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一章【魔女と眷属】
五十七話「わたしとわたし」
しおりを挟む【レイチェル・ポーカー】
――未だかつて、自分の家の玄関を開ける事に、これほど躊躇したことがあろうか。
家に帰るとお母さんがいつものように出迎えてくれる。もしかしたら夕餉の支度をしていたり、テレビを見たりしているかもしれない。
けれど、そのどれだったとしても、わたしはお母さんに会うのが怖かった。胸の内の確信の通り、わたしが本当にレイチェル・ポーカーだというのならば、お母さんはわたしのお母さんではない。
だって存在しない筈の人間に、母親がいるはずはないのだから。
今こうして扉を開けることを怖がっているのは、わたしなのか、それともわたしなのか、自分でもよくわからない――
一つの身体に二人の人格があるようだ。そしてそれは混ざり合っているとも言えるし、別れているとも言えるような、不思議な感覚なのだ。
しかし、たとえ扉の先に何があろうと、今更引き返すわけにはいかない。
わたしは意を決して扉を開けた。
「……何、なんなのこれ」
玄関を開けてすぐに違和感に気づいた。というか、気づかない方がおかしい。
玄関には何も無かった。靴がズラリと並んでいたラックは空っぽ。
大きな姿見は跡形も無く、壁に掛けていた大きな絵も、何もかもがなくなっている。
わたしは嫌な予感がして、靴も脱がずに廊下を突き進んだ。
リビングも玄関同様もぬけの殻だった。自分の家はこんなに広かったんだと、つい間抜けな考えが頭をよぎる程何も残っていなかった。
脱衣所も、浴室も、クローゼットも、全部空っぽだ。
ただ、唯一わたしの部屋だけは何も変わっていなかった。家具も服もちゃんとある。わたしが温泉合宿に向かう前と、何一つ変わっていなかった。
「……一歩前進、なのかな」
思いもよらない事態に、わたしはベッドに突っ伏した。
取り敢えず分かった事は、やはりわたしは馬場櫻子ではないという事。そして今までお母さんだと思っていた人は、お母さんではなかったという事だ。
* * *
【夕張ヒカリ】
櫻子から電話がかかってきたのは、ちょうど今から一時間前、午後八時を回った頃だった。
急に家に泊めて欲しいなんて言うから、かなり驚いたけど電話越しの声に元気が無かったから、取り敢えず理由は聞かずに了承した。
魔力始動出来るようになった櫻子なら、道を確認しながらでもせいぜい三十分あれば着く筈なんだが、一向に来る気配がない。
――三十分経って、ようやくインターフォンが鳴った。
玄関を開けると、バカでかいキャリーケースを持った櫻子がいた。
「……よう、入れよ。外冷えるだろ」
「うん、お邪魔します」
櫻子は元気がないというか、どこか上の空だった。おそらくあのキャリーケースも、その原因に関係しているんだろうけど、一先ず暖かいコーヒーでも淹れる事にした。
「――美味しい。今日は焼肉どうだったの?」
「ん、焼肉は行ってねえよ。皆、櫻子の都合が合う日に改めて集まろうってよ」
「……そっか、なんかごめんね……こんな事なら、焼肉行っておけばよかったかな」
櫻子の笑顔は酷くぎこちなかった。理由は分からないけど、無理矢理微笑む櫻子をなんだかもう見ていられなくなった。
アタシはコーヒー飲み干して、静かに櫻子の隣に肩を寄せて座った。櫻子の肩は、微かに震えていた。
「ヒカリちゃんはあったかいね、冬のコーヒーみたい」
「……」
櫻子の伝えたい事はよく分からなかったけど、とりあえず悪い意味ではなさそうだし、黙って肩に寄り添い続けた。
「わたしね、冬は眠る時に部屋をうんと寒くして寝るの。目が覚めた時にあったかいコーヒーを飲んだら、なんだか凄く安心するから」
櫻子がアタシの手に、自分の手を重ねて置いた。櫻子の手は氷のように冷え切っていた。
「……けど、今日はちょっと寒すぎたから、暖かくして眠りたいなぁって思ってさ。来ちゃった」
櫻子に何かあったのは明白だ。けど本人が言い出さない限りは追求する気はない。
大事なのは何かあった時に頼りにしてくれたのがアタシだという事と、それにきちんと応えなければいけないって事だ。
「アタシはコーヒーでも湯たんぽでも、櫻子が望むなら何にでもなるぜ」
「……なんで?」
「櫻子が好きだから」
「どうして好きなの?」
「……櫻子が櫻子だから」
「……もう、なにそれ意味分かんない」
コツンと、アタシの頭に可愛い頭突きがお見舞いされた。
お前は知らないかもだけどな、面と向かって好きとか言うの、実は結構恥ずかしいんだぞ。
「ねえ、ヒカリちゃん」
「なんだ?」
櫻子の手が、アタシの手を強く握りしめる。何か決心がついたんだと、何となくそう感じた。
「……もし、わたしがわたしじゃ無くなってもさ、ヒカリちゃんは一緒に居てくれる?」
「嫌われねぇ限りは一生付き纏ってやるよ」
「やだ、ストーカーみたい」
「バカ、ストーカーは嫌われても付き纏ってくるんだぞ。ひでぇ言われようだ」
「ごめんごめん――でも、安心した。やっぱりヒカリちゃんは、冬のコーヒーだね」
櫻子はそう言ってアタシの肩にもたれ掛かった。
それからどれくらいの時間が経ったのか、お互いそれっきり口を開くこともなく時間は流れて、気がつけば櫻子は眠ってしまっていた。
しばらくしてから櫻子をベッドに運んで、色々考えた末にアタシはソファで寝ることにした。
しかし、横になったのはいいが中々寝付けない。夜中にも関わらず、さっきコーヒーを飲んだせいなのか、それとも櫻子が家に来ている緊張のせいか。
――いや、アタシが眠れないのはきっと、櫻子の言葉がずっと頭から離れないせいだ。
『わたしがわたしじゃなくなっても――』
* * *
「――何このカード」
「昨日ヴィヴィアンと夜更かしして作ったんだ。一枚どうぞ」
わたしは寝惚けた頭で、差し出されたカードの束から適当に一枚引き抜いた。
「ん、引いたけど……何なのこれ。占い?」
「はずれ。鴉も随分と大所帯になってきたからね。組織に所属する魔女の証みたいなものだよ」
「ふぅん、でもどうしてトランプなの?」
自分が引いたカードを見ると、明らかにトランプだった。昨日ウィスタリアやバンブルビーと、ポーカーをしていた時に使ってたのと同じデザインだし。
「今ね、組織に所属する魔女がちょうど五十三人なんだ。それにただのトランプじゃないよ、ヴィヴィアンの魔法で作ったトランプに、私が魔法式を組み込んであるんだ」
「へえ、具体的には何が出来るの?」
興味深い話にだんだん頭が冴えてきた。そもそもそんな面白そうな事するならわたしも誘ってほしかったのに。
「カードに魔力を込めると、何処にいてもこの城に転移出来るよ」
「何それすごい」
「昔、オニキスに転移魔法の魔法式を教えてもらった事があってね。かなり手こずったけど何とか形になったよ」
一見するとただのトランプにしか見えないけど、そんな凄い魔法が付与されているとは……しかも一晩で作ってしまったのだから、なるほど朝から見せびらかしに来たくもなるだろう。
「さすが、ロードが二人も揃えば思いつきにしても規模が違うね。けど、これバブルガムとか無くしちゃうんじゃない? あの子そそっかしいし」
「心配ないよ。これ一度魔力を通すと無くしても手元に戻ってくるから」
「……どういうこと?」
「レイチェルには難しいと思うから詳しい話は割愛するけど、まあ魔剣と似たような仕組みだよ。念じれば手元に現れる」
何となく昨日わたしが呼ばれなかった理由が分かった気がする。多分わたしがいても何の役にも立たなかっただろう。
「……で、記念すべき一枚目のカードは何だったのかな?」
「ん、コレ。もっと可愛いのが良かったな」
わたしはさっき引いたカードを、絵柄が分かるように裏返して見せた。奇天烈な格好の、宮廷道化師が描かれたジョーカーのカードを――
* * *
【レイチェル・ポーカー】
まどろみの中、窓から差し込む光に急かされて、わたしは重たい瞼を開けた。
天井から、見覚えのない照明器具がぶら下がっている。布団もいつもとは違う、柔らかくてほんのり甘い香りがする。
思い出した、ここはあの子の家だ。馬場櫻子に初めてできた女の子の友達、夕張ヒカリの家。
昨晩、母親の件で酷く傷つき、憔悴したわたしはヒカリの家に泊まりに来たのだ。
いつの間にか眠ってしまったらしいけれど、合宿から昨晩まで続いていた記憶と人格の曖昧さが無くなっている。
馬場櫻子の記憶や感情だったものが、完全にわたしの知識の一部になっている。
馬場櫻子という仮初の人格が消滅したのか、今はただどこかへなりを潜めているだけなのかは分からない。
ただ一つ言えることは、わたしはわたしだということだ。そして当のわたしの記憶だけど――少しだけだが思い出してきた。
わたしはベッドに身体を預けたまま、見慣れない照明に向かって片手を伸ばした。
目を瞑り、伸ばした手に意識を集中させる。身体中に魔力が流れ、指先に集まっていく感覚――
目を開くと、一枚のカードがわたしの手にあった。さっき見た夢……いや、記憶と寸分違わぬジョーカーのカードだ。
わたしはようやくベッドから身体を引き剥がして、ジョーカーを指先でなぞった。
これで人格だけでなく、心身共にわたしはレイチェル・ポーカー本人で、何らかの理由で記憶を失ったという事が証明された。
わたしが世間では死んだと認知されている事や、偽の人格に、偽の母親の事を考えると、恐らくは事故で記憶を失った訳ではないだろう。
きっと人為的な、それも強大な力を持った者による仕業だ。
しかし、ろくすっぽ記憶もない現段階では、犯人もその目的もさっぱりわからない。
おそらく鍵は、わたし自身の記憶が握っているだろう。記憶を取り戻す事こそが、真実への糸口に繋がっている筈だ。
「――だったら、今は今出来ることをするしかないよね」
わたしの記憶は、わたしの記憶のみに存在している訳ではない。他人の記憶にわたしが存在したのならば、それもまたわたしの記憶と言えるのだ。
つまり、自分の記憶がないなら、知ってる人に聞けばいいじゃない作戦だ。
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