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後編 一輪の花
空は自由 2
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涙が乾いてからは、初めての空中散歩をメィヴェルは瞳を輝かせて楽しんだ。
しかし、慣れない揺れには少しばかり弱いのか、顔色があまり良くはない。それでフィロスは、ゆったりと風に乗って、空を優雅に泳いだ。
「このあたりは緑が少ないのね」
どちらの国も都市部ほど大地は痩せ、栄えた街と裏腹に荒涼とした景観が広がる。
「花が生きられない地へ、人が変えてしまった。そなたの花畑を見れば、人はいま一度立ち止まる機会を得られると思うか?」
枯れた大地を痛ましく見つめるメィヴェルは、曖昧に首を振る。顔色がさらに悪くなったように、ヴェルミリオには見えた。
「もはや、手遅れだろうか」
「わからないわ。でも、そうじゃなければいいな……と思うの」
哀しげに微笑んだ後、メィヴェルはふと空の向こうを指差した。
「あれは何かしら?」
シルミランの雲の中に、一見すると月のような、冴え冴えと白い光を放つ球体が浮かんでいる。
謎の物体はしばらくその場を浮遊していたが、やがて雲に隠れて見えなくなった。
「新たな魔導具だろうか? とうとう空まで区切る時が来たか?」
懸念を眉根に寄せるヴェルミリオだが、メィヴェルは首を傾げる。やはり、いまいちぴんと来ていない仕草だ。
「空を仕切られたら、こうして散歩ができなくなる」
「それは困るわ。わたし、もっとこうしていたいもの」
風も、フィロスの背中も、ヴェルミリオも……すべてが温かくて心地いいと、屈託なく口にして娘は頬を膨らます。
戦の匂いに染まらない、清らかな純真に胸を掴まれ、淡く青い想いがヴェルミリオの口から溢れそうになった。
その時だ。
メィヴェルの体がぐらりと傾いだ。
ヴェルミリオが咄嗟に引き起こさなければ、危うくフィロスの背から滑り落ちるところだった。
「メィヴェル!?」
顔色がさっきより格段に悪い。菫のように青ざめた肌を、じっとりとした汗が濡らす。
「ごめんなさい。ここは、空気が合わないみたい……」
「どこか悪いのか」
ふるふると首を振り、メィヴェルは力なくもたれかかった。
「薬がいるか? 何か俺にできることは」
「……帰りましょう」
「帰る?」
「うん、いつもの花たちのところへ」
もっと散歩していたいけれど、とメィヴェルは青い顔ではにかむ。
「……そこが、そなたのいま帰るべき場所なのだな?」
「ええ」
気を失うようにメィヴェルが眠りに落ちたので、帰りのフィロスは、二人を振り落とさないだけの全力で空を駆けた。
*
いつもの石積みが見えてきた時、花畑には茜色の光が射していた。
メィヴェルは眩しさに瞼を叩かれて、目を覚ます。
花々の香りに満ちた風に安堵するように、深い息を二度、三度と吸っては吐いて、頬に血色を取り戻した。
「もう、大丈夫か?」
「うん……ずっと気分がいい」
「早くに気付けばよかったものを、散々な一日にしてすまなかった」
「どうして謝るの? 行きたいと決めたのは、わたしよ。お散歩はとっても楽しかったし、あんなに綺麗な海も……ヴェルミリオとフィロスがいなかったら一生見られなかったもの」
また連れて行ってねと微笑み、石積みに降りようとするメィヴェルを、ヴェルミリオは素直に帰す気になれなかった。
地上に降りた瞬間に、国境に分かたれ触れられなくなる。
できることなら、このまま連れ帰りたいと願うほどに、別れを惜しんだのは初めてのことだ。
しかし、竜公爵と恐れられる男のもとで、か弱い娘が幸福になれるとも思えず、できたのはせいぜい、すり抜けていく亜麻色の髪を掬うことだけだった。
「……世界が、空であったなら」
甘やかな花の香りを指の間に残して、メィヴェルは花畑の奥へ姿を消した。
数日後、ユグナーから速達便が届いた。
魔導具を嫌うヴェルミリオに配慮して、普段は使うことのない連絡手段だ。
よっぽどの報せと覚悟して、ヴェルミリオは封を切る。
ヴェルミリオには見慣れた、だがいささか慌てていたのだろう。いつもよりも荒っぽい筆使いのユグナーの文字が並んでいる。
一つは、フラー四世の崩御と、それに即して齢十一の少年王が誕生したことを知らせる内容が記されていた。
二つ目は、シルミランが空から魔力を採集する、浮遊型の魔導具を開発し、実用に乗り出したという、穏やかでない報せだった。
そして、これに続く言葉が、ヴェルミリオを震撼させた。
『シルミランは空に境が存在しないことを盾に、我が国の上空を侵し、かの新型魔導具を用いて魔力の略奪を始めました。これを受け、新王ルモニア陛下は制裁的侵攻を宣言し──』
張り詰めた弓弦の上にあった均衡はとうとう破られ、戦いの火蓋が切られたのである。
ーーーー
次章では一部だけ残酷な描写含みます。全編に渡るのではなく、ほんの一部です。
しかし、慣れない揺れには少しばかり弱いのか、顔色があまり良くはない。それでフィロスは、ゆったりと風に乗って、空を優雅に泳いだ。
「このあたりは緑が少ないのね」
どちらの国も都市部ほど大地は痩せ、栄えた街と裏腹に荒涼とした景観が広がる。
「花が生きられない地へ、人が変えてしまった。そなたの花畑を見れば、人はいま一度立ち止まる機会を得られると思うか?」
枯れた大地を痛ましく見つめるメィヴェルは、曖昧に首を振る。顔色がさらに悪くなったように、ヴェルミリオには見えた。
「もはや、手遅れだろうか」
「わからないわ。でも、そうじゃなければいいな……と思うの」
哀しげに微笑んだ後、メィヴェルはふと空の向こうを指差した。
「あれは何かしら?」
シルミランの雲の中に、一見すると月のような、冴え冴えと白い光を放つ球体が浮かんでいる。
謎の物体はしばらくその場を浮遊していたが、やがて雲に隠れて見えなくなった。
「新たな魔導具だろうか? とうとう空まで区切る時が来たか?」
懸念を眉根に寄せるヴェルミリオだが、メィヴェルは首を傾げる。やはり、いまいちぴんと来ていない仕草だ。
「空を仕切られたら、こうして散歩ができなくなる」
「それは困るわ。わたし、もっとこうしていたいもの」
風も、フィロスの背中も、ヴェルミリオも……すべてが温かくて心地いいと、屈託なく口にして娘は頬を膨らます。
戦の匂いに染まらない、清らかな純真に胸を掴まれ、淡く青い想いがヴェルミリオの口から溢れそうになった。
その時だ。
メィヴェルの体がぐらりと傾いだ。
ヴェルミリオが咄嗟に引き起こさなければ、危うくフィロスの背から滑り落ちるところだった。
「メィヴェル!?」
顔色がさっきより格段に悪い。菫のように青ざめた肌を、じっとりとした汗が濡らす。
「ごめんなさい。ここは、空気が合わないみたい……」
「どこか悪いのか」
ふるふると首を振り、メィヴェルは力なくもたれかかった。
「薬がいるか? 何か俺にできることは」
「……帰りましょう」
「帰る?」
「うん、いつもの花たちのところへ」
もっと散歩していたいけれど、とメィヴェルは青い顔ではにかむ。
「……そこが、そなたのいま帰るべき場所なのだな?」
「ええ」
気を失うようにメィヴェルが眠りに落ちたので、帰りのフィロスは、二人を振り落とさないだけの全力で空を駆けた。
*
いつもの石積みが見えてきた時、花畑には茜色の光が射していた。
メィヴェルは眩しさに瞼を叩かれて、目を覚ます。
花々の香りに満ちた風に安堵するように、深い息を二度、三度と吸っては吐いて、頬に血色を取り戻した。
「もう、大丈夫か?」
「うん……ずっと気分がいい」
「早くに気付けばよかったものを、散々な一日にしてすまなかった」
「どうして謝るの? 行きたいと決めたのは、わたしよ。お散歩はとっても楽しかったし、あんなに綺麗な海も……ヴェルミリオとフィロスがいなかったら一生見られなかったもの」
また連れて行ってねと微笑み、石積みに降りようとするメィヴェルを、ヴェルミリオは素直に帰す気になれなかった。
地上に降りた瞬間に、国境に分かたれ触れられなくなる。
できることなら、このまま連れ帰りたいと願うほどに、別れを惜しんだのは初めてのことだ。
しかし、竜公爵と恐れられる男のもとで、か弱い娘が幸福になれるとも思えず、できたのはせいぜい、すり抜けていく亜麻色の髪を掬うことだけだった。
「……世界が、空であったなら」
甘やかな花の香りを指の間に残して、メィヴェルは花畑の奥へ姿を消した。
数日後、ユグナーから速達便が届いた。
魔導具を嫌うヴェルミリオに配慮して、普段は使うことのない連絡手段だ。
よっぽどの報せと覚悟して、ヴェルミリオは封を切る。
ヴェルミリオには見慣れた、だがいささか慌てていたのだろう。いつもよりも荒っぽい筆使いのユグナーの文字が並んでいる。
一つは、フラー四世の崩御と、それに即して齢十一の少年王が誕生したことを知らせる内容が記されていた。
二つ目は、シルミランが空から魔力を採集する、浮遊型の魔導具を開発し、実用に乗り出したという、穏やかでない報せだった。
そして、これに続く言葉が、ヴェルミリオを震撼させた。
『シルミランは空に境が存在しないことを盾に、我が国の上空を侵し、かの新型魔導具を用いて魔力の略奪を始めました。これを受け、新王ルモニア陛下は制裁的侵攻を宣言し──』
張り詰めた弓弦の上にあった均衡はとうとう破られ、戦いの火蓋が切られたのである。
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次章では一部だけ残酷な描写含みます。全編に渡るのではなく、ほんの一部です。
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