思い出を売った女

志波 連

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確認する男

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「どうした? 大丈夫かい?」

 海の別荘から帰った翌日から、美咲は熱を出して寝込んでいた。
 往診した医者は疲労だろうと言ったが、徒然は父の残した資料をひっくり返すように読み漁り、美咲の症状に合致する記述が無いかを探している。

「気にし過ぎじゃないかしら」

 志乃の言葉に曖昧に頷く徒然だったが、納得はしていないようだ。

「ああ、しかし何がトリガーになるかわからないからね。確認はしておきたいんだ」

「過保護すぎるのもどうかと思うけれど……今日は美咲も食堂で食べると言っています。お昼にしましょうよ」

「そうか、もう起きられるのか。わかった、すぐに行くよ」

 徒然が焦っている理由は二つある。
 ひとつは、来週から二週間ほど日本を離れ、イタリアに行かなくてはいけないこと。
 もうひとつは、ずっと徒然さんと呼んでいた美咲が、昨夜ふいに『先生』と言ったことだ。
 本人は無意識のうちに口から出たようだったが、その無意識が一番怖い。
 もしも擦り込んだ記憶が解けかかっているのだとしたら、ほんの些細な綻びで全てが崩れてしまうかもしれないからだ。
 
「何がいけなかったんだ?」

 徒然は資料を漁る手を止め、ここ数日の出来事を振り返る。
 治療は順調に進んでいた。
 もう大丈夫だと別荘に連れていくと決めたのは徒然だ。
 はしゃぐ美咲を連れてショッピングに行き、好きなものばかりを購入した。
 別荘のテラスから海を見ていた美咲が、ふいに海岸に降りてみたいと言いだして……

「もしかしたら、テラスからあの男の姿を見た?」

 ひとつの可能性が浮かび上がり、ノートの隅に『孝志』と走り書きをする。

 徒然に手を借りながら海に続く階段を降りた美咲。
 砂に足をとられるので、サンダルを脱ぎ捨てて砂浜を歩いていく。
 直射日光は良くないと、日傘をもって追いかけていた時、あの男が呆然とした顔で美咲の方に手を伸ばしている姿が目に飛び込み、慌てて美咲を抱き寄せ別荘に連れ帰ったのだ。

「どこだ? どこに落とし穴があった?」

 海岸で美咲はあの男を見てはいないはずだ。
 やけに急いで海に向かっていたが、海に足を浸けるのだと喜んでいたので、それほどの違和感を感じることはなかった。

 では周りはどうだっただろうか。
 砂浜にはパラソルの下で弁当を広げる家族や、日光浴を楽しむ女性達の姿。
 海では数人の学生のグループが、浮き輪につかまってバシャバシャと足を動かし、波打ち際では若い夫婦が兄妹らしき子供を遊ばせていた。
 
「若い夫婦……あっ……」

 あの若い夫婦は山﨑孝志の連れだった。
 子供がいるあの男が、家族の海水浴に一人で参加するとは考えにくい。
 ということは、あの子供は……

「あいつの子供か」

 本当に偶然とは恐ろしいと徒然は思った。
 あの男ばかりを気にしていたが、思いもしないところに伏兵が潜んでいたということだ。

「さすがに子供の顔までは追ってなかったな」

 徒然は自分の迂闊さに苛立たしさを覚えた。
 癒えかけた傷に残っていたほんの少しの瘡蓋を無理やり剝がされたようなものだ。
 自然に剝がれ落ちるのを待っていたというのに。

「はぁぁぁぁ」

 徒然は右手で目を覆い、大きな溜息を吐いた。

「徒然さん? ごはんが冷めちゃうよ?」

 美咲が書斎に顔を出した。

「美咲……もう体は大丈夫なの?」

「ええ、久しぶりの長距離ドライブだったでしょ? 疲れたのだと思うわ」

 美咲の口から出た『久しぶり』という単語に、徒然は愕然とした。
 擦り込んだ記憶の中にドライブに関するものは無い。
 別荘に行く前の美咲なら『初めて』と言うか『行ったことがあるのか』と聞くはずだ。

「久しぶりって、みんなで別荘に行った事も思い出したの?」

 平然を装いつつ、徒然は美咲を試すような言葉を口にした。

「え? 私……久しぶりって言った? えっと……別荘に行った? あの海の別荘? 子供の頃にも行ったのかしら。ごめんなさい、思い出せないわ」

 徒然は新たな記憶を擦り込んでいく。

「いや、良いんだよ。海の別荘に君を連れて行ったのは今回が初めてだ。私たちが子供の頃に行っていたのは那須の別荘だよ。ほら、町営の温泉に行ったら混浴でさぁ、美咲ったら恥ずかしがって泣いちゃったんだ」

「町営の温泉?」

「うん、那須塩原にはそういうところがたくさんあった。一番近くの温泉に、別荘から手を繋いで歩いて行ったんだ。美咲は大きな花柄のワンピースを着ていて、すごくかわいかったよ。あの柄は何の花だったかな……」

 美咲が目を見開くようにして声を出した。

「ひまわりよ! 黄色いひまわりの柄だったわ」

「ああ、そうだ。ひまわりだったね。鮮やかな黄色が美咲に良く似合ってた」

 二人は顔を見合わせて笑った。
 後ろから志乃の声がする。

「こういうのをミイラ取りがミイラになるっていうのかしら」

 二人は肩を竦めて食堂に向かう。
 徒然はまだ修復可能だと確認できたことに、ホッと息を吐いた。
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