平行線

ライ子

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第一章

決意

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父親の葬儀が終わって、吉行が自分のアパートに帰ったのは、母親からの電話を受けてから、1週間後の夕方だった。母親がかなり気落ちしていたのが、心配だったが、後期の試験日も近かったため、兄が早く帰るように言ったのだった。
アパートに入ると、部屋がきれいに片付いていた。父親からのプレゼントだった、3着のスーツをクローゼットにしまった。あまりに突然のことだったので、まだ実感がわかなかった。ソファーに座って、持ち帰って来た父親のタバコを1本吸った。喉に刺激が来る。
ガチャガチャと、玄関の鍵を開ける音がした。杏奈が、買い物袋を持って入って来た。
「吉行…。大丈夫?」
「部屋片付けてくれて、ありがとう。」
「そんなことより、大丈夫?」
「あぁ、まだ実感がなくて。突然過ぎて。」
「そうだよね…。突然だったよね。」
「兄ちゃんがさ、大学のテストがあるんだから、早く帰れって言ってくれてさ。」
「うん。」
「お母さんが心配なんだけど、俺…。」
「うん。」
「なんでいつもこうなんだろう…。俺は、何もできない。全部、兄ちゃんに任せっぱなしだ。」
杏奈は、吉行の隣に座って、何も言わずに背中をそっとさすった。杏奈の手が温かくて、気持ちが良かった。吉行の中で、ガチガチに固まっていたものを、ゆっくり溶かしてくれるようだった。涙がゆっくり頬を伝って流れ出した。
「こういう時は、泣けばいいんだよ。ずっと我慢してたんじゃないの?」
吉行は、父親の葬儀でも泣かなかった。実感がなくて、泣けなったのだ。
「杏奈…。ありがとう。」
吉行は、声を上げて泣いた。体の奥の奥に閉じ込めておいた感情が、一気に溢れ出して来る。悲しさや悔しさや辛さ、申し訳なさ、もう自分ではどうにもできなかった。
杏奈は、吉行が落ち着くまで、ずっと隣に座っていた。大丈夫、大丈夫と、背中を優しくさすってくれていた。
どのぐらいそうしていただろうか。涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげた。
「大丈夫。落ち着いた。」
吉行は、鼻をグスグスさせながら、ソファーから立ち上がると、
「顔、洗って来る。」
と、洗面所に向かった。鏡の中の顔はひどいものだった。目が腫れて、真っ赤。これじゃ、外を出歩けない。

「吉行。何か、食べる?」
「食欲ないんだ。」
「でも、食べなきゃ。痩せたんじゃない?」
「うん。分かんない。痩せたかも。」
「うどん、作ろうか?」
「杏奈は、こんな所にいて大丈夫なの?テスト勉強とか…。」
「大丈夫。今回、持ち込みOKの教科ばっかりだし。レポートも終わってるから。」
「そう。」
「吉行は?テスト、大変だね。」
「梨花ちゃんに、過去問のコピーもらったし、まだ少し時間あるから、なんとかなると思う。」
杏奈が、キッチンで料理をしている間、吉行は、ベランダで父親のタバコを吸って待っていた。父親の書斎の匂いだ。あの書斎には、もう父親は帰って来ない。でも、あそこにあった椅子や机は、そんなこと知らないから、帰らぬ主人をずっと待っているみたいで、切なくなった。自分のことを、理解しようとしてくれていた父親、そんな父親を避け続けてしまった。ただ生きてさえいてくれたらいいと、マスターは言っていたが、本当にその通りだと思った。もっと、話をしておくんだったな。
「吉行。出来たよ。食べれる?」
カラカラと、ベランダの扉を開けて杏奈が、呼びに来た。
「今日は、いつもと違う匂いがする。」
「あぁ。これ、親父の。」
「そうなんだ。」
「もっと、話しておけばよかったって、後悔してるとこ。」
「後悔しないことの方が少ないと思う。」
「え?」
「何でも…もっとできたなって、思ったり、もっとやっておけばよかったって、絶対思うよ。完璧にできて、納得できることの方が少ないんだから。」
「そうかな?」
「そうだよ。試合だってそうだったじゃん。優勝できるのは、1チームだけ。それ以外のチームは、絶対負ける。負けて、悔いが残らなかったなんてことないよ。」
「そうか。」
「私はね、そう思う。いろいろ後悔の積み重ね。でも、反省して、もう同じ失敗はしないようにする。」
吉行は、杏奈の言葉に少し救われた。やっぱりこの人が好きだ。
「ねぇ、杏奈。この前のことなんだけど。」
「うん。」
「杏奈が本当に好きで、幸せになれると思える人ができるまで、一緒にいてくれないかな。」
杏奈は、少し間を置いていった。
「嫌だよ。」
そして、吉行の胸に顔をうずめた。
「なんで、吉行が幸せにしてくれないの?そこは人任せなの?私ってそんなに頼りない?」
「杏奈…。」
「ずっと高校から一緒で、現役の頃は、家族といる時間より長く一緒にいて…私は、ずっと吉行が好きだよ。あの頃の好きと、種類は違うかもしれないけど。」
「でも、俺、この体だから、できないことが多いし…。」
「それでも、私は、吉行と一緒にいたい。一緒に、いろんな問題をクリアしていけばいいよ。」
吉行は、杏奈の言葉が、嬉しくて嬉しくて、泣きそうなくらい嬉しかった。自分のことは、誰も理解してくれないんじゃないか、誰も受け入れてくれないんじゃないかと思ってきた。
「俺、杏奈のこと、大事にする。」
「もう、十分大事にしてくれてるよ。」
「もっと大事にする。」
「吉行は、もう少し、健康面に気をつかって。タバコ辞めて、お酒もほどほどに。運動して、ごはんをしっかり食べる。」
「うっ…。タバコは、本数減らします。酒は、仕事もあるから…。」
杏奈は、ふふっと、笑って吉行の頬にキスをした。
「さっ。うどん、冷たくなっちゃう。中、入ろう。」
杏奈は、吉行の手を引いた。吉行は、この人の笑顔のためなら、何だってしようと思った。
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