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第二部
150.人は周りに影響されるもの
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「悪い高木。教科書貸してくれないか?」
本郷がA組の教室を訪れた。甘いマスクに反応してか、大半の女子から黄色い声が上がる。フィールド以外でも騒がれる奴だなぁ。
「本郷が忘れ物とは珍しいな」
スポーツの成績は最優秀である本郷だが、学業成績はすこぶる悪い。それでも忘れ物はしない奴だったってのにな。
「ついうっかりしてた。いざこういう時になると誰を頼ろうかって迷うな」
「それで頼るのが俺なのかよ」
本郷のF組は俺のA組の教室とけっこう離れている。本郷ならここに来る前に教科書貸してくれそうな人くらいいそうなもんだけどな。
「まあ、ちょうど持ってきてる科目だからいいけど」
「サンキュ。木之下の言った通りだったぜ」
「瞳子が?」
「俊成なら持ってきているはずよ、って言ってたからさ」
ああ、瞳子なら俺の今日の授業くらい覚えているか。でもな本郷、瞳子の声マネするお前はいくらイケメンだろうとも気持ち悪いぞ。
「ちょっと待ってろ。今持ってくる」
「おう。今度何かおごるぜ」
本郷が教室にいるだけで女子が騒がしい。さっさと渡してお引き取り願おう。
「あれ、本郷? うちのクラスに来るなんて珍しい」
「よう赤城。教科書忘れちゃってよ。今高木に借りてるところだ」
お花を摘みに行っていた美穂ちゃんグループが帰ってきた。本郷は笑顔で忘れ物をしたことを自白した。
「ほ、本郷くん!? ほ、本日はお日柄も良く……って、僕は何を言って……あわわ」
望月さんも本郷に気づいて顔を赤くしていた。お兄さん達がイケメン揃いで耐性がついているだろうに、それでも緊張してしまうようだ。
まったく緊張が見られないのは美穂ちゃんだけだった。まあ見慣れているってのもあるだろうし……いや、美穂ちゃんならたとえ初対面だったとしても緊張している姿を見せないだろう。実際はともかくとして。
「望月。本郷相手にそんな緊張しなくても大丈夫。忘れ物をしたただのうっかりさんだから」
「そうだぜ。普通でいいんだよ普通で」
「フツーよフツー」
「おっ、クリスだ。イエー!」
「ホンゴー! イエー!」
本郷とクリスがハイタッチを決めた。君らそんなに仲良しだったっけ?
机から頼まれた教科書を取り出して持って行く。
「はいよ。俺も使うんだからすぐに返してくれよ」
「ありがとな高木。次の休み時間に返しに来るよ」
俺から借りた教科書をブンブン振りながら本郷は自分の教室へと戻って行った。教科書は大切に扱いなさい。
「ああ……」
残念そうに本郷を見送る望月さんだった。わりとミーハーだよね。
「それにしても、クリスって本郷と仲良かったんだ。知らなかったよ」
「あれあれ? もしかしてトシナリ、嫉妬しているの?」
なんでやねん。俺には葵と瞳子がいるって知っているでしょうに。
クリスは「冗談よ」とケラケラ笑う。どこまでわかってやってんのかわからないんだよ。
「ホンゴーは私と英語で話したいって言うから。それで最近話すようになったのよ」
「クリスと英語で?」
「ええ。彼、面白いわね。ホンゴーって名前も呼びやすくていいわ」
クリスは「ゴー! ゴー!」と楽しそうに腕を振っていた。何それ応援?
そもそも本郷って英語しゃべれたのか? さほど学業成績が良くないと知っているだけに不思議に思ってしまった。
「ネイティブな発音を聞き慣れておきたいんだってさ。本郷自身、けっこうしゃべれていたし」
と、美穂ちゃんが教えてくれた。本郷は勉強でも実践向きらしい。
「へぇ……」
本場の英語を慣れておきたいと……。本気で英会話を勉強しているんだな。
いずれ本郷ならプロのサッカーチームに入ると思っていた。けれど、俺が想像していたのは日本のチームで、海の向こう側のことまでは考えてもみなかった。
さすがは本郷か。スケールが違う。
前世でもすごい奴だったけれど、今の本郷なら海外でも通用するんじゃないかって期待感がある。
高校一年で頂点まで勝ち抜き、すでに高校生ナンバーワンプレイヤーとまで言われているらしいからな。現時点でも日本のトッププレイヤーに近いレベルがあるのではというのが世間の評価だ。
そういう話を聞くと本来なら手の届かないすごい奴なんだけど、わりと付き合いが長いせいでそんな風に見られないんだよな。だから本郷が海外に行くと言ったとしても納得できる一方で、何かしっくりしないというか不思議な感じがしてしまう。
「高木」
「ん?」
美穂ちゃんに呼ばれて意識が戻る。気づかず考え込んでいたようだ。
「本郷がやりたいことを決めた時、応援してあげてね」
「そりゃあもちろん。まあ、本郷なら応援され慣れているだろうけどね」
「そんなことない。高木が応援してくれたら、本郷はすごく喜ぶから」
無表情に真っすぐ見つめられる。美穂ちゃんの真剣さが伝わってきて、俺は頷いて応えた。
……俺と本郷は違う。容姿やスポーツではレベルが違いすぎて、張り合いなんかすれば周囲から冷めた目を向けられてしまう。それほどの差がある。
別に本郷に勝ちたいだとか、負けを認めているだとか、そんなことではない。ただ、親しい友達が、先の先を見据えて将来のための努力をしていると知ると、なんだか胸の奥がたぎってくるような気になるのだ。そこに関して差を感じているわけじゃないからな。
俺はどこまで進めているだろうか? 今は時間の進みとともに、焦りまでくっついてくるようになった。
「俺にできることか……」
手堅さは大切だ。でも、小さくまとまりすぎてはいないか、という迷いもある。スケールの大きい奴を見ると、どうしても比べてしまう。
幸せってやつを掴むのは思った以上に難しい。やり直したからこそ簡単ではなかったと実感する。
いや、これは現在進行形での話だな……。
「高木? 何難しい顔をしているの?」
美穂ちゃんに言われて眉間に力が入っていたことに気づく。
「いや、別に。なんでもないよ」
「そう。もうすぐ授業が始まるよ」
そう言って美穂ちゃんは無表情のまま自分の席に戻る。俺も遅れて席へと戻った。
※ ※ ※
放課後。今日は葵と二人で下校する。そのまま葵の家にお邪魔させてもらった。
瞳子は来月の文化祭について話し合いがあるとのことだ。生徒会は忙しいらしい。くつろいでいるばかりだと申し訳ないな。
「どうしたのトシくん? なんだか難しい顔をしているよ」
「そうか?」
昼間と同じことを言われて眉間に力が入っていたことに気づく。軽くマッサージして表情を緩めた。
「何か嫌なことでもあったの?」
「そういうわけじゃないから心配しないで」
嫌なことというか、もっとしっかりしないといけないって気持ちになっただけだ。俺って同じことばかりを考えてる気がするな……。
「本郷がさ、将来に向けてクリスと英会話の練習をしていたみたいなんだ。同い年の奴がちゃんと先のことを見据えているって考えたら、俺もしっかりしないとなって思って……」
ただでさえ葵と瞳子の問題に決着をつけられていないのだ。高校生になっても、俺はまだ自分が何をやりたいのだとか、そういう将来のことを決めかねている。
前世があるってのに遅すぎだ……。アドバンテージを生かせない自分に焦りが募る。
「そうなんだね……。ねえトシくん。私のピアノ、聴いてくれる?」
「え? うん。構わないよ」
突然ピアノを弾きたいという葵の後を追う。アップライトピアノの前に座った葵が「リラックスしていてね」と笑いかけてくれた。お言葉に甘えて用意された座布団に座らせてもらう。
そして、一瞬で空気が変わった。
コンサートでもないのに、葵の演奏は迫力があった。今までのように心に響くのはもちろん、何か表現し難い迫力を感じる。
一曲弾き終わった葵が振り返る。
「トシくん、どうだった?」
「すごかった……。俺はピアノのことに詳しくないけど、何か今までとは違うように感じたよ」
「そっか……。うん、聴いてくれてありがとう」
葵は少しだけ考えるような仕草を見せて、もう一度俺を見た。
「トシくんは、私が海外でピアノを演奏したいって言ったらどうする?」
「えっ!?」
唐突な言葉に驚きでいっぱいになってしまった。
どうするって……。いや、葵がやりたいことなら応援したいけど……。でもそれって、葵がいなくなるってことだよな……?
「あー、ごめんね。そんな深刻な話じゃないの。クリスちゃんと話している時にね、イギリスで演奏してくれたら楽しいのに、って言われたことがあって。それでちょっと聞いてみただけだよ」
「そ、そうなのか……」
かなり驚いた……。驚きすぎて今も心臓バクバク鳴ってるよ……。
「私も将来のことを決められていないし、どうしようかなってちゃんと考えてもいないんだよ。でもね、小さい頃からピアノが好きだなぁって……。できれば、どんな形でも、ピアノに関われる仕事に就けたらなって漠然と思っているんだ」
ニコッと葵は笑った。好きが伝わってくる笑顔だ。
葵はしっかりしている。自分の好きなものがはっきりしていて、そのための努力も欠かさない。
本人はまだまだだと言うんだろうけれど、充分しっかりした考えを持っていると思った。
「……それにね」
葵は床に胡座をかいている俺に、四つん這いになって近づいてきた。
「私はまず目の前のことに全力を注ぎたいの。絶対に、譲りたくないからね……」
顔が近い。下から見上げられて、吸い込まれそうな黒の瞳にのけ反りそうになる。
目の前のこととはなんのことか? そんなすっとぼけたこと、俺自身が口にできるはずがなかった。
彼女の言う通り、全力を注がないといけないことは目の前にある。
「トシくん……」
「葵……」
甘い空気だ。脳がしびれる感覚がした。彼女の匂いだけで頭がクラクラする。
「あんっ……」
葵を抱き寄せてキスをした。その時間は甘美なもので、いつまでも続けばいいと思った。
決着をつけなければならない関係。そして、どうしてもこの関係を終わらせたくないと考えてしまう自分がいるのも確かだ。
将来のことよりも、やはり俺は目の前のことに全力を向けなければならない。じゃないと、葵と瞳子の将来にも悪影響を与えてしまいそうだ。そのことを、肝に銘じなければならなかった。
本郷がA組の教室を訪れた。甘いマスクに反応してか、大半の女子から黄色い声が上がる。フィールド以外でも騒がれる奴だなぁ。
「本郷が忘れ物とは珍しいな」
スポーツの成績は最優秀である本郷だが、学業成績はすこぶる悪い。それでも忘れ物はしない奴だったってのにな。
「ついうっかりしてた。いざこういう時になると誰を頼ろうかって迷うな」
「それで頼るのが俺なのかよ」
本郷のF組は俺のA組の教室とけっこう離れている。本郷ならここに来る前に教科書貸してくれそうな人くらいいそうなもんだけどな。
「まあ、ちょうど持ってきてる科目だからいいけど」
「サンキュ。木之下の言った通りだったぜ」
「瞳子が?」
「俊成なら持ってきているはずよ、って言ってたからさ」
ああ、瞳子なら俺の今日の授業くらい覚えているか。でもな本郷、瞳子の声マネするお前はいくらイケメンだろうとも気持ち悪いぞ。
「ちょっと待ってろ。今持ってくる」
「おう。今度何かおごるぜ」
本郷が教室にいるだけで女子が騒がしい。さっさと渡してお引き取り願おう。
「あれ、本郷? うちのクラスに来るなんて珍しい」
「よう赤城。教科書忘れちゃってよ。今高木に借りてるところだ」
お花を摘みに行っていた美穂ちゃんグループが帰ってきた。本郷は笑顔で忘れ物をしたことを自白した。
「ほ、本郷くん!? ほ、本日はお日柄も良く……って、僕は何を言って……あわわ」
望月さんも本郷に気づいて顔を赤くしていた。お兄さん達がイケメン揃いで耐性がついているだろうに、それでも緊張してしまうようだ。
まったく緊張が見られないのは美穂ちゃんだけだった。まあ見慣れているってのもあるだろうし……いや、美穂ちゃんならたとえ初対面だったとしても緊張している姿を見せないだろう。実際はともかくとして。
「望月。本郷相手にそんな緊張しなくても大丈夫。忘れ物をしたただのうっかりさんだから」
「そうだぜ。普通でいいんだよ普通で」
「フツーよフツー」
「おっ、クリスだ。イエー!」
「ホンゴー! イエー!」
本郷とクリスがハイタッチを決めた。君らそんなに仲良しだったっけ?
机から頼まれた教科書を取り出して持って行く。
「はいよ。俺も使うんだからすぐに返してくれよ」
「ありがとな高木。次の休み時間に返しに来るよ」
俺から借りた教科書をブンブン振りながら本郷は自分の教室へと戻って行った。教科書は大切に扱いなさい。
「ああ……」
残念そうに本郷を見送る望月さんだった。わりとミーハーだよね。
「それにしても、クリスって本郷と仲良かったんだ。知らなかったよ」
「あれあれ? もしかしてトシナリ、嫉妬しているの?」
なんでやねん。俺には葵と瞳子がいるって知っているでしょうに。
クリスは「冗談よ」とケラケラ笑う。どこまでわかってやってんのかわからないんだよ。
「ホンゴーは私と英語で話したいって言うから。それで最近話すようになったのよ」
「クリスと英語で?」
「ええ。彼、面白いわね。ホンゴーって名前も呼びやすくていいわ」
クリスは「ゴー! ゴー!」と楽しそうに腕を振っていた。何それ応援?
そもそも本郷って英語しゃべれたのか? さほど学業成績が良くないと知っているだけに不思議に思ってしまった。
「ネイティブな発音を聞き慣れておきたいんだってさ。本郷自身、けっこうしゃべれていたし」
と、美穂ちゃんが教えてくれた。本郷は勉強でも実践向きらしい。
「へぇ……」
本場の英語を慣れておきたいと……。本気で英会話を勉強しているんだな。
いずれ本郷ならプロのサッカーチームに入ると思っていた。けれど、俺が想像していたのは日本のチームで、海の向こう側のことまでは考えてもみなかった。
さすがは本郷か。スケールが違う。
前世でもすごい奴だったけれど、今の本郷なら海外でも通用するんじゃないかって期待感がある。
高校一年で頂点まで勝ち抜き、すでに高校生ナンバーワンプレイヤーとまで言われているらしいからな。現時点でも日本のトッププレイヤーに近いレベルがあるのではというのが世間の評価だ。
そういう話を聞くと本来なら手の届かないすごい奴なんだけど、わりと付き合いが長いせいでそんな風に見られないんだよな。だから本郷が海外に行くと言ったとしても納得できる一方で、何かしっくりしないというか不思議な感じがしてしまう。
「高木」
「ん?」
美穂ちゃんに呼ばれて意識が戻る。気づかず考え込んでいたようだ。
「本郷がやりたいことを決めた時、応援してあげてね」
「そりゃあもちろん。まあ、本郷なら応援され慣れているだろうけどね」
「そんなことない。高木が応援してくれたら、本郷はすごく喜ぶから」
無表情に真っすぐ見つめられる。美穂ちゃんの真剣さが伝わってきて、俺は頷いて応えた。
……俺と本郷は違う。容姿やスポーツではレベルが違いすぎて、張り合いなんかすれば周囲から冷めた目を向けられてしまう。それほどの差がある。
別に本郷に勝ちたいだとか、負けを認めているだとか、そんなことではない。ただ、親しい友達が、先の先を見据えて将来のための努力をしていると知ると、なんだか胸の奥がたぎってくるような気になるのだ。そこに関して差を感じているわけじゃないからな。
俺はどこまで進めているだろうか? 今は時間の進みとともに、焦りまでくっついてくるようになった。
「俺にできることか……」
手堅さは大切だ。でも、小さくまとまりすぎてはいないか、という迷いもある。スケールの大きい奴を見ると、どうしても比べてしまう。
幸せってやつを掴むのは思った以上に難しい。やり直したからこそ簡単ではなかったと実感する。
いや、これは現在進行形での話だな……。
「高木? 何難しい顔をしているの?」
美穂ちゃんに言われて眉間に力が入っていたことに気づく。
「いや、別に。なんでもないよ」
「そう。もうすぐ授業が始まるよ」
そう言って美穂ちゃんは無表情のまま自分の席に戻る。俺も遅れて席へと戻った。
※ ※ ※
放課後。今日は葵と二人で下校する。そのまま葵の家にお邪魔させてもらった。
瞳子は来月の文化祭について話し合いがあるとのことだ。生徒会は忙しいらしい。くつろいでいるばかりだと申し訳ないな。
「どうしたのトシくん? なんだか難しい顔をしているよ」
「そうか?」
昼間と同じことを言われて眉間に力が入っていたことに気づく。軽くマッサージして表情を緩めた。
「何か嫌なことでもあったの?」
「そういうわけじゃないから心配しないで」
嫌なことというか、もっとしっかりしないといけないって気持ちになっただけだ。俺って同じことばかりを考えてる気がするな……。
「本郷がさ、将来に向けてクリスと英会話の練習をしていたみたいなんだ。同い年の奴がちゃんと先のことを見据えているって考えたら、俺もしっかりしないとなって思って……」
ただでさえ葵と瞳子の問題に決着をつけられていないのだ。高校生になっても、俺はまだ自分が何をやりたいのだとか、そういう将来のことを決めかねている。
前世があるってのに遅すぎだ……。アドバンテージを生かせない自分に焦りが募る。
「そうなんだね……。ねえトシくん。私のピアノ、聴いてくれる?」
「え? うん。構わないよ」
突然ピアノを弾きたいという葵の後を追う。アップライトピアノの前に座った葵が「リラックスしていてね」と笑いかけてくれた。お言葉に甘えて用意された座布団に座らせてもらう。
そして、一瞬で空気が変わった。
コンサートでもないのに、葵の演奏は迫力があった。今までのように心に響くのはもちろん、何か表現し難い迫力を感じる。
一曲弾き終わった葵が振り返る。
「トシくん、どうだった?」
「すごかった……。俺はピアノのことに詳しくないけど、何か今までとは違うように感じたよ」
「そっか……。うん、聴いてくれてありがとう」
葵は少しだけ考えるような仕草を見せて、もう一度俺を見た。
「トシくんは、私が海外でピアノを演奏したいって言ったらどうする?」
「えっ!?」
唐突な言葉に驚きでいっぱいになってしまった。
どうするって……。いや、葵がやりたいことなら応援したいけど……。でもそれって、葵がいなくなるってことだよな……?
「あー、ごめんね。そんな深刻な話じゃないの。クリスちゃんと話している時にね、イギリスで演奏してくれたら楽しいのに、って言われたことがあって。それでちょっと聞いてみただけだよ」
「そ、そうなのか……」
かなり驚いた……。驚きすぎて今も心臓バクバク鳴ってるよ……。
「私も将来のことを決められていないし、どうしようかなってちゃんと考えてもいないんだよ。でもね、小さい頃からピアノが好きだなぁって……。できれば、どんな形でも、ピアノに関われる仕事に就けたらなって漠然と思っているんだ」
ニコッと葵は笑った。好きが伝わってくる笑顔だ。
葵はしっかりしている。自分の好きなものがはっきりしていて、そのための努力も欠かさない。
本人はまだまだだと言うんだろうけれど、充分しっかりした考えを持っていると思った。
「……それにね」
葵は床に胡座をかいている俺に、四つん這いになって近づいてきた。
「私はまず目の前のことに全力を注ぎたいの。絶対に、譲りたくないからね……」
顔が近い。下から見上げられて、吸い込まれそうな黒の瞳にのけ反りそうになる。
目の前のこととはなんのことか? そんなすっとぼけたこと、俺自身が口にできるはずがなかった。
彼女の言う通り、全力を注がないといけないことは目の前にある。
「トシくん……」
「葵……」
甘い空気だ。脳がしびれる感覚がした。彼女の匂いだけで頭がクラクラする。
「あんっ……」
葵を抱き寄せてキスをした。その時間は甘美なもので、いつまでも続けばいいと思った。
決着をつけなければならない関係。そして、どうしてもこの関係を終わらせたくないと考えてしまう自分がいるのも確かだ。
将来のことよりも、やはり俺は目の前のことに全力を向けなければならない。じゃないと、葵と瞳子の将来にも悪影響を与えてしまいそうだ。そのことを、肝に銘じなければならなかった。
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