17 / 34
感情を出してもいい優しい場所
しおりを挟む
「お邪魔します」
「おぅ、来たな嬢ちゃん」
場所だけは聞いてはいたけれど、まだ一度も踏み入れた事がなかった料理人の聖域を覗き込みながら声を掛けると、どうやら使用人達の朝食も終わり片付けを始めた所だったらしいバルトが、皿を洗いながら片手を上げ「来い来い」と手招きしてくれた。
他の使用人達は既に各々の仕事へと向かったらしく、厨房にはバルト一人だけしか居ない。
誰にも見つからなかった事にほっと息をついて、招かれるままに厨房に入り、そのまま炊事場へ足を向ける。
「手伝います」
「いやいや、嬢ちゃんに片付けなんてさせらんねぇよ」
「大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる訳、ねぇでしょうよ……」
バルトの呆れた様な突っ込みは正解で、不正解だ。
確かにマルガリータは皿の一枚さえも洗った事などないが、今のマルガリータには毎日寂しく一人でご飯を作っては食べ、片付けていた真奈美の記憶が色濃く残っている。
身体としては慣れてはいないが、日常的だった行動でもあるので、皿を割るようなヘマはしない。
戸惑うバルトの横に立ち、問答無用で洗い物の横に置かれていた食器用だと思われる綺麗なふきんを手にとって、洗い終わった食器を拭き始める。
最初は驚いた顔をしていたバルトも、マルガリータの無駄に慣れた手つきに任せても平気だと悟ったのか、途中からは洗った先から直接手渡して来る、完全な流れ作業へと移行していた。
頑なに客人扱いを止めてくれない、ダリスやアリーシアと違って、バルトのこういう柔軟さは有り難い。
ディアンも客人扱いはしないでいてくれるのだけれど、代わりに庇護しなければならない対象の様に扱われる事があるし、なかなか実際の作業は危険だからとさせてもらえない。
実は一番過保護なのは、ディアンかもしれない。
この屋敷の中で、一番マルガリータの好きな様に行動させてくれるのは、多分バルトだ。
「いや、助かったわ。ご苦労さん」
「本当に慣れてたな」と笑いながら、バルトが厨房の隅に設置されたテーブルと椅子の方へ誘導してくれる。
使用人達はどこで食事をしているのだろうと思っていたけれど、四人程が座る事の出来るこの場所で、順番に休憩を取っているのだろう事が窺えた。
いつの間にお湯を沸かしてくれていたのか、マルガリータが腰掛けると同時に暖かい紅茶が差し出される。
ここで出てきたのはハーブティーではなく、良くある一般的な茶葉だ。
「ありがとうございます。戴きます」
「俺ら用のやつだから、味は期待すんなよ」
入れ方も適当だしな、と自分にもポットから注ぎながらマルガリータの正面に腰掛けたバルトの姿を確認して、頷きながら紅茶を口に運ぶ。
「すごく、美味しい……!」
お世辞じゃなくて、本当にびっくりした。
アリーシアが入れてくれる時の様な丁寧さは何処にもなかったし、確かに茶葉のランク的には貴族がよく飲むものより下だと思う。
最近出される物がハーブとブレンドされた物ばかりで、本来の良くマルガリータが飲んでいた紅茶の味に懐かしさを覚えたという事を抜きにしても、口当たりや飲みやすい温度に濃さ等、紅茶の美味しさを判定する材料的には完璧と言わざるを得ず、茶葉ランクの多少の低さなど補って余りある味を出していた。
紅茶を入れる給仕は、基本的にアリーシアやハンナの様なメイド達の役目なのが普通なので、料理人のバルトは紅茶の入れ方に関してある程度知ってはいるだろうけれど、専門外であるはずだ。
本当に、この屋敷に勤めている使用人達のポテンシャルの高さは、一体何なのだろう。
「嬢ちゃんは、何でも美味そうに顔に出してくれるから、作りがいがあるな」
貴族のマナーとして、一般的に食事やティータイムの際に表情を変える事は、良しとされない。
というより、普段から腹の探り合いばかりの社会だから、心情を顔に出してしまえば不利になる事も多く、基本的に作り笑顔ばかりだ。
好みでない食事が出た時には、手を付けずにいれば次からは料理人達や給仕が察する。
お菓子等に関しては直接伝える事もあるが、どちらにしても表情はあくまでなんとも思っていない風に装う事が、良しとされるのだ。
マルガリータも今までずっとそうして、周りに好き嫌いを悟らない様に過ごして来たはずだけれど、この屋敷に来てから何故か今まで出来てきたそれが、酷く難しい。
食事が本当に美味しいというのもあるけれど、その他の場面においても笑ったり戸惑ったり、感情がそのまま表情に出てしまっている。
平々凡々な一般市民で、表情を隠す訓練などした事もない真奈美の記憶が戻った事が、大きいのかもしれない。
もちろん社会人として働いていく為には、多少の作り笑いや理不尽に腹を立ててもぐっと我慢する場面は幾度となくあった。
けれど、日常においての美味しい食事や気を許せる友人達との普段の会話においてまで、表情をコントロールするなんて技は身につけていなかったのだ。
奴隷という立場になり、緊張のピークだった瞬間に真奈美の記憶が戻って黒仮面の男に買われたあの日以降、張り詰めていた感情を解してくれたのは、間違いなくこの屋敷の使用人達なのだし、気を抜くなと言われる方が難しい。
「ごめんなさい」
「いやいや、褒めてんの。嬢ちゃんは、そのままでいてくれ」
今の立場は貴族ではなくとも、もっと気を引き締めなければならなかったのかもしれないと反省して謝ると、バルトは違うと手を横に振った。
「でも、はしたなかった……ですよね」
「俺としては、美味いのか不味いのかわかんねぇ作り笑顔で口に入れられるより、嬢ちゃんみたいに全力で素直に表現してくれる方が、よっぽど嬉しいさ」
バルトは会ったその日から、マルガリータの貴族らしからぬ行いを友好的に受け止め、更に褒めてくれる。
ここでは世間の常識なんて気にするなと暗に言ってくれているようで、マルガリータはどう切り出そうかと思案していた願いを、するりと口に出していた。
「明日、ディアンのハーブ苗の仕入れに連れて行って貰える事になったので、何かお礼をしたいと思っていて」
「そりゃあいい。俺にそれを言ってくるって事は、何か作って欲しいもんでもあるのか?」
「クッキーを作りたいと思っているので、厨房を貸して頂きたくて」
「ん? クッキーを作って欲しいんじゃなくて?」
「はい。自分で作りますので、場所と……出来れば材料を分けて戴けたらと……私、今お金を持っていなくて」
そう、何か作って持って行きたいと思いついたはいいが、マルガリータは自分の立場を自覚しているようでいてすっかり忘れていた。自由に使えるお金を一銭も持っていなかったのだ。
例え持っていたとしても、屋敷から出て買いに行ける権利はない。
バルトには厨房という料理人の聖域を貸してもらうだけではなく、備蓄してある材料さえも分けて貰わなければならなかったのだ。
しかも、奴隷に給金が出るなど聞いた事もないので、分けて貰ったその材料費を返す当てもない。
どう考えても、マルガリータに都合の良すぎるお願いだった。
「嬢ちゃん、料理が出来んのか?」
言葉にした後で気付いた事実に、断られても仕方ないとしょんぼりしていたけれど、返ってきたのは驚きと、そして少しの期待が混じった声。
「え、えぇ。簡単な物だけですが」
ずいっとテーブル越しに距離を詰められて、若干押され気味になりながらも頷くと、何故か嬉々として両手を掴まれた。
アリーシアやハンナも、よく感極まった様にマルガリータに触れて来る事があるが、バルトもそのタイプだったらしい。
ちなみに、ダリスやアルフは流石に弁えていますからと言わんばかりの顔で行動には出ないが、表情に感情がわかりやすく全部出ている。
ここの使用人達は、そういう所が皆似ているのかもしれない。
皆が皆、ここではそうやって過ごして良いのだと態度で示してくれるから、表情を殺す訓練を積んできたはずのマルガリータも、つい感情を出してしまうのだ。
「すげぇな、嬢ちゃん。マジで色々予想外だわ」
「お菓子作りをする女性は、少なくは無いと思いますけど……?」
「貴族に仕えるメイドや、金に多少余裕のある平民ならな。嬢ちゃんは、お貴族様だろ?」
今は貴族として扱って貰う立場ではないのだと、何度言っても全く響かない言葉をまた言ってしまいそうになるけれど、バルトの聞きたい事はそう言う意味では無いのはわかるので、ぐっと飲み込む。
「ダメでしょうか?」
「ダメな訳ねぇさ。そういうお願いが出るって事は、ほとんどをメイドや料理人に任せて、簡単なとこだけ触って作った気になってるお嬢様方とは、違うって事だろ」
バルトの言い分は辛辣だったが、確かに貴族の令嬢が「作る」料理とはそういうものだ。
材料を用意するのも、分量を量るのも、剥いたり切ったりする作業も、果ては火の扱いだけでなく盛り付けまで使用人が行う。
では本人は何をするのかと言えば、ボウルに入れられた全ての処理が終わった具材を数回混ぜ合わせる程度のものだ。
ぶっちゃけ、料理人からすればその手伝いはいらない。なくても平気というか、流れを中断しなければいけないからむしろ邪魔、というものばかり。
手を汚すのを嫌う令嬢も多いので、材料を直に少しでも触った事があるなんてのも稀だろう。
基本的に、令嬢の言う「作った」とは「あれを作りたいわ」と呟いて厨房に足を踏み入れる事、と言っても間違いではない。
マルガリータの事を貴族令嬢と信じて疑わないバルトが、材料と場所だけを提供して欲しいという願いに驚くのは、当然と言えば当然だった。
(いやまぁ、確かにマルガリータとしての私は、その常識の方に限りなく近い令嬢だけれども)
しかもこの歳になるまで婚約者の居なかったマルガリータは、特に誰かに料理を作ってあげたいという思考にさえ辿り着く事はなかった。
万が一辿り着いていたとしても、優秀な料理人達に囲まれていたが故に希望を伝えて依頼する、一般的な貴族のご令嬢パターンを踏んでいたはずだ。
自ら作りたいと思ったのは、間違いなく真奈美の思考だった。
ちゃんと貴族の常識や、以前の自分ならこうするとわかっていながらも、今できる事は自分でやりたいと感じる。
我ながら、結構上手く両方の記憶と、同居しているなと思う。
「それはつまり……提供して頂けるという事でしょうか?」
「おうよ。ここは自由に使って貰って構わねぇし、必要な材料は揃えてやる。もちろん嬢ちゃんから金は取らねぇから安心しな」
「ありがとうございます!」
「贈り物なんて、嬢ちゃんの何かしたいってその気持ちだけで充分だろうに。何で金の心配までしてるのかは、良くわかんねぇけど」
そう続けて笑うバルトへ、マルガリータは勢いよく頭を下げた。
そして頭を上げた先で、驚きに目を見開いた後に爆笑したバルトの姿に、マルガリータは大きく首を傾げる事になる。
「おぅ、来たな嬢ちゃん」
場所だけは聞いてはいたけれど、まだ一度も踏み入れた事がなかった料理人の聖域を覗き込みながら声を掛けると、どうやら使用人達の朝食も終わり片付けを始めた所だったらしいバルトが、皿を洗いながら片手を上げ「来い来い」と手招きしてくれた。
他の使用人達は既に各々の仕事へと向かったらしく、厨房にはバルト一人だけしか居ない。
誰にも見つからなかった事にほっと息をついて、招かれるままに厨房に入り、そのまま炊事場へ足を向ける。
「手伝います」
「いやいや、嬢ちゃんに片付けなんてさせらんねぇよ」
「大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる訳、ねぇでしょうよ……」
バルトの呆れた様な突っ込みは正解で、不正解だ。
確かにマルガリータは皿の一枚さえも洗った事などないが、今のマルガリータには毎日寂しく一人でご飯を作っては食べ、片付けていた真奈美の記憶が色濃く残っている。
身体としては慣れてはいないが、日常的だった行動でもあるので、皿を割るようなヘマはしない。
戸惑うバルトの横に立ち、問答無用で洗い物の横に置かれていた食器用だと思われる綺麗なふきんを手にとって、洗い終わった食器を拭き始める。
最初は驚いた顔をしていたバルトも、マルガリータの無駄に慣れた手つきに任せても平気だと悟ったのか、途中からは洗った先から直接手渡して来る、完全な流れ作業へと移行していた。
頑なに客人扱いを止めてくれない、ダリスやアリーシアと違って、バルトのこういう柔軟さは有り難い。
ディアンも客人扱いはしないでいてくれるのだけれど、代わりに庇護しなければならない対象の様に扱われる事があるし、なかなか実際の作業は危険だからとさせてもらえない。
実は一番過保護なのは、ディアンかもしれない。
この屋敷の中で、一番マルガリータの好きな様に行動させてくれるのは、多分バルトだ。
「いや、助かったわ。ご苦労さん」
「本当に慣れてたな」と笑いながら、バルトが厨房の隅に設置されたテーブルと椅子の方へ誘導してくれる。
使用人達はどこで食事をしているのだろうと思っていたけれど、四人程が座る事の出来るこの場所で、順番に休憩を取っているのだろう事が窺えた。
いつの間にお湯を沸かしてくれていたのか、マルガリータが腰掛けると同時に暖かい紅茶が差し出される。
ここで出てきたのはハーブティーではなく、良くある一般的な茶葉だ。
「ありがとうございます。戴きます」
「俺ら用のやつだから、味は期待すんなよ」
入れ方も適当だしな、と自分にもポットから注ぎながらマルガリータの正面に腰掛けたバルトの姿を確認して、頷きながら紅茶を口に運ぶ。
「すごく、美味しい……!」
お世辞じゃなくて、本当にびっくりした。
アリーシアが入れてくれる時の様な丁寧さは何処にもなかったし、確かに茶葉のランク的には貴族がよく飲むものより下だと思う。
最近出される物がハーブとブレンドされた物ばかりで、本来の良くマルガリータが飲んでいた紅茶の味に懐かしさを覚えたという事を抜きにしても、口当たりや飲みやすい温度に濃さ等、紅茶の美味しさを判定する材料的には完璧と言わざるを得ず、茶葉ランクの多少の低さなど補って余りある味を出していた。
紅茶を入れる給仕は、基本的にアリーシアやハンナの様なメイド達の役目なのが普通なので、料理人のバルトは紅茶の入れ方に関してある程度知ってはいるだろうけれど、専門外であるはずだ。
本当に、この屋敷に勤めている使用人達のポテンシャルの高さは、一体何なのだろう。
「嬢ちゃんは、何でも美味そうに顔に出してくれるから、作りがいがあるな」
貴族のマナーとして、一般的に食事やティータイムの際に表情を変える事は、良しとされない。
というより、普段から腹の探り合いばかりの社会だから、心情を顔に出してしまえば不利になる事も多く、基本的に作り笑顔ばかりだ。
好みでない食事が出た時には、手を付けずにいれば次からは料理人達や給仕が察する。
お菓子等に関しては直接伝える事もあるが、どちらにしても表情はあくまでなんとも思っていない風に装う事が、良しとされるのだ。
マルガリータも今までずっとそうして、周りに好き嫌いを悟らない様に過ごして来たはずだけれど、この屋敷に来てから何故か今まで出来てきたそれが、酷く難しい。
食事が本当に美味しいというのもあるけれど、その他の場面においても笑ったり戸惑ったり、感情がそのまま表情に出てしまっている。
平々凡々な一般市民で、表情を隠す訓練などした事もない真奈美の記憶が戻った事が、大きいのかもしれない。
もちろん社会人として働いていく為には、多少の作り笑いや理不尽に腹を立ててもぐっと我慢する場面は幾度となくあった。
けれど、日常においての美味しい食事や気を許せる友人達との普段の会話においてまで、表情をコントロールするなんて技は身につけていなかったのだ。
奴隷という立場になり、緊張のピークだった瞬間に真奈美の記憶が戻って黒仮面の男に買われたあの日以降、張り詰めていた感情を解してくれたのは、間違いなくこの屋敷の使用人達なのだし、気を抜くなと言われる方が難しい。
「ごめんなさい」
「いやいや、褒めてんの。嬢ちゃんは、そのままでいてくれ」
今の立場は貴族ではなくとも、もっと気を引き締めなければならなかったのかもしれないと反省して謝ると、バルトは違うと手を横に振った。
「でも、はしたなかった……ですよね」
「俺としては、美味いのか不味いのかわかんねぇ作り笑顔で口に入れられるより、嬢ちゃんみたいに全力で素直に表現してくれる方が、よっぽど嬉しいさ」
バルトは会ったその日から、マルガリータの貴族らしからぬ行いを友好的に受け止め、更に褒めてくれる。
ここでは世間の常識なんて気にするなと暗に言ってくれているようで、マルガリータはどう切り出そうかと思案していた願いを、するりと口に出していた。
「明日、ディアンのハーブ苗の仕入れに連れて行って貰える事になったので、何かお礼をしたいと思っていて」
「そりゃあいい。俺にそれを言ってくるって事は、何か作って欲しいもんでもあるのか?」
「クッキーを作りたいと思っているので、厨房を貸して頂きたくて」
「ん? クッキーを作って欲しいんじゃなくて?」
「はい。自分で作りますので、場所と……出来れば材料を分けて戴けたらと……私、今お金を持っていなくて」
そう、何か作って持って行きたいと思いついたはいいが、マルガリータは自分の立場を自覚しているようでいてすっかり忘れていた。自由に使えるお金を一銭も持っていなかったのだ。
例え持っていたとしても、屋敷から出て買いに行ける権利はない。
バルトには厨房という料理人の聖域を貸してもらうだけではなく、備蓄してある材料さえも分けて貰わなければならなかったのだ。
しかも、奴隷に給金が出るなど聞いた事もないので、分けて貰ったその材料費を返す当てもない。
どう考えても、マルガリータに都合の良すぎるお願いだった。
「嬢ちゃん、料理が出来んのか?」
言葉にした後で気付いた事実に、断られても仕方ないとしょんぼりしていたけれど、返ってきたのは驚きと、そして少しの期待が混じった声。
「え、えぇ。簡単な物だけですが」
ずいっとテーブル越しに距離を詰められて、若干押され気味になりながらも頷くと、何故か嬉々として両手を掴まれた。
アリーシアやハンナも、よく感極まった様にマルガリータに触れて来る事があるが、バルトもそのタイプだったらしい。
ちなみに、ダリスやアルフは流石に弁えていますからと言わんばかりの顔で行動には出ないが、表情に感情がわかりやすく全部出ている。
ここの使用人達は、そういう所が皆似ているのかもしれない。
皆が皆、ここではそうやって過ごして良いのだと態度で示してくれるから、表情を殺す訓練を積んできたはずのマルガリータも、つい感情を出してしまうのだ。
「すげぇな、嬢ちゃん。マジで色々予想外だわ」
「お菓子作りをする女性は、少なくは無いと思いますけど……?」
「貴族に仕えるメイドや、金に多少余裕のある平民ならな。嬢ちゃんは、お貴族様だろ?」
今は貴族として扱って貰う立場ではないのだと、何度言っても全く響かない言葉をまた言ってしまいそうになるけれど、バルトの聞きたい事はそう言う意味では無いのはわかるので、ぐっと飲み込む。
「ダメでしょうか?」
「ダメな訳ねぇさ。そういうお願いが出るって事は、ほとんどをメイドや料理人に任せて、簡単なとこだけ触って作った気になってるお嬢様方とは、違うって事だろ」
バルトの言い分は辛辣だったが、確かに貴族の令嬢が「作る」料理とはそういうものだ。
材料を用意するのも、分量を量るのも、剥いたり切ったりする作業も、果ては火の扱いだけでなく盛り付けまで使用人が行う。
では本人は何をするのかと言えば、ボウルに入れられた全ての処理が終わった具材を数回混ぜ合わせる程度のものだ。
ぶっちゃけ、料理人からすればその手伝いはいらない。なくても平気というか、流れを中断しなければいけないからむしろ邪魔、というものばかり。
手を汚すのを嫌う令嬢も多いので、材料を直に少しでも触った事があるなんてのも稀だろう。
基本的に、令嬢の言う「作った」とは「あれを作りたいわ」と呟いて厨房に足を踏み入れる事、と言っても間違いではない。
マルガリータの事を貴族令嬢と信じて疑わないバルトが、材料と場所だけを提供して欲しいという願いに驚くのは、当然と言えば当然だった。
(いやまぁ、確かにマルガリータとしての私は、その常識の方に限りなく近い令嬢だけれども)
しかもこの歳になるまで婚約者の居なかったマルガリータは、特に誰かに料理を作ってあげたいという思考にさえ辿り着く事はなかった。
万が一辿り着いていたとしても、優秀な料理人達に囲まれていたが故に希望を伝えて依頼する、一般的な貴族のご令嬢パターンを踏んでいたはずだ。
自ら作りたいと思ったのは、間違いなく真奈美の思考だった。
ちゃんと貴族の常識や、以前の自分ならこうするとわかっていながらも、今できる事は自分でやりたいと感じる。
我ながら、結構上手く両方の記憶と、同居しているなと思う。
「それはつまり……提供して頂けるという事でしょうか?」
「おうよ。ここは自由に使って貰って構わねぇし、必要な材料は揃えてやる。もちろん嬢ちゃんから金は取らねぇから安心しな」
「ありがとうございます!」
「贈り物なんて、嬢ちゃんの何かしたいってその気持ちだけで充分だろうに。何で金の心配までしてるのかは、良くわかんねぇけど」
そう続けて笑うバルトへ、マルガリータは勢いよく頭を下げた。
そして頭を上げた先で、驚きに目を見開いた後に爆笑したバルトの姿に、マルガリータは大きく首を傾げる事になる。
1
お気に入りに追加
154
あなたにおすすめの小説
不機嫌な悪役令嬢〜王子は最強の悪役令嬢を溺愛する?〜
晴行
恋愛
乙女ゲームの貴族令嬢リリアーナに転生したわたしは、大きな屋敷の小さな部屋の中で窓のそばに腰掛けてため息ばかり。
見目麗しく深窓の令嬢なんて噂されるほどには容姿が優れているらしいけど、わたしは知っている。
これは主人公であるアリシアの物語。
わたしはその当て馬にされるだけの、悪役令嬢リリアーナでしかない。
窓の外を眺めて、次の転生は鳥になりたいと真剣に考えているの。
「つまらないわ」
わたしはいつも不機嫌。
どんなに努力しても運命が変えられないのなら、わたしがこの世界に転生した意味がない。
あーあ、もうやめた。
なにか他のことをしよう。お料理とか、お裁縫とか、魔法がある世界だからそれを勉強してもいいわ。
このお屋敷にはなんでも揃っていますし、わたしには才能がありますもの。
仕方がないので、ゲームのストーリーが始まるまで悪役令嬢らしく不機嫌に日々を過ごしましょう。
__それもカイル王子に裏切られて婚約を破棄され、大きな屋敷も貴族の称号もすべてを失い終わりなのだけど。
頑張ったことが全部無駄になるなんて、ほんとうにつまらないわ。
の、はずだったのだけれど。
アリシアが現れても、王子は彼女に興味がない様子。
ストーリーがなかなか始まらない。
これじゃ二人の仲を引き裂く悪役令嬢になれないわ。
カイル王子、間違ってます。わたしはアリシアではないですよ。いつもツンとしている?
それは当たり前です。貴方こそなぜわたしの家にやってくるのですか?
わたしの料理が食べたい? そんなのアリシアに作らせればいいでしょう?
毎日つくれ? ふざけるな。
……カイル王子、そろそろ帰ってくれません?
死ぬはずだった令嬢が乙女ゲームの舞台に突然参加するお話
みっしー
恋愛
病弱な公爵令嬢のフィリアはある日今までにないほどの高熱にうなされて自分の前世を思い出す。そして今自分がいるのは大好きだった乙女ゲームの世界だと気づく。しかし…「藍色の髪、空色の瞳、真っ白な肌……まさかっ……!」なんと彼女が転生したのはヒロインでも悪役令嬢でもない、ゲーム開始前に死んでしまう攻略対象の王子の婚約者だったのだ。でも前世で長生きできなかった分今世では長生きしたい!そんな彼女が長生きを目指して乙女ゲームの舞台に突然参加するお話です。
*番外編も含め完結いたしました!感想はいつでもありがたく読ませていただきますのでお気軽に!
ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~
柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。
その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!
この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!?
※シリアス展開もわりとあります。
死亡フラグだらけの悪役令嬢〜魔王の胃袋を掴めば回避できるって本当ですか?
きゃる
ファンタジー
侯爵令嬢ヴィオネッタは、幼い日に自分が乙女ゲームの悪役令嬢であることに気がついた。死亡フラグを避けようと悪役令嬢に似つかわしくなくぽっちゃりしたものの、17歳のある日ゲームの通り断罪されてしまう。
「僕は醜い盗人を妃にするつもりはない。この婚約を破棄し、お前を魔の森に追放とする!」
盗人ってなんですか?
全く覚えがないのに、なぜ?
無実だと訴える彼女を、心優しいヒロインが救う……と、思ったら⁉︎
「ふふ、せっかく醜く太ったのに、無駄になったわね。豚は豚らしく這いつくばっていればいいのよ。ゲームの世界に転生したのは、貴女だけではないわ」
かくしてぽっちゃり令嬢はヒロインの罠にはまり、家族からも見捨てられた。さらには魔界に迷い込み、魔王の前へ。「最期に言い残すことは?」「私、お役に立てます!」
魔界の食事は最悪で、控えめに言ってかなりマズい。お城の中もほこりっぽくて、気づけば激ヤセ。あとは料理と掃除を頑張って、生き残るだけ。
多くの魔族を味方につけたヴィオネッタは、魔王の心(胃袋?)もつかめるか? バッドエンドを回避して、満腹エンドにたどり着ける?
くせのある魔族や魔界の食材に大奮闘。
腹黒ヒロインと冷酷王子に大慌て。
元悪役令嬢の逆転なるか⁉︎
※レシピ付き
転生者はチートな悪役令嬢になりました〜私を死なせた貴方を許しません〜
みおな
恋愛
私が転生したのは、乙女ゲームの世界でした。何ですか?このライトノベル的な展開は。
しかも、転生先の悪役令嬢は公爵家の婚約者に冤罪をかけられて、処刑されてるじゃないですか。
冗談は顔だけにして下さい。元々、好きでもなかった婚約者に、何で殺されなきゃならないんですか!
わかりました。私が転生したのは、この悪役令嬢を「救う」ためなんですね?
それなら、ついでに公爵家との婚約も回避しましょう。おまけで貴方にも仕返しさせていただきますね?
【完結】転生悪役令嬢が婚約破棄されて隣国の王子に溺愛される話。
佳
恋愛
学園の卒業パーティで婚約破棄される侯爵令嬢シュメール。
婚約破棄を突きつけられ前世の記憶を取り戻し、ヒロインに断罪返しして隣国の王子にお持ち帰りされます。
展開早め!
サッと読めるテンプレ小説の短編です。
※テンプレ書いてみました。
※細かい設定見逃して!
※あくまでも架空のお話です。
※この世界はこういうものなんだなー、という温かい目線で見てやってください。
※他サイトでは+苗字で掲載中
悪役令嬢に転生したので落ちこぼれ攻略キャラを育てるつもりが逆に攻略されているのかもしれない
亜瑠真白
恋愛
推しキャラを幸せにしたい転生令嬢×裏アリ優等生攻略キャラ
社畜OLが転生した先は乙女ゲームの悪役令嬢エマ・リーステンだった。ゲーム内の推し攻略キャラ・ルイスと対面を果たしたエマは決心した。「他の攻略キャラを出し抜いて、ルイスを主人公とくっつけてやる!」と。優等生キャラのルイスや、エマの許嫁だった俺様系攻略キャラのジキウスは、ゲームのシナリオと少し様子が違うよう。
エマは無事にルイスと主人公をカップルにすることが出来るのか。それとも……
「エマ、可愛い」
いたずらっぽく笑うルイス。そんな顔、私は知らない。
悪役令嬢に転生したと思ったら悪役令嬢の母親でした~娘は私が責任もって育てて見せます~
平山和人
恋愛
平凡なOLの私は乙女ゲーム『聖と魔と乙女のレガリア』の世界に転生してしまう。
しかも、私が悪役令嬢の母となってしまい、ゲームをめちゃくちゃにする悪役令嬢「エレローラ」が生まれてしまった。
このままでは我が家は破滅だ。私はエレローラをまともに教育することを決心する。
教育方針を巡って夫と対立したり、他の貴族から嫌われたりと辛い日々が続くが、それでも私は母として、頑張ることを諦めない。必ず娘を真っ当な令嬢にしてみせる。これは娘が悪役令嬢になってしまうと知り、奮闘する母親を描いたお話である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる