アッサムCTCが切れるころ

チャッピ

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チャイ

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僕が黄色いカフェでバイトを始めたのは、東京オリンピックが終わった2021年の夏だった。女子バスケットボール日本代表がアメリカをくだし、決勝戦へ進んだという新聞記事を見ながら、黄色いカフェの片隅でチャイを嗜んでいたときに、ここで働こうと思ったのだ。

大学を卒業して、スーツを勝負服にして自分を売り込む日本の風潮に嫌気が刺し、誰よりもはやく就職活動を諦めて5年がたっていた。


「お前いつになったら身を固めるんだよ」

と、いきつけの居酒屋で花田に言われたのを思い出す。花田とは大学時代に出会い、今でも連絡を取り合うほどの仲である。

「花田、今どき焦って仕事につくなんてナンセンスだよ。人生100年時代なんだ、気楽に行かなきゃ」

なんて心にも思っていないことを口にしていた。しかし内心は焦っていた。自分に言い聞かせるようにその言葉を吐き捨てながら、家に届いていた求人広告のことを思い返していた。
 

花田との月一で行われる飲み会のことを思い出しながら、また一口チャイを口に含んだ。口の中に広がる紅茶の風味と、ミルクの甘味がクセになり、嫌な感情もかき消してくれる。

店内に流れる陽気なBGMと足を運ぶ客層の良さ、そしてここのチャイが好きだということ、それくらいしか僕がここでバイトをしたい理由にならなかったけど、僕はここで働くことを決意し、また一口チャイを口に含んだ。

勘定をする際に、バイト募集のチラシを見たということと、バイトをしたい旨を伝え、電話番号と名前だけ伝え店を後にした。どうやら明日にでも面接をしてくれるらしい。


店を出た後、コンビニでメロンパンとチャイと履歴書を購入し家に帰った。

黄色いカフェから僕が住むアパートはそんなに遠くない。4回建の鉄筋コンクリートのアパートで、一人暮らしの僕にちょうどいい広さの部屋である。玄関のすぐ横に設置してある冷蔵庫に買ってきたメロンパンを入れた。


花田に引っ越しの手伝いをしてもらった時に、冷蔵庫の設置場所について議論したのを思い出す。

「冷蔵庫は食べ物を入れるところだろ、料理する時に困らない場所におくべきなんだよ」

と花田は言っていたが、僕はどうしても玄関のすぐ横に置きたかった。

小さい頃、買い物は僕の仕事だった。母親と父親は僕が6歳の頃に離婚し、一人息子の僕が母親と生活することになった。母親は8時から20時まで毎日仕事をしていたため、学校から帰った僕が買い物をすませておく必要があったのだ。小学生の僕にとって買ってきたものを家に運び、冷蔵庫に入れることは容易いことだったが、僕がその仕事をすっぽかしてしまえば夜ご飯が食べられないという責任感は、小学生の僕にとって重すぎたようだ。

当時僕たちが生活していた部屋は、玄関から一番奥にキッチンがあり、そこまで買ってきたものを運ぶ必要があった。玄関に冷蔵庫があればすぐに遊びに行けるのにと何度も思った。


そんな昔話を1から花田に説明することのほうがめんどくさく

「玄関にあった方が僕にとって都合がいいんだ」

とだけ言ってこの議論を終わらせた。

買ってきたチャイにストローを挿し、口に運びながらポストの中を確認した。「督促状」が目に入ってどきっとした。家賃3ヶ月まだ払っていないのだ。

先月辞めたドーナツ屋さんのバイトの給料がまだ入っておらず、危機的状況だった。しかし黄色いカフェでのバイトを決めた僕には大したダメージではなく、むしろこれから払えるようになるという希望が気持ちを安定させた。

そしてもう一つ健康診断結果の紙が届いていた。5年前に癌で亡くなった母親が、健康だけには気をつけなさいと言っていたのを思い出し、先週思い立ったかのように健康診断を受診したのだ。

封筒から結果を取り出す。チャイを口に含み、机の上に結果を広げた。

「便 異常あり」

その文字が頭の中で鳴り響き、時計の針の音がやけに大きく聞こえた。

僕はチャイを口に含み、音を立てて飲み込んだ。
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