思い出を売った女

志波 連

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告げる女

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 美咲を先に座らせた徒然が、後ろ手に書斎のドアを閉める。

「ワインで良い? 美咲の好きな白が冷えているんだ」

 美咲の返事を待たずに手際よく準備をする徒然だったが、その心は千々に乱れていた。
 この一週間で何があった?
 まさか孝志がここに来たのか?
 原稿を渡した時、特に変わった様子は無かったはずだが……

「ゆっくり飲みなさい」

 こくんと頷いた美咲は、すでに目に涙を溜めている。

「どうしたの? 全部話してくれないか?」

「徒然さん……私……私ね……全部思い出しちゃったの」

 徒然が目を見開いた。
 あれほど慎重に時間をかけて進めていたのにという疑問が、頭の中をぐるぐると回る。

「そうか。体は? 大丈夫だった? 辛いよね……ごめん、側にいるべきだった」

 ブンブンと首を振る美咲。

「体は大丈夫。思い出した瞬間は頭が痛かったけれど、その時だけだったし。辛さは……無いのよ。ううん、無いっていえば噓かな。でも、それほどでもないの。むしろ、これほどまでに心を尽くしてくれた徒然さんに申し訳が無くて……そっちの方が辛いわ」

「そんなことぜんぜん気にしなくていい。私が未熟で君に辛い思いをさせたことが申し訳ないよ。そんな時に君の手を握ってやれなかっただなんて……一生の不覚だ」

「違うのよ? 私が迂闊だったの」

 美咲は古いバッグから出てきた写真のことと、徒然の書斎で見た走り書きのメモのことを話した。

「メモ? 私が彼の名前をメモしていたの? あっ……ああ……確かに書いた記憶があるな。だとしたら迂闊なのは私の方だ。申し訳なかった」

 徒然が深々と頭を下げた。

「違うの! 悪いのは私よ。なんであんな写真を持ってきたんだろう……なぜ一緒に捨てなかったのかしら……ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 徒然が立ち上がり美咲の横に移動した。

「失敗か……やはり記憶の操作なんて神の領域なんだろうな。人が手を出していい話じゃないんだ。悪かったね……本当にもう大丈夫?」

「うん、大丈夫。何ていうかな……もうずっと昔のことのように感じるの。確かに死にたいくらいに辛かったはずなんだけれど、あまり覚えてないっていうか……もうどうでも良いっていうか……そんな感じかな。でも、正直に言うと私にそういう過去があったということは、死ぬまで覚えているだろうとは思うわ」

「傷痕か……」

「うん。でもね、もう消えてなくなりたいって考え続けていたであろう何年かを、私は経験せずに済んだのだと思うと、感謝しかないのよ? 本当に心からありがたいと思ってるの」

「そう? そう言ってもらえるなら良かったよ」

 数秒の沈黙が永遠のように感じる。
 先に口を開いたのは美咲だった。

「私ね……この先もずっと美咲さんとして生きていきたいと思ってる」

「え?」

「志乃さんから美咲さんのことは聞いたわ。私が思い出したことを察した志乃さんが話してくれたの。美咲さんって徒然さんの妹なんだね。もう亡くなったって聞いたわ」

「ああ……そうか。志乃さんが全部話したんだね? 別に隠すつもりじゃなかったのだけれど、君自身が美咲だったから話せなかったんだよ。では私の戸籍上の母親と父と志乃さんの関係も聞いたんだね?」

「ええ、聞きました」

「どう思った?」

「どうって……みんな可哀そうだなって思ったかな」

「そうかぁ。可哀そうか。私はちょっと違うんだ」

 美咲が徒然の顔を見上げた。

「母は幸せだったと思うよ。心身共に弱かったし、早く死んじゃったのは可哀そうだけれど、心神喪失状態で浮遊するように息だけしている状態というのもね。言わなかっただけで本当のところは本人しかわからないでしょ? 私は案外全部わかってやっていたんだと思っているんだ」

「そうなの?」

「父は自分の催眠療法が功を奏していると信じていたけれどね。たぶん数日しか継続できていない。後は常態だったと思う」

「だとしたらお辛い時間が長かったのね……お気の毒だわ」

「うん、だからこそ私は母は幸せだったと言ったんだ。父の施した催眠療法は治療というより麻酔に近い。一番辛い気持ちの時に感覚を失わせるという感じ? だから彼女は現実から逃避することができていたはずだ」

 美咲はフッと笑顔を浮かべた。

「効目の長さは全然違うけれど、私も同じような感じかもしれないわ」

「麻酔効果?」

 徒然が自嘲するように言う。

「わたしね、たくさんお話があるの。全部聞いてくれる?」

 美咲が徒然に縋るような視線を向けた。
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