺のこと好きなんだろ。俺も日野のこと好きだよ。お互い好きだったら、こういうことするんだろ。好きなだけ触って舐めて挿れていいよ。ぶっかけてぐちゃぐちゃにして何でも好きなようにしていいよ。俺はいいって言ってるのに、なんで駄目なの」
いつもの理性的で賢い水本と変わらない淡々とした口調で、なんで、とつぶやく声になんて答えればいいのか。この部分だけすっかり常識が抜け落ちてるように感じる。それだけ日常的に性行為を強要されているであろう事実を改めて突きつけられて、ぞっとした。
「他の人と寝てるから、俺は汚いから嫌だよね」
まっすぐに目を見て放つその言葉が、日野の胸に突き刺さる。そうじゃない、そうじゃないんだ。息が詰まりそうだ。
「汚いなんて、思ってないよ」
日野の言葉に水本は顔をほころばせた。
「……僕も水本とこういうこと、いつかしたいと思うよ。でも、もっと大人になってからしよう。だってさ、僕だってこういうこと詳しくないけど……普通は好きだって告白して両想いだからって、すぐこういうことはしないがね。まずはデートして、最初はキスからとか。普通はみんな段階を踏んでいくもんさ。だから、好きだからってすぐこういうこと簡単にしちゃ駄目さね」
わかった、と言ってもらえて日野はほっとした。
水本にはもっと普通の高校生の生活を知ってもらいたい。ゆっくりと時間をかけて誰かと心を通わすこと。日野はそれが出来なくて一度失敗した。今度は違う、水本となら出来る気がするから。ここで見放してしまったら、水本のことをよく知らないくせに軽蔑している人たちと同じだ。もう決めたんだ。
「もう二度と何かの見返りに寝るとか、こういうこと言わないって約束して」
そんなことしなくても彼は愛されるべきなのに。どうしてこうなってしまうんだろう。
「もう少し、触ってもらっててもいい? 日野に触ってもらうと安心するから」
水本がそう言うので、日野は彼が寝付くまで頭と背中をずっと撫でていた。水本のことが愛おしくてただ抱きしめていたいけど、自分だけは欲望にまかせて簡単にそういうことをしてはいけないと思う。そんな後ろめたさを感じながら、こめかみにそっとくちづけた。
水本がいる世界は想像以上に美しくて、残酷だ。話を聞いたりそばにいることは出来ても、その痛みを引き受けることは出来ない。田舎の普通の高校生である自分には、彼を救う為の特別な力なんてひとつも持ってない。その現実を、日野はまた突きつけられる。
星に託した願い事は、叶えてもらえるだろうか。
週が明けて、水本は一週間学校を休んだ。日野が心配してメールを送ると、少し熱があるという。深夜に連れ出したせいだろうか。宮坂に聞けば水本の家はわかるのだが、お見舞いだとかそういう気遣いは嫌がるだろう。
終業式の前の晩に電話をすると、明日は成績表だけ取りに学校に行くと言う。
「冬休み何してる?」
「何してるって別に……寝てるか勉強してるか。来年は受験生だし」
「勉強ばっかだね」
「だって他にすることないだろ。勉強してると落ち着くし」
どこかへ連れ出したいけれど、この雪の季節に海というわけにもいかない。どういう場所へ連れて行けば、水本は喜んでくれるのだろう。
「水本はゲーセンとかカラオケとかボーリングとか……」
「行かないし、行ったことない」
「えっ、ないの?」
「ないよ。行くだけ時間の無駄だろ。何、行きたいの?」
「終業式の後、二学期の打ち上げ兼クリスマス会があって、クラスのみんなでボーリングとカラオケ行くんだけど……」
「死んでも行かねえ。呼ばれてねえし、誰も俺が来ること望んでないだろ。いて欲しくないと思ってる奴らの前にわざわざ顔出すほど、根性悪くない」
強い口調で言い放つ。日野は修学旅行の班決めのことを思い出して、今のは失敗したと反省した。どうして変に気を遣おうとして余計なことを言ってしまうんだろう。普通の高校生っぽいことに無理に誘うなんて、単なるエゴだ。
「おまえってあれだろ、カラオケとか行っても歌わないで隅っこでぼーっとしてるタイプだろ。そんで他からノリ悪いとかつっこまれたら宮坂辺りがフォローしてくれるんだろ」
「まあ、大体その通りだいね……」
「何が楽しいんだか。そんなことに裂く時間は、自分の為だけに遣えばいいのに」
日野自身もそう思っている、けど。とりあえず行っておくと安心出来る。クラスの中で発言権はなくても自分の席がちゃんと用意されている。ここでどういう立ち位置なのか、まだ同じクラスの仲間として認めてもらえているかを確認して安心する。どうせいてもいなくても一緒だってわかってるけれど、気にしてしまう。だって君みたいには振る舞えない。
終業式の日、カラオケのパーティールームで水本の指摘通り、日野は歌を選ぶふりして一曲も歌わずぼんやりしていた。クラスの三分の二ほどが参加する打ち上げ会だ。せっかく誘ってやったのにとか、おまえのせいで冷めたとかそういうことを言わないから、日野は宮坂のことが好きだ。水本との間には何か深入りしない方が良さそうなものがあるけれど、日野に対しては大人で優しい。
日野が何も言い返したりしなそうに見えるから、言われっぱなしになり軽んじられるのだろう。何も言わないからといって何も感じていないわけではない。でも言葉や態度で示した方が強い。水本にも端から見たらきついことをたくさん言われているのだが、何故だかそんなに怒る気にはならない。なるほど水本はそういう風に考える人なんだな、と日野は思うだけだ。でも他の誰かから同じこと言われたら、自分でどう対処したらいいのかわからない怒りを溜めるだけなのかもしれない。
日野がそんなことを考えてると、ちょっと、と宮坂が僕の腕を引っぱって耳打ちしてきた。
「さっきトイレ行った時、廊下で日野の元カノに会ったんよ。三組も来てるげなんね」
「……園田?」
「日野に新しい彼女は出来たかとか、ちょっと聞かれたけど」
しばらくして、小さく振動したスマホに目を落とすと、ちょっと抜けられる? と園田からのメッセージが入っている。日野が騒々しい部屋を抜け出して廊下に出ると、園田が手招きしていた。久しぶり、と言ったもののそのあとの言葉が続かず、変な沈黙が出来てそれを埋めるように二人して苦笑いをする。
「宮ちゃんが、日野がぐれたって言ってたがね」
「ぐれた?」
「悪い友達に染まって付き合いも悪くなったし成績も落ちたし学校もさぼったって」
「なんか……僕がいないとこで話に尾ひれがついてる。別に園田と別れたからぐれた訳ではないんよ」
「最近、あの水本とつるんでるんでしょう?」
と言うのは、宮坂にそう聞かされたのか、そういう噂が回ってるのか。
「園田もさ、新しい彼氏がいるみたいで安心した」
「そこは嫉妬して欲しかったなあ!」
園田は口を尖らせながら、拗ねたように言う。
「そうさね……本気で好きなわけでもなかったのに、簡単に付き合ったりしてごめん」
「好きじゃなかったって、そんなはっきり言わないでよ」
けらけらと笑いながら日野の脇腹を小突く。そういえば園田はこういう子だった。付き合ってた頃は、つまんないと言っていた記憶ばかりだったから忘れていた。
「日野、なんか変わったね」
「ぐれた?」
「そういうことじゃなくてさ。前はもっと……打っても響かないっていうか。上手く言えないけど。今は違うよ」
ありがとう、と返すと。そういうところだよ、と微笑んだ。
園田と別れ、日野がカラオケの部屋に戻ると宮坂が素早く近づいてきて、園田とヨリ戻すの? と尋ねられた。
「戻さんよ。宮ちゃん、園田に何を吹き込んだんよ」
「だって日野っち、このところ俺らとあんま遊んでくれなくて寂しいがね」
カラオケから聞こえてくる、いつも聞き流していた歌詞。胸が張り裂けそうな思いだとか、君と抱き合っていたい君に逢いたいだとか。今ならわかる。日野と付き合っていた時の園田も、こんな気持ちを抱きたいと願っていたのだろう。悪いことをした。でも彼女じゃなかった。こんな気持ちは全部、水本が教えてくれた。
せっかくの冬休みなのに、店の前の雪かきしてと早朝から母親に起こされ、日野は渋々シャベルとスノーダンプを持ってまだ暗い外へ出る。雪をかきながら空を見上げるとうっすらと小さな星が所々に光っている。でもシリウスはもう隠れてしまったようだ。
夜中にずいぶん雪が降ったのだろう。家の周りの田んぼも一面真っ白に染まって地表ばかりがぼんやりと明るい。まっさらな雪原に踏み入って、足跡を付けて汚して回る。最初の一歩は怖いけれど、踏み出してしまえばそれが快感になって、もっと奥まで汚して回りたくなる。足跡が付いた場所は、自分のものになったような気がする。
あまりに真っ白できれいだから、日野は水本に触れることすらためらうのに。あんなに美しいものをどうして簡単に汚せるのだろう。雪原のように、美しいからこそ乱暴に壊してやりたくなるんだろうか。
あの細い手足を組み敷いて思うままにしている人が、現実にいる。日野にもいつでもそういうことしていいよなんて、水本は言う。
「たぶん、信じないと思うけど。セックスしてる時以外は凄くいい父親なんだよ。妹にべったりつきっきりで俺のことなんか眼中にない母親よりずっとマシ」
「性処理の為だけでもいいよ。言う通りにしてれば、いい子だねって褒めてくれるし。そうやって必要としてくれてるんだったら、俺に早く死んで欲しいと思ってる奴らよりもずっと信じられる」
日野だけに教えてくれた水本の言葉が、頭の中にこびりついて離れない。どんなことをされているか考えるだけで吐きそうになる。水本が誰かに雑に扱われているのが耐え難く、彼を取り巻く全てのものが彼を傷つけるのが許せない。なのにどうして何もしてやれないのか。物語の主人公みたいに、全てを壊して水本をここから連れ出して逃げられれば。そんなこと、出来るわけない。わかってる。日野が吐いた溜息は透明に近い白で、空気に紛れてすぐに消えてしまった。
海へ行ったあの日、家族が一緒の時はまだ大丈夫だったけれど。自室に一人きりになると涙が溢れて止まらず、日野は枕に顔をおしつけて一晩中泣いた。それから何度も、真夜中にあの日のことを思い出しては、何も出来ない自分がもどかしくて苛立っている。どうしたら水本を守れるのか考えているくせに、それなのに。想像の中では何度も水本を犯してイッている。押し倒して細い足を無理矢理開いて、涙目で喘ぐ水本を欲している。卑怯で最低だ。彼を現実で犯している人たちと、何が違うというのだろう。
軒に下がったつららをシャベルの先で端から端まで落として、粉々に砕く。
日野がして欲しいと言えば咥えてくれるだろうし、無理矢理セックスをしても水本はなんでもない顔でいてくれただろう。そういう機会は何度もあった。
初めてあの話を聞いた瞬間は、何故こんな話を聞かされてるんだろうと思ったけれど。水本が今まで誰にどんなことされてきたのかを知らなければ、いずれ誘惑に負けてただろう。欲望のままに犯してしまって、知らず知らずのうちに水本を傷つけていたかもしれない。秘密はあまりに重すぎて、一緒に抱えるのは容易じゃないけれど。それでも話してもらって良かったと、今は感じている。
雪をかき終わって暖かい部屋の中に入ると、髪についた雪の屑が溶けてこめかみを冷たい水滴が伝う。ご苦労様、朝御飯出来てるよと店の工房から母親が顔を出す。いつもの朝。いつものパンの焼ける匂い。食卓の上には毎朝用意されているおにぎりと味噌汁。日野は自分がどれだけ恵まれてるかが身に染みた。わかりやすい不幸も身を切られるほどの苦悩も不条理な扱いも、挫折も絶望も、日野にはない。簡単に諦められる程度のどうにもならないことくらいしか知らない。そういう幸福が今は後ろめたい。
汚れた雪もいつかは溶けて消えてなくなる。陽の光がもっと強く射して、水本の荒野に積もる雪を溶かしてくれないだろうか。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
肌が白くて女の子みたいに綺麗な先輩。本当におしっこするのか気になり過ぎて…?
こじらせた処女
BL
槍本シュン(やりもとしゅん)の所属している部活、機器操作部は2つ上の先輩、白井瑞稀(しらいみずき)しか居ない。
自分より身長の高い大男のはずなのに、足の先まで綺麗な先輩。彼が近くに来ると、何故か落ち着かない槍本は、これが何なのか分からないでいた。
ある日の冬、大雪で帰れなくなった槍本は、一人暮らしをしている白井の家に泊まることになる。帰り道、おしっこしたいと呟く白井に、本当にトイレするのかと何故か疑問に思ってしまい…?
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
目が覚めたら、妹の彼氏とつきあうことになっていた件
水野七緒
BL
一見チャラそうだけど、根はマジメな男子高校生・星井夏樹。
そんな彼が、ある日、現代とよく似た「別の世界(パラレルワールド)」の夏樹と入れ替わることに。
この世界の夏樹は、浮気性な上に「妹の彼氏」とお付き合いしているようで…?
※終わり方が2種類あります。9話目から分岐します。※続編「目が覚めたら、カノジョの兄に迫られていた件」連載中です(2022.8.14)
幸せな日々 ~若頭補佐のアルファが家出少年オメガの養育係になりました~
大波小波
BL
藤川 露希(ふじかわ ろき)は、オメガの家出少年だ。
金銭を得るため、その体を売り物にしながらさまよっていたが、このところ何も食べていない。
そんな折に出会ったヤクザの若衆・反田(はんだ)に拾われ、若頭の外山(とやま)に紹介される。
露希を気に入った外山は、彼を組長へのギフトにしようと考えた。
そこで呼ばれたのは、アルファであり若頭補佐の、神崎 誠(かんざき まこと)だった。
彼は露希の養育係に任命され、二人の同棲生活が始まった。
触れ合い、やがて惹かれ合う彼らだったが、期限が来れば露希は組長の元へ贈られる。
これは、刹那の恋に終わってしまう運命なのか……?
ハッピーエンド
藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。
レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。
ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。
それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。
※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。
初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
幼馴染から離れたい。
June
BL
アルファの朔に俺はとってただの幼馴染であって、それ以上もそれ以下でもない。
だけどベータの俺にとって朔は幼馴染で、それ以上に大切な存在だと、そう気づいてしまったんだ。
βの谷口優希がある日Ωになってしまった。幼馴染でいられないとそう思った優希は幼馴染のα、伊賀崎朔から離れようとする。
誤字脱字あるかも。
最後らへんグダグダ。下手だ。
ちんぷんかんぷんかも。
パッと思いつき設定でさっと書いたから・・・
すいません。
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる