恋喰らい 序

葉月キツネ

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恋喰らいのサガ

恋喰らいの生き方3

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「ただいま」
 家に誰もいないことは玄関の明かりがついていないことと鍵が閉まっているので分かってはいたが癖でつい言ってしまう。
 陽を浴びた独特のいい香りのする洗濯物を取り込んでから、晩御飯の支度にかかると玄関から「ただいま。奏の方が先だったか」という声が聞こえてきた。その声に「おかえり」とここからでも聞こえるようなに返した。
「私もさっき帰ってきたところなの」
「奏より早く帰ってせめて洗濯物だけでも入れておくつもりだったのになぁ。すまないなぁ」
「いいのいいの、お父さんは着替えてきて。晩御飯もう少しかかるからゆっくりしておいて」
 手伝ってくれるのは嬉しいが、仕事帰りのお父さんに手伝ってもらうのはこちらの方が申し訳ない気がした。
「そうかそれなら少しゆっくりさせてもらうよ。晩御飯楽しみにしておくよ。包丁とかで手を切らないようにね」
 少々過保護すぎるような気がするが、それがお父さんのいいところでもある。

「御馳走様でした。おいしかったよオムライス」
 仮においしくなくても同じ事を言ってくれそうな気がするが、自分もこう食べれているのだから並程度にはできていると思いたい。
「でもお母さんのはもっと美味しいからまだまだだなぁ」
 作り方は知っていても、なかなか同じものはできないのが料理の難しいところだ。現に玉子の部分の半生はうまくいかず、固焼きみたいなのになってしまっていてとても悔しい。
「経験が大事な要素でもあるから仕方ないさ。まだまだこれから。お母さんも最初はよく失敗してたからそんなものだよ」
「えっ、そうなの? その話聞きたい!」
 お母さんの失敗話には興味が惹かれた。なかなか自分の失敗談は恥ずかしがって話してくれないのが昔からで、隠されると一層気になっていた。それに、お母さんがミスをしている所というのがなかなか想像できないというのもあった。
「お母さんには内緒だぞ。後で怒られるのが怖いから」
 とは言っても私が知ってると分かった時点で犯人が分かってしまう。それでも「もちろん」と即答する。お父さんのためにも聞いたことは黙っておくつもりだが、ボロが出てしまったときはごめんなさい。
「でもお父さんとゆっくり話をしてるのはすごい久しぶりな気がするな」
 思い返してみると二人でゆっくりと話をしている思い出がなかった。別に仲が悪かったのではない、単純に昔は仕事が忙しかったのと、いつでもお母さんも含めた三人だったからだ。
「そうだな。いつもは三人だからね、奏と二人っていうのは初めてかもしれないな。意外だ」
 同じことを考えていたのかお父さんがつぶやいた。
「でも奏がこんなに料理もできるようになってたのも驚きだ。成長したなぁ。お母さんと初めて会ったのも今の奏で位の年だったかな、懐かしい」
「それも聞きたい!」
 自分の事をしみじみと言われるとなんだか恥ずかしいが、それ以上にとても気になる話が出てきた。両親の馴れ初めなんか聞いたことがなかった。自分が普通の恋愛などしたことがないからこそ、とても気になることだった。両親がどんな出会いをしてどんなことがあって結婚したのか、今の幸せそうな家族になるまでの話は失敗談よりも気になり、好奇心を抑えられなかった。
「どうしたの?」
 お父さんが口を押えながら笑っている。
「奏がそんなに食いついてきて緩んだ顔をすると思わなくて」
 そう言うと父は今度は声を出して笑った。好奇心のあまりに思わず気が緩んで、顔がゆるんでしまっていたようだ、恥ずかしさを隠すように自分の頬を手で軽く叩いて咳払いをした。
「それならまずは洗い物だけでも先に済ませてからだな。恥ずかしいけどゆっくりお茶でも飲みながら話そうか」
 
 洗い物と言っても二人分だけなのでほとんど手間などはない。だが、今から聞ける話を早く聞きたいがために一心不乱に集中しながら洗い物に取り掛かる。調理に使用した器具と盛り付けに使用した洒落た皿を慣れた手つきで汚れを取っていく、水道から流れ出る勢いのある水の音と食器がこすれる音のみがキッチンに響く。
丸型の皿を形に沿って軽く拭きあげていると、突然自分の左肩に何か触れた気がした。気がしたではない、現在進行形で自分の左肩に何かが乗っている。それが人の手だと認識するよりも前に、自分の後ろに人がいたことに驚いた。
「びっくりした。今お皿持っているからあぶないよ。どうしたのお父さん?」
 当たり前の話だが、今この家には自分とお父さんしかいない。それ以外誰もいないことは分かっていても、音もなしに背後からのアクションを起こされると驚いてしまう。
「お茶なら少し待ってね」
 背後に立つお父さんからは返答がない。
 ただ、何かが変わったことには気づいた。音だ。勢いよく流れる水の音は変わらず、食器どうしの擦れる音は止まり、自分の声が響く、そして、大きく息を吐く音だ。自分ではなく、背後の人物から聞こえてくるかすかな音。
 一回の音が大きいのではなく、大きな息を吐く音が連続で聞こえてくる。高揚からくる勢いを我慢できない時の呼吸音。覚えている、子どもの頃に自分の好きだったテレビを静かに興奮しながら見ていた時の呼吸、そして、つい最近知った欲望を我慢する時の男の呼吸だ。
「本当によくお母さんに似てきたなぁ」
 質問に対する返答ではなかった。一人で確認するかのような独り言が聞こえてきた。
 左肩に乗っていた手に少しの力が込められた。痛くはないが、離さないという意思が伝わる。
 振り返ることに恐怖を覚えた。振り向くとそこには自分の知らない誰かが立っている気がしたからだ。
 腰に何かが触れた。左肩と同じ感触、手のひらが添えられた。
 思わず体を反転させて背後に立つ人物と対面する。知っている顔、間違いなくお父さん。さっきまで一緒に話をしながら晩御飯を食べていた笑顔のお父さん。ただ、さっきまでの笑顔とは違う。恍惚としていて、目を見開くような笑顔だ。
 対面した瞬間に抱き寄せられた。手に持った皿一枚を挟みながら体が密着する。反射的に手を伸ばして、相手を突き飛ばす動作と一歩背後に後ずさって壁を背後に距離をとる。お互いが手を伸ばせば届くような距離で対峙した。
「どうしたんだ?」
 それを言いたかったのは自分だ。
「お父さんこそ、何…。何をしようとしたの」
 初めて親に向かって心の底から怒りを込めた言葉をぶつけた。怒りと敵意と殺意が入り混じった言葉を。
「何って。子どもの頃こうして遊んだじゃないか」
 何食わぬ顔で答えた。当たり前な簡単な問題を解くように。
「そんなの知らない。それにもう子どもじゃない」
「そうだよな。もう大きくなったな」
 その言葉とともに向けられた下から上へ流すような不快な視線に吐き気を覚えた。心底気持ち悪い。
 逃げる方向を間違えた。背後と右には壁、左には冷蔵庫。焦って咄嗟に逃げたのが失敗だった。逃げ場はない。少しずつではあるが、二人の距離が詰まってきている。
 次の行動は単純だった。距離を詰めて壁際から私の両肩をつかんで離して引寄せてきた。後ろに力を込めて踏ん張ることも振りほどくことはできない。
「嫌。やめて」
無我夢中で皿を盾のように突き出しながら、前へと突っ込んだ。体当たりをするような形で倒れこむ。手に持っていた皿は手から離れて落ち、鈍い音と共に細かな破片として広がった。
男の上に馬乗りになるような形になる。そのまま両手を男の首に当てた。男は目を皿のように見開いて、信じられないというような表情でこちらを見ていた。目の前の顔を見ると嫌悪感と吐き気と共にもう一つの感情がこみ上げてきた。満足感だ。生きてきた中では感じたことのない初めての感覚。
それを自覚すると思わず、胃から喉へと伝ってくる熱のようなものを手で押さえこんだ。涙が頬を伝って、口に当てた手を伝って床へと落ちていった。
「奏…。俺は…何をしようと…」
 男の言葉が聞こえると同時に立ち上がり、リビングを通って玄関まで走った。適当な靴を履いてドアを開けるまでの間にキッチンからは男の涙を流しながらの震えた声で「ごめん、ごめんなさい」と言う謝罪がまるで呪詛のように聞こえてきたが、振り返ることなく家を飛び出した。
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