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いきなりのトラブル
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冬が老い、春が生を受ける。そうした季節の流れが、この国にもあった。ルメニアの冬は大陸南端に位置するためさほど厳しくはなく、夏も湿度が低いため猛烈な厳暑とはならないらしい。白く霞んで見える夜明けの青空は、自分の身体をブルっと震わせる。
この世界に来た頃の、枯れ葉が逆巻く風で雲霞のごとく視界を乱した、あの秋の終わりとは違う。格調高い花々が庭には咲き誇り、蕾のままの花も遅れて満開の花びらを付けるだろう。色鮮やかな黄色の蝶が周囲を心地良さげに飛び回っていた。あえて表現するならば、啓蟄の時頃だろう。
「今日から魔法学校ですわね」
「うん」
「まさか緊張などしてはいませんわよね?」
ミーシャが揶揄うように口に手を当てる。随分と俺に対する態度が軟化したものだな、と紫暢はその変化を好ましくとらえていた。
「まさか。でもまあ、不安ではあるかな」
「貴方が不安がるなんて珍しい。今日は雪かしら」
今年の冬は数度しか雪を見ていないし、そのいずれもが小規模で一度も積もってはいない。この国で春に雪が降るなど、まずあり得ない話だった。それほどの驚きということだろう。実際のところ、紫暢はミーシャの前ではとりわけ自信に満ちた態度を見せてきた。しかしそれは、この国で生きていく覚悟があることを示すための虚勢に過ぎなかった。
「週末は帰ってこれるとはいえ、ミーシャちゃんを一人にするなんて不安だなぁ」
「そっちですの!? でも、心配には及びませんわ」
仕返しとばかりに紫暢はニカっと笑みを浮かべる。基本的に週のうち授業のある五日は学校に併設される寮に住むことになる。用意のいいことで、必要な荷物は既に送っているらしい。当然といえば当然だが、紫暢がミーシャといる時に他の吸血鬼の姿を見なかった。もしかしたら友人やら家臣やらの信頼のおける仲間がおらず孤立しているのではないか、と危惧していたのだった。
この数ヶ月の間で最も長い時間を共に過ごした紫暢がいなくなれば、少なからず寂しい思いをするのではないかという兄心を抱いていた。もっとも、実際にはミーシャが紫暢の姉のような形であらゆる知識、体術、剣術等々を仕込んだので、紫暢に対して庇護欲を抱いているのはむしろミーシャの方かもしれない、などと生産性のない思考に浸ったりする。
「その様子なら大丈夫そうですわね。いいですか、冬の間に仕込んだことを忘れず、精進すること。宜しいですわね?」
「イエス、マム」
紫暢は2年からの編入という形になるため、単純に一年遅れる形だった。ミーシャがさまざまなことを授けたのは、紫暢があまりにもこの世界、この国について無知であるために、このまま送り出すのは拙いと判断したからでもあるが、一年の遅れをできる限り巻き返すためでもあるのだ。
幼少期に様々なスポーツを嗜んでいたおかげで、紫暢自身の元々運動神経はミーシャを唸らせるほどには優れていた。おかげで紫暢は体術や剣術に関しては無類の適応力を見せる。魔法が主流のルメニアにおいて剣術は軽視される傾向が強いが、魔力が切れた際の戦う手段として学ばれている。とはいえ魔力量が豊富な吸血鬼が魔力切れを起こすことなど皆無なのが実情ではあった。紫暢は剣道の心得があったこともあり、教えられたものは短期間でほぼ完璧にこなした一方で王流剣術は高度であり、ミーシャ自身も習得できていない部分も多いため、上手くこなしたからといって自分の腕を過信することはなかった。
クラムデリア魔法学校は、国内の魔法学校でも最大の敷地面積を誇る。その規模に違わない教師の質に環境が整っており、王都の貴族が子女を王都ではなくクラムデリアに送り出すこともままあるという。
それゆえに、人間を見下す貴族が人間の在籍する魔法学校などに来れば、当然問題が起こる。
そんなトラブルは、紫暢の入学初日に起こった。
「おい人間、貴様この俺の前を横切ったな? この手で成敗してくれようか?」
おいおいいきなり頭のおかしい言いがかりをつけるなんてどんな不良だ? と思い声の方向に目を向けると、明らかに貴族の風貌をした男が怒気を撒き散らしていた。
「も、申し訳ございません!」
服装や立ち居振る舞いこそ貴族ではあるものの、野蛮な言葉遣いが全てを台無しにしている。灰色の髪に特別鋭く尖った八重歯、特徴的な吊り目と太い眉。派手なアクセサリーを幾つも腕に通し、甲高い音を鳴らしていた。
絡まれているのはおそらく人間。寄せられた眉が震え、今にも泣き出しそうな表情である、背中が丸まっていて、薄桃色の髪の毛が腰あたりまで伸びている。周囲は当然ながら吸血鬼ばかりで、孤立無縁の状態であった。
その様子を見て、男は見下すような笑みを周りに撒き散らしている。
紫暢は聖人君主でもなければ、前に出て颯爽と助けることのできるほどの力も備えてはいない。ただでさえ、個人対個人の対峙において、人間と吸血鬼は圧倒的に吸血鬼が有利な立場にある。それほどまでに、魔法は強力な武器であった。同じ人間という立場であればなおのこそ、手を出さないのが賢明というものである。なぜならここで口を挟めば、標的が自分に移る可能性が高いからだ。
それでも、紫暢は目を離さずにはいられなかった。それはおそらく、ここで見捨てればその選択肢を選んだ自分を一生許せなくなるから。純粋に助けたいからとか、自己犠牲の精神があるからとか、そんなことでは決してない。
他人に助けてもらっておきながら、同じ境遇にあるものから目を逸らすなど、あの夜以来一度もお目にかかっていない少女への背信行為に他ならない。客観的に見れば愚かな対応なのだろう。ここで見捨てて逃げたとしても、誰も紫暢を責める手札は持てない。それでもなお紫暢は、この先胸の奥に閊えるであろう後悔と共に生きていく気は毛頭なかった。
「そこのやんごとなき御方? 少しよろしいでしょうかな?」
「なんだ。今忙しいんだ、って貴様も人間だな。なんだ、貴様も一緒に罰を受けたいのか?」
男の目つきがよりキツくなるが、同時に強い敵意が紫暢へと向いた。
「はて、そもそもその少女の罪とはなんでしょう? 無学ゆえ私の頭に浮かびうる罪状は一つもないのです。その罪とやらをこの愚かな私めに教えてはいただけぬでしょうか」
謙り、かつ可能な限り嫌味たらしく紫暢は尋ねる。周囲の空気が重くなった。
「ふん、そこの女が俺の前を横切ったからに決まっているだろうが」
「その程度で人を裁くなど、この国の貴族の名に恥じましょう。もっと心を広く持ち、この場を収めてはいただけないでしょうか?」
「貴様も同じように成敗されたいようだな。貴様の罪状は不敬罪だ」
決死の懇願も虚しく、額に血管を浮かべた男は距離を詰めてきた。
「この国に不敬罪などという罪はないのでは?」
「それは吸血鬼のみに適用されるものだ。蛮族には関係ない」
その理論は暴論がすぎると紫暢は呆れる。表向きはこの国に滞在する人間にも、吸血鬼同様の法律が適用され、便宜上差別はないことになっている。国民感情を加味すると、このように人間だからと不利益を受けるケースは決して少なくはない。
「はあ」
自分が敵意を一身に集めれば、この貴族は標的を自分に変える。だから、この場では説得よりも、自分を標的に変えさせるのが目的だった。それくらいしか、この場の流れを変える方法は無いと考えたのだ。
紫暢が天を仰ぐと、男はあからさまに機嫌を害した様子で目を見開く。
「この俺を愚弄するとはいい度胸だ。そこの女、お前はもういい。行っていいぞ」
「い、いえ」
標的が紫暢に移ったにもかかわらず、少女はその場から動こうとしない。足がすくんで動けないわけでもないだろう。ここで押しつけて逃げるのに抵抗があるのか、口を真一文字に結んだまま両手を握っていた。
「俺は大丈夫だから、行っていいよ」
強者の余裕、みたいなものを自分の中から捻り出そうと、紫暢はできる限り柔和な笑みで促す。ようやく安心したのか、少女は深くお辞儀をしてから足早に去っていった。
ただ、大丈夫、などといったことは決してなく、たとえミーシャから数ヶ月に渡って指導を受けてきたとしても、吸血鬼という存在に対して敵う道理はなかった。
とはいえ、この場における第一の目的である「少女を逃す」ことはできた。それに対する満足感が、胸臆を温める。
ただ自分がこの場を無傷で切り抜けるのは難しいだろうな、と紫暢は内心で苦笑いを浮かべる。
「見上げた度胸だが、今泣いて縋りつくのならば許してやっても良い」
そこであえて自分を大きく見せることに専念しようと試みることにした。
「人間だと見くびってしまって本当にいいのですかな?」
紫暢は背筋を伸ばし、不敵な笑みで男に尋ねる。
「どういうことだ」
「言葉の通りです。私は春からこの魔法学校の門戸を開く編入生ですから」
「人間の編入生だと? そんな話は……。いや、確かに誰かが話していた記憶がある」
(そうそう、思い悩め。俺という得体の知れない存在を、必要以上に警戒するんだ)
不敵な態度や相手を皮肉るような口調は、相手の圧倒的優位から警戒という二文字を引き出すための布石であった。
「デグニス様、辺境伯の推薦で特例での編入が認められたと聞きました。この男はその張本人やもしれません。どんな人間かよく分かりませんし、今日のところは事を荒立てない方がいいかと」
(グッジョブ、取り巻きくん)
状況を見守っていた取り巻きがようやく口を開く。男の名前はデグニスらしい。紫暢はにこやかに微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。やはりこの国でクラムデリア辺境伯家というのは絶大な力を持っているらしい。実質国のナンバー2であるわけだし、その影響力は計り知れない。
たとえ人間だとしても、クラムデリアでは人間が普通に活動できているため、人間国家の権力者が子息を送り込んだ可能性も十分にある。そんな人間になんの事前情報もなく手を出すリスクの高さは、デグニスとて理解できるはずだ。
「ちっ、今日のところは見逃してやる。だが次はない」
悪役のような台詞を吐き捨て、ポケットに両手を突っ込みながら去っていく。いつの間にか、野次馬が多く集まっていた。これ以上悪目立ちしたくはないので、そそくさと立ち去ることにした。
この世界に来た頃の、枯れ葉が逆巻く風で雲霞のごとく視界を乱した、あの秋の終わりとは違う。格調高い花々が庭には咲き誇り、蕾のままの花も遅れて満開の花びらを付けるだろう。色鮮やかな黄色の蝶が周囲を心地良さげに飛び回っていた。あえて表現するならば、啓蟄の時頃だろう。
「今日から魔法学校ですわね」
「うん」
「まさか緊張などしてはいませんわよね?」
ミーシャが揶揄うように口に手を当てる。随分と俺に対する態度が軟化したものだな、と紫暢はその変化を好ましくとらえていた。
「まさか。でもまあ、不安ではあるかな」
「貴方が不安がるなんて珍しい。今日は雪かしら」
今年の冬は数度しか雪を見ていないし、そのいずれもが小規模で一度も積もってはいない。この国で春に雪が降るなど、まずあり得ない話だった。それほどの驚きということだろう。実際のところ、紫暢はミーシャの前ではとりわけ自信に満ちた態度を見せてきた。しかしそれは、この国で生きていく覚悟があることを示すための虚勢に過ぎなかった。
「週末は帰ってこれるとはいえ、ミーシャちゃんを一人にするなんて不安だなぁ」
「そっちですの!? でも、心配には及びませんわ」
仕返しとばかりに紫暢はニカっと笑みを浮かべる。基本的に週のうち授業のある五日は学校に併設される寮に住むことになる。用意のいいことで、必要な荷物は既に送っているらしい。当然といえば当然だが、紫暢がミーシャといる時に他の吸血鬼の姿を見なかった。もしかしたら友人やら家臣やらの信頼のおける仲間がおらず孤立しているのではないか、と危惧していたのだった。
この数ヶ月の間で最も長い時間を共に過ごした紫暢がいなくなれば、少なからず寂しい思いをするのではないかという兄心を抱いていた。もっとも、実際にはミーシャが紫暢の姉のような形であらゆる知識、体術、剣術等々を仕込んだので、紫暢に対して庇護欲を抱いているのはむしろミーシャの方かもしれない、などと生産性のない思考に浸ったりする。
「その様子なら大丈夫そうですわね。いいですか、冬の間に仕込んだことを忘れず、精進すること。宜しいですわね?」
「イエス、マム」
紫暢は2年からの編入という形になるため、単純に一年遅れる形だった。ミーシャがさまざまなことを授けたのは、紫暢があまりにもこの世界、この国について無知であるために、このまま送り出すのは拙いと判断したからでもあるが、一年の遅れをできる限り巻き返すためでもあるのだ。
幼少期に様々なスポーツを嗜んでいたおかげで、紫暢自身の元々運動神経はミーシャを唸らせるほどには優れていた。おかげで紫暢は体術や剣術に関しては無類の適応力を見せる。魔法が主流のルメニアにおいて剣術は軽視される傾向が強いが、魔力が切れた際の戦う手段として学ばれている。とはいえ魔力量が豊富な吸血鬼が魔力切れを起こすことなど皆無なのが実情ではあった。紫暢は剣道の心得があったこともあり、教えられたものは短期間でほぼ完璧にこなした一方で王流剣術は高度であり、ミーシャ自身も習得できていない部分も多いため、上手くこなしたからといって自分の腕を過信することはなかった。
クラムデリア魔法学校は、国内の魔法学校でも最大の敷地面積を誇る。その規模に違わない教師の質に環境が整っており、王都の貴族が子女を王都ではなくクラムデリアに送り出すこともままあるという。
それゆえに、人間を見下す貴族が人間の在籍する魔法学校などに来れば、当然問題が起こる。
そんなトラブルは、紫暢の入学初日に起こった。
「おい人間、貴様この俺の前を横切ったな? この手で成敗してくれようか?」
おいおいいきなり頭のおかしい言いがかりをつけるなんてどんな不良だ? と思い声の方向に目を向けると、明らかに貴族の風貌をした男が怒気を撒き散らしていた。
「も、申し訳ございません!」
服装や立ち居振る舞いこそ貴族ではあるものの、野蛮な言葉遣いが全てを台無しにしている。灰色の髪に特別鋭く尖った八重歯、特徴的な吊り目と太い眉。派手なアクセサリーを幾つも腕に通し、甲高い音を鳴らしていた。
絡まれているのはおそらく人間。寄せられた眉が震え、今にも泣き出しそうな表情である、背中が丸まっていて、薄桃色の髪の毛が腰あたりまで伸びている。周囲は当然ながら吸血鬼ばかりで、孤立無縁の状態であった。
その様子を見て、男は見下すような笑みを周りに撒き散らしている。
紫暢は聖人君主でもなければ、前に出て颯爽と助けることのできるほどの力も備えてはいない。ただでさえ、個人対個人の対峙において、人間と吸血鬼は圧倒的に吸血鬼が有利な立場にある。それほどまでに、魔法は強力な武器であった。同じ人間という立場であればなおのこそ、手を出さないのが賢明というものである。なぜならここで口を挟めば、標的が自分に移る可能性が高いからだ。
それでも、紫暢は目を離さずにはいられなかった。それはおそらく、ここで見捨てればその選択肢を選んだ自分を一生許せなくなるから。純粋に助けたいからとか、自己犠牲の精神があるからとか、そんなことでは決してない。
他人に助けてもらっておきながら、同じ境遇にあるものから目を逸らすなど、あの夜以来一度もお目にかかっていない少女への背信行為に他ならない。客観的に見れば愚かな対応なのだろう。ここで見捨てて逃げたとしても、誰も紫暢を責める手札は持てない。それでもなお紫暢は、この先胸の奥に閊えるであろう後悔と共に生きていく気は毛頭なかった。
「そこのやんごとなき御方? 少しよろしいでしょうかな?」
「なんだ。今忙しいんだ、って貴様も人間だな。なんだ、貴様も一緒に罰を受けたいのか?」
男の目つきがよりキツくなるが、同時に強い敵意が紫暢へと向いた。
「はて、そもそもその少女の罪とはなんでしょう? 無学ゆえ私の頭に浮かびうる罪状は一つもないのです。その罪とやらをこの愚かな私めに教えてはいただけぬでしょうか」
謙り、かつ可能な限り嫌味たらしく紫暢は尋ねる。周囲の空気が重くなった。
「ふん、そこの女が俺の前を横切ったからに決まっているだろうが」
「その程度で人を裁くなど、この国の貴族の名に恥じましょう。もっと心を広く持ち、この場を収めてはいただけないでしょうか?」
「貴様も同じように成敗されたいようだな。貴様の罪状は不敬罪だ」
決死の懇願も虚しく、額に血管を浮かべた男は距離を詰めてきた。
「この国に不敬罪などという罪はないのでは?」
「それは吸血鬼のみに適用されるものだ。蛮族には関係ない」
その理論は暴論がすぎると紫暢は呆れる。表向きはこの国に滞在する人間にも、吸血鬼同様の法律が適用され、便宜上差別はないことになっている。国民感情を加味すると、このように人間だからと不利益を受けるケースは決して少なくはない。
「はあ」
自分が敵意を一身に集めれば、この貴族は標的を自分に変える。だから、この場では説得よりも、自分を標的に変えさせるのが目的だった。それくらいしか、この場の流れを変える方法は無いと考えたのだ。
紫暢が天を仰ぐと、男はあからさまに機嫌を害した様子で目を見開く。
「この俺を愚弄するとはいい度胸だ。そこの女、お前はもういい。行っていいぞ」
「い、いえ」
標的が紫暢に移ったにもかかわらず、少女はその場から動こうとしない。足がすくんで動けないわけでもないだろう。ここで押しつけて逃げるのに抵抗があるのか、口を真一文字に結んだまま両手を握っていた。
「俺は大丈夫だから、行っていいよ」
強者の余裕、みたいなものを自分の中から捻り出そうと、紫暢はできる限り柔和な笑みで促す。ようやく安心したのか、少女は深くお辞儀をしてから足早に去っていった。
ただ、大丈夫、などといったことは決してなく、たとえミーシャから数ヶ月に渡って指導を受けてきたとしても、吸血鬼という存在に対して敵う道理はなかった。
とはいえ、この場における第一の目的である「少女を逃す」ことはできた。それに対する満足感が、胸臆を温める。
ただ自分がこの場を無傷で切り抜けるのは難しいだろうな、と紫暢は内心で苦笑いを浮かべる。
「見上げた度胸だが、今泣いて縋りつくのならば許してやっても良い」
そこであえて自分を大きく見せることに専念しようと試みることにした。
「人間だと見くびってしまって本当にいいのですかな?」
紫暢は背筋を伸ばし、不敵な笑みで男に尋ねる。
「どういうことだ」
「言葉の通りです。私は春からこの魔法学校の門戸を開く編入生ですから」
「人間の編入生だと? そんな話は……。いや、確かに誰かが話していた記憶がある」
(そうそう、思い悩め。俺という得体の知れない存在を、必要以上に警戒するんだ)
不敵な態度や相手を皮肉るような口調は、相手の圧倒的優位から警戒という二文字を引き出すための布石であった。
「デグニス様、辺境伯の推薦で特例での編入が認められたと聞きました。この男はその張本人やもしれません。どんな人間かよく分かりませんし、今日のところは事を荒立てない方がいいかと」
(グッジョブ、取り巻きくん)
状況を見守っていた取り巻きがようやく口を開く。男の名前はデグニスらしい。紫暢はにこやかに微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。やはりこの国でクラムデリア辺境伯家というのは絶大な力を持っているらしい。実質国のナンバー2であるわけだし、その影響力は計り知れない。
たとえ人間だとしても、クラムデリアでは人間が普通に活動できているため、人間国家の権力者が子息を送り込んだ可能性も十分にある。そんな人間になんの事前情報もなく手を出すリスクの高さは、デグニスとて理解できるはずだ。
「ちっ、今日のところは見逃してやる。だが次はない」
悪役のような台詞を吐き捨て、ポケットに両手を突っ込みながら去っていく。いつの間にか、野次馬が多く集まっていた。これ以上悪目立ちしたくはないので、そそくさと立ち去ることにした。
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