29 / 58
跪いた男
しおりを挟む
イタリア各地を巡りながら、新しい連載小説の舞台を作り上げていく徒然と編集者の後ろをついて歩きながら、美咲は自分の心の中に生まれた小さな疑問を持て余していた。
あの海岸で見かけた親子に見覚えがあるような気がして、つい走り出してしまった。
すぐに追いついてきた徒然が、不自然なほど海の方へ顔を向けさせたのはなぜだろうか。
砂浜に誰かいた?
知り合い?
私が忘れてしまった誰かだとしても、隠そうとしたのはなぜ?
そこまで考えると、頭の中に霞がかかる。
考える必要はないということだろうか。
それとも考えてはいけない?
海……海の近くの町……行ったことがある?
「美咲、来てごらん。これが『命の木』だ」
ローマから3日かけてフィレンツェへ移動する途中で立ち寄ったルチニャーノという街で、どうしても美術館に立ち寄りたいと徒然が言った。
美咲にとっては初めての海外旅行だ。
記憶を失くす前は留学したいと言っていたらしいので、イタリアに行きたがっていたのかもしれない。
「まあ、これは金? 随分大きいのね」
一緒に来ている編集者と現地コーディネイターがそっと離れていく。
楕円形のガラスケースに入っているそれは、3メートル近くの大きさで頂点には光り輝く十字架が掲げられていた。
「きれいね……素晴らしいわ」
「美咲」
徒然の声に振り向くと、多くの人たちが囲むように二人を見詰めていた。
「え? 徒然さん?」
いきなり片膝をつき、1本の真っ赤なバラが差し出された。
「この木の前でプロポーズをすると幸せな夫婦になれると言い伝えられているんだ……安倍美咲さん、どうか私と結婚してください」
大きく目を見開いて固まる美咲に、立ち上がった徒然が近づいた。
「返事は?」
「もちろんYESよ。私を徒然さんの奥さんにして下さい」
バラを受け取った美咲を徒然が抱きしめた。
見守っていた人達が一斉に拍手する。
「みんなが祝福してくれているね」
「うん、うれしいわ」
美咲の中の小さな疑惑の目が吹き飛ぶように消え去っていく。
徒然は見たこともないほどの笑みを浮かべ、美咲を片手で抱いたまま手を振って声援に応えていた。
「いやぁ、無理やり『恋人を連れて行く』なんて、本田先生らしからぬ事を仰るからお驚いていたのですが、これを狙っておられたのですね? やられました」
編集者がニヤニヤしながら揶揄ってくる。
「迷惑をかけた自覚はあるよ。今回の連載は今まで以上に頑張るから勘弁してくれ」
「もちろんですよ。しまったなぁ……動画をとっておけばよかった」
イタリア人コーディネイターが徒然にサムズアップして見せてから、美咲の手を取って唇を寄せる真似をした。
それからの美咲は、何を気にしていたのかさえ忘れたようにイタリア旅行を楽しんだ。
早く帰ってお母さんに報告したい。
美咲の心は幸せで満たされていた。
本来の徒然はこんなことをするようなタイプではない。
そんな徒然がここまでした理由は、父親である松延が残した手記だ。
『記憶を手繰り寄せようとした場合、大きなインパクトを与えることで防ぐことができる』
大きなインパクトとは、本人の想像を遥かに凌ぐ衝撃ということだ。
そして手記には続きがあった。
『空洞にした記憶の収納場所に衝撃を与えても、無重力空間で放つのと同じだ。まずは空洞を満たす必要がある。空洞を満たす方法とは?』
これに関する記述はそれ以上無かった。
そして、父の後を継いだ徒然が編み出した解決方法が『空洞を架空の記憶で埋める』というものだ。
今の美咲に空洞は無い。
だとすると与えた衝撃は、そのままの大きさで美咲に響くはずだ。
そしてそれは成功したと言える。
あれ以降の美咲の顔は、何も知らない編集者やコーディネイターでさえ分かるほど明るくなったのだから。
一行は予定より1日遅れでフィレンツェに到着した。
ここで数日取材をした後、今度はピサを経由して海沿いルートでローマに戻る予定だ。
フィレンツェはレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとしても有名な、メディチ家を取材するのが目的だが、イタリア有数の名勝地としても名高く、観光にも事欠くことが無いため美咲も大いに楽しんでいる。
当初計画していた取材も順調に終わり、ローマで2日の休暇を確保した徒然は、美咲を連れてカソリックの大聖堂を訪れた。
聖堂内をゆっくりと見て回った後、階段を登り展望台へと登る。
「凄いわ……圧巻ね」
素直に驚く美咲の横顔を見ながら、徒然は連れてきてよかったと心から思った。
「ここには来たいと思っていたんだ。どうやら私は神の機嫌を損ねているようでね」
「徒然さんが? ふふふ……おかしなことを言うのね」
「でもそれも今日で終わるはずさ。心からの祈りを捧げたからね」
美咲の屈託のない笑顔に、癒されている自分に気付く。
助けているつもりが、いつの間にか助けられていたのかもしれない。
「美咲の笑顔はいつも私を救ってくれる。愛してるよ、美咲」
「私もよ。私も徒然さんを愛してるわ」
ローマの街並みに夜の帳が下りようとしていた。
あの海岸で見かけた親子に見覚えがあるような気がして、つい走り出してしまった。
すぐに追いついてきた徒然が、不自然なほど海の方へ顔を向けさせたのはなぜだろうか。
砂浜に誰かいた?
知り合い?
私が忘れてしまった誰かだとしても、隠そうとしたのはなぜ?
そこまで考えると、頭の中に霞がかかる。
考える必要はないということだろうか。
それとも考えてはいけない?
海……海の近くの町……行ったことがある?
「美咲、来てごらん。これが『命の木』だ」
ローマから3日かけてフィレンツェへ移動する途中で立ち寄ったルチニャーノという街で、どうしても美術館に立ち寄りたいと徒然が言った。
美咲にとっては初めての海外旅行だ。
記憶を失くす前は留学したいと言っていたらしいので、イタリアに行きたがっていたのかもしれない。
「まあ、これは金? 随分大きいのね」
一緒に来ている編集者と現地コーディネイターがそっと離れていく。
楕円形のガラスケースに入っているそれは、3メートル近くの大きさで頂点には光り輝く十字架が掲げられていた。
「きれいね……素晴らしいわ」
「美咲」
徒然の声に振り向くと、多くの人たちが囲むように二人を見詰めていた。
「え? 徒然さん?」
いきなり片膝をつき、1本の真っ赤なバラが差し出された。
「この木の前でプロポーズをすると幸せな夫婦になれると言い伝えられているんだ……安倍美咲さん、どうか私と結婚してください」
大きく目を見開いて固まる美咲に、立ち上がった徒然が近づいた。
「返事は?」
「もちろんYESよ。私を徒然さんの奥さんにして下さい」
バラを受け取った美咲を徒然が抱きしめた。
見守っていた人達が一斉に拍手する。
「みんなが祝福してくれているね」
「うん、うれしいわ」
美咲の中の小さな疑惑の目が吹き飛ぶように消え去っていく。
徒然は見たこともないほどの笑みを浮かべ、美咲を片手で抱いたまま手を振って声援に応えていた。
「いやぁ、無理やり『恋人を連れて行く』なんて、本田先生らしからぬ事を仰るからお驚いていたのですが、これを狙っておられたのですね? やられました」
編集者がニヤニヤしながら揶揄ってくる。
「迷惑をかけた自覚はあるよ。今回の連載は今まで以上に頑張るから勘弁してくれ」
「もちろんですよ。しまったなぁ……動画をとっておけばよかった」
イタリア人コーディネイターが徒然にサムズアップして見せてから、美咲の手を取って唇を寄せる真似をした。
それからの美咲は、何を気にしていたのかさえ忘れたようにイタリア旅行を楽しんだ。
早く帰ってお母さんに報告したい。
美咲の心は幸せで満たされていた。
本来の徒然はこんなことをするようなタイプではない。
そんな徒然がここまでした理由は、父親である松延が残した手記だ。
『記憶を手繰り寄せようとした場合、大きなインパクトを与えることで防ぐことができる』
大きなインパクトとは、本人の想像を遥かに凌ぐ衝撃ということだ。
そして手記には続きがあった。
『空洞にした記憶の収納場所に衝撃を与えても、無重力空間で放つのと同じだ。まずは空洞を満たす必要がある。空洞を満たす方法とは?』
これに関する記述はそれ以上無かった。
そして、父の後を継いだ徒然が編み出した解決方法が『空洞を架空の記憶で埋める』というものだ。
今の美咲に空洞は無い。
だとすると与えた衝撃は、そのままの大きさで美咲に響くはずだ。
そしてそれは成功したと言える。
あれ以降の美咲の顔は、何も知らない編集者やコーディネイターでさえ分かるほど明るくなったのだから。
一行は予定より1日遅れでフィレンツェに到着した。
ここで数日取材をした後、今度はピサを経由して海沿いルートでローマに戻る予定だ。
フィレンツェはレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとしても有名な、メディチ家を取材するのが目的だが、イタリア有数の名勝地としても名高く、観光にも事欠くことが無いため美咲も大いに楽しんでいる。
当初計画していた取材も順調に終わり、ローマで2日の休暇を確保した徒然は、美咲を連れてカソリックの大聖堂を訪れた。
聖堂内をゆっくりと見て回った後、階段を登り展望台へと登る。
「凄いわ……圧巻ね」
素直に驚く美咲の横顔を見ながら、徒然は連れてきてよかったと心から思った。
「ここには来たいと思っていたんだ。どうやら私は神の機嫌を損ねているようでね」
「徒然さんが? ふふふ……おかしなことを言うのね」
「でもそれも今日で終わるはずさ。心からの祈りを捧げたからね」
美咲の屈託のない笑顔に、癒されている自分に気付く。
助けているつもりが、いつの間にか助けられていたのかもしれない。
「美咲の笑顔はいつも私を救ってくれる。愛してるよ、美咲」
「私もよ。私も徒然さんを愛してるわ」
ローマの街並みに夜の帳が下りようとしていた。
417
お気に入りに追加
763
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる