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92.運転はできる大人にお任せ

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 夏の日差しが眩しい。いつもなら悪態をつきたくなるほどの暑さなのだが、今日ばかりは心地良く感じていた。
 なぜって? 今日は海に行く日だからだ!

「今日はお母さんが海まで車で連れて行ってくれますよ」
「「「「ありがとうございまーす!」」」」

 俺たちは車を出してくれたさなえさんにお礼を言った。

「はあ……。どうして私はこんなことをしているのかしら」

 物憂げな様子の眼鏡美女。ため息をつく姿は「気が進まない」と態度で表していた。

「別に無理して車を出さなくてもよかったんだぞ?」
「一体誰のせいだと思っているのよ!」

 もーっ! と怒りを露わにするさなえさんだった。できる社長秘書の姿はどこへ行ったんだろうな? あっ、その社長はもういないんだった。
 とはいえ、さなえさんの本来の雇い主は音無先輩だったようだしな。今回も俺の監視役でも命じられたのだろう。
 まったく、音無先輩の目的はなんだ? 目的がわからない以上、どうリアクションをすればいいのかが判断できないぞ。

「晃生くんぼーっとしていないで、早く行くわよ」
「晃生ー、時間が勿体ないよ。早く車に乗りなって」
「ふふっ、海に着いたらたくさん遊ぼうね? 私、晃生くんと一緒に遊ぶの楽しみだよ」
「アキくんと海……。ああ、どんな遊びをするのか楽しみですよ」

 俺の女たちが呼んでいる。これから向かう海に思いを馳せているのか、みんなキラキラした笑顔を浮かべていた。
 音無先輩が何を考えているのか、そんなことはどうでもいい。俺の青春、俺の女たちとの時間を邪魔しないのであれば、わざわざ文句を言ってやる理由はなかった。

「ああ、今行くぜ」

 俺たちは車に乗って海へと向かう。ひと夏の思い出を作るため、心を躍らせていたのであった。


  ◇ ◇ ◇


「……で、どうしてあなたが助手席にいるのかしら?」
「流れ、かな」
「そんなわけがないでしょう!」

 大きな声を出さないでほしい。暑さでイライラしてんのか?
 現在、海水浴場へ向かってドライブ中。
 運転席にはさなえさん。助手席に俺。その他の女たちは後ろの席できゃいきゃいとおしゃべりで盛り上がっていた。大きい車で良かったね。

「わざわざ自分から隣に座ったんでしょう。私に何か言いたいことでもあるのかしら?」
「んー……」

 最初は娘の梨乃が助手席に座ろうとしていたのだが、俺が代わってもらったのだ。
 言いたいことというか、聞きたいことはあった。

「音無先輩は俺に──」
「言わないわよ。夏樹様のことだけは、どんなことをされたって教えられないわ」

 ピシャリと言葉を止められてしまった。せめて最後まで言わせてくれよ。
 エリカの家に行った時のことを思い出す。あそこの執事やメイドも音無先輩に雇われていたようだったが、ただそれだけじゃない強い意志みたいなものを感じたんだよな。ああいうのが忠誠心ってやつなのだろうか。
 そして、さなえさんからもその忠誠心ってやつが感じられる。彼女から情報を聞き出そうってのは難しそうだ。

「梨乃がどうなってもいいのか?」
「当然のように梨乃を脅し文句にしないでっ。そういうところよ! 私が晃生くんを信頼できないのはっ!」

 さなえさんから敵意のこもった目を向けられる。穏やかな雰囲気の美女に睨まれるってのは、なんかこう……けっこうゾクゾクするな。

「でも梨乃は俺のことが好きだからなぁ。俺のためならどんな恥ずかしいこともしてくれるかもしれないぜ?」
「くっ……」

 さなえさんは悔しそうに唇を噛む。少し運転が荒くなった。
 俺と梨乃はまだ一線を越えていない……と、さなえさんは思っている。音無先輩なら俺と梨乃がただならぬ関係になったことに気づいていそうなものだが。この様子だとさなえさんには伝えられていないようだった。
 このまま梨乃をダシに、音無先輩の情報を引き出せるかと期待した。だが娘と雇い主を天秤にかけて苦しむさなえさんの顔を見ていると、まるで最低の寝取り野郎みたいなことやってんなと恥ずかしくなった。まあ悪役には変わりないんだけどな。

「……冗談っすよ」
「え?」
「言いたくないなら別にいいっすよ。音無先輩のことは聞きません。それに梨乃のことだって辱めたりはしませんよ」
「いきなりそんなこと言って……狙いは何よ?」

 信頼度というものはいきなり上がるものではないらしい。
 言葉遣いを丁寧にしたってのにこれだ。不審がられる程度には、俺の信頼度はマイナスのようだった。
 まあ仕方がないか。あの時はエリカを助けに行くためとはいえ、母親の前で娘を辱めようとしたんだからな。そんな男をすぐに信じているようでは、それこそ母親らしくないか。
 ……母親、か。

『どうしてよ……。どうしてそんな悪いことをするの? こんなの私の子じゃない……。アンタみたいな……アンタみたいな親を苦しめるような子供なんていなければっ!』

 母の言葉がフラッシュバックする。
 定期的に訪れる胸の痛み。もう慣れてきた……そう言えればいいのだが、痛みばかりは新鮮なままだった。

「くそっ……」

 別に自分だけが不幸ではないのだろう。それは郷田晃生だってよくわかっている。
 嫌になるくらいひでえ親は実在する。それこそエリカの両親は最低だった。「お仕置き」では済まされないことを実の娘にしようとしていた。
 だから、俺はまだマシな方なんだろう……。

「そういう顔をしないでちょうだい……」

 頬にひんやりした感触。さなえさんが俺の頬に手を当てていた。
 俺のことが嫌いなくせに、心配せずにはいられない。それは子供を見るような目で、俺には新鮮に思えた。

「あなたが何を考えているかはわからないわ。でも、あなたの言葉のすべてを否定できないことは身に染みたわ」
「何の話だ?」
「……小山エリカさんの話よ」

 さなえさんは目を伏せる。

「夏樹様の命令で晃生くんを小山家の問題に関わらせないようにしたのは事実よ。けれど、本当に親が子にあんな仕打ちをするだなんて想像もしていなかったわ……。悪い大人はいくらでもいるって知っていたはずなのに、親子ではそんなことをするのはあり得ないって思い込んでいたのよ」

 さなえさんは悔恨の念に駆られていた。

「……ごめんなさい。夏樹様の命令に背くつもりはなかったし、梨乃へしたことは許せないけれど、私の考えが甘かったのは事実よ。そのことは謝罪するわ」
「さなえさん……」

 頭を下げる彼女に、俺は大人の姿を見た。
 悪いことをしたら、間違えてしまったら謝る。そう子供に教える親は多いのだろうが、実際にできる親はあまりにも少ない。
 少しさなえさんの見方が変わったな。

 ……けど、それは置いておくとして。

「前! 前を見て運転してくれ!」
「え? きゃああああああーーっ!?」

 よそ見からの急ハンドルに急ブレーキ。さなえさんは立派な大人がしないような運転をやらかしていた。
 どんなに真摯な態度を示したところで、時と場合と場所を考えなければ伝わらないことを、俺は大人の女性から学んだのであった。
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