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本編
二章1 異世界での生活
しおりを挟む寝込んでいた剛樹が起き上がれるようになった頃、広々とした倉庫兼研究室で、異世界漂着物を記録していたユーフェは、門の外でガロンガロンと鳴り響く鐘の音を聞きとった。
門のほうへ行くと、見知った者のにおいがする。
ユーフェが門扉を開けると、荷車の傍で、大きな銀狼族の男が帽子を脱いでお辞儀をした。近くの村に住む者で、通いの使用人である。名はイルクといった。
「おはようございます、ユーフェ様。料理をお持ちしましたよ」
「おお、ありがたい」
「中に運びますね」
「頼む」
イルクは慣れた動作で、荷車から荷物を持ち上げ、塔の一階にある台所へ運んでいく。二日分の料理やパンを納めた木箱、スープがたっぷり入った大鍋、鋼木の薪など、あっという間に空になった。
イルクは二日に一度は食べ物や料理を運んできて、洗濯や掃除、畑の世話などの雑用をしてから帰っていく。料理はイルクの妻が作ったものを持ってきてくれていた。
狼の獣人は伴侶を大事にする。いくら王子の身の回りの世話といっても、独身男の一人住まいに、嫁を仕事に出す夫はいない。
料理を温めなおすくらいはユーフェにもできるので、それで問題ない。最も不得意なのは洗濯だから、いっそ雑用はそれだけでも構わなかった。
荷を運び終えたイルクが部屋から出てきたところで、ユーフェはイルクを呼び止める。
「イルク、次からは料理をもう少し増やしてくれるか」
「え? 量が足りなかったんですか?」
「いや」
イルクは口が固いので、ユーフェは剛樹を助けた話をした。
「そういうわけだから、村人に小遣い稼ぎをしないかと声をかけておいてくれ。まずは二階の部屋の片付けから……」
聖なる泉から現われた人族。そんな変わった者に興味をひかれる輩もいるだろうから、念のため、イルクには剛樹がどこから来たのかは、妻以外には伏せるように命じて、村人には助手を雇ったと伝えるように言う。その上で、手伝いを頼むことにした。
「ユーフェ様、その人族っていうのは、後ろのあれですよね?」
イルクが指差すので、ユーフェは振り返る。
剛樹がそろりそろりと階段を下りてくるところだった。塔の階段は剛樹のような人族には大きすぎるらしく、まるで岩山を下りるみたいだ。慎重に足元を確認している。
「…………」
「…………」
ユーフェとイルクは顔を見合わせる。ユーフェは無言で驚いていた。そういえばトイレの時など、不調だからとユーフェが塔の下へ運んでやっていたから、剛樹が自分で上り下りするところを見ていない。
イルクが苦笑とともに提案する。
「ユーフェ様、二階より一階のほうがいいのでは?」
「……ああ、そうだな」
なんとか一番下に着地した剛樹は、二人がこちらを見ていることに気付いて、けげんそうにした。
*****
イルクはくすんだ銀毛を持った獣人の男だ。
ユーフェでも大きいと思ったのに、二メートルを越す巨体の持ち主に見下ろされ、剛樹は当然のように震えあがった。素早くユーフェの後ろに隠れる。
(左目の切り傷なんて、歴戦の猛者にしか見えないよ……)
鋼木の林の向こうにあるザザナ村の住人らしいが、とても村人に見えない。
「このちんまいのが、泉に流れ着いたんですか。普通の人族のようですね」
「ああ。だが、便利な道具が多い世界で暮らしていたとかで、生活する上で分からないことが多いようだ。何か困っていたら、教えてやってくれ」
「はい」
イルクは頷いて、剛樹に名乗る。
「俺はイルクっていうんだ。よろしくな、人族の男」
「俺は沖野剛樹といいますが、ここの方には呼びづらいそうなので、モリオンというあだ名で呼んでください」
「分かった、モリオン。なんだ、人族にしては礼儀正しいじゃないか」
怖くて目を合わせられないでいるのに、何故かイルクは感心した様子で言った。ちらっと見ると、イルクは正面ではなく横向きに立っている。
「礼儀正しいって何が?」
「人族ときたら、狼族に向かって、正面から目を合わせてくるんだ。あれはこっちでは喧嘩を売るって意味になるんだ。横から話しかけるか、目を合わせないのが礼儀だ」
「そうなんですか……」
巨体がおっかなくて目をそらしていただけなのに、たまたま銀狼族のマナーに合っていたらしい。驚きのカルチャーの差である。
(そういえばユーフェさんも、最初に話しかけてきた時は横からだったな)
扉を開けたら外にいたのは、たまたま部屋に入ろうとしていただけだろう。あの後、剛樹が尻餅をついて、転んで頭を打っていたから横に来たのだと思っていたが、あれはマナーだったのか。
「イルク、人族は私達のように鼻がきかないんだ。だから目を見て判断するらしいぞ」
「それでもだまされるでしょう、人族って。難儀ですなあ」
かわいそうにというイルクの言葉に、確かにそうだなと、剛樹も頷く。
「モリオン、いずれ村に行くこともあろう。初対面の銀狼族には、できるだけ遠くから話しかけたほうがいい。よそ者を警戒するからな。それから、いつものようにしておけば大丈夫だ」
「はい、分かりました、ユーフェさん」
剛樹が素直に頷くと、イルクが注意する。
「駄目だぞ、様をつけないと。ユーフェ様は王子なんだからな」
「構わん、イルク。助手にするが、聖なる泉に現れたのだから、神が寄越した客人だ。家族だと思って接するつもりだ」
「ユーフェ様が構わないんなら、俺はいいんですがね」
イルクは意外そうに返す。剛樹はユーフェに恐る恐る問う。
「家族……? 俺のこと、養子にするんですか?」
「まさか。私はお前より二歳年上だぞ、養子になどするか。弟のように接すると言っているだけだ。王子として保護をすると言っただろう? 後見人といえば分かるか?」
「保護者のことですか?」
「そうだ」
「分かりました。でも、ユーフェさん、俺と二歳しか変わらないんですか? 大人ですね……」
「お前が子どもっぽいだけだ」
なんとも突き刺さることを言うが、ユーフェに比べれば、たしかに剛樹は幼く感じられるだろう。体格だけでなく、精神的にも。
「さて、と。その様子では二階は大変そうだから、一階をお前の部屋にするつもりだが、ここは台所と居間兼食堂、それから風呂場があるのだ。出入りがあるから、落ち着かないだろうな……」
うなるユーフェに、イルクも同意する。
「確かに、一人の空間は必要でしょうな。急に環境が変わったんなら、尚更ですよ。同じ一階なら、研究室のほうがいいのでは?」
「あそこにも暖炉はあるから、大丈夫だろうか。隙間風を塞いでおかないとな」
「それも含めて、大工に頼みましょう。家具の長さなんかも測らないといけませんし」
「そうだな」
剛樹がぽかんとしているうちに、話が進んでいく。
「あ、あの、俺、台所でも……別に……」
「はあ? 駄目駄目! 一人部屋は必須だよ。どんなに狭くても、一人につき一部屋を用意するのが普通だ」
イルクはとんでもないと言い張る。
「え……でも……居候なのに、悪いし……」
ごにょごにょと言い訳するが、イルクは首を振る。
「それで気疲れして体調不良になるんじゃあ、意味がないだろう。俺達、銀狼族はテリトリーを大事にするからな。自分だけのテリトリーっていうのが必要なんだ。伴侶は別だけどな。同じ巣を共有する……まさに愛の巣!」
なぜか急にテンションが上がったイルクは、拳を握って力説した。
「あ、愛……の巣」
面食らいながら、剛樹は繰り返す。
「イルクはこんな顔だが、愛妻家なのだ」
ユーフェが剛樹に教えた。
「まあ、イルクだけではない。獣人にも色々いるが、狼族は伴侶への愛が深い。一度、番を持ったら、死ぬまで連れ添う。浮気などありえん」
「情熱的な一族なんですね?」
剛樹は当たり障りのないことを言った。正直、純愛のまま共に過ごすというのはうらやましい。
「そう! その通りだ。礼儀正しいだけでなく、よく分かっているじゃないか。モリオン、お前のことを気に入った。今度、家内に会わせてやろう。村も案内してやるから、楽しみにしていろよ」
うれしそうにパタパタと尻尾を揺らし、イルクが大きな右手を剛樹のほうに伸ばす。
「ひっ」
思わず首をすくめると、ユーフェが割って入った。
「イルク、怖がっているからやめろ。私にもやっと慣れたのだぞ。最初など気絶されたのだからな」
「すみません、ユーフェ様。モリオンも悪かった。これからは白鼠族だと思って接するからな」
「はあ……」
よく分からないまま、剛樹は生返事をする。
「動きは素早いが、気が小さくて体も小さい獣人だ。体の大きな獣人を怖がるところが、お前とそっくりなのだ」
ユーフェが教えてくれて、そういう意味かと納得した。
「怖がってすみません。よろしくお願いします」
「おう! 風邪で寝込んでいたのだろ、具合はどうなんだ?」
「もう大丈夫です。あの、俺、ちょっとトイレのほうに……」
一階まで下りるのに時間がかかったので、結構ぎりぎりだ。そわそわする剛樹を見て、イルクは横にずれて道をあけてくれた。
塔から少し離れたトイレは小さな小屋だ。三段の階段を上り、扉を開けると、部屋の真ん中に溝があいている。下に桶が置いてあって、それをときどき運び出して、森の中にある共同の廃棄場所に捨てるんだそうだ。
すると、そのうち大きなハエがやって来て、卵を産み付けるので、糞を食べてしまうらしい。ユーフェが大きいと強調するようなハエがどんなものなのかが気になる。怖いもの見たさだ。
用を終え、井戸で手を洗ってから戻ると、玄関前にいたユーフェに手招かれた。
「モリオン、朝食にするぞ」
「はい!」
「もう大丈夫そうなら、今日から研究室に入ってみるか?」
「研究室……? あ、異世界漂着物の?」
この塔は三階建てで、二階は物置だと聞いていたが、他に研究室らしきものを見た覚えがない。もちろん、銀狼族の三階なので、剛樹にとっては五階くらいに感じる高さだ。
剛樹が上を見たからか、ユーフェは庭にある倉庫を指差した。
「あれだ」
「妙に広い倉庫だと思ったら、研究室なんですね」
「貴重品置き場でもある。異世界からの漂着物は、何に使うか分からない物も多いが、素材として見ると金になるからな。危険物があるかもしれないし、争い事を避けるために、王家が管理しているのだ。だからこの塔は高い塀に囲まれている」
門扉をしっかりと棒で鍵をかけていたのを思い出し、分厚い守りが敷かれているのはそのせいなのかと剛樹は頷いた。
「警備の人っていないんですか?」
台所から顔を出したイルクが笑った。
「ははは! ラズリア王家の人間がいるのに襲ってくるとしたら、物を知らない馬鹿だけだよ。男も女も、武芸の達人だ」
ユーフェは口元を引き締めた。
「私は達人というほどではない。兄達にかなった試しはないからな」
「あ、あー、すみません!」
イルクは口を手で押さえて、「やっちまった」というように首をすくめる。
「で、でも、殿下はお強いですよ」
フォローしようとしたが、ユーフェが不愉快そうに鼻を鳴らしたので、イルクはそそくさと台所のほうに戻った。いったいどうしたのかと、剛樹はイルクとユーフェを見比べる。なんとなく突っ込んで訊いてはいけないような雰囲気なので、質問するのはやめておいた。
「修業中、守備隊にいたと話しただろ?」
ユーフェがぽつりと付け足したので、剛樹はこくっと頷く。
「あ、だから強いんですね! 守備隊って警察みたいなものなのかな」
「警察権はある」
「剣って言ってたから、騎士団とかあるんですか?」
中世ファンタジーみたいだ。興味をひかれての問いに、ユーフェは首を振る。
「銀狼族に、騎士なんてものはいない。馬に乗らないからな」
「乗らないんですか?」
「私達が乗ったら重すぎる。馬が死ぬ」
「な、なるほど……!」
銀狼族は乗らないが、人族はロバや馬を使うそうだ。
「じゃあ、王様はどうやって移動するんですか?」
「使うとしたら、車を牛でひかせるか、輿だな。車をひかせるなら馬でもいいんだが、あれは臆病な動物だから、私達におびえて使いものにならん」
「はあ……なんだか大変なんですね?」
剛樹は目を白黒させて、無難なことを返した。
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